Month: April 2020

于右任 – Wikipedia

于 右任(う ゆうじん)は清末から中華民国にかけての政治家・軍人・書家・文化人・教育家・ジャーナリスト。 中国同盟会以来の古参の革命派で、国民政府の監察院院長として知られる。名は伯循だが、一般には字の右任を用いて呼ばれる。筆名は、神州旧主、騒心、大風、剥果、太平老人など多数ある。祖籍は陝西省西安府涇陽県[1]。 清末民初の活動[編集] 1903年(光緒29年)、癸卯科挙人となった。しかし政治を風刺したとして、清朝の指名手配を受け、翌年から上海に隠れ住んだ。震旦学院に入学後、学友とともに復旦公学(後の復旦大学)を創設した。1906年(光緒32年)、日本に留学し、中国同盟会に加入した。帰国後の1907年(光緒33年)4月、上海で『神州日報』を創業し、社長となる。この他にも、『民呼日報』、『民立報』などを創始し、革命派の言論・思想を発信した[2][1]。 1912年(民国元年)1月、南京で中華民国臨時政府が設立されると、交通部次長に任命された。翌年3月に、宋教仁が暗殺されると、袁世凱打倒のために二次革命(第二革命)などに参与した。護法運動が開始された1918年(民国7年)に故郷へ戻り、胡景翼とともに陝西靖国軍を組織して、于右任が総司令となった。1922年(民国11年)5月、于右任は上海に移る。そして葉楚傖とともに国立上海大学を創設し、于右任が校長となった。1924年(民国13年)4月、中国国民党第1期中央執行委員に選出された。同年12月に孫文に随従して北京入りしている[2][1]。 国民政府時代の活動[編集] 1926年(民国15年)9月、于右任は馮玉祥による五原誓師に参加し、陝西省政府主席となった(ただし、石敬亭が代理)。翌年、国民聯軍駐陝総司令として、北伐に呼応する準備を整えた。4月、蔣介石が南京に国民政府を創設すると、于は国民政府委員(同年9月に常務委員)、軍事委員会常務委員に任命された。1928年(民国17年)2月、審計院院長に任命される。1931年(民国20年)11月[3]、監察院院長に任命され、以後死去するまで30数年に渡り、この地位に終身あり続けた。国民党でも、第1期から第6期まで一貫して中央執行委員に選出されている。また、1938年(民国27年)には、国防最高委員会常務委員に任ぜられた[2][1]。 1948年(民国37年)、于右任は副総統選挙に出馬したが敗れた(李宗仁が当選)。国共内戦が終盤にさしかかった1949年(民国38年)に、于は台湾へ逃れている。翌年に国民党評議委員を兼任した。1964年(民国53年)11月10日、台北市で死去。享年86(満85歳)[2][1]。于は政治家として活動する一方、文化人としても知られ、書・漢詩などで優れた作品を残した。 ^ a b c d e 劉国銘主編(2005)、19頁。 ^ a b

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海保宣生 – Wikipedia

海保 宣生(かいほ のぶお、1941年12月21日[1]– 2015年4月19日)は、東京都出身の元バスケットボール選手、スポーツ指導者。元バスケットボール男子日本代表。 日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に所属するサッカークラブである鹿島アントラーズ及びモンテディオ山形の運営会社幹部を務めていたことでも知られる。 住友金属→鹿島時代[編集] 東京都出身。立教大学経済学部経済学科を卒業後、住友金属工業(現・日本製鉄)に入社。籠球団(バスケットボール部)に所属し、1964年東京オリンピックのバスケットボール競技において日本代表チームの一員として活躍した。現役引退後は立教大学体育会バスケットボール部の監督を経て住友金属の監督も歴任した。住友金属の監督退任後は社業に戻り、建設エンジニアリング事業本部副本部長などを歴任した。 1996年4月、住友金属が出資して設立されたJリーグ・鹿島アントラーズの運営会社「鹿島アントラーズ・エフ・シー」に出向し、常務取締役を務めた。2000年10月に退任。 鹿島退任後は2001年5月からバスケットボール女子日本リーグ機構専務理事を務め、2003年5月からバスケットボール女子日本リーグ機構顧問に就任。住友金属退職後は地元の千葉県で総合型スポーツクラブの立ち上げに尽力していたという。 山形時代[編集] 2006年、J2(当時)のモンテディオ山形を運営する社団法人山形県スポーツ振興21世紀協会(スポーツ山形21)の理事長を退任した金森義弘の後任選びの際、齋藤弘山形県知事(当時)が日本サッカー協会会長(当時)の川淵三郎に人選を依頼し、その紹介を受けて5月24日の第18回通常総会で新理事長に就任。しかし海保自身山形に地縁がなく、この人事が県知事によるトップダウンだった事もあり、理事会やフロントからは決して歓迎されていなかった。本人も「当初、周囲の目は冷ややかだったね」と後に語っている[2]。 当時のクラブは金森の経営計画のずさんさから約1億3000万円という大幅な赤字を抱え、その補填策としてJ1昇格の為の準備金を取り崩さなければならなくなり、一方で予算規模は7億程度にとどまるなど、内外にその厳しい台所事情を露呈。またチーム成績も2年連続で下位に低迷していた。一方でホームゲーム前にはサポーターの輪に加わって意見を交わし、サポーターからは「過剰と言ってもいいくらい」(海保氏)の期待を感じ取り[2]、ここから手腕を発揮することになる。 経営基盤強化のため、後援会特典の無料入場を廃止し、さらに入場料を値上げした。また「イレブンミリオンプロジェクトグループ」を立ち上げ、サポーターや諸団体との懇談会「BMミーティング」を開いて入場者数増加やファンサービス向上の為の対策を練り、実行に移していった。これらの改革には前理事長時代からのフロント職員などが反対、抵抗するなど、「味方はサポーターだけ」という厳しい状況だったが、結果として入場者数、入場料収入を増加させ事業規模を倍にするなど成果を挙げた。 チーム強化では「俺はサッカーのことはわからないから」と現場には口出しせず、代わりに鹿島の前身の住友金属工業蹴球団時代から鹿島のスカウトとして活躍し、既に第一線を退いていた平野勝哉を強化育成アドバイザーとして招聘、後にチームの主力となる山田拓巳や伊東俊獲得のための道筋を作る[3]。さらに2007年には、前身のNEC山形サッカー部の創設に関わり、スポーツ山形21への移行時に社業に戻っていた中井川茂敏をGMとして10年ぶりにクラブに復帰させ[4]、鹿島で活躍の場を失っていたDF石川竜也の獲得にも尽力[2]。翌2008年には中井川が大分トリニータをJ1に昇格させた実績のある小林伸二を監督に招聘。公益法人で成り立つチームの特色から運営資金は少なく、主力の多くをレンタル移籍に頼る形ながら小林の堅実な守備をベースとした戦術はチームにフィット。短期間で力を付けたチームは豊田陽平らの活躍もあり快進撃を見せる。この年J2を2位で終え、海保の就任から3年目でJ1昇格を果たした。 2009年、初昇格に大きく貢献した豊田が移籍。実績のある古橋達弥や、一部のレンタル選手が完全移籍を果たすも戦力の見劣りは否めず、近年の昇格チームの不振もあり多くの専門家に降格を予想された。しかし、J1初戦のジュビロ磐田戦を6-2という大勝で飾ると、序盤8節で4勝、勝ち点14を獲得する。以降は苦戦を強いられたが、この年降格した3チームに4勝2分と要所で勝ち点を重ね、最終節を残して残留を確定させた。そして最終節、試合終了後の関係者挨拶で「戦前の予想は、ダントツの最下位。ざまあみやがれってんだ!」と叫んだ海保に、場内は笑いに包まれ、歓声と拍手が送られ、挨拶後には“海保コール”が巻き起こった[2][3]。 翌2010年も降格候補に挙げられながら田代有三らの活躍で残留を果たしたが、心筋梗塞の発作に見舞われたこともあり[3]、この年の3月をもって健康上の理由により勇退した。 晩年[編集] 山形の理事長退任後は地元の千葉県に戻って活動を続けていた[2]。 2015年4月19日、胆管癌のため、73歳で死去[5][6]。 関連項目[編集]

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アエロフロート・ロシア航空 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “アエロフロート・ロシア航空” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2020年3月) モスクワ・シェレメーチエヴォ国際空港でのアエロフロート機 公共株式会社アエロフロート・ロシア航空(ロシア語: ПАО Аэрофлот — Российские авиалинии; 英語: PJSC Aeroflot Russian

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八千代座 – Wikipedia

八千代座の位置(熊本県) 八千代座(やちよざ)は、熊本県山鹿市にある芝居小屋。1910年に建設され、1988年に国の重要文化財に指定された[1]。その後復元修理が行われ、2001年に竣工した。 1910年、山鹿の旦那衆が組合を作り、町の繁栄を図るために1株30円の株を募って建てた。設計者は回船問屋の主人で灯籠師でもあった木村亀太郎。当時の山鹿は菊池川の水運、豊前街道を利用した水陸交通の要所で、物資の集散地、屈指の温泉場として賑わっていた。同年10月上棟式、12月竣工。その後、歌舞伎、浪花節、活動写真、新劇、邦楽やクラシックのコンサート、小学校の学芸会と様々な催しものに利用された。昭和になると第2次世界大戦を経て、人々の嗜好の変化、映画からテレビと娯楽の変遷があり1973年(昭和48年)の老人会の総会を最後に八千代座は閉館、1980年(昭和55年)八千代座組合は建物を山鹿市に寄贈した。その後雨漏りにより屋根が裂けるなど、建物の老朽化が進んだ。1986年(昭和61年)八千代座復興期成会が発足して、特に高齢者を主に、募金活動などが行われた。1989年(平成元年)から一般公開が始まり、1996年(平成8年)、平成の大修理が始まり、(2001年)平成13年5月、竣工式が行われた。[2] 1910年:山鹿の実業界が八千代座組合を作り、八千代座設立を決定。 同年10月:棟上式、12月:竣工。 1911年:こけら落としは松嶋家一行による大歌舞伎。 1914年:森永ミルクキャラメル活動写真。天中軒雲月による「桜島遭難談」。 1915年:森峰吉率いる「少女歌舞伎」が流行る。 1916年:「目玉の松ちゃん」(尾上松之助)が流行る。 1917年:芸術座の松井須磨子、島村抱月によるカチューシャの公演。 1919年:小井出登以師(三味線)追善演奏会。 1925年:松竹活動写真節劇連鎖、中村歌三郎。 1932-33年:新国劇奇術、天勝一行ほか。 1934年-1935年:新派劇八雲一行。 1935-1936年:忠臣蔵連鎖劇。 1937-1947年:松本幸四郎、長谷川一夫ほか。 1948年:福岡フィルハーモニー、レクイエム演奏会。 1951年:辻久子バイオリンリサイタル。 1952年:谷桃子、伊藤京子[要曖昧さ回避]バレエを招く。 1954年:淡谷のり子、北村タンゴを招く。

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マラソン – Wikipedia

マラソン大会の競技者 マラソンとは、 陸上競技の長距離走のひとつで、42.195 kmの公道コースを使った競技。本項で詳述する。 公道コースを使った陸上競技の長距離走の俗称。5kmや10kmのロードレース、ハーフマラソンやウルトラマラソンなど。 長距離、長時間にわたる仕事や陸上以外の競技の例えとして使われる。シェル エコマラソン、ハッカソン、アイデアソンなど。 マラソン(英語: marathon)は、陸上競技の長距離走のひとつで、42.195 kmの公道コースを走り、順位や時間を競う種目である。古代ギリシアの故事に由来して、第1回近代オリンピックの創設に伴い陸上の新種目とされたことから始まった。 また定められた距離以外の大会でもマラソンと呼ばれる場合がある、数キロ程度の長距離走からハーフマラソン(21.0975 km)やクォーターマラソン(10.54875 km)、マラソンより長い距離を走るウルトラマラソンなどでも、単にマラソンと呼ぶことが多い。正式なマラソンを明示する場合はフルマラソンという。 この長距離走を示す意味での「マラソン」という名前は登録商標などの規定が無く誰でも自由に使うことが出来るが、本稿ではワールドアスレティックス(旧国際陸上競技連盟)の規定に準じ記述している。 マラソンの名の由来[編集] 紀元前450年9月12日、アテナイの名将ミルティアデスはマラトン(Μαραθών, Marathon)に上陸したペルシャの大軍を奇策で撃退した。マラトンの戦いである。勝利というエウアンゲリオン(良い知らせ)をアテナイの元老に伝えるためにフィディピディス(Philippides)という兵士が伝令に選ばれた。フィディピディスはマラトンから約40km離れたアテナイまでを駆け抜け、アテナイの郊外で「我勝てり」と告げた後に力尽きて息を引き取ったと言われている[1]。この伝承はヘロドトスの『歴史』によるとされ、アテナイは現在のアテネとされる[2]。ただし、この話が史実かという点については諸説がある。戦いの日時を紀元前490年11月2日とする説もあり、プルタルコスによれば兵士の名前はエウクレス(Eukles)とされる。マラトンの戦いも参照。 近代マラソンの開始[編集] 上述の故事を偲んだフランスの言語学者ミシェル・ブレアルの提案により、1896年にアテネで開かれた第1回オリンピックにマラトンからアテネ・パナシナイコ競技場までの競走が加えられた[2]。これがマラソン競走の始まりであり、翌1897年にはボストンマラソンが創始されるなど、欧米諸国から競技が広がった。1972年より、故事にちなんでアテネクラシックマラソンが開催されるようになった。コースはマラトンよりアテネの競技場までの42.195 kmである。1997年の世界選手権と2004年のアテネオリンピックはアテネクラシックマラソンと同じコースが使用された。 42.195 kmの由来[編集] オリンピックのマラソン距離 開催年 回次

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ブエルタ・ア・エスパーニャ – Wikipedia

ブエルタ・ア・エスパーニャ(スペイン語: Vuelta a España, 正式には La Vuelta Ciclista a España)とは毎年9月にスペインを舞台にして行われる自転車プロロードレースである。1935年から開催されている。主催はイベント会社のウニプブリク(Unipublic)。ツール・ド・フランス、ジロ・デ・イタリアとあわせてグランツール(仏: Grands Tours)と呼ばれる。 略称は「ブエルタ」[2]。かつては「ツアー・オブ・スペイン(Tour of Spain)」の名で呼ばれていた時期もあった[3]。 毎年9月に3週間以上かけて行われるステージレースで、スペイン国内を中心としておよそ3200kmを走る。ステージ数は通常21前後。平坦ステージ、山岳ステージ、タイムトライアルステージ(個人、チーム)とさまざまなステージが用意されている。 総合成績1位の選手には「マイヨ・ロホ」と呼ばれる赤色のジャージが与えられるほかスプリント賞、山岳賞、新人賞といった各賞の対象者も特別なジャージを着用する。 開催時期の変更[編集] 1994年までは4~5月に開催されておりジロ・デ・イタリアとの間隔がほとんどなく、年によっては日程が重複することもあった。そのため何人かの有力選手がツール・ド・フランスまで力を温存しようと考えて調整目的で参加するほかは、大半がジロ・デ・イタリアに出場。ブエルタ・ア・エスパーニャに出場するのはもっぱら地元スペインの選手(もしくはスペイン所在のチームの選手)かブエルタ・ア・エスパーニャよりもさらに厳しい山岳コースが登場するジロ・デ・イタリアを嫌うスプリンター系選手だったため、比較的ローカル色が強い大会だった。 しかしUCIカレンダーの整備により、1995年より現在の開催時期である9月に移行。日程上では同一年度においてグランツール全大会に出場することが可能となった。これによりレースの盛り上がりが期待されたがシーズン終盤の開催ということもあり多くのレースをこなして疲労のたまった選手や秋のクラシックレース、世界選手権などに照準を合わせた選手からは敬遠、もしくは世界選への調整の舞台として利用されることが多く依然として出場するのはスペイン選手が中心という状態が続き、グランツールの中でもツール・ド・フランス、ジロ・デ・イタリアに比べてワンランク下の存在に見られ盛り上がりに欠けていたため以前は財政難などで開催が危ぶまれることもあった[4]。

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四柱推命 – Wikipedia

この記事には独自研究が含まれているおそれがあります。問題箇所を検証し出典を追加して、記事の改善にご協力ください。議論はノートを参照してください。(2010年6月) 陰陽五行説を表した図 四柱推命(しちゅうすいめい)は、中国で陰陽五行説を元にして生まれた人の命運を推察する方法である。 四柱推命という呼称は、中国の原書に見ることができない。日本独自のものであるが英語圏で”Four Pillars of Destiny” もしくは”Four Pillars Astrology”と呼ばれているように、既に世界的に使用されている。中国では、「子平」「三命」「命学」「命理」「八字(パーツー)」などといわれている。 1100年代、南宋の徐居易(徐子平)の書が文献考証的に四柱推命の最古となるため、徐子平が命学の祖といわれている(一説には、命理の始まりは、戦国時代(紀元前400年~ 200年頃)の蘭台御史(天子の秘書官)の珞琭子であるとされている[要出典])。続いて1200年代に徐大升により『淵海子平』(えんかいしへい)という書が著され、1368年頃、明の軍師・政治家であった劉基(劉伯温)が『滴天髄』(てきてんずい)という書を著したとされている。以下、四柱推命に関する主な著作を列記する。 年代 時代 書名 著者 1500 明代 『神峯通考・命理正宗』 張神峯(張楠)

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エディ・ローソン – Wikipedia

エディ・レイ・ローソン(Eddie Ray Lawson 、1958年3月11日 – )はアメリカ人のロードレーサーである。WGP500ccクラスにおいて、1984年、1986年、1988年、1989年の4度に渡りタイトルを獲得し、異なる3メーカーでの31勝を挙げた。その機械のように正確なマシンコントロールと着実なレース運びから、「ステディ・エディ」の異名を取った。 同じくアメリカンライダーのフレディ・スペンサーとはAMA時代から激しいライバル関係であった。 少年時代[編集] 1958年3月11日、カリフォルニア州ロサンゼルス近郊の都市アップランドで生また。エディの祖父はドイツ系、母はイタリア系、父はインディアン[1]、妹が一人いる[2]。子供時代は毎週家族一緒に砂漠へキャンプへ行き、砂漠では自転車や80ccのバイクで走りまわっていた。エディは、学校で昼休みに教室内を自転車でウィリーをして走って楽しんでいた。自転車に乗っているときのエディの気持ちはケニー・ロバーツになったような気分であった。7歳からミニバイクレースに参戦。12歳のときにダートトラックにデビュー。1年後にはイタルジェット50でレースに参戦し、一家でレースを楽しんだ[3]。 エディはスピードボートやミッション付レーシングカート、ジェットスキーなどのような動力付きの乗り物を制御するモータースポーツを好み、アメリカで3大スポーツと言われる野球やバスケットボールなどのスポーツには関心がなかった[4]。 AMAスーパーバイク参戦[編集] 1978年にはAMAエキスパート・ライセンスを取得。 1980年にロードレースに転向し、カワサキと契約。AMAスーパーバイクおよびAMA250ccGPへ参戦。 米国国内選手権の成績に対する報酬として、1981年のドイツグランプリでGP250ccクラスにデビューし、続くネイションズグランプリ(イタリア)、フランスグランプリの計3戦にカワサキからワイルドカードで出場した。また、1981年度にスーパーバイク王者になった際、記念としてカワサキからは「ローソンレプリカ」ことZ1000Rが発売されている。 GP参戦[編集] 1983年、キング・ケニーのチームメイトとしてマールボロ・ヤマハ・チームと契約し、GP500ccクラス参戦を開始した。翌1984年にはライバルと言われたスペンサーのタイトル防衛を阻止し、早くも初のチャンピオンの座に就いた。1986年と1988年にも圧倒的な強さを見せてチャンピオンを獲得。しかし、88年のシーズン後、チームオーナーのジャコモ・アゴスチーニから「マールボロがスポンサーフィーを減らすので、来年は契約金を減額しなければならない。」という話を聞かされる。チャンピオンを獲得したにも関わらず、ギャラが落ちてしまうことに納得いかなかったローソンは、フィリップモリスのオフィスを訪れ、スポンサー料を増額してもらうよう直談判する。ところがその時に、フィリップモリスがチームへのスポンサーフィーを本当は大幅に増額する予定だったことを知る。一連の話をローソンから聞いたフィリップモリスは、この場で納得できるギャラを払って直接契約しようとまで提案した。しかし、アゴスチーニの嘘に腹を立て、チームと仕事をする意思を失っていたローソンは、フィリップモリスの提案を丁寧に断り、[5]この年限りでヤマハを離脱した。 ヤマハで3度チャンピオンになったローソンだが、1989年にロスマンズ・カネモト・ホンダ・チームに電撃移籍。ヤマハのウェイン・レイニーやホンダのトップワークスチームのワイン・ガードナーを破り、ホンダ移籍の初年度にチャンピオンとなった。シーズン前のテストで右手を負傷しアクセルやブレーキの操作に支障を来すというハンデを抱えながら、シーズン中に13個ものフレーム変更とテストをこなしシーズン序盤にポイントを稼いでいたレイニーをじわじわと追い詰め、終盤で逆転するというステディぶりを見せた。しかし、来季の契約に向けて、ホンダはチャンピオンになったローソンに前年と同様の契約金というとても納得のいかない条件のオファーしか出さず、またも契約金絡みでチームを離脱することになってしまった。 1990年に再びヤマハに移籍。ただし、以前所属していたチーム・アゴスチーニではなく、チーム・ロバーツからの参戦だった。これは、この年ロバーツのチームのメインスポンサーになったマールボロが、ローソンに対してホンダの2倍の契約金を用意していたことも影響していた。[5]第2戦のアメリカグランプリにてブレーキトラブルにより転倒し踵を骨折し、長期欠場を余儀なくされてしまった。第8戦のオランダグランプリからようやく復帰。復帰後の8戦全レースでポイントを獲得し、そのうち6戦で表彰台に上がっている。負傷欠場が響き未勝利でランキング7位となった。 1991年にカジバ・チームに移籍。移籍の際には「あと2年で引退する」ことと「カジバを必ず優勝させる」こと。そして「この公約はどれだけのサラリーを積まれても決して覆さない」と宣言。それまでのステディなイメージとは異なり激しく攻めるレースを見せたが表彰台獲得が精一杯であった。翌1992年はダンロップタイヤへの変更も有り更に成績を落としてしまうが、雨に見舞われたハンガリーグランプリに於いて路面がウェットからドライに変わっていく難しいコンディションでインターミディエイトタイヤをチョイスするというギャンブル作戦が当たり、チームに念願の初優勝をもたらす。ローソンの地道なバイク開発が最後に実を結んだ。 移籍当時に宣言していた通り、この年限りでローソンはWGPを引退。その後は2輪レースの他に4輪レースにも出場し、アメリカでインディ・ライツにスポット参戦。1994年にはフル参戦しランキング4位。1996年にはCART(現チャンプカー)に参戦した。

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イージス艦衝突事故 – Wikipedia

イージス艦衝突事故(イージスかんしょうとつじこ)とは2008年(平成20年)2月19日に海上自衛隊所属のイージス艦と漁船とが衝突して発生した海難事故。海難審判での事件名は護衛艦あたご漁船清徳丸衝突事件[1]。 事故発生直後の護衛艦「あたご」(2008年2月24日撮影) 当時海上自衛隊の最新鋭イージス艦であったあたご型ミサイル護衛艦「あたご」(乗組員281名、基準排水量7,700トン)と新勝浦市漁業協同組合所属の漁船「清徳丸(せいとくまる)」(乗組員2名、総トン数7.3トン、全長16.24m、幅3.09m、深さ1.18m、ディーゼル機関 出力435kW)が衝突。清徳丸は船体が2つに裂け大破・沈没。乗員であった船主(58歳男性)と船主の長男(23歳男性)の2名が行方不明となった。数十日間におよぶ漁協関係者・海上保安庁・海上自衛隊3者が懸命の捜索をおこなったが発見できず、2人は同年5月20日に認定死亡とされた。 この海難事故では自衛艦側の過失や情報公開の姿勢、自衛隊員への教育(艦船監視を窓越しにしか行わなかった。シミュレーターが20年前と古く、5隻しか表示できない(実際には10隻以上多々有))についてマスコミに取り挙げられ、世間的に話題となったほか、2月21日には石破茂防衛大臣が新勝浦市漁業協同組合川津支所や遺族宅を訪れ、直接謝罪をするなど異例の事態となった。 事故の回避義務について海難審判ではあたご側に(2009年(平成21年)1月→確定)、刑事裁判では清徳丸側に(2011年(平成23年)5月、横浜地裁)それぞれあったとされ判断が分かれた。刑事裁判は、第一審・第二審ともにあたご側に無罪判決が下った後、検察側が上告を行わなかったことから2013年6月26日付をもって終息した[2][3]。 事故発生[編集] 「あたご」はアメリカ合衆国での艦対空ミサイル「SM-2」の装備認定試験を終え、2月6日10時2分(HAST)にハワイ・真珠湾(北緯21度21分31秒 西経157度57分12秒 / 北緯21.35861度 西経157.95333度 / 21.35861; -157.95333 (護衛艦あたご漁船清徳丸衝突事件 ハワイ真珠湾))を出港し、2月19日午前中にも横須賀港(神奈川県横須賀市 北緯35度17分35秒 東経139度39分20秒 /

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中村直太郎 – Wikipedia

この記事には複数の問題があります。改善やノートページでの議論にご協力ください。 出典がまったく示されていないか不十分です。内容に関する文献や情報源が必要です。(2015年8月) 一次資料や記事主題の関係者による情報源に頼って書かれています。(2015年8月) 独自研究が含まれているおそれがあります。(2015年8月) 人物の特筆性の基準を満たしていないおそれがあります。(2015年8月) 広告・宣伝活動的であり、中立的な観点で書き直す必要があります。(2015年8月)出典検索?: “中村直太郎” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL 中村 直太郎(なかむら なおたろう、1944年10月25日 – 2016年3月27日[1])は、日本の俳優、声優。東京都出身。 目次

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