Month: June 2021

王湛 – Wikipedia

王湛(おう たん、249年 – 295年)は、中国の西晋の官僚。字は処沖。本貫は太原郡晋陽県。 魏の司空の王昶の子として生まれた。28歳のとき、はじめて出仕した[1]。秦王文学・太子洗馬・尚書郎・太子中庶子を歴任し、汝南国内史として出向した。兄の王渾が呉を滅ぼすと、王湛は関内侯の位を受けた[2]。295年(元康5年)、死去した。享年は47。 王湛の身長は7尺8寸あり、龍のような高い額と大きな鼻の持ち主であった。 王湛は寡黙で、与えた恩恵を隠して人に知らせなかったため、兄弟や一族たちは王湛のことを知能が低いものとみなした。ただひとり父の王昶だけは王湛の特異性を認めていた。父が死去すると、王湛は墓所に住み込んだ。喪が明けても、家の門を閉ざして、人づきあいをせず、恬淡としていた。 兄の子の王済は王湛のことを軽んじていた。王済が王湛を訪ねたとき、床に『周易』が転がっているのを見つけた。王済が「叔父上はこれを何に使うのですか」と訊ねると、王湛は「身体の中が良くないときに、見るだけだ」と答えた。王済が説明を求めると、王湛の説く易の道理は微妙かつ奇趣があり、王済の聞いたことのないものであった。王済は衝撃を受けて、態度を改め、連日連夜とどまって語り合った。「家に名士がいたのに、30年も知らなかったのは、済の罪である」と嘆いていった。王済が辞去するにあたって、王湛は門まで送った。 王済が騎乗の難しい馬を持っていたため、「叔父上は馬に乗るのがお好きですか」と王湛に訊ねた。王湛は「それも好きだよ」と答えた。王湛をこの馬に乗せてみると、姿勢も鞭さばきも優れていて、乗馬を得意とする者も遜色ないほどであった。また王済の愛馬について「この馬は速いけれども、力が弱いので苦行には耐えられない。近頃見た督郵の馬は勝っているが、ただ糧秣が足りていないだけだ」と言った。王済が試しに督郵の馬を自分の馬とともに養ってみた。王湛はまた督郵の馬について「この馬は重荷の背負いかたを知っているので、平路と変わりはないだろう」と言った。そこで重荷を背負わせて試してみたところ、王済の馬は躓いたが、督郵の馬はいつもどおりであった。王済はますます感心し、家に帰って「済は始めてひとりの叔父を得ました。すなわち済以上の人です」と父の王渾に報告した。 武帝もまた王湛を愚か者とみなしていたため、王済と会うたびに、「卿の家の愚かな叔父はまだ死なないのかね」といってからかった。王済はいつも答えなかった。王済が王湛の優れたところを知るようになって、武帝がまたいつものように訊ねると、王済は「臣の叔父は愚か者ではありません」と答え、その美点を讃えてみせた。武帝が「誰に匹敵するか」と訊ねると、王済は「山濤以下で、魏舒以上です」と答えた。当時の人は「王湛は上に山濤に及ばないが、下に魏舒と比べるには余裕がある」と評した。王湛はこれを聞いて「わたしを季氏と孟氏の間で処遇しよう[3]というのかね」といった。 妻[編集] 子[編集] ^ 『世説新語』賞誉篇 ^ 『晋書』王渾伝 ^ 斉の景公が孔子を上卿の季氏と下卿の孟氏の中間で処遇しようと発言した故事の引用。『論語』微子篇にみえる。 ^ 『世説新語』賢媛篇

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モンタナ州の歴史 – Wikipedia

モンタナ州の歴史(モンタナしゅうのれきし、英:History of Montana)では、主にアメリカ合衆国モンタナ州となった地域に、ヨーロッパ人が到着する前の先住民族時代からの歴史を概説する。 初期のモンタナ、ヨーロッパ人到着以前[編集] 1700年頃からモンタナの南中部やワイオミングの北部として知られる地域にはクロウ・インディアンが住んでいた。彼らがこの地域に到着する以前の100年間、五大湖地域からロッキー山脈北部(現在ではアルバータ州)、南はグレートソルト湖、東はグレートプレーンズの南、および最後にビッグホーン山脈とイエローストーン川へと回遊していた[1]。この地域はクロウ・インディアンの新しい故郷となり、現在でも住んでいる。しかし、クロウ・インディアンがこの地域に初めて住んだ住人という訳ではなかった。ビリングスの南6マイル (10 km)にあるピクトグラフ洞窟の壁画は、2,100年以上前にこの地域に人類がいたことを示している。クロウ族の真の名前はアプサールックであり、「大きな嘴を持つ鳥の人間(あるいは子供)」を意味している。クロウ族の伝統的な住居はバイソンの毛皮と木製柱でできたテントだった。彼らは最大級のテントを造ったことでも知られた。クロウ族は他の平原種族よりも多くの馬を所有していた。1914年、その馬群の数は3万から4万とされたが、1921年までに政府の撲滅努力のために1,000頭にまで減った。犬もたくさん持っており、500匹ないし600匹を数えた資料もある。他の種族とは異なり、犬を消費しなかった。クロー族は遊牧民でもあった。 シャイアン族はモンタナの南東部に居留地を持っていた。モンタナの北部シャイアン族はシャイアン語を話し、親戚である南部シャイアン族が話す言語とは一握りの語彙が異なるだけだった。シャイアン語はより大きなアルゴンキン語族の一部であり、音調の特徴を発展させてきた数少ない平原アルゴンキン語の一つである。言語学的にシャイアン語に近いものとしてはアラパホ族やオジブワ族(チペワ族)のものがある。16世紀より前のシャイアン族についてはほとんど何も知られていない。シャイアン族歴史の研究の大半は16世紀時点から始まっている。北部シャイアン族は1876年6月25日に起こったリトルビッグホーンの戦いに参加した。シャイアン族はラコタ族やアラパホ族の小さな部隊と共に、ジョージ・アームストロング・カスターとその第7騎兵隊分遣隊を全滅させた。 ブラックフット族、アシニボイン族およびグロヴァント族はモンタナの中部と北中部に居留地があった。居留地時代の前は、ブラックフット族が独立心が強く大変成功した戦士達であり、その領域は現在のカナダ、アルバータ州エドモントンのあるノースサスカチュワン川から、モンタナのイエローストーン川まで、またロッキー山脈からレジャイナを過ぎてサスカチュワン川まで拡がっていた。ブラックフット族は遊牧民であり、アメリカバイソンの群れを追った。その種族の存続のためには適切な場所と適切な時期が必要だった。1年のほぼ半分は北の長い冬であり、冬の宿営地は森林の多い川の流域にあり、恐らくは昼間に活動し、人や馬の食料あるいは薪が枯渇しない限り宿営地を動かさなかった。 アシニボイン族はオジブウェ語のアシニブワーン「石のスー」という名前でも知られ、北アメリカのグレートプレーンズ北部にその起源があり、具体的にカナダとアメリカ合衆国国境周辺の現在名ではモンタナ州とサスカチュワン州の一部、アルバータ州およびマニトバ州の南西部だった。彼らの存在は1700年代後半や1800年代初期の大半を通じて良く知られた。アシニボイン族の肖像画がカール・ボドマーやジョージ・カトリンのような19世紀の画家によって描かれた。その生活様式、言語および文化習慣においてラコタ・スー族と多くの点で類似しており、ナコダ族の1支流あるいはラコタ族中央部の1支流とも考えられている。アシニボイン族は17世紀に他のラコタ族から分かれたと信じられている。 グロヴァントル(フランス語で大きなベリー)族はモンタナの北中部に住むアメリカ・インディアン種族であり、アトシナ族としても知られるが、これは不正確で軽蔑的な名前と考えられている。現在の人口は3,682人であり、歴史的に敵対関係にあったアシニボイン族と共にベルクナップ砦インディアン居留地に住んでいる。グロヴァントルは、彼等の手話を誤解したフランス人によって付けられた名前である。グロヴァントル族はその代わりに自分達のことをエイアニあるいはエイアニニンと呼び、これは「白い粘土の人」を意味する。アラパホ族の1支流と考えられ、グロヴァントル語あるいはアトシナ語と呼ばれるアラパホ語の変化形を話す。 クーテネイ族およびサリシュ族は西部に住んでいる。クーテネイ(またはクテネイあるいはクツーナハ)族は北アメリカ土着の先住民族である。モンタナにおけるフラットヘッド民族のサリシュ族およびクーテネイ族連邦に属する3種族の1つである。ブリティッシュコロンビア州ではクツーナハ族を形成している。アメリカ合衆国のアイダホ州やワシントン州にも住んでいる。フラットヘッド・インディアン居留地にはビタールート・サリシュ族およびペンド・オレイル族も住んでいる。 小さな集団であるペンド・オレイル族やカリスペル族はそれぞれフラットヘッド湖や西部の山脈にも住んでいる。 ルイジアナ買収[編集] 1803年4月30日、パリでロバート・リビングストン、ジェームズ・モンローおよびバルベ・マルボアがルイジアナ買収条約に署名した。ジェファーソン大統領は7月4日にアメリカ市民に向けて条約について発表した。その買収地域には現在のモンタナ州の大半が含まれていた。 アメリカ合衆国上院は、10月20日に25対7という票決で条約を批准した。翌日、ジェファーソン大統領がその領土を所有し暫定的な軍政府を創ることを承認した。10月31日に法制化された法律で、連邦議会はフランスとスペインの支配下にあったときの地元文民政府が継続する一時的な制度を作り、大統領には秩序の維持のために軍隊を使うことを承認した。続いてフランスは12月20日にニューオーリンズをアメリカ合衆国に渡した。1804年3月10日、ルイジアナの領有権をフランスからアメリカ合衆国に移すための公式儀式がセントルイスで行われた。 ルイス・クラーク探検隊[編集] ルイジアナ買収は西海岸への拡張に関する興味に火を点けた。買収から数週間後、西部への拡張論者でもあったジェファーソン大統領は「有能な士官と10ないし12名の隊員を西の大洋まで探検させるために派遣する」目的で、議会に2,500ドルを充てさせた。彼等探検隊はインディアン種族、植物種、地質、西部の地勢と野生動物を調査研究すると共に、既にその地域に入っているイギリス人やフランス系カナダ人の猟師や罠師からの妨害の可能性も評価することとされた。 1806年7月3日、大陸分水界を越えた後で、ルイスがマリアス川を探検できるように遠征隊は2つのチームに分かれた。 ウィリアム・クラークはイエローストーン川を降った。ビリングスの北東25マイル

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軍事費 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “軍事費” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2015年12月) 出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2015年12月) 2014年に於ける世界の対GDP比に於ける軍事支出 2005年に於ける世界の軍事支出 軍事費(ぐんじひ、英: Military budget)または国防費(こくぼうひ、Defense budget)とは、軍隊や時には準軍事組織を含む国や地方単位での人件費、安全保障に関わる兵器など資材の調達・維持経費、それらを使って訓練や実際の作戦を行う経費、軍事政策や軍事作戦に関する各種の費用の総計である。世界全体の軍事費は2016年で約1兆6860億ドルと推計されている。トップのアメリカは約6110億ドルで世界全体の36%を占め、中国(約2150億ドル)、ロシア(約692億ドル)などが続く。日本は461億ドルで8位[1][2]。 日本では、自衛隊は自衛隊法により「自衛や治安維持のための必要最小限度の実力」という設立目的が定められていることから、自衛隊用語により「防衛費」と呼ばれる。 軍事費とは、ある国家から見て、戦争が起きていない時(=平時)においては、軍の維持費という性格を持ち、戦時においては戦費という性格を持っている。 軍事費は狭義には、陸軍・海軍・空軍の人件費(給料、採用の費用 等)、装備の維持や拡張などのための経費を指す。よっておおむね陸・海・空各軍の所管経費を合算したものを指す。広義には治安部隊や国境警備隊、沿岸警備隊(日本では海上保安庁)といった準軍事組織、軍事に活用できる技術の研究開発(R&D)投資なども含む。

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舘合駅 – Wikipedia

舘合駅(たてあいえき)は、秋田県平鹿郡雄物川町薄井中鳥屋場(開業時は旧・平鹿郡館合村薄井、現・横手市雄物川町薄井中鳥屋場)にあった羽後交通横荘線(旧・横荘鉄道)の駅(廃駅)である。横荘線の部分廃線に伴い1969年(昭和44年)1月16日に廃駅となった。 尚、駅名表記は「舘合」と「館合」が混在しているが、本項は羽後交通横荘線の研究書『RM LIBRARY 61 羽後交通横荘線』(著:若林宣、ネコ・パブリッシング、2004年9月発行)にて採用されている「舘合」にて記載する。 1919年(大正8年)7月15日 – 横荘鉄道沼館駅 – 当駅間延伸開通に伴い開業[1][2][3][4]。一般駅[4]。敷地の購入費は地元の素封家で横荘鉄道創設委員長の土田万助が寄付した[5]。 1920年(大正9年)3月24日 – 当駅 – 羽後大森駅間延伸開通に伴い中間駅となる[1][2][3][6]。 1944年(昭和19年)6月1日 – 鉄道会社名を羽後鉄道に改称。路線名を横荘線に制定。それに伴い羽後鉄道横荘線の駅となる[1][2][6]。 1947年(昭和22年) 7月23日

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ハノイ工科大学 – Wikipedia

ハノイ工科大学(ハノイこうかだいがく、英語名:Hanoi University of Science and Technology、ベトナム語:Trường Đại học Bách khoa Hà Nội / 場大學百科河內)は、ベトナムハノイにある国立大学。ハノイ工科大学 (HUST)はベトナムの最初の技術系総合大学であり、理科系で国1位という名門大学です。[1] この大学はAOTULEアジア太平洋トップ技術大学協会(Asia-Oceania Top University League on Engineering)のメンバーです。[2][3]

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網走番外地 北海篇 – Wikipedia

『網走番外地 北海篇』(あばしりばんがいち ほっかいへん)は、1965年の日本映画。主演:高倉健、監督:石井輝男、製作:東映。1965年度の配給収入第2位[1]。 『網走番外地』シリーズの第4作。主人公・橘真一が走らせるトラックに乗り込む男女達の悲喜劇を串団子方式に見せ場の連続で描く。ジョン・フォード監督『駅馬車』をベースとしている。石井輝男は後のインタビューで、伏線がキッチリと張られた大家のシナリオよりどこに行ってしまうか分からないシナリオのが好み、と語っており、当作品は典型的プログラムピクチャーでありながら石井の個性と嗜好があらわれている。 (この作品に限らず網走番外地シリーズにいえる事だが)主人公の橘は軽口を叩いてヘラヘラしていても、時としては真面目で強い芯を持っている事を示し、高倉健のフットワークの軽さが光る。そして新東宝時代からの石井作品の常連・嵐寛寿郎演ずる鬼寅をはじめ、田中邦衛・杉浦直樹・由利徹といった定番の脇役も、高倉を食ってしまうほど個性が光り、大原麗子は石井作品に於いて特徴的な勝気の女性キャラクターを演じている。 ストーリー[編集] 橘の仮出所が近づく網走刑務所で深夜、脱獄が発生した。脱獄したら何をしたいか熱心に語る雑居房仲間に、橘は網走じゃ脱獄したってすぐに死んじまうよと話す。11番と108番の「愛人関係」がこじれそうになる中、13番の葉山は結核を患っていた。翌日、労務作業中に、脱獄囚が浦上であると橘は知る。浦上は名うての脱獄囚であり、密告して自分を裏切った元相棒のいる網走刑務所にやってきて、殺害してから脱獄したのである。作業中、看守は葉山に何かとつらくあたった。橘は寝込んでしまった葉山を気遣い、特別食を食べさせようとする。炊事場では、炊事班長の強姦殺人犯・19番が威張り散らしていた。橘は19番に特別食を依頼するが断られ、揉め事が起きる。拳銃を橘に突きつけて仮出所を取り消すぞ、と威嚇する看守。看守は19番とつるんでいたのだ。そこに42番(死に番)の鬼寅があらわれる。庖丁と拳銃での対決を迫る鬼寅に、看守はすぐさま特別食を作らせるように19番に命ずる。こうして葉山に橘は特別食を持って帰ってきた。だが、食事時に入ってきた新入りの7番はオカマだった。108番との間でオカマ同士の意地の張り合いが始まった。そんなどさくさに紛れて、特別食は大槻の胃袋に収まった(翌朝、ひどい下痢に襲われた)。 いよいよ仮出所となった橘。当日の朝、橘は葉山から頼み事をされる。一つは、故郷で心配している母親に送金してほしい事。一つは、葉山の女房を寝盗った親分・大沢にケジメをつけてほしい事だった。葉山は橘に釧路の王子運送なる会社を教える。王子運送を訪ねた橘を、男勝りの社長の娘・弓子が出迎える。社長の志村を呼び出して詰問する橘だったが、前科持ちの志村は煮ても焼いても食えない人物。今金はないが、ペンケサップまでの特別便さえ運ぶことが出来れば破格の運び賃が入るという。が、がけ崩れのため鉄道が不通で、途中、道北一の難所を通らねばならず、引き受ける運転手がいないのだという。葉山の母に送金するため、橘は行き掛かりで特別便トラックの運転手を引き受けることにする。 翌日、ペンケサップを目指すおんぼろトラック。荷台には、曰くありげな依頼人の安川と金田の二人が正体不明の荷物と一緒に乗り込み、さらに、弓子までもがトラックに隠れて乗り込んでいた。最寄の町で弓子を降ろそうとする橘に、ギャングの正体を現した安川は拳銃を突きつけ、おとなしくペンケサップまで走らせろと脅す。再度目的地を目指すトラック。しばらくすると、雪道から男(浦上)が現れ、強引にトラックに乗り込んできた。 途中の集落で、橘は骨折した少女エミと母親の雪江を乗せる。集落には外科医がおらず、オプチョッカの病院まで連れて行ってほしいと駐在所の警官に頼まれたのだ。雪江は、普段は街の旅館で女中をしているという。浦上はこの親子に同情した様子で、金田の昼食用のサンドイッチをエミに食べさせてやる。やがて、トラックの前に故障したセダンが現れる。橘は車内を確かめるが誰も乗っていない。さらに周囲を捜して、森の中から睡眠薬自殺に失敗した貴子を発見する。その間に、安川によってトラックは橘を置き去りにして走り出してしまった。貴子は恋人と心中を図ったのだが、一緒に死んだはずの恋人はどこにもいなかった。男の裏切りに、すっかり自棄ばちになっている貴子。しばらくすると、しれっとして橘たちの前に金田が現れる。金田の下手糞な運転に、トラックが積雪に乗り上げてしまったのだ。怒った橘は金田と殴り合った。 弓子は、メモ用紙に悪党に誘拐された旨を書く。安川は弓子を押し倒そうとするが、逆に弓子に急所を蹴られてしまう。橘がトラックに着いた頃にはすっかり日が暮れてしまっていた。炭焼き小屋で一晩待つ事となった橘達。金田は、貴子を妙に丁重に扱い、気遣いを見せる。 翌朝、橘達は乗り上げたトラックを道路に戻す作業に取り掛かる。だが、金田の運転ミスによって、トラックは浦上を轢いてしまう。瀕死の浦上を、雪江は必死に介抱する。浦上は、自分が網走を脱獄した身であると橘に告げる。橘はそれに気づいていた。そして、俺に泣いてくれたのは実の母親と雪江だけだと語り、俺なんかに比べれば、あんたなんか全然ましな身の上だよと雪絵を励まし、息を引き取る。雪江は絶命した浦上に寄り添い、自分は旅館の女中ではなく売春婦であると明かして嗚咽する。橘達は、浦上の亡骸を遺言どおり、雪の中に埋めた。 トラックはオプチョッカに辿り着き、橘はエミと雪江を病院に送り届ける。弓子はメモ用紙の入った風船ガムの袋を待機していた警察官に渡そうとするが、安川に取り上げられてしまった。一方、橘は大沢の組へ向かう。橘はその貫禄で大沢の子分達を圧倒し、大沢に迫った。だが葉山の元女房は、義母の世話など真っ平ごめんと突っぱねる。橘は「渡世の仁義」として、子分の女房を寝盗った侘びに大沢に指を詰めさせた。そして、大沢の情婦となった葉山の元女房の髪をバッサリと切る。橘は貴子に、裏切る男もいれば嘘をつく女もいると諭す。恩を返したいという貴子に、網走刑務所に行って、葉山に元女房の髪を渡すように頼む橘。一方、金田は貴子が自殺した妹にそっくりだと身の上を明かし、真っ当に生きてくれと告げるのだった。 トラックは街を離れてペンケサップの山に入る。雪原で橘と弓子に積荷を降ろさせる安川。積荷は覚醒剤の材料の偽装であり、野外で覚醒剤の精製作業を行い、ヘリコプターの迎えでこれを手渡すのが、この特別便の目的だったのだ。精製作業を橘と弓子に手伝わせたあと、安川は用済みになった二人をブレーキの効かなくなったトラックごと始末しようとする。山の斜面を猛スピードで駆け降りていくトラック。だが、猟銃から放たれた数発の弾丸がトラックの暴走を食い止めた。命からがらトラックを降りた橘と弓子に、マタギ姿の男が近づいてきた。男は鬼寅だった。鬼寅もまた仮出所して、猟師になって隠遁生活をしていたのだ。 一方、安川と金田のもとには、デパートの垂れ幕でカモフラージュしたヘリコプターが飛来する。ヘリにはギャングの山上と子分達が乗り込んでいた。覚醒剤の取引のその時、橘と鬼寅達が現れた。銃撃する山上達に、鬼寅の猟銃が火を噴く。劣勢と見た安川に、足手まといだと金田は撃たれてしまう。鬼寅の猟銃は弾切れになったが、山上達から奪った拳銃で橘は安川や山上を撃つ。残党達はヘリで逃走しようとするが、橘は垂れ幕に必死にしがみ付く。不時着したヘリを、橘や鬼寅が強奪する。だが、橘、鬼寅、弓子、そしてヘリのパイロットである山上の子分では定員オーバーなのだ。橘はしばし悩む。そして、葉山の母親のところへ急がねば、とコックピットから大雪原に飛び降りる。 大雪原にぽっかりと開いた大穴。雪まみれになって這い上がってくる橘。「寒くなんかないよ!」橘は凍えながら大雪原を歩いていくのだった。 キャスト[編集] スタッフ[編集] 監督: 石井輝男

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重用区間 – Wikipedia

重用区間(じゅうようくかん)とは、道路が他路線と重複して供用されている区間のこと。道路法関連の公式文書では重複区間の用語も用いられる。 道路法で扱われる一般国道や都道府県道は、法律的には道路そのものを指すのではなく、単なる道路の路線(ルート)を指しているため、1本の道路の一部分が、ほかの国道や都道府県道の経路も兼ねている場合、複数の路線番号があっても問題ないものとして扱われる。例えば、道路の「総延長」は重用区間・未供用区間を含んだ延長を指し、「実延長」という場合は重用区間・未供用区間を含まない延長を言う。 一般に道路標識や地図などの案内では、1本の道路に国道の路線どうしが重複するときは番号が小さいほうの番号、あるいは、国道と県道の路線が重複するときは国道のほうが優先的に表示され、国道の大きい路線番号や県道の方は省略される。場所によっては両方の標識が串団子のように表示される。一部では「3段おにぎり[注釈 1]」となった標識もある。 一般国道の重用区間[編集] 日本の国土に張り巡らされている一般国道網は、山岳地域や市街地など、その地域の地勢によっては複数の一般国道の路線どうしが同じ経路を通らざるをえない場合があり、そのような場所を路線別に複数の並行するルートを作る必要はなく、また経済的にも合理的ではないため、同じ道路を複数の国道で共有している。一般国道459路線ごとの延長を合計した総延長は7万7257キロメートル (km) あり、実延長の合計6万7427 kmを差し引いた9830 kmが重用区間の延長、すなわち重用延長である。国道では、わずかな区間を他の国道路線と経路を共有していることがほとんどであるが、なかには延長の半分以上を他の国道と重複している路線がある[注釈 2]。 重用する路線の数は、必ずしも2本の路線とは限らず、3本や4本が重用している区間もある。その場所の自治体によっては路線番号ごとの国道標識を設置している場合もあるが、一般には路線番号が最も小さい路線の国道標識だけを設置しているところがほとんどである。 4本の国道が重用している場所の例 3本の国道が重用している場所の例 注釈[編集] ^ 国道の標識を、その形状から「おにぎり」と呼ぶことがある。 ^ 国道愛好家の間では、「寄生虫国道」と呼ばれたりしている。 出典[編集] 参考文献[編集] 関連項目[編集]

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ランディ・バース – Wikipedia

ランディ・バース(英語:Randy Bass、本名:ランディ・ウィリアム・バス、英語:Randy William Bass、1954年3月13日 – )は、アメリカ合衆国オクラホマ州ロートンの元プロ野球選手(内野手)、政治家。 1954年3月13日にオクラホマ州ロートンに誕生する。メジャーリーグベースボール(以下:MLB)でプレー後、1983年から1988年まで日本プロ野球機構(以下:NPB)の阪神タイガースでプレー。登録名は「バース」。背番号は44番。6シーズンに渡る在籍は、ウィリー・カークランド、マット・マートンと並び球団の歴代外国人野手としての史上最長記録である。NPBにおけるシーズン打率のNPB記録保持者(.389)であり、史上6人目の三冠王達成者。外国人選手ではNPB史上最多となる2度の三冠王に輝いている。現役引退後は2004年から2019年までオクラホマ州議会上院議員(民主党所属)を務めた。 MLB時代[編集] MLB時代はミネソタ・ツインズ、カンザスシティ・ロイヤルズ、モントリオール・エクスポズ、サンディエゴ・パドレス、テキサス・レンジャーズを転々としていた。 MLB時代はその長打力から「ニューヨークからロサンゼルスまで飛ばす男」と言われたこともあったが、実際の評価は「ウォーニングトラック・フライボールヒッター[注 1]」というものであり、加えて速球に弱いという弱点が重なりMLB通算本塁打は9本に終わっている[1]。また、幼少時に足を複雑骨折していたことから全力疾走ができない状態であり、守れないということでレギュラー獲得には至らなかった。エクスポズ時代のチームメイトには、後に読売ジャイアンツで活躍するウォーレン・クロマティがいた。 1982年のオフ、ハワイで開催されたウインターミーティングでは、阪神のほか阪急ブレーブス、ヤクルトスワローズなどNPBの複数の球団がバースに関心を寄せていた。当時ツインズのGMだったジャック・マキーオンがバースの代理人であったアラン・ミヤサンドに「ヤクルトを優先してほしい」と声を掛けてくれていた[注 2]こともあり、ヤクルトとしては改めてビデオを確認したうえで「日本では活躍できる」と確信し、契約寸前にまで至った。だが、守備難がネックで一塁しか守れなかったこと、当時のヤクルトの一塁には大杉勝男、杉浦享という強打者が二人おり被ってしまうため、当時の監督の武上四郎が急に難色を示しだし、結果的に大杉、杉浦を優先したことから合意には至らなかった[1]。ヤクルトが撤退し、最後は阪神と阪急との間で獲得競争となり、阪神の渉外担当藤江清志と阪急常務の矢形勝洋が契約金額を競り合ったが、ブーマー・ウェルズに着目した阪急は乗り換えて手を引いた[注 3]。 阪神タイガース時代[編集] 1982年12月18日に阪神への入団が正式に決まった。 1983年の阪神入団当初は藤田平が一塁手として多用されていたこともあり、右翼手として守備に就いていたが、上記の通り全力疾走できないことと、藤田の年齢による衰えから、後に一塁手に固定される。オープン戦での死球による左手首骨折の影響で開幕二軍スタートとなり、4月16日の開幕5戦目で代打として公式戦初出場[2]。しかし、一軍昇格後も不振が続き4月はノーヒットに終わり、開幕から15打席連続無安打と当時の球団ワーストを記録(2020年にジャスティン・ボーアが更新)するなど、シーズン序盤を出遅れた。5月4日の対巨人戦で初ヒットを打った後は徐々に調子を上げ、1年目から打率.288、35本塁打、82打点と長打力を見せつける。また、同年のシーズン終盤には25試合連続安打も記録しており、これは2001年に桧山進次郎が28試合で更新するまで球団記録であった。 この1983年に、バースはシーズン途中で解雇されていた可能性があった。前年後半にチームが大躍進したこともあり阪神ファンは優勝への期待を募らせていたが、4月を2位で終了したものの5月途中には3勝10敗と大きく負け越してしまう。調子の上がらないバースが不調の原因との批判も多く、同期入団でミートの上手いスティーブ・ストローターの方がNPBの野球に適合しているとの評価が高かった[注 4]。そんな中、先発投手陣が手薄な球団は投手のリチャード・オルセンの獲得に動く。当時の規定では外国人選手は1チーム3名までしか契約できなかったこともあり、既にキム・アレン、ストローター、バースの3人の野手と契約していた球団は、このうち誰か1人を解雇する必要に迫られた。アレンは残留となったが、あとはミートは上手いが怪我が重症であった[3]ストローターか、外角に落ちる変化球をことごとく空振りするなど調子の上がらなかったバースかの選択となったが、球団はパワーの他に態度・努力・人格を評価し、バースを残留させた。その期待通りバースは後半戦から一気に調子を上げた。 1984年は.326という高打率を挙げたものの、前年を下回る27本塁打に終わり、また夏場に負傷で離脱したことによりチーム全体の失速を招いてしまう。さらにオフに外野手の岡田を三塁に、三塁手の掛布を一塁にコンバートする案が持ち上がり、掛布と重複し守備力に難のあるバースを解雇するという情報が流れたが、翌年から監督に再任する吉田義男が球団に残留を強く進言、前述の掛布の一塁コンバート案も白紙となったことで、解雇を免れている。

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イプソス – Wikipedia

イプソスグループ(Ipsos Group SA、フランス語発音: [ip.sos])は[6]、フランス・パリに本社を置く多国籍市場調査コンサルティング会社。 1975年に会長兼CEOのディディエ・トルショーによって設立され、1999年7月1日にパリ証券取引所に上場した。1990年以降、数多くの企業を設立または買収し、企業集団を形成してきた。2011年10月、シノベイト(英語版)を買収し、世界第3位の調査会社イプソスグループが誕生した。2014年現在、88カ国にオフィスを構え、16,530人の従業員を擁している[7]。ニールセン、カンターに次ぐ、世界第3位の調査会社となっている。 日本法人(支社)はイプソス株式会社。1968年9月3日に設立された日本統計調査株式会社が2005年1月にIpsos日本統計調査株式会社に社名変更、2015年10月5日にイプソス株式会社に社名変更した。 フランスでの創業[編集] イプソスはフランス世論研究所(IFOP)やISOSでの勤務経験があるディディエ・トルショーによって1975年に設立された[8]。 トルショーは、広告会社やメディアにサービスを提供することに重点を置き、フランスで初めてキャンペーンが成功したかどうかを測定する方法を開発した。最初に考案されたの方法は、1977年、看板広告の効果を分析するための手段としてBAF(Baromètred’Affichage)だった。その後、メディアに特化した手法が導入され、1979年にはフランス人エグゼクティブの読書習慣を調べるためのFCA(France des Cadres Actifs)が導入された。 この成功にもかかわらず、同社の収益性は控えめなレベルにとどまっていた。ジャン・マルク・レッヒが共同会長に就任した頃から、フランス市場ではもう一つの革新的な活動である世論調査を開始。80年代末には、フランスで第5位のメディア・リサーチ会社となった。当時のフランスの政治家の活発の動きもあり、世論調査部門での地位が強化された[9]。 ヨーロッパでの事業拡大[編集] 1990年代、イプソスは主に買収によって、スペイン、イタリア、ドイツ、イギリス、またハンガリーをはじめとする中欧へと進出した。 1992年、購買資本の充実を図るため、民間投資に開放された。最初の新しい株主はBaring Private Equity(ベアリング・プライベート・エクイティ)だった。大株主であるトルショーとレッヒは、株式の3分の2を維持した[10]。 グローバル展開[編集] 1990年代半ば、イプソスはヨーロッパで最も重要な市場調査会社のひとつとなり、さらなるグローバル展開を決定した[8]。イプソスは、フランソワ・ピノー(フランス語版)率いるアルテミスグループと、ウォルター・バトラー(フランス語版)率いる投資ファンド、アムスターに会社の40%を売却、新たな投資先を得た。

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