Month: June 2021

改秋月型駆逐艦 – Wikipedia

改秋月型駆逐艦(かいあきづきがたくちくかん)は、日本海軍が計画した駆逐艦[12]。秋月型駆逐艦の速力強化型として計画されたが[4]、全艦建造取り止めとなった[13]。 本型の正式な艦型名は決定しておらず、 「写真日本の軍艦第11巻」では改秋月型[12]、「海軍造船技術概要」では秋月改型[1]、「高角砲と防空艦」では超秋月型の名称を使用している[14]。 昭和14年度(1939年)の軍備充実計画(通称④計画)内で甲型駆逐艦(陽炎型、夕雲型など)と乙型駆逐艦(秋月型)の建造を計画した日本海軍は[15]、続く昭和17年度(1942年)の軍備充実計画(通称⑤計画)では甲型16隻、乙型16隻が計画された(16隻は水雷戦隊1隊(駆逐隊4隊)分)[1]。⑤計画での駆逐艦は従来型から速力を増強させた型が計画され、甲型は島風型、乙型は本型になる計画だった[1]。乙型には艦型番号V7が与えられたが、軍令部の要求まで進まなかった[14]。 1942年(昭和17年)6月のミッドウェー海戦の結果、改⑤計画が策定され[14]、乙型駆逐艦は改めて仮称艦名「第5061号艦」から「第5083号艦」まで23隻の建造が計画された[1]。このうち16隻が従来の秋月型、最後の7隻が改秋月型として予定された[12]。計画数については甲型駆逐艦が⑤計画から8隻減らされ、その予算で7隻の乙型駆逐艦が追加された[14]。⑤計画での16隻については高圧機関の調達が難しいことから改⑤計画では通常の秋月型16隻に変更になり、甲型駆逐艦(島風型)に搭載予定の主機を流用して工期の遅い7隻に搭載の予定された、とも伝えられる[16]。 1943年(昭和18年)10月27日に艦名案が内定したが[17]、戦局の悪化により1944年(昭和19年)5月5日に7隻全てが建造取り止めとなった[13]。 遠藤昭は歴史群像で担当した記事において、この16隻を『初めの計画のままならば「山月型」と呼ばれたであろうし、計画変更により建造されていれば「北風型」と呼ばれたのではないかと推測されている』(初めの計画はマル五計画を指し、計画変更は改⑤計画を指す)と書き記している[18]。 改⑤計画での軍令部の要求は以下のようである[17]。 基準排水量:約3,100トン 速力:約35.5ノット 航続距離:8,000カイリ/18ノット 兵装は④計画の駆逐艦(乙)(秋月型のこと)に準じるが、25mm3連装機銃4基・6連装魚雷発射管1基・魚雷6本に改める。 決定した要目は右表のような値が伝えられている。 機関は島風に搭載予定の機関を採用し[4]、75,000馬力で36.7ノットを予定していた[2]。缶(ボイラー)はホ号缶の搭載を予定[4]、燃費の向上から重油搭載量は秋月型の1,080トンから1,025トンに減少している[9]。また機関配置は後に松型駆逐艦で採用されるシフト配置を採用した[4]。 船体は秋月型より水線長で2m長くなり、幅は0.4m増、深さは0.1m増とわずかに大きくなり、吃水は秋月型と同じ4.15mになる[3]。基準排水量は3,030トン(秋月型は2,701トン)と300トンほど増加しているが[9]、公試排水量では3,580トン(秋月型は3,470トン)とあまり増えていない[9]。 兵装については主砲は配置とも秋月型と同様、機銃は3連装4基に強化(秋月型の計画は連装2基)[9]、仮称三式61cm6連装発射管1基で予備魚雷なし(5連装発射管とする文献もある[11])とされた[10]。 艦容については伝えられていないが[19]、「遠藤昭」によると秋月型と同じ集合煙突の採用が考えられるなど[9]、大きな変化は無いと想像される[18]。 ⑤計画艦16隻 仮称艦名「第770号艦」から「第785号艦」[1] 改⑤計画艦7隻(仮称艦名

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東京事件 – Wikipedia

『東京事件』(トウキョウケース)は、大塚英志原作、菅野博之画による日本の漫画。 『特撮エース』(角川書店)Vol.11より連載開始。同誌休刊後は『月刊少年エース』に連載されたが、2009年6月号から長期休載中。単行本は2巻まで刊行された。 昭和40年代の日本を舞台に、時間に関する特殊能力を持ったメンバーによって構成される「歴史科学研究所」(通称「浦島機関」)が、タイムトラベルによって起こされた不可能犯罪に挑むという話。事件は現実にあった事件をモデルとしている。 『月刊少年エース』での連載中断や連載再開に関して、詳しい説明はないが、大塚英志事務所の告知用Twitter「大塚八坂堂」では、菅野との仕事手順に相違があり、『ヤングエース』2017年10月号から連載開始した『東京オルタナティヴ』(西川聖蘭)が実質的リメイク作品となっていると言及されていた。 登場人物[編集] 歴史科学研究所[編集] 浦島正木(うらしま まさき) 主人公。歴史科学研究所所長。かつて関わった「東京事件」の後遺症で「時間失調症」という病気を患い、27時間の範囲で意識のみが自分の身体を介して過去と未来を移動してしまうようになる。 戦時中は旧日本陸軍の「歴史修正研究所」で「時間兵器」の開発に携わっていた。 宮川友紀子(みやがわ ゆきこ) 警視庁からの出向の刑事。30秒間だけ時間を静止できる。 疋田幸造(ひきた こうぞう) 元交番勤務巡査。念写によって事件現場の再現ができる。 三枝和美(さえぐさ かずみ) 非常勤の職員。特定困難な予知夢を見てはそれを日記につけている。 立山英夫(たてやま

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ルドルフ・リプシッツ – Wikipedia

ルドルフ・オットー・ジギスムント・リプシッツ(独:Rudolf Otto Sigismund Lipschitz、1832年5月14日 – 1903年10月7日)は、ドイツの数学者。リプシッツ連続条件に名前を付けたことで知られているが、数理解析学や微分幾何学のほか、数論、抽象代数学、古典力学にも貢献した。 ルドルフ・リプシッツは1832年5月14日、ケーニヒスベルクに生まれた。[1]15歳でケーニヒスベルク大学に入学した後、ベルリン大学に移り、グスタフ・ディリクレに師事した。病気で学業が遅れたものの、1853年にはベルリンで博士号を取得した。[2] 博士号取得後、地元のギムナジウムで教鞭をとるようになる。1857年、実家の近くの地主の娘アイダ・パスチャと結婚する。[1]同じ年、彼はボン大学で療養がてら私講師として滞在した。1862年、ヴロツワフ大学の臨時教授となり、2年間過ごした。1864年にはボン大学の正教授となり、その後長らくボン大学で活躍した。ここで彼は、フェリックス・クラインの論文を審査した。1903年10月7日、ボンで死去した。[3] クリフォード代数の再発見[編集] リプシッツがクリフォード代数を発見したのは1880年、ウィリアム・K・クリフォード(1845年 -1879年)の2年後であり、彼とは無関係に、直交変換の研究に初めて使用した。[4][5]1950年頃まで、この発見に言及するとき、「クリフォード=リプシッツ数」と呼んでいた。例えば、クロード・シュヴァレー(1909年 – 1984年)は、クロフォードの著作に対しては言及していないが、リプシッツの著作に由来する対象に「クロフォード群」という名前を付けた。[6]ペルティ・ルーネスト(1945年 – 2002年)によってリプシッツの役割の重要性が再認識された。[7][8] ^ a b “Rudolf Lipschitz

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レオニード・ザコーフスキー – Wikipedia

レオニード・ミハイロヴィチ・ザコーフスキー、本名(ロシア語: Леони́д Миха́йлович Зако́вский Leonid Mikhailovich Zakovsky, ラトビア語: Leonīds Zakovskis; 1894年 – 1938年8月29日)は、ソビエト連邦の秘密警察・内務人民委員部(NKVD)の幹部。一等国家保安委員(ロシア語版)。ヨシフ・スターリンによる大粛清の執行者の一人だが、上司のニコライ・エジョフの失脚に伴って権勢を失い、最後には自身も粛清された。 ラトビア人で、本名はヘンリクス・シュトゥビス(ラトビア語: Henriks Štubis)。ロシア語表記でゲンリフ・エルネストヴィチ・シュトゥービス(ロシア語: Генрих Эрнестович Штубис, Genrikh Ernestovich

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コシツェ – ムシナ線 – Wikipedia

コシツェ – ムシナ線(スロバキア語;Železničná trať Košice – Muszyna)は、スロバキア国鉄の鉄道線の名称である。路線番号は188。 1870年から1873年にかけて、現在の営業区間であるコシツェ~プラヴェチ間が開業した。その後1876年に、ムシナまで延伸した[1]。スロヴァキアとポーランドの国境を越える路線である。プラヴェチ以北の国境を越える区間には、現在列車が運行されていないが、2019年6月29日に運行を再開する予定である[2]。 超特急「ユーロシティ(EC)」[編集] LEOエクスプレス号: ブラチスラヴァ – キサク – プレショフ – キサク – コシツェ (LEO Express社の運行)

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小原譲治 – Wikipedia

おはら じょうじ小原 譲治 生年月日 (1902-09-27) 1902年9月27日 没年月日 (1990-06-24) 1990年6月24日(87歳没) 出生地 日本・東京府東京市(現在の東京都) 死没地 アメリカ合衆国・カリフォルニア州ロスアンゼルス[1] 職業 撮影技師・撮影監督 ジャンル 映画 活動期間 1924年 –

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ドン・ザギエ – Wikipedia

ドン・ベルナルト・ザギエ(Don Bernnard Zegier、1951年6月29日 – )は、アメリカ系ドイツ人の数学者で、主な研究分野は数論である。ザギエは現在ドイツのボンにあるマックス・プランク数学研究所(ドイツ語版)の理事の一人である。2006年から2014年まで、ザギエはフランスのパリのコレージュ・ド・フランスの教授だった。2014年10月から、国際理論物理学センター(ICTP)のDistinguished Staff Associateも務めている[2]。名字の「ザギエ」は英語読みで「ザギヤー」とも読まれる。 ザギエは西ドイツのハイデルベルクに生まれた。母親は精神科医で、父親はスイスのアメリカン・カリッジの教頭だった。父親が5つの異なる市民権を有していたため、ザギエは若いころ多くの国々で過ごしていた。13歳の時に高校を卒業し、1年間ウィンチェスター・カレッジにて学んだ後、ザギエはMITで3年間学び、学士号と修士号を得、1967年16歳の時プットナム・フェロー(英語版)に指名された。ザギエはボン大学でフリードリッヒ・ヒルツェブルフの下で特性類に関する博士論文を書き、20歳の時に博士号を受けた。23歳の時に教授資格(Habilitation)を受け、24歳の時に教授に指名された。 ザギエはヒルベルトモジュラー曲面(英語版)に関する業績で、ヒルツェブルフと協力した。ヒルツェブルフとザギエは、『ヒルベルトモジュラー曲面上の曲線の交点数とNebentypusのモジュラー形式』(Intersection numbers of curves on Hilbert modular surfaces and modular forms of

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ムーンソロウ – Wikipedia

ムーンソロウ (Moonsorrow)は、フィンランド出身のペイガンメタルバンド。 比較的長尺な楽曲が多いバンドであり、すべてのアルバムに10分を超える楽曲が必ず収録されている。特に4thアルバム『Verisäkeet』以降は、10分を超える楽曲の割合が増加し、アルバムの半数以上[注釈 1]が10分を超える楽曲となっている。特に、5thアルバム『V: Hävitetty』に至っては、30分強、26分強の楽曲2曲のみでアルバムが構成されるなど、実験的なアルバム構成となっている。また、楽曲名、アルバム名、歌詞の全てがフィンランド語で書かれている[注釈 2]。 1995年に従兄弟の関係にあるヴィレ・ソルヴァリとヘンリ・ソルヴァリの2名で結成された[1]。当初は2名体制のプロジェクトであり、ヴィレとヘンリが様々なパートを兼任する体制であった。また、ヴィレとヘンリは当時は様々なプロジェクトを立ち上げており、ムーンソロウもその内の一つであった[1]。この時期に、ヴィレとヘンリが立ち上げたプロジェクトとしては、ウッズ・オヴ・ベリアル (Woods of Belial)やクリプト (Crypt)、ソーンフロスト (Thornfrost)がある。結局、ヴィレとヘンリはムーンソロウをメインバンドに据えることを決定し、バンドメンバーを集めるようになる[1]。1999年にマルコ・タルヴォネン (Ds)が加入。スリーピースバンドの体制となる。2000年に1stアルバム『Suden uni』のレコーディングを行う[1]。このレコーディングには、ミトヤ・ハルヴィラハティ (G, Vo)がサポート参加しており、レコーディング終了後から間を置かずに正式メンバーとしてムーンソロウに加入した[1]。同年に初ライヴも経験しているが、その際にキーボーディストのマルクス・エウレン (Key)が参加し、そのまま正式加入した[1]。これ以降、バンドメンバーの変更は発生しておらず、20年以上変わらないメンバーで活動を続けている[1]。2001年初めに、スウェーデンのプラズマティカ・レコードより1stアルバム『Suden uni』をリリースしデビューを飾る[2]。更に母国フィンランドのスパイクファーム・レコードに移籍し、同年末には2ndアルバム『Voimasta ja kunniasta』をリリース[2]。2002年より、ライヴセッションメンバーとしてヤンネ・ペルッティラ

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東條あこ – Wikipedia

東條 あこ(とうじょう あこ、1983年12月24日 – )は、日本のタレントおよび元歌手である。山梨県出身。ヴィクトリーロード所属(N-weedと業務提携)。 以前は南さやか(みなみ さやか)として、J-POPボーカルユニットBeForU(およびBeForU NEXT)、秋桜(コスモス)のメンバーを務めていた。 秋桜(コスモス)は、SAYAとEMIの姉妹によるボーカルユニット。2004年、『pop’n music 12 いろは』に「home.」を発表。SAYAが南さやかであると発表されたのは楽曲発表後しばらくしてからだった。2007年1月26日にはDVD付きミニアルバム『cosmos』を発売(コナミスタイル専売)。 ディスコグラフィ[編集] South Wind (ミニアルバム) cosmos (ミニアルバム。秋桜名義) BeForUの楽曲はBeForUを参照。 KI・SE・KI(2004年11月18日発売)

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陸奥のみち、肥薩のみちほか – Wikipedia

『陸奥のみち、肥薩のみちほか』(むつのみち、ひさつのみちほか)は、司馬遼太郎の紀行文集『街道をゆく』の第3巻。 「週刊朝日」の1972年2月11日号から1972年9月29日号に連載された。 上代より中央からの独立性が強かった2つの地域、奥州と九州南部を旅した。この2つの地域は米作という面では対照的な地域であり、そのことの歴史や思想への影響について語られている。最後に司馬が居住する河内地方での数度にわたる旅について書かれている。 陸奥のみち[編集] 旅の時期は1971年11月10日から11月12日まで。(初日が『立冬(この年は11月8日)から二日目』という記述から推定) 飛行機で東京から八戸に飛び、八戸に1泊後、久慈街道を経て久慈に至り、 太平洋沿いに八戸に戻りもう1泊した後、豊臣時代以降対立関係にあった津軽藩と南部藩の藩境まで足を延ばした。 寒冷ゆえ米作に適さなかった陸奥地域の過酷な運命とそこで育まれた安藤昌益の農本的共産主義思想を取り上げる。またこの地を旅した高山彦九郎や柳田國男について触れる。 登場する同行者は画家の須田剋太、編集部のH(朝日新聞、橋本申一)、および案内人の西村嘉。 肥薩のみち[編集] 旅の時期は1972年3月22日から3月24日まで。 1972年1月より薩摩の人間風土を背景にした小説『翔ぶが如く』を執筆していた司馬は、この旅のはじめに、その小説の最終で描くことになる西南戦争の激戦地・田原坂を訪れる。さらに南下し、八代に立ち寄ったあと、人吉街道を通り、人吉にて1泊。人吉では鎌倉時代から700年以上続いた相良氏の城跡を訪れる。そのあと、戦国以降西南戦争まで藩外に対して閉ざされていた久七峠を越え、薩摩藩領に入る。その夜は鹿児島の三大ホテルの一つといわれるところに泊まったが、その猥雑さに鹿児島には洗練された文化意識というものが絶えてしまったのだという思いを抱いた。 九州が豊かさゆえに中央から独立圏を形成しえたこと、一方で、薩摩藩では富農富商が育たず、伝統を溜めこんで洗練し、次代に継承していくことがなかったため、明治で藩がくつがえると同時にすべてを失ったということが述べられている。 登場する同行者は須田剋太、編集部のH、編集部のHの同僚の婦人(原岡加寿栄)、詩人のT 河内のみち[編集] 司馬が居住する河内地方の古墳時代以来の豊かな文化を、数度の旅を通して描く。 若江村 – かつては沼沢が無数にあったが、中甚兵衛という農民の長年の陳情から、宝永元年(1704年)、大和川の流れを変える治水工事が行われ、耕地化された。 高貴寺

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