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Month: January 2018

Fashionsnap.com – Wikipedia

Fashionsnap.comファッションスナップ・ドットコム URL www.fashionsnap.com 言語 日本語 タイプ ニュースサイト ジャンル ファッション 運営者 レコオーランド 設立者 光山玲央奈座間康平 アレクサランキング 16,180位(世界)817位(日本) 開始 2005年 Fashionsnap.com(ファッションスナップ・ドットコム)は、株式会社レコオーランドの運営によるウェブサイト。スナップ写真を中心としたファッション関連情報を主なコンテンツとしている[1]。 ともに1980年代生まれの光山玲央奈と座間康平が大学在学中の2005年[2]に創業[1]。運営主体にあたる株式会社レコオーランドの代表者を光山が、役員を座間が務めている[3]。 7人の記者で1日平均20本のニュースを配信[4]。各種大手ポータルサイトへのコンテンツ提供を行っている。2015年時点での配信先は、mixiニュース、エキサイトニュース、ライブドアニュース、Googleニュース、BIGLOBEニュース、アパレルウェブ、マピオンニュース、EZニュースEX、Yahoo!ニュースおよびAntennaとなっている[5]。

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将棋の渡辺くん – Wikipedia

『将棋の渡辺くん』(しょうぎのわたなべくん)は、伊奈めぐみによる日本の漫画作品。『別冊少年マガジン』(講談社)にて2013年6月号より連載中。 伊奈の夫である、将棋棋士の渡辺明の日常を主な題材とした実録漫画[1]。渡辺・伊奈夫妻とその長男の家庭での出来事や、一般人とは一風変わった将棋棋士の生活などを描いている。将棋を題材としているものの、実際の対局の棋譜などが登場することは少ない。原則として1話6ページ構成で、一エピソードは2~3ページにまとめられている。 1巻の印税は東日本大震災、2巻の印税は熊本地震の義援金として日本赤十字社へ寄付されていた(2021年3月31日まで)[2]。 2015年[3]と2019年[4]には『週刊少年マガジン』に出張掲載されたこともある。 執筆に至るまで[編集] 本作は、伊奈の漫画家としてのデビュー作である。そもそも伊奈は本連載の前まで漫画を描いたことがなく(ただし本人曰く「いたずら描き」レベルのイラストは時々描いており、渡辺の著書の挿絵を担当したこともある[5])、個人で運営していたブログ『妻の小言。』を見た講談社の編集者が連載を打診、急遽ミリペンやスクリーントーンの使い方を覚えて連載にこぎつけたという[6]。 結婚前後に美術大学(通信制)の油絵科に通っていたが、デッサンが苦手で卒業後は絵を描いていなかった。そのため、「美大に行っていたなら絵も描けるだろう」という別冊マガジン編集者の予想を裏切って、当初はまったく漫画が描けなかった。連載前に、月一でネームを編集者に見せていたが、30ページ中1ページしか「これなら使える」というレベルに達していなかったという[7]。 作品内容[編集] タイトルの『将棋の渡辺くん』について、作者の伊奈はタイトルが『将棋の渡辺くん』に決まった時、正直怪訝に思ったという。しかし、伊集院光さんのラジオで”構成の渡辺くん”という言葉を何度も聞いているうちに、『将棋の渡辺くん』でもいいかなと、ちょっとずつ思えるようになってきたと記述している[8]。 作中において、自宅のシーンでは渡辺一家の服装はほぼ固定されている(ただし渡辺の服装は現実の実態とあまり変わらないらしい)。伊奈の服の背中にはそのエピソード当時の彼女の年齢が数字で書かれていることが多い。 単行本では各話の間に「渡辺くん大長考」と題して、渡辺が読者からの質問に答えるQ&Aコーナーが挟まれる(雑誌掲載時に柱に掲載したものを別ページに分離して収録しているもの)。その中にはライトノベル作家の白鳥士郎が自著『りゅうおうのおしごと!』の取材目的も兼ねて寄せた質問が採用されたこともある[9]。 巻末には「この漫画はフィクションです」と書かれているが、作中で「95%は本当、残りの5%のフィクションはわかりやすくするため(例えば息子は現在眼鏡着用だが、連載開始時は着用していなかったため、4巻でも眼鏡なしで書かれている等)」とコメントされている。 登場人物[編集] 渡辺くん 将棋棋士の渡辺明その人。伊奈めぐみの夫である。初登場時は28歳。 棋士としてトップレベルの成績を維持しているのだが、その反面で干支を知らない、降雨の際、部屋が濡れないように洗濯物を外に干したまま窓を閉めるなど、はげしく一般常識に欠けていることが多い。研究熱心であり将棋の流行には非常に敏感だが、ファッション・映画・音楽などをはじめ、世間の流行には全くついていけていない。 ぬいぐるみ愛好家で、2巻の時点では自宅だけで大小合わせて43匹、実家も含めれば100匹以上もコレクションしている。それぞれの「ぬい」には設定が細かく決まっており、その設定はぬい同士で会話しながら決まっていく。妻との結婚前から、実家に「大きな動物のぬいぐるみ」を多数所有しており伊奈を困惑させていた。将棋は父親から、ぬいぐるみは母親からの影響とのこと。 かなりの漫画好きで、「人生の半分は漫画で学んだ」と言い切っている。本棚一面がほぼすべて漫画で埋め尽くされており、本作コミックス第1巻の時点で1282冊である。その一方で、将棋の研究についてはパソコンで行っているため、将棋関係の本は本棚に数冊しかない。 伊奈めぐみ 渡辺明の妻で、本作品の作者。初登場時は32歳で、将棋の腕はアマ初段。元女流育成会員、詰将棋作家。実兄は棋士の伊奈祐介。2004年4月、渡辺明が19歳のときに、当時23歳の伊奈めぐみと結婚し、同年7月に長男が生まれている。作中では、渡辺くんのボケに対するツッコミを担当している。

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宮澤栄一 – Wikipedia

宮澤 栄一(みやざわ えいいち、1972年7月19日 – )は、日本の実業家。株式会社デジタルハーツホールディングス創業者・取締役会長。 人物・来歴[編集] 栃木県河内郡上三川町出身[1]。1991年栃木県立真岡高等学校卒業後、宮澤商事に入社し、家業のパチンコ店経営に従事。しかし、経営不振から清算することとなり、1996年退社。その後、作詞家を志して東京都に出て、天誅参の主題歌「紅の華」、研ナオコ35周年記念曲などを手掛け、ゲーム会社でデバッグや攻略本製作のアルバイトをして生活していたが、2001年にフリーター仲間6人でデジタルハーツを設立し、同社代表取締役社長に就任。2006年デジタルハーツ代表取締役社長兼CEO。デバッグサービスの提供を行い、2008年に東京証券取引所マザーズに上場。2011年には東京証券取引所市場第一部へ市場変更を果たした。2013年持株会社のハーツユナイテッドグループ(のちのデジタルハーツホールディングス)を設立し、同社代表取締役社長CEOに就任。2014年企業家賞受賞[2][3][4][5][6][7]。2015年日本eスポーツ協会理事[8]。2017年デジタルハーツホールデングス取締役会長[2]。2019年内閣サイバーセキュリティ戦略本部員[9]。2020年上三川町自治功労者表彰(金品寄附)受賞[10]。 ^ 広報かみのかわ 上三川町 ^ a b 2020.06.23 有価証券報告書-第7期(平成31年4月1日-令和2年3月31日) デジタルハーツホールデングス ^ 従業員の半数がフリーターや引きこもり経験者、上場企業で起きた人材再生の奇跡 ダイヤモンドオンライン2017.12.14 5:08

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松恵山邦治 – Wikipedia

松恵山 邦治(まつえやま くにはる、1929年9月1日-2001年8月31日)は、立浪部屋に所属した元力士。本名は柏谷 邦治(かしわだに くにはる)。現在の宮崎県延岡市出身。身長168cm、体重102kg。最高位は東十両17枚目。得意技は右四つ、寄り。 1950年5月場所に初土俵、1955年3月場所に十両昇進。1957年5月場所に廃業した。引退後は故郷に帰ってちゃんこ料理店を開業した。2001年8月31日に死去、71歳没[1]。現在、宮崎県には松恵山の教え子が開いた松恵山相撲道場がある。また、佐渡ヶ嶽部屋に所属している琴恵光は孫であり、この道場の出身者である。 主な成績[編集] 通算成績:137勝104敗41休 勝率.568 十両成績:15勝19敗26休 勝率.441 現役在位:27場所 十両在位:4場所 場所別成績[編集] 松恵山 邦治 春場所 三月場所 夏場所 秋場所

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谷山–志村予想 – Wikipedia

原文と比べた結果、この記事には多数(少なくとも5個以上)の誤訳があることが判明しています。情報の利用には注意してください。正確な表現に改訳できる方を求めています。 数学において、谷山・志村予想(たにやましむらよそう、Taniyama–Shimura conjecture)は、「すべての有理数体上に定義された楕円曲線はモジュラーである」という主張であり、アンドリュー・ワイルズとその弟子クリストフ・ブロイル、ブライアン・コンラッド、フレッド・ダイアモンド、リチャード・テイラーらによって証明された。 今日ではモジュラー性定理またはモジュラリティ定理 (modularity theorem) と呼ばれ、数論における一つの帰結と考えられている。ワイルズは半安定楕円曲線における谷山・志村予想を証明することで、フェルマーの最終定理も証明した。 モジュラリティ定理は、ロバート・ラングランズによるより一般的な予想の特別な場合でもある。ラングランズ・プログラムは、保型形式、あるいは保型表現(適切なモジュラ形式の一般化)を、例えば数体上の任意の楕円曲線のような、より一般的な数論的代数幾何学の対象へ関連付けようとする。拡張された予想のうち、ほとんどのケースは未だ証明されていないが、Freitas, Le Hung & Siksek (2015) が実二次体上定義された楕円曲線がモジュラーであることを証明した。 谷山・志村予想の内容[編集] 谷山・志村予想とは、任意の Q 上の楕円曲線は、ある整数 N に対する古典的モジュラー曲線(英語版)(classical

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台北捷運環状線電車 – Wikipedia

このページ名「台北捷運環状線電車」は暫定的なものです。(2019年11月) 台北捷運環状線電車(たいほくしょううん かんじょうせんでんしゃ)は台湾で2020年1月31日の開業とともに[10]、台北捷運(北捷、台北MRT、台北メトロ)環状線で運行される通勤型電車。型式名は2019年現在で付与されていない[注釈 6]。 新竹県の台湾車輌本社工場で製造中の列車(2017年3月) 台北捷運では文湖線に次ぐ中運量規格(中量軌道輸送システム)の列車となる。 台北市政府捷運工程局が2009年に行った環状線第1段階の機電工程入札でイタリアのアンサルド・ブレーダ(AnsaldoBreda S.p.A.)がボンバルディア・トランスポーテーションを破って受注[11][7]。ブレーダの後身となる日立レールイタリア(HRI:Hitachi Rail Italy S.p.A.)が契約を継承し、全17編成のうち15編成は台湾車輌による国内生産となった[13]。 ブレーダおよびHRIの汎用型モデルで無人運転に対応した「ドライバーレス・メトロ」が採用されている。台湾では台湾鉄路管理局のEMU300型に次いでイタリア製としては2例目、日立ブランドとしては国内捷運系列車で初の採用例となる[注釈 7]。 2016年8月にカラブリア州にあるHRIレッジョ・ディ・カラブリア工場で第1編成が落成し出場式典が行われ同月末に台湾に向けて航送された[14](p72)[15]。同年11月に新北市新店区の南機廠(中国語版)に搬入され[16]、12月に車両公開と各種の構内試運転を[14](p74)[17]、2017年に本線上での試運転を開始した[18]。 2018年8月1日には全17編成が納入された[13]。 日立レールイタリアの工場で落成した車両(2016年)   公共芸術塗装版(手前) 台北捷運のVAL256や370型といった、ゴムタイヤ式を採用し車両間の通り抜けもできない従来の中運量タイプとは多くの点で設計仕様の見直しが図られ、貫通式連結路や鉄輪式など他路線の高運量タイプと同じコンセプトとなっている[19]。乗車定員は同じ中運量タイプながら輸送力の小ささで混雑が深刻な文湖線の456人より増えた650人。 台車は環状線の急曲線に対応するためコペンハーゲン地下鉄で導入された同じシリーズより軽量化が図られ最小曲線半径35メートルに対応した[9]。急曲線区間通過時の騒音を抑制するため車輪にゴム素材を挟んだ弾性車輪が採用されている。

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ラ・ボルド病院 – Wikipedia

ラ・ボルド病院(Clinique de La Borde)は、フランスのロワール=エ=シェール県のクール・シュヴェルニーの町の近郊に、1951年開院した精神病院である。 この病院は、今日精神病院という意味で使用されている「asylum」という語がもともと意味していた、「安全な場所、避難所、聖域」となることを目指して設立された。 今もなお診療中のラ・ボルドは「制度を使った精神療法」(制度的精神療法)の分野で、重要なモデルケースとなってきた。 ここは病院の機能を動かしていく上で患者たちが自身のできることでそれに参加する自由を与えられているという革新的な精神病院である。 この病院は、ラカン派の精神分析医のジャン・ウリによって開設された。彼は第二次大戦末期、有名なサン・アルバン精神病院での実験的な精神療法で貴重な研鑽を積み、制度を使った精神療法の運動を更に前進させようと考えた。 彼は、革新的な精神科医のポール・ヴァルヴェ(Paul Balvet)、リュシアン・ボナフェ(Lucien Bonnafé)、哲学者のジョルジュ・カンギレム、そして詩人のポール・エリュアールらから影響を受けた。 ウーリの病院での精神科の治療は、「患者」と「精神科医」の間の関係を捉え直すことを模索し続けてきた。 アイディアはドイツの精神科医で作業療法による積極的精神療法を推奨したヘルマン・ジモン(Hermann Simon、1867年 – 1947年)から借用してきた。彼は出来上がったものを探し、その上で患者を入院させるのではなく、逆に患者が働き、自分の創造性を発揮できるような状況を生み出して、彼らに率先して参加し、責任を与えるようにしようとしたのである。フランソワ・トスケル、ポール・ヴァルヴェ、アンドレ・ショーラン、そしてリュシアン・ボナフェから、病院は精神科の療法の発展の手がかりを得てきた。 なかでも「ケア、研究、そして形成」が、病院の全体的な歩みの中でひとつになっている。 1950年代の半ばからフェリックス・ガタリが、ラ・ボルドの象徴的なイメージになってきた。彼は診療と病院組織に革命を起こし、ウーリと手を携えて統合失調の診療と理論において膨大な理論的著作執筆し、ラ・ボルドの診療の責任者として、また1972年には哲学者のジル・ドゥルーズと組んで、『アンチ・オイディプス』を執筆した。[1] ラ・ボルドの数多くの特徴的なしきたりの中でも、毎年夏「境界例」の患者たちと病院スタッフが一緒に世界の古典的な作品の中から選んで演じるお芝居は、特筆すべきものである。ドキュメンタリ作家で、「ぼくの好きな先生」(Être et

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神武不殺の剣戟士 – Wikipedia

『神武不殺の剣戟士』(しんぶふさつのけんげきし)は、高瀬ききゆによるライトノベル。イラストは有坂あこ。単行本はエンターブレインから発売されている。第15回エンターブレインえんため大賞小説部門に「帝都剣戟モダニズム」というタイトルで特別賞を受賞。 あらすじ[編集] 剣術修行のために薩摩から出てきた悪党を自称する少年、清水龍人。新式蒸気機関により明治に続く2度目の近代化の世を謳歌する帝都オオエドにおいて、刀剣犯罪を取り締まる剣士を育成する帝都剣術学校に入学した龍人は、天才剣士として知られる星村千歳と出会う。しかも警邏中に殺人現場に居合わせたことで、帝都を騒がせる辻斬り犯「怪人赤マント」と間違われて彼女と闘う事に・・・。怪人赤マント事件をきっかけに、神武不殺を理想とする清水龍人の覚悟が試される。 登場人物[編集] 清水 龍人(しみず りゅうと) 主人公。帝剣1年生の自称悪党。薩摩の示現流で、愛刀は満鉄刀。 星村 千歳(ほしむら ちとせ) 帝剣1年生の美少女天才剣士。オオエド三大流派のひとつである北辰一刀流で、愛刀は源清麿。 花沢 錬次郎(はなざわ れんじろう) 女言葉で話す帝剣1年生。龍人のルームメイト。二天一流で、愛刀は4尺あまりの野太刀・長船長光。 藤堂 百合花(とうどう ゆりか) 帝剣1年生の優等生。愛刀はレイピア。筆記試験1位で入学し、生徒会役員を務める。

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星加要 – Wikipedia

星加 要(ほしか かなめ、1909年7月11日 – 1989年5月28日)は、昭和時代の労働運動家。国鉄労働組合(国労)書記長、副委員長。 愛媛県新居浜市生まれ[1]。高等小学校卒業後、鉄道教習所を経て[2]、四国鉄道局の運転局総務課に勤務[3]。1946年四国鉄道従業員連合組合(のち国鉄労働組合四国地方本部)の結成を主導[1]。1947年10月の国労第2回臨時大会で右派系執行部の提案(片山内閣の1800円ベース受諾)が否決され、執行部が総辞職、右派系代議員が退場して斉藤鉄郎議長が流会を宣言。11月に斉藤らと中心になって国鉄労組反共連盟(1948年3月国鉄労組民主化同盟に改称)を結成し[4][5]、民同運動の口火を切った[1]。民同派のリーダーとして共産党グループと国労の主導権を争い[2]、1948年3月から4月(第3回大会から第4回大会)、1948年9月から1949年4月(第5回臨時大会から第6回臨時大会)に書記長を務めた[4]。1949年7月行政機関職員定員法に基づき共産党系の役員が解雇され、民同派が被解雇者を組合役員に認めないとする「指令0号」を出した後、8月の成田中央委員会で書記長に復帰[6]。1950年7月の第8回大会から副委員長を務め[7]、国労の主導権を握った[1]。 1951年5月の国労中央闘争委員会で横山利秋企画部長が提案した平和四原則を盛り込んだ運動方針案が17対17、斉藤議長の一票行使で否決。星加が提案した「愛国労働運動」を主題とした運動方針案が17対17、斉藤議長の一票行使で可決された。しかし6月の第10回大会(新潟大会)では、岩井章ら民同左派によって横山案が可決され、星加案は113対292の大差で否決された[8]。同年9月1日に右派の斉藤鉄郎、加藤閲男、戸田芳夫らと国鉄労組民主化同盟(新生民同)を結成し、副幹事長に就任[9]。9月7日に加藤閲男、全繊同盟の滝田実、総同盟の松岡駒吉、古賀専らと民主労働運動研究会(民労研)を結成し[10][11]、幹事に就任[12]。同年10月の水戸中央委員会で革同系の相沢重明に敗れ、国労副委員長を退任[7]。1953年3月の第3回参議院議員通常選挙に香川県選挙区から右派社会党公認で立候補したが落選[13]。60年代以降は民社・同盟系の教育活動に従事[2]。富士政治大学校(富士社会教育センター)の初代総主事[14]。1974年時点で富士社会教育センター常務理事、富士政治大学校総主事[15]、1980年時点で富士社会教育センター参与を務めていた[16]。 星加が1951年の新潟大会に提出した運動方針案は、社会党・総評が決定した平和四原則を共産党の第五列と批判し、多数講和による日本の独立達成のための愛国労働運動、国連協力、国際自由労連加盟を主張するものだった。新潟大会で星加案は否決され、敗北した民同右派は新生民同を結成した。新生民同は1957年の新潟闘争を契機に結成された第二組合などと結びつき、1968年に結成された鉄道労働組合(鉄労)の源流となった。鉄労の結成大会には斉藤鉄郎、加藤閲男、星加要、片岡文重(元国労書記長)が来賓として招かれている[6]。 画家林武の弟子で、独立美術展にも入選するほどの腕前だった[17]。 『勞働組合側からみた公共企業体勞働關係法』(加藤閲男、菊川孝夫共著、中央法規出版、1949年) 『獨立後の勞働運動――國鐵新生民同の目標』(加藤閲男、戸田芳夫、竪山利忠共著、国鉄労組民主化同盟編、日刊労働通信社、1952年) 『鉄道労働組合史』(有賀宗吉共著、鉄道労働組合教宣局[通信教育講義録]、1973年) 『さらに前進するために――民主的労働運動の歩み』(富士社会教育センター出版局[富士選書]、1974年) ^ a b c d 高木郁朗「星加要」、朝日新聞社編『現代人物事典』朝日新聞社、1977年、1235頁 ^

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