柳生厳勝 – Wikipedia
柳生 厳勝(やぎゅう としかつ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武士。通称は新次郎[1]。 新陰流の剣豪・柳生宗厳の長男。尾張柳生初代柳生利厳の父として知られる。 大和の国人で新陰流を修めた兵法家としても名高い柳生宗厳の長子として生まれる。生年について同時代の資料はないものの、柳生家の家譜『玉栄拾遺』では天文21年(1552年)[2]とある。その活動は早く、20歳頃には父と共に織田家の重臣柴田勝家と面会していたことが勝家から宗厳に送られた書状に記されている[3]。 元亀2年(1571年)に父宗厳は主君・松永久秀に従って筒井順慶が守る辰市城を攻めて大敗を喫するが、同時代に書かれた日記である『多聞院日記』ではこの戦いで負傷した者として「柳生息」 (宗厳の子)が挙げられている。この人物の名前は明言されていないものの、これ以後は宗厳の嫡男として厳勝が活動した形跡がないため、この傷が元で以降は柳生庄に引き籠っていたと見る向きが強い。 戦傷のために隠遁していたとされる厳勝だが、文禄5年(1596年)8月には、宗厳の兄弟子である疋田景兼より「文禄五年八月廿四日 疋田豊五郎入道栖雲斎 柳生新次郎殿」と記した自筆の表書を受けており、厳勝の子孫である柳生厳長は、この時厳勝は景兼から 新陰流の口伝を受けたとする[4]。さらに慶長11年(1606年)2月には晩年の父・宗厳より「残す無く相続せしめ」として皆伝印可を受けており、この時には剣術の修行をおこなっていた様子もある[5]。元和2年(1616年)4月5日死去[6]。 長男久三郎は 浅野幸長に5百石で仕えたが慶長2年(1597年)2月21日、朝鮮蔚山にて弱冠21歳で戦死したという[7]。 次男利厳は宗厳より、宗厳が師・上泉信綱から与えられた印可状・目録の一切と共に相伝を受け[8]、元和元年(1615年)に尾張徳川家に5百石で出仕し、藩主・徳川義直に兵法を伝授した。利厳以降も柳生家は代々藩主の師範を務めて「御流儀」と賞され[9]、現代にいたるまで新陰流の普及を続けている。[要出典]。 三男・権右衛門は元和2年(1616年)土御門左衛門の取次により伊達政宗に仕えて知行六拾貫四百拾七文を拝領した[10]。 尾張藩の史料を編纂した『名古屋市史』では厳勝について「浮田和泉守の小姓となり、400石を得たが、16歳の時の初陣で銃傷を負ったために、廃人になり柳生庄に戻った」とする[9]。 『柳生藩旧記』をはじめとする弟宗矩の子孫が残した家譜や幕府が編纂した『寛政重修諸家譜』では、厳勝について「筒井順慶 に属して 柳生の庄を領有したが、何らかの事情があって本領を去り、他国を遍歴したのち旅先で客死した。そのため宗矩が家督を継いだ」[11][12]と記述している。ただし厳勝は6名の子女を儲けており、依然として柳生庄に居住していたと考えられている[13]。 宗厳の死後、家督は本領2千石と共に徳川家に仕えた末弟・宗矩が継いだとされるが、柳生厳長は『正傳新陰流』において自家には家督を厳勝が継いだという伝承があるとしている[14]ほか、『名古屋市史』には厳勝の死後、その所領を宗矩が独占したために厳勝の子・利厳が艱難したという記述がある[9]。 父:柳生宗厳(1527-1606) 母:奥原助豊の娘・奥原鍋(春桃御前)
Continue reading
Recent Comments