Month: November 2019

員林市 – Wikipedia

員林市(いんりんし、台南方言:Oân-lîm-chhī)は台湾彰化県の県轄市。旧称「員林鎮」。周囲の芬園郷、大村郷、埔心郷、永靖郷、社頭郷、南投県南投市と接する。 地理 員林市は彰化平原の東部に位置し、南投県との県境にある八卦台地を除き平原により構成されている。平均海抜は25mである。気候は亜熱帯気候区に属し、年間平均気温は23℃である。 歴史 員林地区の開発は清代の康熙中期に遡ることができる。1683年(康熙22年)、水師提督施琅,陸軍提督万正が台湾を攻撃、鄭氏政権を降伏させると、員林は福建省分巡台廈道臺湾府諸羅県に帰属した。康熙年間には施世榜により厝圳が、黄仕郷で十五庄圳が整備されると、福建省漳州府平和県の曹阿慈、広東嘉應州鎮平県の詹志道、劉延魁、呉三霖、広東潮州府饒平県の黄可九、黄実賢、盧剛直、張應和、張文敞、張剛直、広東恵州府陸豊県の梁文開、梁文挙兄弟などがこの地の開拓に携わった。 1740年(乾隆5年)、燕霧保が設けられ垓台、秀水、佳錫、員林仔、鎮平、内湾、白沙坑の7庄を管轄するようになる。燕霧保の街区が員林仔街である。 下関条約により日本による統治が開始された台湾では行政区の改編が続き、1920年には台中州員林郡員林街と改編された。戦後は台中県員林区員林鎮となり、1950年に彰化縣員林鎮と改称され現在に至っている。2015年8月8日に県轄市に昇格。 経済 行政区 地区 里 東 大峯里、湖水里、出水里、東北里、中東里、南東里、振興里、鎮興里、林厝里、西東里、浮圳里、崙雅里 南 中央里、溝皀里、大明里、大饒里、万年里、恵来里、民生里、東和里、黎明里 西 大埔里、源潭里、南興里、新生里、南平里、三義里 北 三橋里、三愛里、三和里、三条里、和平里、中山里、光明里、忠孝里、仁愛里、中正里、新興里、仁美里、三信里、三多里 歴代市長

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宋江 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “宋江” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2021年6月) この項目には、一部のコンピュータや閲覧ソフトで表示できない文字が含まれています(詳細)。 宋江 明代に描かれた肖像 梁山泊 頭領 出生 1073年頃 山東省菏沢市鄆城県宋家村 死去 1124年 拼音

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日本とエリトリアの関係 – Wikipedia

日本とエリトリアの関係 日本 エリトリア 日本とエリトリアの関係(にほんとエリトリアのかんけい、アラビア語: العلاقات اليابانية الإريترية‎、英語: Japan–Eritrea relations) では、日本とエリトリアの関係について概説する。 目次 1 両国の比較 2 歴史 3 外交 4 経済交流 5

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中澤ゆうこ 第一章 – Wikipedia

『中澤ゆうこ 第一章』 中澤ゆうこ の スタジオ・アルバム リリース 1998年12月12日 ジャンル 演歌・歌謡曲 レーベル Zetima プロデュース 堀内孝雄 中澤ゆうこ アルバム 年表 中澤ゆうこ 第一章(1998年) 第二章〜強がり〜(2004年) 『中澤ゆうこ

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宮瀬玲奈 – Wikipedia

宮瀬 玲奈(みやせ れいな、5月26日[1] – )は、日本に在住する女性声優、アイドルであり、デジタル声優アイドルグループ22/7のメンバー。 2016年 12月24日 – 応募総数10,325名の中から[2]、22/7最終オーディションに合格。エントリーナンバーは9番。 2017年 3月2日 – 「私たちの名付け親になってください」SHOWROOM配信で、名前を募集[3]。 3月4日 – メンバー名発表SHOWROOM配信で、名前が「宮瀬玲奈」に決定(名前が決まるまでは「みゅう」と呼ばれていた)。 5月19日[4] – 配役決定生電話SHOWROOM配信で、22/7のキャラクターの立川絢香の声優を担当することが正式に決定。それに伴い素顔が初公開された。 9月20日

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小笠原氏 – Wikipedia

小笠原氏(おがさわらし、おがさわらうじ)は、武家・華族だった日本の氏族。清和源氏の河内源氏の流れをくみ、武家の有職故実を伝える一族としても知られる。江戸時代には小倉藩など4つの藩の藩主を世襲した譜代大名だった。維新後華族に列し、小倉小笠原家は伯爵家、他の3つは子爵家となった。通字は、「長」・「貞」・「忠」などである。家紋は三階菱。 小笠原氏の家名のもとになった「小笠原」の地名は甲斐国巨摩郡に見られ、小笠原牧や山小笠原荘があった現在の山梨県北杜市明野町小笠原と、原小笠原荘があった現在の山梨県南アルプス市小笠原に居館があったとされる。なお、今日の研究[2]では原小笠原荘が小笠原氏の本貫であったと考えられている。 甲斐源氏の嫡流となった武田氏に対し、加賀美氏流の小笠原氏は庶流にあたるものの、格式や勢力の上では決して武田氏に劣ることなく、全国各地に所領や一族を有する大族である。鎌倉時代から信濃に本拠を移し、室町時代には幕府から信濃の守護に任ぜられた。嫡流は信濃と京都に分かれ、庶流は信濃国内はもちろん、阿波、備前、備中、石見、三河、遠江、陸奥にも広がった。戦国時代には小笠原氏の宗家は武田氏に所領を奪われて没落するが、安土桃山時代に再興し、江戸時代には譜代大名となった。 室町時代以降、武家社会で有職故実の中心的存在となり家の伝統を継承していったことから、時の幕府からも礼典や武芸の事柄においては重用された。これが今日に知られる小笠原流の起源である。煎茶道や兵法などにも小笠原流があるが、その起源は多様である。 また、抹茶の茶道においては、江戸時代に千利休三世の千宗旦の高弟で四天王と呼ばれた山田宗徧を迎えて宗徧流茶道を保護し、村田珠光の一の弟子と呼ばれた古市澄胤の後裔を迎えて小笠原家茶道古流を興した。 小笠原氏の始まり[編集] 小笠原氏の祖の小笠原長清は、滝口武者として高倉天皇に仕えた加賀美遠光の次男として甲斐国に生まれた。長清は『平家物語』に「加賀美小次郎長清」の名で登場しており、遠光の所領の甲斐国小笠原を相続して小笠原氏を称した。南部氏の祖の南部光行は長清の弟である。平家が壇ノ浦の戦いで滅亡した元暦2年・寿永4年(1185年)に、信濃国を知行国とした源頼朝によって遠光は信濃守に任ぜられたが、長清はこの地盤を受け継ぎ、小笠原氏は信濃に土着してゆく。なお小笠原氏の家紋である三階菱は、本来は加賀美氏の家紋である(現在では遠光ゆかりの寺院のみが、三階菱の中に「王」の文字を入れた原型を用いている)。 なお、長清の子孫には小笠原氏が守護となった阿波に土着した者がおり#阿波小笠原氏となる。また、阿波小笠原氏の一部は元寇の戦功により石見に所領を得て#石見小笠原氏となる。 阿波小笠原氏[編集] 阿波小笠原氏総領 三好長慶 阿波小笠原氏の祖は小笠原長経の次男、長房である。承久3年(1221年)の承久の乱後、兄・長忠が阿波国守護に任ぜられるが、長忠が本国である信濃国への帰国を希望したために、代わって長房が守護となったとされる。ただし、今日の研究では実際には長房が長男で長忠は三男であったとする説があり、また長忠の系統は京都を活動の中心としていた可能性が高い[3]。 文永4年(1267年)に幕府の命令を奉じて、三好郡郡領・平盛隆を討ち、褒賞として美馬郡と三好郡に26000町余りの所領が与えられ、岩倉城を拠点とした。 阿波の小笠原氏は南北朝時代には南朝に属したとされ、その子孫の多くは室町時代には国人化して阿波の守護を務めた細川氏に仕えたとされる。代表的な例としては三好氏、安宅氏、一宮氏(小笠原成助)、大西氏(大西覚養)、赤沢氏(赤沢宗伝)などが挙げられる(ただし、それぞれの出自には諸説ある)。阿波小笠原氏の子孫の三好氏などについては、それぞれの記事を参照。 その他の阿波小笠原氏の支流にも七条氏・高志氏などがある[4]。 石見小笠原氏[編集] 阿波守護職となった小笠原長房 (阿波小笠原氏)の子、長親が弘安の役の軍功によって、石見国邑智郡村之郷を得て、移り住んだ事に始まる。長親は地元の有力国人である益田氏当主兼時の息女を室に迎え、弘安の役の後の不安定な石見国周辺の海岸を警護した。南北朝時代の当主小笠原長胤は武家方に従って活動、川本温湯城を居城とした。戦国時代に入ると石見銀山の支配を巡って対立する大内氏と尼子氏に挟まれ、当主の小笠原長雄はその間を転々とし、最終的には大内氏の後を継いだ毛利氏に仕えた。 天正20年(1592年)に国替えにより出雲国神門郡神西に移封されたことで石見国を去る。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後の毛利氏の防長移封の際には一度毛利氏を離れることとなるも後に帰参し、石見小笠原氏は長州藩士として明治を迎えた。 京都小笠原氏[編集]

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南万騎が原駅 – Wikipedia

南万騎が原駅(みなみまきがはらえき)は、神奈川県横浜市旭区柏町にある相模鉄道いずみ野線の駅。「みなまき」という略称[1]で呼ばれることがある。駅番号はSO31。電報略号はマキ。 1976年(昭和51年)4月8日 – 開業。 1999年(平成11年)2月27日 – 快速の運転が開始され、停車駅となる[2]。 2000年(平成12年) 3月 – エレベーターが設置される[3]。 8月 – 駅舎の改修工事に着手[3]。 2001年(平成13年)2月18日 – 新駅舎の供用開始[3]。 2014年(平成26年)4月27日 – ダイヤ改正により特急が運用開始。当駅は通過駅となる。 2015年(平成27年)

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劉揚揚 – Wikipedia

劉揚揚(リウ・ヤンヤン、りゅう ようよう、韓:류양양、簡:刘扬扬、2000年10月10日 – [1])は台湾人の歌手。男性アイドルグループNCTのメンバー。SMエンターテインメント所属。2019年1月、中国ユニットWayVでデビュー。ポジションはラッパー[2]。WayVの最年少メンバーである[3]。 生い立ち・SMエンタ入社[編集] 2000年10月10日、台湾人の両親の間に生まれる[4]。出生地は台湾だが、11歳から16歳までドイツのデュッセルドルフに母親と姉とともに住んでいた[5][6]。ノイスにあるISRインターナショナルスクール・オン・ザ・ラインに通っていた[6]。 ドイツでEXOの「Wolf(늑대와 미녀、オオカミと美女)」のステージを見たことがきっかけで[5]、2016年2月、SMエンターテインメントのグローバルオーディションを受けた[6]。練習生期間は3年であった[6]。 2018年7月17日、SMルーキーズとして公開された[7]。9月15日、紹介映像の「Re-born」が公開された[8]。12月31日、NCTの中国ユニットWayVのデビューメンバーとして公開された[9]。 WayVデビュー(2019年 – )[編集] 2019年1月、所属ユニットWayVがファーストデジタルアルバム『The Vision』で中国デビュー[10]。4月19日、ルーカスとヘンドリーと踊ったポスト・マローン「Wow」のフリースタイルダンスパフォーマンス動画を公開[11]。 2020年2月19日発売、IMLAYの「Asteroid」にフィーチャリングで参加[12]。5月27日、Christopher「My Heart」のダンスパフォーマンス動画を公開[13]。5月29日、ラップパフォーマンス動画の「LEONIDAS」を公開[14]。11月23日、NCT Uとして参加した「90’s Love」のミュージックビデオが公開された。 2021年2月17日、ニューヨーク・ファッション・ウィークの「コンセプト・コリア」プログラムにデジタルランウェイを通じて参加した[15][16][17]。8月17日、WayV内のユニットとして結成されたWayV-TEN&YANGYANGがシングル「Low Low」を発売した[18]。12月10日、NCT

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それいけ!アンパンマン りんごぼうやとみんなの願い – Wikipedia

『それいけ!アンパンマン りんごぼうやとみんなの願い』(それいけアンパンマン りんごぼうやとみんなのねがい)は2014年(平成26年)7月5日に公開された日本のアニメ映画。『それいけ!アンパンマン』シリーズ通算第26作。同時上映作品は『それいけ!アンパンマン たのしくてあそび ママになったコキンちゃん!?』。 『アンパンマン』の原作者・やなせたかしによる最後の絵本『アンパンマンとりんごぼうや』が原作。テーマは「望郷と故郷の再建」[2]。 キャッチコピーは「みんなの“ふるさと”は、ぼくが守るよ!」。 東日本大震災からの「復興」をテーマとして2012年(平成24年)に公開された映画第24作『それいけ!アンパンマン よみがえれ バナナ島』、「希望」をテーマとして2013年(平成25年)に公開された映画第25作『それいけ!アンパンマン とばせ! 希望のハンカチ』に続く「復興三部作」のラストを飾るものとなる[2]。 やなせの没後及び映画公開前にオンエアされた一部のメディアやワイドショーではやなせは本作に関与しないまま亡くなったとされる報道がされたが、監督の川越によればやなせの存命中にプロット及びシナリオは完成、やなせもチェック済みだったことから事実上の遺作はこちらになる[3]。 今作は女優の井上真央が「りんごぼうや」役、お笑いコンビ・ますだおかだの岡田圭右が「マジョーラ」役としてゲスト出演。井上は同年1月にNHKスペシャルで放送された「みんなの夢まもるため~やなせたかし“アンパンマン人生”」でナレーションを務めた縁があり、りんごぼうやの前向きで愛らしいキャラクターのイメージと合致した事から抜擢されたという[4]。 公開初日の舞台挨拶は、前年まで出演していたやなせが同年10月に他界したことに伴い、アンパンマン役の戸田恵子とばいきんまん役の中尾隆聖が初めて出演した。 敵キャラクターに強制変身されてしまう展開は、第23作『すくえ! ココリンと奇跡の星』以来3年ぶりである。 前2作同様、歴代の劇場版の中では興行収入が高く、初日2日間の興収は東京テアトル配給による第11作以降の当時の最高記録だった第24作『よみがえれ バナナ島』(7,259万9,900円)と同程度の7149万4980円[5]となり、2014年8月17日付で3億8000万円を超えている[6]。 あらすじ[編集]

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合同電気 – Wikipedia

合同電気株式会社(ごうどうでんき かぶしきがいしゃ)は、大正から昭和戦前期にかけて存在した日本の電力会社である。三重県津市に本社を置く会社で、設立時は地名を付して三重合同電気株式会社(みえごうどうでんき)と称した。 1922年(大正11年)、三重県下の電気事業者3社を統合して発足。その後も県の内外を問わず積極的に事業統合を進め、最終的に供給区域を三重県・奈良県・京都府・滋賀県・和歌山県・兵庫県・徳島県の7府県に広げた。また電気供給事業のほかにも、一部の都市で電気鉄軌道を運営し、都市ガス供給事業を経営していた。 1930年(昭和5年)に大手電力会社東邦電力の傘下に入り、1937年(昭和12年)に同社へ合併されて解散した。 三重合同電気時代の広告(1926年) 合同電気(旧社名:三重合同電気)は、明治期開業の三重県下電気事業者3社が新設合併により合同し、1922年(大正11年)5月に成立した電気事業者である。合同に参加したのは津電灯・松阪電気・伊勢電気鉄道の3社で、三重合同電気発足後も巌倉水電など県下の事業者統合を進めた。さらに1923年(大正12年)には徳島水力電気を合併し、徳島県および淡路島(兵庫県)にも進出した。 三重県外での事業拡大はその後も続き、1928年(昭和3年)に濃飛電気を合併し岐阜県へと進出。1930年(昭和5年)には東邦電力から同社四日市支店の事業を譲り受けて三重県の大部分を供給区域に収めるとともに奈良支店の事業を継承し、さらには京阪電気鉄道から同社和歌山支店の事業も引き継いだ。これらにより供給区域は最終的に三重県・奈良県・京都府・滋賀県・和歌山県・兵庫県・徳島県の7府県に及んだ(岐阜県には発電所のみ立地)。東邦電力から事業を継承した際に現物出資の形をとったため、以降は東邦電力が大株主となっている。また事業継承が決定した1930年1月、社名から地名を外して合同電気へと改称した。 電気供給事業以外の兼営事業としては、都市ガス供給事業、電気軌道・鉄道事業、バス事業が挙げられる。ガス供給事業は津電灯や徳島水力電気から継承したもので、一部を1930年に系列の合同ガスへと移管している。電気軌道事業は三重県と和歌山県で営んでおり、前者は伊勢電気鉄道、後者は京阪電気鉄道からそれぞれ継承した。バス事業も両社から継承し、1932年(昭和7年)まで直営であった。電気鉄道事業は三重県の朝熊登山鉄道を1928年に合併したことで始まった。ただしこれらの兼営事業が収益に占める割合は小さく、1936年9月期の決算では総収入の94%が電気供給事業の収益である[注釈 1]。 1937年(昭和12年)3月、大手電力会社で大株主であった東邦電力に合併され合同電気は消滅した。その東邦電力も1942年(昭和17年)に解散しており、合同電気が供給していた地域はその後の再編を経て1951年(昭和26年)以降中部電力・関西電力・四国電力の営業区域の一部となっている。また兼営事業はガス事業が東邦ガス(旧合同ガス)および四国ガスに継承されているが、運営していた鉄軌道路線はすべて現存しない。 設立の経緯と三重県下の電気事業再編[編集] 以下、沿革のうち設立の経緯と設立後の三重県内(一部岐阜県)における電気事業再編の進展について記述する。 三重県下の電気事業創業[編集] 合同電気、旧称三重合同電気は、社名が示すように三重県の電力会社が合同して発足した企業である。1922年(大正11年)5月の会社設立時、合同に参加したのは津電灯株式会社・松阪電気株式会社・伊勢電気鉄道株式会社の3社であった。 三重県下の主要電気事業者供給区域図(1921年) 三重県にて電気の供給が開始されたのは、中部地方最初の電気事業者名古屋電灯が1889年(明治22年)に開業してから8年が経過した1897年(明治30年)のことである。まず県庁所在地の津市にて、4月から津電灯(初代)の手により開始された[5]。次いで8月に度会郡宇治山田町(宇治山田市を経て現・伊勢市)でも宮川電気(1902年伊勢電気鉄道へ改称)が開業し供給が始まる[6]。津電灯は地元の川喜田四郎兵衛らにより、宮川電気は大阪の実業家や地元の太田小三郎らによって、いずれも前年の1896年(明治29年)に設立されていた[5][7]。さらに1897年9月、県内3番目の電気事業者として四日市市にて四日市電灯(後の北勢電気)が開業している[8]。 1904年(明治37年)2月、阿山郡上野町(上野市を経て現・伊賀市)の田中善助により水力発電所が建設され、上野町にて電気の供給が始まる(翌年法人化され巌倉水電が発足)[9][10]。次いで田中は名張川支流の青蓮寺川に水力発電所を設置するべく三重共同電気を設立[11]、火力発電を電源としていた津電灯に対し1910年(明治43年)より電力の供給を開始する[12]。この三重共同電気は開業後間もなく津電灯を吸収し、翌1911年(明治44年)に津電灯(2代目)に改称した[12]。また飯南郡松阪町(現・松阪市)では、1903年(明治36年)に、実業家の才賀藤吉や地元の安保庸三らによって松阪水力電気(1921年松阪電気に改称)が発足[13][14]。櫛田川に水力発電所を設置し、1906年10月より供給を開始した[14]。 松阪電気以降も三重県内では相次いで電気事業者が開業し、1921年度時点では計12事業者を数えたが、この中で1万灯以上の電灯を供給するのは上記5社、津電灯・伊勢電気鉄道・北勢電気・巌倉水電・松阪電気だけであった[15]。1921年(大正10年)6月時点の5社の概要と、1921年度の供給実績を下表に示す。 三重合同電気の設立[編集] 県下の電気事業統合を推進した三重県知事山脇春樹

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