Month: March 2021

歌枕 – Wikipedia

歌枕(うたまくら)とは、古くは和歌において使われた言葉や詠まれた題材、またはそれらを集めて記した書籍のことを意味したが、現在はもっぱらそれらの中の、和歌の題材とされた日本の名所旧跡のことをさしていう。 和歌は古くは、漢語や当時の日常会話で使われる表現、また俗語の類などを出来るだけ避けるようにして詠まれていた。その姿勢はすでに奈良時代の『歌経標式』において「直語を以って句を成す、都(すべ)て古事に無し」とあり[1]、「直語」というのは当時の日常会話に近い表現という意味で、和歌においてそのような表現は古くから用いられないものだということである。そうして和歌の表現が洗練されてゆくうちに、和歌を詠むのにふさわしいとされる言葉が次第に定まっていった。それらの言葉が歌枕であり、その中には「あふさかやま」(逢坂山)や「ふじのやま」(富士山)、「しほがま」(塩竈)などといった地名も含まれる。歌枕の「枕」とは、常に扱われる物事また座右に備えるものといった意味だとされるが[2]、その枕というのが寝具の枕に拠るのか、または違うものからその語源がきているのかは不明である。 『古今和歌集』の仮名序には文章の終り近くに、「それまくらことば、はるのはな にほひすくなくして、むなしきなのみ あきのよのながきをかこてれば…」とある。これは紀貫之が自分たち撰者のことについて述べたもので、自分たちが和歌に用いる言葉は、いつも春の花のような美しさに乏しく、歌詠みと世間から呼ばれながらもその実力の伴わない有様に、長い秋の夜も眠れずに悩んでいるということであるが、この「まくらことば」というのは今でいう枕詞のことではなく、和歌において通常使われる言葉すなわち歌枕のことである。 ただしこの古い時代の歌枕には、現在でいうところの枕詞も含まれた。平安時代の僧侶で中古三十六歌仙の一人でもある歌人の能因法師は、『能因歌枕』という書を残している。これは当時の歌枕とされる言葉を集めたものであるがそこには、 「道 たまほこといふ、(以下略)」 「夜 ぬばたまといふ、またくらし、ぬまたまといふ、むばたまといふ」 「山 あしびきといふ、しなてるやともいふ、(以下略)」[3] など、現在でいう枕詞の例が見られる。当時はこれらも歌枕と称していたのである。なお能因の作には他にも『諸国歌枕』(別名『坤元儀』)という地名の歌枕を集めたものがあったらしいが現存しない。こういった歌枕を集めたものは貫之も撰していたといわれ、藤原公任にも今は伝わらないが『諸国歌枕』なる著作があったという[4]。 地名の歌枕[編集] しかし歌枕は時代が経つにつれて、次第に和歌で詠まれる諸国の名所旧跡のみについて言われるようになった。平安時代後期の歌人源俊頼の著書『俊頼髄脳』には、「世に歌枕といひて所の名かきたるものあり」とあり[5]、すでにこの頃には歌枕について、名所や由緒ある場所に限ることがあったと見られる。『能因歌枕』によればその地名には、都が平城京に置かれていた頃から親しまれてきた大和国の地名をはじめ、東は陸奥国から西は対馬まで六十一ヶ国に及び、それらは山や川、浦といった自然の景物、また橋や関、里(さと)などの場所が取り上げられている[6]。 もともと地名の歌枕は実際の風景をもとに親しまれてきたというよりは、その言葉の持つイメージが利用されて和歌に詠まれていた面がある。例えば上で触れた「あふさかやま」は古くより逢坂の関と呼ばれる関所でもあったが、この地名はたいていが男女が逢えぬ嘆きをあらわす恋の歌に詠まれた。「坂」・「山」・「関」は人を阻むものであり、思う相手に心のままに「あふ」ことができないものの象徴として、「あふさかやま」(あふさかのせき)が詠まれているのである。 あふさかの せきにながるる いはしみづ いはでこころに おもひこそすれ(『古今和歌集』巻第十一・恋一) 「いはしみづ」とは、当時この逢坂の関にあったという岩の上を流れる清水のことである。自分が好いた相手に逢えない苦しさを人に訴えるようなことはすまい、だが言わぬと心に誓っても、その苦しさに涙のほうはこらえきれずこぼれてしまう…という趣意の歌であるが、ここでは「あふさかのせき」を恋の障害物、関で流れる清水「いはしみづ」を自分がこぼす涙にたとえている。このように当時の歌を詠む人々にとっては、逢坂と呼ばれる場所が実際どういう所であったかはさして重要なことではなく、自分の感情を譬える材料として使われたのであった。 また一方では、地名の歌枕は歌や物語で場面として繰り返し登場する中で、実際の風景から離れたところでイメージが形成されてきたものともいえる。たとえば「桜」なら「吉野山」、「龍田川」なら「紅葉」と、その場所ならこの景物を詠むというように組み合わせがある程度決まっていた。そして本歌取りが行われるようになると、そういった古歌にある組み合わせが受け継がれ、歌枕が持つイメージとして使われるようになった。こうしたイメージはのちに和歌だけではなく、硯箱をはじめとする工芸品や、着物などのデザインにも用いられた。今では和歌を詠むこととは関わりなく、全国各地にある歌枕は松島など観光名所のひとつとされている。 ^ 『日本歌学大系』第壱巻7頁 ^ 『日本歌学大系』第壱巻42

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琵琶 – Wikipedia

この項目では、楽器のビワについて説明しています。その他の用法については「びわ」をご覧ください。 この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “琵琶” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2017年5月) 琵琶(びわ、英語: pipa, 特に日本のものは biwa)は、東アジアの有棹(リュート属)弦楽器の一つ。弓を使わず、もっぱら弦をはじいて音を出す撥弦楽器である。古代において四弦系(曲頚琵琶)と五弦系(直頚琵琶)があり、後者は伝承が廃絶し使われなくなったが、前者は後に中国及び日本においていくつもの種類が生じて発展し、多くは現代も演奏されている。ベトナムにはおそらく明代に伝播した四弦十数柱のものが伝承され、ダン・ティ・バと呼ばれる。なお、広義には阮咸(げんかん)や月琴などのリュート属弦楽器も琵琶に含めることもある。 四弦系(曲頚)琵琶は、西アジアのウード、ヨーロッパのリュートと共通の起源を持ち、形もよく似ている。すなわち卵を縦に半分に割ったような形の共鳴胴に棹を付け、糸倉(ヘッド)がほぼ直角に後ろに曲がった特徴的な形である。五弦系(直頚)琵琶はインド起源とされ、糸倉は曲がらず真っすぐに伸びている。正倉院に唯一の現物である「螺鈿紫檀五絃琵琶」(らでんしたんごげんのびわ、図参照)が保存されている。 実物は現存しないが、サーサーン朝ペルシア遺跡から出土する工芸品の浮彫り装飾などに、琵琶に似た楽器がしばしば見られる。糸倉が後ろに曲がり、多くはばちをもって弾奏されており、この「バルバット(英語版)」と呼ばれる楽器が四弦系琵琶やウード、リュートの祖先とされる。これが中国に伝わったのは前漢の頃である。現存する世界最古の四弦琵琶は、今のところ正倉院に保存されている数面の琵琶であると思われる。いずれも奈良時代のものである。また楽譜も正倉院および敦煌から発見されている。 インドの琵琶[編集] ブッダの生涯を描いた2世紀の石刻のヴィーナ。五弦の「直頚」で、糸倉は曲がらず真っすぐ伸びている。 漢訳仏典には「琵琶」という楽器がよく出てくる。例えば鳩摩羅什訳『法華経』方便品第二にも「・・・若使人作樂、撃鼓吹角貝、簫笛琴箜篌、琵琶鐃銅鈸、如是衆妙音、盡持以供養・・・」云々の「妙音成仏」の思想が説かれており、日本の仏僧が琵琶を弾く根拠となっている[2]。『法華経』のこのくだりの「琵琶」の原語は「ヴィーナ」[3] である。同じヴィーナという名称の楽器でも、時代や地域ごとに形状はさまざまであり、琵琶のようなリュート型のものもあれば、竪琴のようなハープ型のものもあった。近現代のインドのヴィーナは、古代のヴィーナとかなり違うので、要注意である。

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西尾昇 – Wikipedia

公開年月日 作品名 制作(配給) 役職 1950年 10月21日 軍艦すでに煙なし 新映画社(東京映画配給) 録音 1951年 2月12日 その後の蜂の巣の子供達 蜂の巣映画(新東宝) 12月28日 唐手三四郎 児井プロダクション(新東宝) 1952年 10月23日 大仏さまと子供たち 蜂の巣映画(新東宝)

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トッカグン – Wikipedia

この記事の主題はウィキペディアにおける独立記事作成の目安を満たしていないおそれがあります。目安に適合することを証明するために、記事の主題についての信頼できる二次資料を求めています。なお、適合することが証明できない場合には、記事は統合されるか、リダイレクトに置き換えられるか、さもなくば削除される可能性があります。出典検索?: “トッカグン” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2011年7月) トッカグンは、宮城県出身の小野寺耕平による日本のタレント、お笑い芸人、YouTuber。よしもとクリエイティブ・エージェンシー東京所属。2008年4月20日結成。結成時より同郷の佐藤昌宏(現在フリー)とコンビを組み「元陸上自衛隊芸人」「サバイバル芸人」として活動してきたが、2020年2月1日に佐藤が脱退。以降小野寺によるソロユニットとなった。 現在のメンバー[編集] 小野寺耕平 (おのでら こうへい、 (1983-12-07) 1983年12月7日(38歳) – ) 主にツッコミ担当。宮城県本吉郡出身。 身長167cm、体重66kg、AB型。

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香川県第1区 (中選挙区) – Wikipedia

香川県第1区(かがわけんだい1く)は、かつて存在した衆議院の選挙区。1947年の第23回衆議院議員総選挙から設置された。廃止まで定数は3。現在は香川1区と香川2区の一部に分かれている。 1950年(昭和25年)公職選挙法施行当時の区域は以下のとおりである(定数3、以降変更なし)[1]。 選出議員[編集] 選挙結果[編集] 第40回衆議院議員総選挙 (1993年(平成5年)7月18日執行)当日有権者数:427,898人  投票率:65.07%(前回比:) 第39回衆議院議員総選挙 (1990年(平成2年)2月18日執行)当日有権者数:414,384人  投票率:73.80%(前回比:) 当落 候補者名 年齢 所属党派 新旧別 得票数 得票率 当 真鍋光広 50 自由民主党 新

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アンリ (フランス公) – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “アンリ” フランス公 – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2016年9月) アンリHenri ブルボン=オルレアン家 フランス公にしてパリ伯アンリ(2014年4月) 全名 Henri Philippe Pierre Marieアンリ・フィリップ・ピエール・マリー 称号 パリ伯フランス公(フランス語版) 出生

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スキャット後藤 – Wikipedia

スキャット後藤 生誕 1971年12月31日 出身地 日本 京都府 ジャンル テレビCM ドラマ音楽ゲームミュージック映画音楽 職業 作曲家、編曲家 公式サイト かわいくてたのしくてちょっといじわるな音楽をつくっています。 スキャット後藤(スキャットごとう、本名: 後藤 重満、Goto Shigemitsu、1971年12月31日 – 大晦日生まれ)は、京都府京都市出身の日本の作曲家、編曲家、音楽プロデューサー、サウンドデザイナー、歌も歌う事がある。主にゲーム、CM、ドラマ、映画の音楽を手掛けている。効果音(サウンドデザイン)も手がける場合がある。 「楽器が出来ない・楽譜が読めない・音楽理論が分からない」ことを逆手にとった自由な発想を基に、ポップでクセのある音楽を作る事をポリシーとしている[1]。

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小林知美 – Wikipedia

こばやし ともみ小林 知美 プロフィール 別名義 高松 知美(旧芸名) 愛称 ともちゃん 生年月日 1977年11月15日 現年齢 44歳 出身地 日本・岩手県盛岡市 血液型 A型 公称サイズ(2009年時点) 身長 /

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舘そらみ – Wikipedia

舘 そらみ(だて そらみ、1984年7月10日 – )は、日本の脚本家、演出家、俳優。劇団ガレキの太鼓を主宰。青年団演出部所属。国際基督教大学高等学校、慶應義塾大学法学部政治学科卒業。 神奈川県に生まれ、幼少期はトルコとコスタリカで暮らしていた。 幼少期から戦争を身近に感じ、「戦争をなくす」という思いで中学生にして「政治家になりたい」という夢を持った。 政治家になるため、中学生時代には選挙事務所を手伝い、高校時代には学生秘書まで務めた。「いい政治家になるためには、色んな世界を知らねば」と思い立ち、数々の職業経験やバックパッカーなどの人生経験を積むうちに、次第に人間や世界の魅力に取り憑かれ、演劇に取り組むようになり、2009年に劇団ガレキの太鼓を立ち上げるとともに劇団青年団に所属するに至った。 その間も紛争地や貧困地を回り「命、それだけでありがたい」「国際協力するぞ!」など様々な思いを抱え、現在でも愛と平和をテーマに掲げ活動している。[1] 神奈川県生まれ、トルコ・コスタリカで育つ、政治家秘書、ボランティア活動しながらの世界一周、医療コンサルタント会社勤務、などを経て、芸能活動を始める。 慶應義塾大学在学中より演劇活動を始め、2009年に劇団ガレキの太鼓を旗揚げ。同時に青年団演出部に入る。2016年から2018年10月まで株式会社アミューズに所属。現在は有限会社レトルに所属している。 劇場以外の住空間を使った「のぞき見公演」や観客参加型演劇などの作品を上演し続けていたが、2015年に体調不良を理由に演劇活動を一時中断、映像分野へ進出。演劇活動は2017年に再開。 初の映画脚本となった「私たちのハァハァ」(松居大悟監督)はゆうばり国際映画祭でファンタジスタ賞を受賞した。この作品は、自身の経験が元に描かれている。 2018年7月29日から9月30日までテレビ大阪・BSジャパン(現:BSテレビ東京)の真夜中ドラマJ枠にてOAされたドラマ『グッド・バイ』の全話脚本を手掛ける。[2] 子供向けのワークショップも積極的に行い、全国各地の小中高で演劇の出張授業を行っている。 主な作品[編集] 映画[編集] テレビドラマ[編集] コラム[編集] 舞台[編集]

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