Month: May 2020

スライダー (球種) – Wikipedia

スライダー(英: Slider)とは、野球における球種の1つ。人差し指と中指でボールに回転を掛けることにより利き腕と反対方向、または下方に変化する。 スライダーの握りの例 スライダーの握りの例 バックスピンとサイドスピン(利き腕と反対方向)の間の回転軸を持ち、投手の利き腕と反対方向へ滑るように曲がる物と、ジャイロ回転の成分を有して縦に落下する物の2種類がある。両者を区別するために前者を横スライダー、後者を縦スライダー、落ちるスライダー、またはヴァーティカル・スライダー (英: Vertical Slider) 、Vスライダー[1]と呼ぶことがある。投法が近いことから両方を投げる投手も多い。 カーブやカットボールなど他の球種との区別が曖昧な場合もあり、落合英二は『落合英二ブルブルの輪』の中で「投げた人が『これはスライダー』と言ったらそれはスライダー扱いになっちゃう」と述べ、あまりにも握りや投法のバリエーションが豊富であるため一括りにすることは難しいとしている。落合は山井大介が投じる球速が遅いスライダーを例として挙げ、一般的にはカーブにあたるが山井本人が「これはスライダー」と主張してからはスライダー扱いになったという。逆にクレイグ・キンブレルなど本人がカーブ系と呼ぶ球種がスライダーと呼ばれることもある。 横スライダー[編集] 横に変化するスライダーはバックスピンの成分が強ければ落下が少なく横滑りするスライダーに、サイドスピンの成分が強ければ沈みながら大きく横滑りするスライダーになる。速球と同じような投法と球筋から比較的速い球速で変化するため打者は速球と誤認しやすい。横の変化でボールからストライクへ、ストライクからボールへなどという使い方や小さい変化でバットの芯から外させたり、大きい変化で空振りを狙うなど様々な使い方をされる。 縦スライダー[編集] スライダーの中でもジャイロ回転の成分を有して縦に落ちる物を指す。上向きの揚力を持たないため、フォークボールのように落下し、ジャイロ回転の効果で初速と終速の差が小さい[2]。また、ジャイロ回転の成分が強い物は回転軸の傾きによっては若干左右へも変化したり、落差が変わったりもする。ボールを挟まない為、フォークボールに比べると失投率が低く、使い手が増えつつある。 アメリカンフットボールのパス スライダーの握り方、リリース方法には様々な種類が有る。稲尾和久は「ボールをリリースする瞬間に縫い目にかかった人差し指の先をピッと切る」ように[3]、大野豊は「握った指をずらすのでなく、手首の向きを変えてボールを切る」ように[4]、伊藤智仁は「ボールの縫い目に人差し指と中指をはわせ、チョップするように横回転を加える」方法で[5]投げていた。ボブ・フェラーやダルビッシュ有はアメリカンフットボールのボール (en:Football (ball)) を投げるようにリリースすると解説している[6][7]。 捻ったり抜くようにリリースするカーブと比べ、より速球に近いボールの握りと腕の振りで投げられる[6]。

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リン酸トリクレジル – Wikipedia

リン酸トリクレジル (Tricresyl phosphate = TCP) は、3つの異性体が混合した有機リン酸化合物で、難燃剤として、またラッカーおよびワニスの製造で可塑剤として最もよく使われる。無色で粘性のある液体だが、市販品は通常黄色である。水にはほとんど溶けないが、トルエン、ヘキサン、ジエチルエーテルなどの有機溶媒には溶けやすい。TCPは、1854年にアレクサンダー・ウィリアムソン (Alexander Williamson) によって、クレゾール (メチルフェノールのパラ-、オルト-、メタ- 異性体の混合物) と五塩化リンから合成された。しかし、今日の製造者は、塩化ホスホリルまたはリン酸と、クレゾールから製造することができる。構成クレゾールがすべてオルト異性体のTCPは、多くの急性中毒の原因物質である。その慢性毒性も懸念される。オルト異性体は非常に毒性が高いため、異性体の純度を必要とする実験室での研究以外では、単独で使用されることはめったになく、TCPを含む工業製品には含まれていない。 最も危険な異性体は、オルト異性体を含むリン酸トリ-オルト-クレジル = TOCPのような異性体と考えられる。世界保健機関 (WTO) は1990年に「TOCPに対する感受性は個人間でかなり異なるため、安全な曝露レベルを確立することは不可能である」、「したがって、TOCPは人の健康に対する主要な危険と見なされている」と述べた[1] 。したがって、ヒトへの曝露のリスクがある場合は、市販のTCPのオルト異性体の含有量を減らすための精力的な努力が払われてきた[2]。 しかし、ワシントン大学の研究者が、合成ジェットエンジンオイルに存在するオルト異性体を含まないTCP異性体が特定の酵素を阻害することを発見た[3]。 健康災害[編集]

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北陸オープンゴルフトーナメント – Wikipedia

北陸オープンゴルフトーナメントは1999年から行われている日本プロゴルフ協会(PGA)後援の男子プロ・アマゴルフトーナメント。 富山テレビ放送、北日本新聞社主催。 日本プロゴルフ協会・中部ゴルフ連盟・北陸三県ゴルフ場協議会・富山県ゴルフ連盟・富山県ゴルフ練習場連盟・富山県・富山県教育委員会・富山市・石川テレビ放送・福井テレビジョン放送後援。 概要・歴史[編集] 富山県富山市の呉羽カントリークラブでは、1965年7月、初めてのプロの競技会「読売プロ招待ゴルフ競技会」が開催された[1]。1971年10月には「さわやかカップゴルフトーナメント」が開催され、プロの競技としては非公式なものであったが[2]、日本プロを制した尾崎将司、杉本英世、青木功らの人気プロが参加[1]。当時としては、2000名のギャラリーが集まり、画期的な出来事であった[2]。1973年には6月29日から7月1日の3日間にわたり、呂良煥( 中華民国)、杉本、青木、杉原輝雄などの有名プロと北陸3県のアマチュア選手ら60名が参加した北陸で初めてのビッグゲーム「北陸クラシック」が開かれ、プロ参加競技の実績を積み重ねた[1]。プロの部の優勝は呂良煥で、アマの部の優勝は呉羽CC所属の渡辺信安であった[2]。この大会は、後に行われる富山県オープンが、アマチュアに開放される布石となった[2]。 これらの実績を基に、1978年、一流のプロを多数招待し、県内のアマチュアに広く門戸を開いた「富山県オープンゴルフトーナメント」が、開催されることになる[1]。初代覇者はプロの部が大場勲で、アマの部は、新進気鋭の伊東章であった[2]。この大会は、県内で唯一のプロ競技として定着し、1982年の第5回には日本プロゴルフ協会の賞金ランキング加算競技に昇格、将司・健夫・直道の尾崎3兄弟をはじめ一流プロが多数参戦する魅力的な大会として21年間も継続[1]。 数々のドラマを生むと共に、県内アマチュアゴルファー育成に貢献し[2]、1999年7月にはアマチュアの参加エリアを北陸3県に広げ、新たに「北陸オープンゴルフトーナメント」がスタート[1]。近年は、石川遼・片山晋呉など人気プロが参戦したことで一段と盛り上がりを見せ、予選、決勝ラウンドはテレビ放映も行われ、北陸で開催されるプロ競技会として定着している[1]。 2020年は中止となった。 歴代優勝者[編集] 富山県オープン 1978年 – 大場勲 1979年 – 豊田明夫 1980年 – 吉川幸一

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坂井大将 – Wikipedia

坂井 大将(さかい だいすけ、1997年1月18日 – )は、長崎県出身のプロサッカー選手。登録ポジションはミッドフィールダー[1]。タイ・リーグ1・サムットプラーカーン・シティFC所属。マネジメント会社はジャパン・スポーツ・プロモーション[2]。 プロ入り前[編集] 中学校入学と同時に長崎市の親元を離れ、大分トリニータU-15へ入団[3]。大分U-18ではボランチやトップ下をこなし、質の高い前線への飛び出しや、正確なワンタッチプレーを得意とするユーティリティー選手として活躍[4]。 2014年、トップチームに2種登録選手として選手登録[5]。同年7月13日の天皇杯2回戦・ヴェルスパ大分戦にて公式戦デビューを果たすと、同試合の前半34分に自らが得たPKを決め公式戦初得点も記録した。このゴールは大分の公式戦史上最年少得点記録となった[6]。また同年10月には、英紙『ガーディアン』の「次世代の世界の若き才能40名」に日本人選手で唯一選ばれた[7]。 プロ入り後[編集] 2015年より、正式にトップチームへ昇格[8]。2017年8月、ベルギー2部のAFCテュビズに期限付き移籍[9]。移籍期間は翌2018年6月末まであったが、ビザ取得の問題により出場機会を得るのが困難となった為[10]、AFCテュビズとの期限付き移籍を解消の上、新たにアルビレックス新潟に期限付き移籍[10]。開幕戦から暫くは先発出場を続けていたが、第11節以降はリーグ戦では出場機会無くシーズンを終えた。 2019年、移籍期間満了により大分に復帰したが[11]、公式戦出場機会は無く同年6月17日にJ3・ザスパクサツ群馬へ育成型期限付き移籍した[12]。 2020年はガイナーレ鳥取に期限付き移籍[13]、6得点を挙げたものの、同年シーズン終了後に鳥取への期限付き移籍期間満了[14]および大分との契約満了[15]が発表された。 2021年6月18日、タイ・リーグ1のサムットプラーカーン・シティFCへの加入が正式に発表された。背番号は14[16][17]。 日本代表[編集] 2012年から各年代別の日本代表に選出され、2013年にはFIFA U-17ワールドカップのメンバー入りを果たした[18]。代表では左右のサイドバックを務めて全4試合に出場し、チームの16強入りに貢献した[19]。2014年5月、2014 FIFAワールドカップ日本代表のトレーニングパートナーに杉森考起と共に選出され、大会直前合宿から本大会までチームに帯同した[20][21]。2016年10月、AFC U-19選手権の代表に選出された。 所属クラブ[編集] 個人成績[編集]

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ジョー・プランティ – Wikipedia

ジョー・プランティJoe Prunty アトランタ・ホークス AC 役職 アシスタントコーチ 基本情報 生年月日 (1969-02-12) 1969年2月12日(53歳) 国籍 アメリカ合衆国 出身地 カリフォルニア州サニーベール 指導者経歴 2002-20052005-20082008-20102010-20132013-20142014-201820182018-20192021- サンアントニオ・スパーズ(AC)ダラス・マーベリックス(AC)ポートランド・トレイルブレイザーズ(AC)クリーブランド・キャバリアーズ(AC)ブルックリン・ネッツ(AC)ミルウォーキー・バックス(AC)ミルウォーキー・バックス(暫定HC)フェニックス・サンズ (AC)アトランタ・ホークス (AC) 受賞歴

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高松琴平電気鉄道950形電車 – Wikipedia

高松琴平電気鉄道950形電車(たかまつことひらでんきてつどう950かたでんしゃ)は、高松琴平電気鉄道に在籍した通勤形電車である。 高松琴平電気鉄道950形950(+740形740) 高松琴平電気鉄道950形960(+20形24) もと日本国有鉄道(国鉄)オハ31形客車で、1927年(昭和2年)川崎造船所もしくは1928年(昭和3年)新潟鉄工所製。1966年(昭和41年)に車体を新造の上で入籍した。制御客車の950・960の2輌が在籍していたが、1984年(昭和59年)、1997年(平成9年)に廃車になった。 車両の不足および木造車両の淘汰を行うため、1964年(昭和39年)に国鉄から鋼製客車のオハ31 137・299を購入した。 当初、仏生山工場で、車体はそのままでデッキ部分を運転室に改造し、客室部に客用扉を2箇所新設する予定だった。しかし、同じ頃に入線した阪神電鉄881形(30形(2代)・50形(2代))および玉野市モハ100形(750形)の改造・整備が優先されたため、こちらの改造は一旦中止となった。 阪神車と玉野車の整備が一段落した1966年に工事を再開したが、内容は全面的に見直され、台枠のみを流用し車体は新製することになった。この結果、同年7月に137が950,8月に299が960として竣工した。 改造後の車体は、窓配置がC3′-d2D7D1.1,室内はロングシートである。屋根は雨樋がなく、扉上部に水切りが取り付けられたのみである。ベンチレータは、当時の琴電更新車に多かった独特の筒形となっている。 しかし、台枠の改造は行なわなかった。近代的な外観とは裏腹に、魚腹台枠という組合せとなった。 また、車体両端の旧デッキ部分の車体幅が絞られ、妻面は3つ折妻でアンチクライマーつきとなり、この点が車両の出自を匂わせた。 琴平線に配置されたが、固定編成は組まず、おもに20形(3代)と編成を組んだ。1983年(昭和58年)に1013形が入線すると、950は1017と固定編成となった。当初1017との間は貫通幌がなかったが、後に取りつけられた。1100形が入線した1997年7月に廃車になった。 一方、960は1984年に1070形が入線したことに伴い、廃車になった。 参考資料[編集] 宮崎光雄「私鉄車輌めぐり[69] 高松琴平電気鉄道(下)」、鉄道ピクトリアル191号、電気車研究会、1966年12月 真鍋裕司「私鉄車輌めぐり[121] 高松琴平電鉄(下)」、鉄道ピクトリアル404号、電気車研究会、1982年6月

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