Month: December 2019

インテンショナルプログラミング – Wikipedia

インテンショナルプログラミング(英: intentional programming)は、プログラミングにおいて、ソースコードにインテンション(意図、意向)を可視化することで、その開発者がそのソースコードにどんな内容を記述したのかをわかりやすくするためのプログラミング手法。インテンションとは、プログラマが構想を練る際に頭の中に生じる概念をさす。プログラマの思考と抽象化のレベルをうまく一致させ、ソースコードの閲覧とプログラムの保守を容易にする。 インテンショナルプログラミングはマイクロソフトに長く勤めたチャールズ・シモニーが提唱した考え方である。彼はマイクロソフトリサーチで、この概念を実証する IP と名づけた統合開発環境の開発を指揮した。理由は不明だが、マイクロソフトはインテンショナルプログラミングに関する作業を止めさせたため、IP の開発は2000年代初期に中止された。[1] インテンショナルプログラミングに関するよい解説は「Generative Programming: Methods, Tools, and Applications」という本の11章にある[2]。 開発工程[編集] シモニーの構想によれば、インテンショナルプログラミングのパラダイムを使ったアプリケーションの開発は次のように進められる。プログラマはまず、問題の対象領域(例えば生命保険など)に特化したツールボックスを構築する。次にその領域の専門家がプログラマに協力して、WYSIWYG的手法でアプリケーションがどう動作すべきかを記述する。最後にそのプログラムに関する記述とツールボックスを使って自動化システムが最終的なプログラムを生成する。その後の変更は WYSIWYG レベルでのみ行われ、「ドメイン・ワークベンチ」と呼ばれるシステムを利用する[3]。 ソースコードの格納形式と表示形式の分離[編集] インテンショナルプログラミングの鍵となる利点(同時に広く普及しない障害でもある)は、ソースコードが単なるテキストファイルではなく、独自のメタな構造を持っている点であり、XML にも似ている。XML

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大師橋駅 – Wikipedia

大師橋駅(だいしばしえき)は、神奈川県川崎市川崎区大師河原二丁目にある、京浜急行電鉄大師線の駅である。駅番号はKK25。 駅名は近隣で多摩川を渡る橋(大師橋)の名に由来している[1]。 相対式ホーム2面2線を有する地下駅。両ホームとも地上との間はエスカレーター・階段及び小島新田寄りにあるエレベーターで結ばれている。上りホームには待合室が設けられている。当駅以西の地下化に備え、東門前方の地上への勾配は暫定構造となっている。 地上駅時代も相対式ホーム2面2線を有し、ホームはほぼ東西に延びており、小島新田方に構内踏切を有していた[7]。かつては列車の折り返し設備として、上り方の線路側に3番線(留置線)があり[2]、1980年頃まではこれを使用して、川崎競馬開催日に京急川崎から当駅止まり及び小島新田行の列車が交互に運転されていた。 また、地下化までは駅東側で道幅の広い産業道路(片側3車線ずつ、計6車線)と交差する長い踏切(産業道路第1踏切)があり[2]、『タモリ倶楽部』の踏切特集でも紹介された。 のりば[編集] 利用状況[編集] 2020年度の1日平均乗降人員は8,445人である[8]。 利用者は1990年代後半には減少傾向にあったが、2000年代に入ると横ばい、2010年代には増加傾向となっている。その中で定期外利用者数は増加しており、1990年代に7割を超えていた定期利用者の比率は2004年に65.6%まで低下している。 近年の1日平均乗降・乗車人員推移は下表の通り。なお、川崎市統計書と神奈川県県勢要覧の数値が多少異なっていることに留意されたい。 年度別1日平均乗降・乗車人員[9] 年度 1日平均乗降人員[10] 1日平均乗車人員[11] 出典 1995年(平成07年) 4,813 1996年(平成08年) 4,646 1997年(平成09年)

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動産質 – Wikipedia

動産質(どうさんしち)とは、動産を担保の目的物として設定される質権[1]。 この節は特に記述がない限り、日本国内の法令について解説しています。また最新の法令改正を反映していない場合があります。ご自身が現実に遭遇した事件については法律関連の専門家にご相談ください。免責事項もお読みください。 質権全般の性質については「質権」を参照 設定[編集] 動産質は約定担保物権であるので、通常は設定者と質権者との間の質権設定契約によってなされる。質権設定契約は要物契約である[1]。質権設定における引渡しには占有改定は含まれない(民法345条)。 なお、質権は民法192条によって即時取得される場合もある。即時取得の要件は、質権者が、そのものが他人の所有物であることをについて善意無過失である場合である。例えば、他人の所有物を質屋に持っていき、それを担保にお金を借りた場合には、それが善意無過失であれば、質権を即時取得することが可能である。 対抗要件[編集] 動産質の対抗要件は占有の継続である。質権者が占有を失えば第三者に対抗することはできなくなる(民法352条)。 設定者以外の占有侵奪者に対して、動産質権者は占有訴権のうち占有回収の訴えのみ認められる。 効力[編集] 質権者は質物に対して善管注意義務を負い、動産質権に対して転質権を設定することができる。 不可分性があり被担保債権の全額弁済が完了するまで、その質権の効力は目的物すべてに対して効力が及ぶ(民法350条および民法296条)。被担保債権の範囲も抵当権の場合とは異なるため、最後の2年分に限られるという制限はない。 実行方法[編集] 動産質も民事執行法による競売で実行することを原則とする[2]。しかし、民法は動産質については簡易な換価方法による実行を特別に認めている(民法354条)[2]。 なお、民法355条によって、同一の質物上に他と競合する質権の順位が規定されている。 英米法のpledge[編集] 英米法のpledgeは動産質または質入抵当と訳される[3]。債務者が債務を完済するまで債権者に自己の所有物を質入れする担保である[3]。弁済の約定期日までに債務者が完済すれば質物は返還される[3]。 ^ a b

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北條知佳 – Wikipedia

北條 知佳(ほうじょう ちか)は、日本の漫画家。1982年[1]、『りぼん』(集英社)1983年2月号に掲載された「お・と・な・りの山田さん」でデビュー。 少女向けの作品を手がけ、主に集英社で活躍。『マーガレット』(同)では北条千花というペンネームを使用。 1997年と2001年に子供を出産した[1]。 作品リスト[編集] 連載[編集] ボン松五郎の冒険(『りぼんオリジナル』1990年早春の号 – 1990年秋の号) またたび・ニッポン!(『りぼん』1991年6月号 – 1992年4月号) ダイヤモンドピンク(『りぼん』1993年8月号 – 1994年1月号) 読切版は『りぼんオリジナル』1993年6月号に掲載。 読切[編集] お・と・な・りの山田さん(『りぼん』1983年2月号) –

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ルスラン・ゴンチャロフ – Wikipedia

ルスラン・ゴンチャロフRuslan GONCHAROV 2004年世界選手権でのグルシナとゴンチャロフ 選手情報 生年月日 (1973-01-20) 1973年1月20日(49歳) 出生地 オデッサ 身長 185 cm パートナー エレーナ・グルシナ 元パートナー エレオノラ・グリンサヤ 元コーチ ニコライ・モロゾフタチアナ・タラソワナタリア・リニチュクゲンナジー・カルポノソフ 元振付師 ニコライ・モロゾフ

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グナエウス・ポンペイウス (紀元前31年の補充執政官) – Wikipedia

グナエウス・ポンペイウス(ラテン語: Gnaeus Pompeius、生年不明 – 14年)は紀元前1世紀後期・1世紀前期の共和政ローマ・帝政ローマの政治家・軍人。紀元前31年に補充執政官(コンスル・スフェクトゥス)を務めた。 グナエウスはプレブス(平民)であるポンペイウス氏族の出身。氏族は紀元前2世紀になって歴史に登場してくる。ポンペイウスという名前はカンパニアの都市ポンペイと語源は同じであることは明らかであるが、ポンペイウス氏族とヴェスヴィオ火山の噴火で地中に埋もれた都市との関係は不明である[1]。 氏族最初の執政官はクィントゥス・ポンペイウスで、紀元前141年のことである。キケロによれば、ポンペイウス家は「取るに足らない、あまり知られていない家系」で[2]、彼のキャリアにおいて先祖の功績に頼ることができなかった[3]。彼の父親がフルート奏者だったという噂さえある[4][5]。従って、典型的なノウス・ホモ(父祖に高位の公職者を持たず、執政官に就任した者)である[6][7]。 グナエウスの父は紀元前52年の護民官クィントゥス・ポンペイウス、祖父は紀元前88年の執政官クィントゥス・ポンペイウス・ルフスと思われる[8][9]。この場合、グナエウスはスッラのひ孫となる。 紀元前31年10月1日にマルクス・ティティウスの後を受けて補充執政官に就任し、年末の任期満了まで務めた[10]。 グナエウスは神事遂行十五人委員会(quindecimviri sacris faciundis)の一人で[11]、西暦14年に死去するまでそのs職にあった[12]・ ^ Pompeius, 1952, s. 2050. ^ キケロ『ウェッレス弾劾』、V, 181.

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ジョン・エリオット (1612年生の政治家) – Wikipedia

ジョン・エリオット(英語: John Eliot、1612年10月18日洗礼 – 1685年3月25日埋葬)は、イングランド王国の政治家、コーンウォールの地主。イングランド王チャールズ1世に対する野党活動で知られるサー・ジョン・エリオットの長男であり、庶民院議員を3期務めたが、議会活動は少なかった[1]。 生い立ち[編集] サー・ジョン・エリオットと妻ラディグンド(Radigund、旧姓ジェディ(Gedy/Gedie)、1628年6月13日埋葬、リチャード・ジェディの娘)の長男として生まれ、1612年10月18日に洗礼を受けた[2]。1628年までにティヴァートン(英語版)のグラマースクール(ブランデルズ・スクール(英語版))に入学、1629年まで通った[1]。1629年から1631年までオックスフォード大学リンカーン・カレッジで教育を受け、1631年から1632年までフランス王国を旅した[1]。1632年に父が死去すると、年収1,500ポンドの得られる地所を継承した[1]。 清教徒革命期[編集] 1640年の短期議会でセント・ジャーマンズ選挙区(英語版)の代表として議員を務めた[1]。イングランド内戦期とイングランド共和国期では1645年6月10日から1655年までデヴォン海軍次官(英語版)を[3]、1647年から1653年までコーンウォールの治安判事を、1655年から1662年までロストウィシエル(英語版)の長老議員(英語版)を務めるなど、主にコーンウォールの地方官職を歴任した[1]。1656年にコーンウォールの治安判事を再任、1670年まで務めた[1]。また、イングランド内戦で地所を王党派の軍勢に蹂躙され、長期議会は1647年にエリオットへの賠償金7,000ポンドを可決した[1]。 王政復古以降[編集] イングランド王政復古の後、1660年仮議会の選挙でコーンウォール選挙区(英語版)から出馬したが、得票数4位(最下位)で落選した[4]。一方、自身の懐中選挙区であるセント・ジャーマンズ選挙区では無投票で当選、1661年イングランド総選挙でも再選した[5]。また、1660年3月13日から10月までデヴォン海軍次官を務めた[1][3]。 議会では選挙および特権委員会(Committee of Elections and Privileges)、レジサイド処刑委員会(1662年)、第二次英蘭戦争での敗北に関する調査委員会(1667年)への任命記録が残っているが、あまり活動的ではなかった[1]。1679年イングランド総選挙でセント・ジャーマンズ選挙区の2議席に息子ダニエルとリチャードを指名し、自身は議員を退任した[5]。 1685年に死去、同年3月25日にセント・ジャーマンズ(英語版)で埋葬された[2]。 1632年11月28日、オナー・ノートン(Honor Norton、1652年11月1日埋葬、サー・ダニエル・ノートン(英語版)の娘)と結婚、5男5女をもうけた[2]。妻の名前はオノラ(Honora)とも[1]。オナーは3,000ポンドの持参金をもたらしたが、後見裁判所(英語版)による許可のない結婚だったため、エリオットは罰金刑に処された[1]。 ブリジット(Bridget、1638年2月1日洗礼

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在大韓民国日本国大使館 – Wikipedia

在大韓民国日本国大使館(ざいだいかんみんこくにほんこくたいしかん、朝鮮語: 주 대한민국 일본 대사관、英語: Embassy of Japan in South Korea)は、大韓民国ソウル特別市鍾路区に在所する日本国大使館である。 李氏朝鮮時代 在朝鮮日本公使館(1900年) 大韓民国時代 歴代在韓日本大使[編集] 歴代在李氏朝鮮公使[編集] 大韓民国との紛争[編集] 2012年、在韓日本大使館の建て替えが計画された。日韓関係の深化に伴い業務が増え手狭となり、また建物の老朽化も進んだため、地下3階、地上6階建大使館への建て替え計画であった。文化財である景福宮(王宮)に近接していることから、敷地は文化財保護法の適用範囲内にあり、同法の高さ制限に抵触するとして、文化財庁文化財委員会が反対した。 これに対し日本政府は、大使館は高層ビルに囲まれており、景福宮との間には今回の建築計画よりも高い17階建のビルもある。景観への影響はないと反論したが、韓国側は長らく建設許可を認めなかった。 2013年、東京の韓国大使館の新築計画が浮上。在韓日本大使館の建築を認めず、東京の韓国大使館の新築に取りかかれば、日韓の新たな火種になりかねず、韓国外交部が再検討を促し、文化財庁は取り壊し後に発掘調査を行う条件で承諾した。そして、発掘調査で朝鮮時代と推定される遺物が発見されたものの歴史的な価値は認められず、工事は可能となったが、日本政府は工事に着手しなかった。日本政府と外務省は着工しない理由を明らかにしていないが、大使館前に設置されたいわゆる慰安婦像が影響していると言われている。

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遠山重寛 – Wikipedia

遠山 重寛(とおやま しげひろ)は、江戸時代後期から幕末にかけての水戸藩士。側用人、水戸藩の藩校・弘道館の運営に当たる弘道館掛を務めた。通称は龍介[1][2](竜介[3])。雲軒と号した[3]。 水戸藩への出仕[編集] 文政11年(1828年)3月7日、重寛は遠山家の家督を継いだ(禄高200石)。遠山家は初代が水戸藩初代藩主・徳川頼房に200石の大番組として仕えて以来の同藩士の家系であった。重寛は、同年4月19日に目付となり、天保12年(1841年)5月29日には新番頭に進んだ[4]。 藩内の派閥抗争[編集] 江戸時代後期の水戸藩には、第9代藩主・徳川斉昭に近い改革派と、反改革派の対立があり、藩政改革の一環として斉昭が設立した藩校・弘道館も両派の確執と無縁ではなかった[5]。 弘化元年(1844年)5月6日、斉昭が幕府から隠居・謹慎を命じられて致仕すると[6]、弘道館においては、翌弘化2年(1845年)3月3日、斉昭に近い教授頭取・会沢正志斎も隠居を命じられた[7]。次いで教授頭取となった青山延光は、登館を拒否することで、反改革派による弘道館の支配に抵抗する構えを見せた[8][9]。 しかし、反改革派が実権を握った藩庁では、同年6月、青山を罷免。同年7月16日、重寛が側用人に挙げられ、弘道館掛(学校掛)に任じられた[1][9][10]。 重寛の下で、新たな教授頭取として高根信敏が抜擢され、重寛が高根らを指図して学館運営の衝に当たることで、反改革派が弘道館を掌握することが企図された人事であり[1]、重寛の登用は反改革派の結城朝道(寅寿)によるものであった[11]。 弘道館掛に着任した重寛は、厳密に弘道館諸生の出欠簿を調べた上、“学生は政事向きに容喙するものではない”、“学業を怠って政事を議論するなどもってのほか”などとして監督を厳しくした[2]。さらに、重寛が属する反改革派への諸生の取り込みを強行したが、このことで弘道館内に混乱を来たし、文武の活動は停滞したと言われる[9]。しかし反対に、天保の盛時には及ばないものの、重寛の弘道館掛就任によって挽回したとの評価もある[12]。 同年10月23日、遠山は、藩庁より弘道館掛としての功労に対し賞賜を与えられ、翌24日には、遠山の子・熊之介ら3名が弘道館の舎長に充てられた[13]。 一方で、徳川斉昭は、反改革派の粛清を企て、同年10月23日、老中・阿部正弘に対し、藩内内紛の罪状をもって国家老・鈴木重矩以下、結城寅寿や重寛などを含めた十数名の処罰を上申した[10][14]。これによると、重寛については蟄居3年が希望されている[15]。 だが嘉永年間に至っても、依然として重寛が弘道館教授らを監督する体制が続き、反改革派による弘道館支配が続いた[16]。もっとも、石河幹脩の日記「石河明善日記」嘉永5年(1852年)10月22日の条によれば、その頃には重寛は改革派に転向していたとされる[17]。 同年、重寛は弘道館掛を辞職[18][19]。同年9月には高根信敏も教授頭取を免職となり、同人に代わって、青山延光が教授頭取に再任された[18][19]。翌嘉永6年(1853年)4月21日には、前藩主の斉昭が側用人である重寛に書を与えて、会沢正志斎及び豊田天功を優遇すべきことを諭したとの記録が残るが[20]、同年11月には会沢正志斎も再任されるなどし、弘道館の人事は改革派へと復した[18][19]。 安政4年(1857年)に至って致仕した[4]。 人物その他[編集] 弘道館掛となった重寛は、試験の際には自ら控本を開いて何々の章を講ぜよなどと命じ、また、武術にも厳しく、しばしば他流試合をやらせたという。人物としては、保守的で、深沈周密であったとされる[2]。 嘉永2年(1849年)閏4月、徳川斉昭は、藩内の反改革派の排除への幕府の理解を求めるため、反改革派の人物評を提出した[14]。その中には重寛についてのものもあり、「龍介は少々学才などこれ有り候えども気難しき方(龍介ハ少々學才等有之候へ共氣六ケ敷方)」と評されている[21]。 天狗党の首領・武田耕雲斎の次男は重寛と同名の「龍介」という名であった。このため武田の次男が改名し[22]、武田魁介と名乗った[23]。

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