ジェイムズ・エドワード・ライス(James Edward Rice, 1953年3月8日 – )は、MLBの元選手。ポジションは外野手・指名打者。アメリカ合衆国サウスカロライナ州アンダーソン出身。ニックネームは「Jim Ed」。 ボストン・レッドソックス[編集] 1971年のMLBドラフトでボストン・レッドソックスから1巡目(全体15位)に指名を受け入団。1974年はAAA級で打率.337・25本塁打・93打点を記録して三冠王を達成し、MVPを獲得。8月19日のシカゴ・ホワイトソックス戦でメジャーデビュー。1975年はルーキーながら打率.309・22本塁打・102打点の好成績を挙げ、同じくルーキーでチームメイトのフレッド・リンと共に「Gold Dust Twins」と呼ばれ、地区優勝に大きく貢献。しかし9月21日のデトロイト・タイガース戦で手首に死球を受けて骨折し、離脱。チームはリーグチャンピオンシップシリーズでワールドシリーズ3連覇中のオークランド・アスレティックスを下して8年ぶりのリーグ優勝を果たし、シンシナティ・レッズとのワールドシリーズでは激闘の末敗退するが、自身は出場できなかった。ルーキー・オブ・ザ・イヤーの投票ではリンに次ぐ2位で、MVPの投票で3位に入った。1976年は25本塁打を記録するが、リーグワーストの123三振を喫した。1977年は前半戦で打率.313・23本塁打・59打点・10三塁打の成績でオールスターゲームに初めて選出される。8月29日のアスレティックス戦で1試合3本塁打を放つなど、最終的に打率.320(リーグ6位)・39本塁打・114打点(同3位)・206安打(同3位)・15三塁打(同2位)・長打率.593(同1位)を記録し、最多本塁打のタイトルを獲得。MVPの投票では4位に入り、最優秀指名打者賞を受賞した。 1978年は前半戦で打率.323・23本塁打・74打点・13三塁打を記録し、2年連続でオールスターゲームに選出され、初の先発出場。全試合に出場して打率.315、いずれもリーグトップの46本塁打・139打点・213安打・15三塁打・746打席・677打数・長打率.600・OPS.970・406塁打を記録し、最多本塁打・最多打点の二冠を獲得。チームは一時ニューヨーク・ヤンキースに最大14ゲーム差を付けたが9月に逆転され、シーズン最終戦で同率に並んだもののワンゲームプレイオフで敗れて地区優勝を逃した。オフにMVPを初受賞し、当時としては史上最高額となる7年総額540万ドルで契約延長。1979年はキャリアハイの打率.325、いずれもリーグ2位の39本塁打・130打点・201安打・長打率.596を記録。1980年は故障で6月下旬から1ヶ月離脱。8月30日のアスレティックス戦では4点リードされた9回にマット・キーオ(後阪神)から反撃の狼煙となる本塁打を放ち、その後同点となって延長に入り10回にキャリア初のサヨナラ本塁打を放った。1981年は50日間に及ぶストライキでシーズンが中断・短縮された影響で17本塁打・62打点に終わった。1982年は3年ぶりの3割となる打率.309・24本塁打・97打点の成績も、リーグ最多の29併殺打。1983年は奇しくも前回と同日の8月29日のトロント・ブルージェイズ戦でキャリア2度目の1試合3本塁打。打率.305・39本塁打・126打点・191安打を記録し、6年ぶりに最多本塁打・最多打点の二冠を獲得。MVPの投票で4位に入り、初のシルバースラッガー賞を受賞した。1984年は序盤打率1割台と不振も徐々に復調し、7月4日のアスレティックス戦でサヨナラ満塁本塁打。9月3日のミルウォーキー・ブルワーズ戦で通算300本塁打を放つなど28本塁打・122打点を記録する一方で、2012年現在もメジャー記録の36併殺打を記録した。1985年は6月10日のブルワーズ戦でローリー・フィンガーズから逆転サヨナラ3点本塁打。9月に打率.525・25打点と打ちまくるが、9月20日を最後に戦線離脱。27本塁打・103打点、4年連続リーグ最多となる35併殺打を記録した。 1986年は5月10日のアスレティックス戦で通算2000安打を達成するなど前半戦で打率.334を記録。20本塁打に留まるが、打率.324・110打点・200安打を記録し、チームの11年ぶりの地区優勝に貢献。カリフォルニア・エンゼルスとのリーグチャンピオンシップシリーズでは打率.161と不振。チームは1勝3敗と追い込まれ、第5戦でも9回までリードを許すが逆転勝利し、第6・7戦も連勝してリーグ優勝を果たした。ニューヨーク・メッツとのワールドシリーズでは打率.333を記録するが、チームは王手をかけた第6戦でビル・バックナーの悪夢のトンネルで敗れ、3勝4敗で敗退した。MVPの投票では3位。1987年は序盤不振だったが7月下旬には一時打率3割まで巻き返す。しかし終盤またも不振に陥り、打率.277・13本塁打・62打点に留まる。9月は同年台頭したマイク・グリーンウェルにレフトの定位置を譲り指名打者での出場が多くなった。1988年は主に指名打者として出場し15本塁打・72打点に終わるが、チームは地区優勝。アスレティックスとのリーグチャンピオンシップシリーズでは打率.154と振るわず、チームも4連敗で敗退した。1989年は序盤好調だったが徐々に失速。故障もあって8月3日を最後に出場がなく、56試合で打率.234・3本塁打に終わり、オフに戦力外通告となり現役を引退。フリーエージェントで移籍する選手が多い中、レッドソックス一筋で過ごしたフランチャイズ・プレイヤーだった。 引退後[編集] ライスの背番号「14」。ボストン・レッドソックスの永久欠番に2009年指定。 1992年からレッドソックスでコーチを務め、1995年に球団の殿堂入り。アメリカ野球殿堂の投票では2006年、2007年と2年連続で得票率63%。2008年は543票中392票で、得票率72.2%と僅かに及ばなかった。資格最終年となった2009年に539票中412票を獲得し、得票率76.4%で殿堂入りを果たした。同年7月22日に背番号「14」がレッドソックスの永久欠番に指定された。 選手としての特徴[編集] 打率・本塁打・打点のいずれも稼げるスラッガーで、通算で打率.298・382本塁打・1451打点を記録し、三塁打も79本記録した。反面四球は少なく打率の割に出塁率はあまり高くなかった。右打者で、前を打つのがウェイド・ボッグス、ドワイト・エバンスら出塁率の高い打者だったため併殺打が多く、1984年の36を筆頭に歴代6位タイの315を記録した。但し通算2,000回以上併殺打になり得る場面(無死又は1死で一塁に走者がいる状況)で打席に立っており、その状況で通算打率.310・長打率.515を記録している。 詳細情報[編集] 年度別打撃成績[編集]
Continue reading
Recent Comments