マクラーレンM23 (McLaren M23) は、マクラーレンがF1世界選手権参戦用に開発したフォーミュラ1カーで、ゴートン・コパックとジョン・バーナードが設計した。1973年の第3戦から、1978年第14戦まで実戦投入された。インディ500用マシンのM16が開発のベースとなっている。 M23はシャーシナンバー1-12までの12台製作された。そのうちのシャーシナンバー8は、1974年イギリスGPから計15戦(1戦の非世界選手権含む)に使用された後に改修され、8-2として1975年スイスGPから再び使用された。 1971年から使用されてきたM19Cの後継として1973年にデビュー。前年までのM19は、コークボトルタイプのボディが特徴だった。M23はロータスの影響を強く受け、サイドラジエター、ウェッジタイプのノーズ、角張ったボディへと変わった。基本的な設計は以後も変わることなく1978年まで使用される。 サスペンションは、フロントはベラミー式リンクのプログレッシブサスペンション、リヤは不等ピッチコイルによるプログレッシブサスペンションと、特異なものを採用していたが、これらはM19から引き継いだ実績のあるものだった。ホイールベースは2,565mmで、2,387.6mmのブラバムBT37より177mmも長く、俊敏性より安定性を重視した設計だった。 搭載するフォード・コスワース・DFVエンジンはジョン・ニコルソンが設立したニコルソン・マクラーレン・エンジンズがチューニングを行った。 シーズン[編集] 1973年[編集] デビュー戦の南アフリカGPでデニス・ハルムがPPを獲得。ハルムは1勝、ピーター・レブソンが2勝をあげた。 1974年[編集] 1972年のチャンピオンを獲得したエマーソン・フィッティパルディがロータスから移籍、いきなりドライバーズ・チャンピオンを獲得。そしてマクラーレンもチーム初となるコンストラクターズ・チャンピオンを獲得。この年から、マールボロのスポンサーシップが開始。以後1996年まで続く『マールボロ・マクラーレン』の誕生である。このシーズンはマールボロ2台とヤードレイ1台の3台体制での参戦だった。 1975年[編集] M23はフロントサスをロッキングアームに変更し、また、ホイールベースを80mm延長し2,647mmとした。また、リヤ周りも改修を受け、今まではエンジン部分が外部に露出していたが、リヤタイヤ前方にオイルクーラーを設置。サイドポンツーンなどのボディワークをさらに後方に延長した。加えて、ダウンフォースの増加に努めるため、フロントウイングが大型化され、リヤウイングも厚みを増し、フラップの迎角も大きくなった。 フェラーリのニキ・ラウダが新型マシン312Tと共にシーズンを席巻。フィッティパルディは2勝でドライバーズ・ランキング2位となった。彼はこのシーズン終了をもって実兄であるウィルソン・フィッティパルディが興した新チームのコパスカーに移籍した。 1976年[編集] 1976年オランダGPにてM23に乗るハント この年から施行された新レギュレーション(安全性向上のためマシンの全高を制限)に伴って大型インダクションポッドを撤去。ドライバーの頭部左右から吸気する方式を取った。また、シャーシは14kgもの軽量化がなされた。さらにホイールベースが伸ばされ、2,717.8mmとブラバム・BT45と比して254mmも長くなった。 新たにフィッティパルディに代わってヘスケスからジェームス・ハントがマクラーレンに移籍加入。ハントはフェラーリのニキ・ラウダとチャンピオン争いを展開。第9戦イギリスGP終了時点ではラウダのリードを許していたが、第10戦ドイツGPでのラウダのクラッシュ、以後2戦欠場の間に猛追。最終戦日本GPでラウダが天候悪化によるリタイヤを決断する中を走り続け、ハントにとって唯一となるドライバーズ・チャンピオンを獲得した。第12戦オランダGPではヨッヘン・マスが新車M26で出走したが、決勝での結果が9位と良くなかったこともあり、次戦から再びM23となった。
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