Month: October 2020

広島城北中学校・高等学校 – Wikipedia

「鯉城高等学校」はこの項目へ転送されています。「広島県鯉城高等学校」の名称だったことがある公立高校については「広島県立広島国泰寺高等学校」をご覧ください。 広島城北中学校・高等学校(ひろしまじょうほくちゅうがっこう・こうとうがっこう)は、広島県広島市東区に所在し、中高一貫教育を提供する私立男子中学校・高等学校。 1961年に開校した男子校である。建学の精神として、「英才教育の徹底」「道徳教育の徹底」「錬身教育の徹底」の3つを掲げており、学不厭、教不倦(学んで厭かず、教えて倦まず)を校是としている[2]。2021年度より「城北プライド」というテーマを掲げている。 以前の高校入試では数名程度しか募集せず完全中高一貫に近いものだった。また、中学校からの内部進学生は「旧生」、高校からの入学者は「新生」と呼ばれる風習がある。内部進学生と高校からの入学者とでは学習進度に差異があり、高校1年生から高校3年生まで別々のクラスで学ぶ。 学校関連の行事としては、9月下旬の中学校運動会・高校体育祭、9月下旬に行われる文化祭などがある。 2017年度から、生徒各自に授業で使用するiPadが配布される。 1960年 広島鯉城学園設置。 1961年 鯉城中学校開校。(のちに「広島鯉城中学校」に改称) 1962年 学園名を鯉城学園と変更。寄宿舎(木造モルタル2階建て)完成。 1963年 鯉城高等学校開校。学園名を角谷学園と変更(専務理事の角谷から取られた名称)。 高校用寄宿舎(木造モルタル2階建て)完成。 1964年 山紫寮(鉄筋4階建て100室)完成。 1967年 法人名を「学校法人広島城北学園」、学校名を「広島城北高等学校」、「広島城北中学校」に改称し、学園創立記念日を10月11日に改定。学園名を現在の広島城北学園に変更。 1985年 新体育館(鉄筋2階地下3階建て)完成。 2005年 新校舎完成。 2007年 新山紫寮(鉄筋コンクリート7階建て)完成。 2016年 鯉昇館(鉄筋コンクリート3階建て)完成。 学校行事[編集] 始業式 遠足

Continue reading

松山ゴルフ倶楽部 – Wikipedia

松山ゴルフ倶楽部(まつやまゴルフくらぶ)は、 愛媛県東温市松瀬川にあるゴルフ場である。 愛媛県には、戦前、ゴルフ場が小野播磨塚、温泉郡見奈良、新居浜の3カ所あったが、戦争で閉鎖され再建されなかった[1]。その後、ゴルフ愛好者により、旧制松山高等学校のラグビー部の練習場に「松山ゴルフ倶楽部」が誕生した[1]。そこでは戸田藤一郎を招いて定期的にレッスンが行われた、戸田の奥さんの実家が松山にあったからである[1]。戸田が京都の「田辺カントリー倶楽部」に移ってからも続いた[1]。 1955年(昭和30年)、新たなゴルフ場の建設に向けて建設用地が検討され、候補地に上がったのが温泉郡川内村松瀬川の開墾地だった[1]。だが、農地転用の規制がかかった土地だったので、公園として許可を取り、公園内にゴルフ場を造ることにした[1]。コース設計は、上田治に依頼した、上田は旧制松山高等学校に在学したことがあり、上田も松山への恩返しといった[1]。 1958年(昭和33年)11月3日、インコース9ホールのゴルフ場が完成、「松山ゴルフ倶楽部・川内コース」が開場された[1]。1964年(昭和39年)11月2日、アウトコース9ホールが完成、18ホール規模のゴルフ場が完成した[1]。 〒791-0314 愛媛県東温市松瀬川乙997番地 コース情報[編集] 開場日 – 1958年11月3日 設計者 – 上田 治 面積 – 730,000m2(約22.0万坪) コースタイプ –

Continue reading

レナータ・オガネシアン – Wikipedia

レナータ・オガネシアンRenata Oganesian 2015年JGPファイナルのSPにて 選手情報 生年月日 (2001-03-02) 2001年3月2日(21歳) 出生地 ドニプロペトロウシク 身長 152 cm パートナー マルク・バルデイ コーチ リリア・バトゥティナ 振付師 ユリア・ゴルバチェワ 所属クラブ ShVSM

Continue reading

ザ・サンクチュアリ – Wikipedia

ザ・サンクチュアリ(英: The Sanctuary)は、イングランド南西のカウンティであるウィルトシャーにあるエーヴベリー(英語版)の村近郊に位置するストーンサークル(環状列石)と木柱サークル(英語版)(環状木柱列)の環状遺跡である。発掘により54の立石の穴と62の柱穴の位置が明らかになっている。円環は、後期新石器時代から青銅器時代にかけての西暦紀元前3000-前900年の時代にわたって、ストーンサークル建造様式の慣習であった。そうした遺跡の目的は明らかでないが、それらの石はサークルを築くための超自然的な構成要素であったと推測されている。 ザ・サンクチュアリは、オーバートン・ヒルに構築され、ウェスト・ケネット・ロング・バロウ(英語版)やイースト・ケネット・ロング・バロウのような、より古い前期新石器時代の遺跡が見渡せる。そこはウェスト・ケネット・アヴェニュー(英語版)を経て、後期新石器時代のエーヴベリーの環状遺跡(ヘンジ(英語版))およびストーンサークルにつながっていた。また、その付近には、先史時代のリッジウェイ(英語版) (The Ridgeway) の経路およびいくつかの青銅器時代の墳丘がある。 18世紀初頭、遺跡は1723年より好古家ウィリアム・ステュークリによって記録されたが、立石はその後まもなく地元の農民により取り去られ、破壊された[5]。ザ・サンクチュアリは、1930年にベン・カニングトン(英語版)とモード・カニングトン(英語版)により考古学的発掘がなされ、その後、先史時代の柱の位置がコンクリートの杭により示されている。現在、イングリッシュ・ヘリテッジの保護下にある指定遺跡 (Scheduled monument)[6] の1つであり[4]、ストーンヘンジ、エーヴベリーと関連する遺跡群の一部として国際連合教育科学文化機関(ユネスコ、UNESCO)の世界遺産(文化遺産)にも登録され、周年訪問者に開放されている。 ザ・サンクチュアリは、エーヴベリーの南東 2.4キロメートル (1.5 mi) 、マールボロ(英語版) の西 7.2キロメートル (4.5 mi) にあり、オーバートン・ヒルを通る幹線道路 A4(英語版)

Continue reading

前田利長墓所 – Wikipedia

墓所の中心にある前田利長の墓碑 前田利長墓所(まえだとしながぼしょ)は、富山県高岡市にある加賀藩2代藩主前田利長の墓所。国の史跡に指定されている。墓所の周辺は「前田公園風致地区」として風致地区になっている。2015年4月24日、「加賀前田家ゆかりの町民文化が花咲くまち高岡-人、技、心-」の構成文化財として日本遺産にも認定される。 1614年(慶長19年)に没した前田利長の冥福を祈るため、3代藩主前田利常(利長の異母弟、後に養嗣子)が33回忌にあたる1646年(正保3年)に造営したものである。周囲に堀を構えたその墓所の豪壮なことは武将のものとして全国的に珍しい[1]。 墓碑は戸室石製の三重墓壇の上に花崗岩製の笠塔婆(かさとうば)型墓標がある構造になっており、石柵と濠に囲まれている。通常はその外から見ることしかできず、墓所はこの立入禁止の内郭と参道の設けられた自由に通行できる外郭からなる。江戸時代の古図には外郭は輪郭型に内郭を取り囲んで、南面を除く三面に堀を備えた姿で描かれており、有事の際には二重に堀を構えた高岡城防衛の砦としての使用も考慮されていた。しかし、今は内郭の堀は縮小され、外郭のほとんどは隣接する高岡市立芳野中学校のグラウンドや高岡市営前田庭球場のテニスコートなどになり、内郭の南側に一部が参道として残るのみである。 現在、約10,000m2が残っているが、2007年に行われた調査の結果、造営当初の墓所の面積は、前田家の古文書のひとつにある1万坪という記述とも合致する約33,000m2であることが確認された。これは現存の3倍以上の規模であり、戦国武将の墓としては国内最大級になる。 通常、笠塔婆型墓標がある内郭には入れないが、利長が高岡に入城したといわれている9月13日には、毎年「前田利長公顕彰祭」が行われ、内郭内を一般公開している[2]。 南西(芳野中学校)側、南(繁久寺)側、東(前田庭球場)側に出入口があり、正面口となる南西側の出入口は八丁道に繋がり、約870m先の菩提寺である瑞龍寺と向かい合う形で結ばれている。この正面口には数台分の駐車スペースがある。 1965年1月1日、富山県指定史跡に指定され、2009年2月12日には金沢市の野田山にある前田家歴代の墓所とともに「加賀藩主前田家墓所」の名称で国の史跡に指定された[3]。また、2007年に発掘調査や地中レーダー探査が行われ、墓碑の土台規模が金沢市の前田家墓所の造墓原理に合致していることや、外堀が存在したことが確認されるなどの成果を上げた。 各種諸元[編集] 墓所の面積:約10,000m2 墓碑全体の高さ:約11.75m 墓碑の一辺の長さ:15.5m 笠塔婆型墓標の高さ:約8.0m 三重墓壇:約250m2 大灯籠[4]の高さ:約6.8m ^ 前田利長公墓所|観光スポット|とやま観光ナビ富山市 ^ 『ふるさとレガシー 前田利長公墓所

Continue reading

イオンモール筑紫野 – Wikipedia

お願い:ノートでの議論提起・合意形成を経ないテキストの除去行為はしないでください。 イオンモール筑紫野ÆON MALL CHIKUSHINO 地図 店舗概要 所在地 〒818-0042[1]福岡県筑紫野市立明寺434-1[1] 座標 北緯33度28分51.3秒 東経130度31分36.3秒 / 北緯33.480917度 東経130.526750度 / 33.480917; 130.526750 (イオンモール筑紫野)座標: 北緯33度28分51.3秒 東経130度31分36.3秒

Continue reading

帝国華撃団 – Wikipedia

この項目では、サクラ大戦1~V、君あるがため、サクラ大戦奏組に登場した帝国華撃団について説明しています。新サクラ大戦の帝国華撃団については「新サクラ大戦#帝国華撃団」を、サクラ革命の帝国華撃団と大帝国華撃団B.L.A.C.K.については「サクラ革命 〜華咲く乙女たち〜」をご覧ください。 帝国華撃団(ていこくかげきだん、帝国歌劇団)は、セガのコンピュータゲーム『サクラ大戦』とその関連作品「サクラ大戦シリーズ」に登場する組織の名称、またその声優陣からなるユニット名。略称は「帝撃」。 作中の設定としては、帝都東京を魔の力から守るために設けられた日本政府直属の秘密防衛組織である。飛行船や、霊子甲冑と呼ばれるロボットを装備した軍隊なみの秘密部隊[1]。前身は「帝国陸軍対降魔部隊」。本部は、東京の銀座に位置する「大帝国劇場」で[注 1]、その他、浅草花やしき・北海道などに支部を持つ。 作品の外では、1997年から2006年まで9年間、キャラクターに扮した声優が帝国歌劇団として歌謡ショウやその他の舞台イベントに出演した(サクラ大戦シリーズ#舞台・ライブ参照)。 オリジナル楽曲は、ゲーム・OVA・アニメの楽曲以外にも舞台書き下ろしの劇中歌、メンバーのソロ楽曲、デュエット楽曲等あわせて100曲を超える。 司令・副司令[編集] 大神 一郎(おおがみ いちろう) シリーズ主要作品『サクラ大戦4 〜恋せよ乙女〜』までの主人公。 幾度にも渡り、魔物から帝都(『1』『2』『4』)・巴里(『3』)を救ってきた歴戦の隊長。日頃は劇場のモギリ役を務めているが、時には舞台の演出なども行う。『4』以降は帝国華撃団の総司令及び大帝国劇場の支配人を務めている。また、軍人としての階級もシリーズを経ていく事で、帝国海軍少尉から中尉、大尉へと昇格した。 家族は自営農家を営む両親と、姉である大河双葉、弟2人の6人家族[4]。また5つ下の甥(双葉の子)に大河新次郎がいる。 熱血漢で真面目な性格。帝国華撃団に入隊した初期の頃の霊力は低かったが、共すると反発し合う花組隊員の触媒の役割を果たしている。また、『4』までの通算6度(『活動写真』含む)にも及ぶ戦いを経ていった結果、帝国華撃団でも最も霊力の高いアイリスに匹敵する程、霊力が上がる事になっている(実際、他の帝国・巴里華撃団の花組は、誰も大久保長安の影に全く気付いていなかった)。 海軍士官学校を首席で卒業。賢人機関のメンバーである花小路伯爵の推薦により、20歳にして帝国華撃団・花組隊長に抜擢された。当初は、士官学校時代に比べて自分の想像と大きくかけ離れた華撃団の環境や、モギリを始めとする雑用をやらされる日々、どう見てもうだつの上がらない酔っ払い親父にしか見えない米田の態度に戸惑いと失望を抱いていたが、後に黒之巣会の出現によって華撃団の真の姿を知ってからは、改めて帝国華撃団・花組の隊長として奮闘の日々を送る事になり、花組の隊員達からも絶大な信頼と好意を得ていく事になる。 二天一流の剣術に優れ、霊子甲冑でも二刀流を使いこなす。必殺技使用時には雷を剣に落とす。銃撃も得意で、士官学校では剣術と共にトップの成績だった。一部作品では、ゲームディスクの警告メッセージを担当している。 『4』での戦いを終えた後は、引退を決めた米田から神刀滅却(『2』において重傷を負った米田から神刀滅却を預けられており、さくらとの「二剣二刀の儀」の際にも使用した)と帝国華撃団総司令及び大帝国劇場支配人の座を譲り受けた。 米田

Continue reading

エミール・アスレル – Wikipedia

エミール・アスレル(Émile Hassler またはEmil Hassler、スペイン語名 Emilio Hassler、1864年6月20日 – 1937年11月4日)は、スイスの医師、民俗学者、植物学者である。パラグアイで働き、パラグアイの植物や民俗資料を収集した[1]。 アールガウ州のアーラウに生まれた。Ecole des arts et métiers d’Aarauで学んだ後、フランスやブラジルのリオ・デ・ジャネイロで医学を学んだ[1]。ブラジルで医師を務めた後、1887年にパラグアイのアスンシオンに近いサン・ベルナルディーノの病院に赴任した。1889年にはパリ万国博覧会のパラグアイの出展の学芸員を務め、1993年にはシカゴ・コロンブス万国博覧会に自らの収集した民俗学的コレクションを提供した[1]。1895年から1896年に最初の植物収集旅行を行った後スイスに戻るが、1897年に再び植物採集のためにパラグアイに渡ることに決めた。採集した植物についての著作”Plantae Hasslerianae“は1898年から発表が始まり、1907年までかけて完成された。 1898年にサン・ベルナルディーノに住居を作り。1898年から1908年の間、何度かパラグアイ人のテオドロ・ロハス(Teodoro Rojas)とパラグアイ国内の植物収集旅行を行った。1909年からスイスのジュネーブに近いPinchatに住み、収集した標本の研究を行い、ジュネーヴ大学の植物学の教授、ローベル・イポリット・ショーダ(Robert Hippolyte Chodat)と協力して多くの論文を執筆した。ショーダとは1914年にパラグアイのフィールド調査も行った。1919年にアスレルの収集した標本は友人のブリケー(John Briquet)が園長を務めるジュネーヴ市植物園(Conservatoire et

Continue reading

三菱ふそう全国縦断・榎さんのおはようさん〜! – Wikipedia

『三菱ふそう全国縦断・榎さんのおはようさん〜!』(みつびしふそうぜんこくじゅうだん・えのさんのおはようさん〜!)は、1978年10月2日から1998年4月3日までの19年半に渡り、毎週平日(月曜から金曜)朝の帯番組としてTBSラジオ[1]をキー局にJRN系全国ネットワーク各局で生放送されていたワイド番組。後年よりハワイ州の中波局KZOOでもネットしていた。全5090回放送。 三菱自動車工業の一社提供による冠スポンサー番組。冠タイトルに入っている「三菱ふそう」は、放送当時三菱自動車工業のトラック・バス部門のブランドだった[2][3]。 タイトル表記は、「全国縦断・榎さんのおはようさん〜!」「榎さんのおはようさん!」などとする場合もある。また、「おはようさん〜!」となっている部分は、放送上のタイトルコールでは「おはようさ〜ん!」と発音していた。 「全国縦断・榎さんの」を同局アナウンサー神津栄子、「おはようさ〜ん!」を榎本がそれぞれ発声していた。 TBSアナウンサー(1984年10月の定年退職以降はフリー)の榎本勝起(えのもと かつおき)がパーソナリティを務め、リスナーに語りかける独特の語り口で、ニュース、スポーツ、天気、話題などを放送した。榎本は、例えば静岡県で起きた事件について語るときは「SBSをお聴きの皆さん、」と呼びかけるなど、何かと話題にからめてネット局の名を口にするという独特のトークも行った。さらに全国放送の時間帯は原則「TBS」という言葉は使わず「東京のスタジオ」と呼びかけていた。 放送時間は、一時期(後述参照)を除き、平日の朝5:30から6:30に放送。5時台・6時台それぞれのオープニングでテーマソングと共に「ふそうトラック・バスでおなじみの(MMC[4])三菱自動車」とスポンサーコールがされており、ふそう系販売会社で取り扱いがある地域では「フォークリフト」が加えられた。エンディングは放送日時点のキャッチフレーズ(終了当時は「あなたと創る Creating Together」)が読まれていた。なおオープニングは当初各局出しだった[5]が、後にTBSから直接送られるようになり、冒頭部分(5時台は提供読み・6時台はタイトルコール)が終わるとそれをBGMに榎本がしゃべり始め、生でスポンサーコールを入れるようになった。ちなみに5:59からの1分間は各局スポット枠である。6:01のローカル枠の終わりと、本編中に各局毎に入るCMでは終わりがけに、オープニングやエンディングと同じ鶏の鳴き声が入るジングルが流れていた(山陰放送のようにローカル枠終わりにしか流れない局もあった)。 1988年10月10日から1990年4月6日までは、TBSラジオのみ「ワールド・トゥデイ」(6:00 – 6:30、同番組も三菱自動車が提供していた。)のため5:05から6:00の放送[6]、他のJRN各局では5:30から6:30(一部地域は6:00から6:30)の放送に変更された。5:05から5:30はTBSラジオ単独の関東ローカル番組として放送、5:30の時点で榎本が「ここからは全国の皆さんも仲間入りです」とアナウンスして5:29となったのちスポット枠を経て全国ネット枠となり、TBSラジオのみ5:59の時点で終了、他のJRN各局では6:30まで裏送りネット放送で引続き放送されていた。この期間のみ全国的にも、6時前のローカル枠から直接スポンサーコールを経てスポット枠となっていた(この期間以外はいったん東京からのトークがあってからCM→提クレ、後に提クレを含む榎本の短いトーク→スポット枠)。なおこの時間変更のため、それまで5時から放送され、エンディングでは当番組も話題にすることもあったTBSラジオ「はやおき倶楽部」が廃枠となった。 榎本が他のJRN局から放送する場合はそのJRN局のみ5:05から6:30に放送することがあった。ただし、6:00で終了するTBSラジオのエンディングは、あらかじめ録音されているのをそのJRN局からTBSラジオに裏送りし放送していた。 宛先を紹介する際は(当時はメールはなかった)、「107-8066、放送局名は書かなくて結構です、『榎さんのおはようさん~』これだけで届きます。」とTBSと書かないように案内していた。理由として、本人が「放送局(TBSではない、聴取者の地元のネット局)名を書いてしまうと、各局(ネット局)の東京支社に届いてしまい、そこから転送されるので到着が遅れることがある。」と説明することがあった。 1990年4月9日からは、TBSラジオも5:30から6:30の放送に復帰したが、それまでTBSのみの放送だった5:00から5:30は『起き抜け一番!榎さんのニュース&ミュージック』(近畿日本ツーリスト提供)と引き続き榎本が担当することとなり、事実上それまでの枠を引き継いだ格好となった(これがそのまま2019年現在は『生島ヒロシのおはよう定食&一直線』になっている)。 また、事実上の姉妹番組として榎本とあべ静江による『つりと私』(1980年4月 – 1994年3月)という20分番組も放送され(TBSラジオでは日曜6:40-7:00)、こちらもテープネットで全国数局ネットで放送された。呉羽化学(現・クレハ)一社提供。録音放送だがエンディング直前にローカル枠(TBSラジオでは「釣り天気予報」)が設定されるなど、「おはようさん〜!」を意識した構造になっていた[7]。CBCラジオでは6時からの「おはようさん〜!」に似せ、土曜朝に6時のニュースに引き続いて放送された(ローカル枠は平日同様天気予報)ため、平日と瓜二つの編成となっていた。なお、榎本・あべのコンビは1990年3月まで担当し、1990年4月からは山本文郎に交代している。 番組のテーマ音楽はフランク・プゥルセル・グランド・オーケストラ演奏の「世界の子供たち」(Enfants de

Continue reading

微分小 – Wikipedia

初等解析学(微分積分学)において微分小(びぶんしょう[要出典]、英: differential)の語は、適当な変量に関する無限小変分を指すために用いられる。例えば、変数 x に対してその増分(変分)はしばしば Δx と書かれるが、変数 x に関する無限に小さな増分を表すのに dx が用いられる。無限小変分(微分小)の概念は直観的な議論においてきわめて有効であり、またその数学的に意味のある定式化にはいくつもの方法が存在する。 初等解析学において、さまざまな変数に関する無限小変分の間の関係性を微分商を用いて述べることができる。y が x の函数であるとき、y の微分 dy は dx との間に等式 dy=dydxdx{displaystyle

Continue reading