Month: March 2019

田中久雄 (衆議院議員) – Wikipedia

田中 久雄(たなか ひさお、1905年(明治38年)12月18日 – 1981年(昭和56年)4月29日[1])は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 三重県出身[1]。1928年、関西大学専門部商業科を卒業[1][2]。 時事新報社横浜販売局長、鐘淵紡績東北販売店取締役店長、鐘淵盛岡産業監査役、仙台市繊維製品統制組合理事長、東海航空社長などを務めた[2]。 1946年4月、第22回衆議院議員総選挙に三重県から出馬し当選[2]。その後、第23回、第25回から第27回総選挙まで4回当選し、衆議院議員を通算五期務めた[1][2]。この間、第2次鳩山一郎内閣・防衛政務次官、改進党政策委員会文部々長、自由民主党青年局長などを歴任した[2]。 ^ a b c d 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』378頁。 ^ a b c

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フランツ・アプト – Wikipedia

フランツ・ヴィルヘルム・アプト(Franz Wilhelm Abt 1819年12月22日 – 1885年3月31日[1])は、ドイツの作曲家、合唱指揮者[2]。歌曲の分野におよそ3000曲の作品を遺した。中には一時世界中で歌われた楽曲もあり、人気の楽曲としてある程度定着した作品も存在する。生前、高名な合唱指揮者であったアプトは、人生最後の30年の大半をヨーロッパやアメリカ合衆国各地の合唱団に客演しながら過ごした。 プロイセン王国のアイレンブルク(英語版)生まれ。聖職者であった父はピアノが達者であり、幼い頃から音楽の才能を示した息子に最初の音楽の手ほどきを行ったのは父であった。父同様に音楽と神学の両方に興味を持ったアプトは、ライプツィヒのトーマス校とライプツィヒ大学において双方を探究しながら最終的には聖職者の道へ進もうと考えていた。在学中にはアルベルト・ロルツィング、フェリックス・メンデルスゾーン、ロベルト・シューマンらと親交を結んでいる[3]。 父が1837年にこの世を去ると、アプトは神学の道を捨てて音楽にのみ集中することにした。作曲と楽曲の出版を始めたのはこの頃のことであり、作品の大半はライプツィヒのサロン向けに書かれたピアノ曲であった。1841年にはベルンブルク(英語版)でカペルマイスターに就任するも同年内にチューリッヒへと移っており、そこでしばしば自作を指揮するなどして優れた合唱指揮者として高い人気を獲得した。チューリッヒでは市内で活動する膨大な数の合唱協会のほぼ全ての指揮者を歴任し、そうした団体に賞をもたらすことも度々あった。1852年にドイツへ戻ったアプトはブラウンシュヴァイクで宮廷劇場の音楽監督に任用され、1882年までこれを務めた[3]。 ブラウンシュヴァイクでのアプトは合唱指揮者としても健在であった。1855年に就任した宮廷チャペルの指揮者職は、その後長年にわたって務めている。他にも1850年代から1880年代にかけては、ヨーロッパの多くの主要都市から合唱指揮者として頻繁に招待を受けており、この時に国際的な名声を確立することとなった。1872年のアメリカツアーは特筆に値するもので、アプトは音楽評論家から、そして一般聴衆からも同じく圧倒的な熱狂に迎えられた。1882年になると、多忙なスケジュールに体を蝕まれた彼は職を辞してヴィースバーデンへと退かざるを得なくなっていた。アプトはそのまま1885年に同地で没している[3]。 アプトの作品は作品番号で600を超え、個別の楽曲としては3000曲以上を数える。専ら声楽作品を手掛ける中で、彼が作品数の不足を感じた男声合唱の分野にとりわけ多数の楽曲を遺している。事実、ドイツとスイスにおける最大の成功作は男声合唱のためのパートソングであった。また、アプトは無伴奏もしくはピアノや管弦楽伴奏付きの混声合唱作品でも成功を収めている。さらに多数の独唱用の歌曲に加え、多声部によるパートソング、及び子どものための歌曲にも複数の作品が遺されている[3]。 アプトの作風は安易な発想による雄弁さに背を向け、万人受けする喜ばしい形式に根差しつつも、深さや個性を装うということがなかった。その歌曲の多くは一時期は世界中で歌われ、人気の楽曲としてある程度の定位置を獲得している。簡素かつ旋律的な形式のため、『Wenn die Schwalben heimwärts ziehn』や『Die stille Wasserrose』のような一部のアプト作品は純粋な民謡であるとの誤解を受けやすい[3]。 アプトは他に3つのオペラ『Des Königs Scharfschütz』、『Die

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束 (束論) – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “束” 束論 – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2022年3月) 数学における束(そく、英語: lattice)は、任意の二元集合が一意的な上限(最小上界、二元の結びとも呼ばれる)および下限(最大下界、二元の交わりとも呼ばれる)を持つ半順序集合である。それと同時に、ある種の公理的恒等式を満足する代数的構造としても定義できる。二つの定義が同値であることにより、束論は順序集合と普遍代数学の双方の領域に属することとなる。さらに、半束 (semilattice) の概念は束の概念を含み、さらにハイティング代数やブール代数の概念も含む。これら束に関連する構造は全て順序集合としても代数系としても記述することができるという特徴を持つ。 「束」 (“lattice”) の名は、そのハッセ図が描く模様から示唆されてのものである[要出典]。ここに示した図は、四元集合 {1,2,3,4} の分割の成す束である。ただし、順序は「一方は他方の細分である」という関係を用いて入れる。 半順序集合として[編集] 半順序集合

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マッシモ・シガーラ – Wikipedia

マッシモ・シガーラ(Massimo Sigala、1951年1月7日[1] – )は、イタリアの元レーシングドライバー。同国のメッシーナ出身[1]。シガラと表記される場合もある。 目次 1 経歴 2 レース戦績 2.1 ル・マン24時間レース 3 脚注 3.1 出典 1976年にレースデビュー。イタリアのルノー・5カップに参戦。1978年にはシリーズチャンピオンを獲得した。その後もアルファロメオのワンメイク・レースで活躍する傍ら、スポーツカーレースにも80年代前半から参戦し始める。 ル・マン24時間レースにおいては、1983年に参戦を開始。マックス・コーエン・オリヴァーとオスカー・ララウリと組んだ。1984年からは、ブルン・モータースポーツより参戦。昨年組んだララウリとジョエル・グヒエと共に総合7位となった。以降もブルン・モーター・スポーツより毎年出場し、1988年には再び総合7位となっている。ル・マンには1995年まで参戦。合計7回の出場経験を持つ[2]。 セブリング12時間レースにも4度の出場経験を持ち、このうち、1991年と1992年は総合3位を獲得した。 レース戦績[編集] ル・マン24時間レース[編集]

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牛島閘門 – Wikipedia

牛島閘門(2016年9月撮影) 牛島閘門(うしじまこうもん)は、富山県富山市の富山駅北側付近から富山湾の河口まで南北に貫く、富岩(ふがん)運河最上流部(南端)の富岩運河環水公園(旧 船溜まり)内にある、現在も運用可能なパナマ運河方式の閘門で、国の登録有形文化財に登録されている。 総延長約5.1Kmの富岩運河中流域までほぼ並行して流れるいたち川と、運河最上流部(南端)の船溜まりを繋ぐ、長さ24.4mのパナマ運河方式の複扉室(ふくひしつ)閘門。扉体(ひたい)が木製の閘門で、いたち川側の標高約3.35m、富岩運河環水公園側標高約2.7mの約0.65mの水位を調整し、おもに川舟の往来を目的として、富岩運河の掘削、中流域にある中島閘門(国の重要文化財)と同時に着工し、1934年(昭和9年)8月に富岩運河、中島閘門と共に竣工した。 富岩運河は運河上流部沿岸の工場などへ原材料や資材・製品の運搬をする船を通すことで富山の工業発展に寄与したが、輸送手段が陸上運輸に取って変わり、近隣に住宅地が増え環境への配慮が必要になったことに加え、水質の悪化などにより周辺の工場の縮小や撤退が進み運河交通自体が衰退した。このため、運河は荒れた状態となり牛島閘門も老朽化し閘門扉を失った状態だったため、いたち川との接続部には水門を設け分水していた。 県は1979年(昭和54年)富岩運河を埋め立て道路を建設する計画を立ち上げたが、1984年(昭和59年)に方向を転換しこの水辺を生かした街づくりを目指し整備することになった。その後昭和60年代に入り新たな計画のもと、運河最上流部の船溜まり一帯は富岩運河環水公園として、上流から中流域の中島閘門までの沿岸は遊歩道などの整備が行なわれ、老朽化した牛島閘門は環水公園整備のため一旦取り壊し、その後閘室、扉体等の原形復元工事を行い、閘門扉は建設往時の木製扉に復元し2001年(平成13年)に環水公園内に完成、2002年(平成14年)6月25日には国の登録有形文化財に登録された。 施設並びに構造[編集] 牛島閘門水位計(2016年9月撮影) 閘門[編集] 閘門全長 24.4m。 閘室・扉室[編集] 閘室・扉室は長さ12.2m、幅4.5m、高さ3.25mで、閘門扉部分は石組み、その他は鉄筋コンクリートの併用で造られ、底面には竿で舟を進められるように千鳥配置に割り石を置き引っ掛るようにしてある。 閘門扉と通水口[編集] 扉体(ひたい)のゲート形式は上流側、下流側共、木製マイタゲート(合掌式ゲート)で、木製の閘門扉は現在では日本で数少ない珍しいものである。復元修理にあたりすでに閘門扉は現存しておらず、昭和初期の写真を参考にして往時の姿に復元している。 通水口は護岸にトンネルを設け注排水するものではなく、閘門扉に直接通水扉を設け注排水を行う。 水門[編集] 閘門といたち川との接続部の間にあるローラーゲート式の水門。閘門を通過するにはこの水門を開ける必要がある。 利用状況[編集] 牛島閘門は富岩運河環水公園の中にあり、常時見学可能である。また随時運用可能であるが現在はあまり利用されていない。また環水公園と運河中流域にある中島閘門に架かる中島橋で折り返す、緑地や桜並木がある片道約1.8kmの水辺の遊歩道が整備されており、富岩運河環水公園と共に散策路として市民に親しまれている。

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ジョナサン・ブッシュ – Wikipedia

ジョナサン・ジェームズ・ブッシュ(Jonathan James Bush, 1931年5月6日 – 2021年5月5日)は、アメリカ合衆国の銀行家である。上院議員のプレスコット・ブッシュとその妻ドロシー・ブッシュの三男である。兄は下院議員・CIA長官・副大統領・大統領のジョージ・H・W・ブッシュである。またテキサス州知事・大統領のジョージ・W・ブッシュとフロリダ州知事のジェブ・ブッシュの叔父にあたる。 生い立ちと家族[編集] コネチカット州グリニッジで政治家のプレスコット・シェルダン・ブッシュとドロシー・ウォーカー・ブッシュのあいだに生まれた[1]。彼はホチキス・スクール(英語版)とイェール大学を卒業した。大学時代はスカル・アンド・ボーンズに所属していた[2]:145, 179。5人きょうだいの4番目の子であり、兄はプレスコット・”プレッシー”・ブッシュ・ジュニア(Prescott “Pressy” Bush, Jr., 1922-2010年)と第41代アメリカ合衆国大統領のジョージ・H・W・ブッシュ(1924-2018年)、姉はナンシー・ブッシュ・エリス(1926-2021年)、弟はウィリアム・”バッキー”・ブッシュ(1938-2018)である。兄ジョージ・H・W・ブッシュの息子で第43代大統領のジョージ・W・ブッシュは甥にあたる。 ジョナサンとその妻エリスは元NBCの芸能リポーターのビリー・ブッシュ(英語版)とヘルスケア企業重役のジョナサン・S・ブッシュ(英語版)をもうけた[3] キャリア[編集] 2018年12月31日時点でブッシュはコネチカット州ニューヘイブンの投資顧問会社のフェアフィールド・ブッシュ&カンパニーを退職している[4]。 ブッシュはワシントンD.C.の外国政府大使館に銀行サービスを提供するJ・ブッシュ&カンパニーを設立した。1997年にJ・ブッシュ&カンパニーはリッグス銀行(英語版)に買収され、ブッシュはニューヘイブンに本拠を置く企業であるリッグス・インベストメントのCEO兼社長に就任した。 1980年代初頭にジョナサンは甥のジョージ・W・ブッシュの最初の石油ベンチャーであるアルブスト・エナジー(英語版)の投資家の組織家の組織化を支援した。 2000年アメリカ合衆国大統領選挙においては甥の宣共同への主要な貢献者として献金活動を行い、10万ドル以上を調達したことで「ブッシュ・パイオニア(英語版)」に選ばれた[5]。 論争[編集]

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ダラーウィーシュ国 – Wikipedia

ダラーウィーシュ国 (英語名:Dervish State) または、ダラーウィーシュ運動(Dervish movement)とは、1899年から1920年まで存在していた国で、厳正な階級制中央集権国家であった。現在のソマリランドや、エチオピア北東部に位置している。 ダラーウィーシュ国 (国旗) 1899年にハッサンは、キリスト教の追放、イギリス勢力の排除を目的とし、ダラーヴィーシュ国を建国した。 しかしその方針からキリスト教国のエチオピア、イタリアそしてイギリスとの関係が悪化した。そしてその結果対ダラーヴィーシュ連合軍が結成された。その後1900年の末、エチオピア皇帝メネリク2世はイギリスに働きかけ、共同でダラーヴィーシュを攻撃することを提案した。イギリスはそれに応じ、スワイン中佐(E.J. Swayne)にヨーロッパ人顧問20人とにソマリ兵1500を与え、1901年5月22日にイギリス領ソマリランド中部の町ブルコから出発した。エチオピアもそれに合わせて兵1万5千を送った。対するダラーヴィーシュ軍は兵力2万であり、その4割が騎兵だった。 1901年から1904年にかけてはダラーヴィーシュ軍が優勢で、イギリス軍とエチオピア軍、さらにはイタリア軍にまで大きな損害を与えた。これには、1900年から1902年にかけて、イギリスが南アフリカで第二次ボーア戦争を戦っていたために、ソマリアにまで手が回らなかったからという事情もある[1]。このような情勢のため、ムハンマドを宗教的な指導者とは認めなかった他のソマリ族も続々とムハンマドへの協力を表明した。 1904年1月9日にイギリスの将軍チャールズ・エガートン (Charles Egerton) がジダーリ平原にてダラーヴィーシュ軍7千を殺す勝利を収め、ムハンマドらはマジーティーン族の支配地に逃亡し、3月21日にイリグ(現エイル)に到着、以後数年間はここを拠点とした[2]。1910年頃には、ムハンマドの横暴に怒った600人が大木の下で密会の上、離脱する事件が起こっている。ムハンマドはこれに怒り「大木の下での密会(Anjeel tale waa)」と題する詩を作っている。しかしイギリスはムハンマドらに決定的なダメージを与えることはできず、ムハンマドらの本拠地であるヌガールを、イタリアの保護下に置かれることを条件に自治権を認め、イギリスとムハンマドは一時的に和解した。 しかし、1920年初頭、イギリス軍は無差別爆撃と[3]陸上攻撃でダラーヴィーシュを攻撃し、大勝利を得た。バハン、ジダリ(Jidali)、タレーなど各地で[2]ムハンマドらは大損害を受け、オガデンに逃亡し、オガデン族の協力を得ることで軍の建て直しを図った。イギリスは和平交渉のための使者団を派遣し、イギリス領ソマリランドの西部に土地を与えると持ちかけてきたが、ムハンマドはその提案を跳ね除け、帰路の使者団を襲わせさえした。 その後、オガデンの地を天然痘と牛疫が襲い、ダラーウィーシュの半数近くが被害を受けた。イギリスはその期を逃さず、ソマリア人ハージ・ワラーベ(Haaji Waraabe)らを派遣し、残りのダラーウィーシュを叩きのめした。ハージ・ワラーベはこの戦いで60,000匹の家畜を得たが、肝心のムハンマドは取り逃がした。ムハンマドは仲間と共にオロモ人の一族アルシ・オロモ (Arsi Oromo) が支配するエチオピアの地に逃げ込んだ。 1920年12月21日、指導者であったムハンマドは64歳で病死した。ムハンマドの死によりダラーウィーシュ国は崩壊した[1]。

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マクラーレン・MP4/7A – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “マクラーレン・MP4/7A” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2008年9月) マクラーレン・MP4/7A (McLaren MP4/7A) は、マクラーレンが1992年に投入したフォーミュラ1カーである。チーフデザイナーのニール・オートレイとエアロダイナミシストのアンリ・デュランが設計した。1992年シーズン第3戦ブラジルGPから最終戦まで実戦投入された。 シャーシ名称がMP4/7ではなくMP4/7Aとなったのは、当初より改良型Bスペックシャーシを投入する予定があったからである。マクラーレンはTAGエレクトロニクス製のアクティブサスペンションを搭載したMP4/7Bを準備しており、シーズン中のテストでも実際に走らせていたが熟成に手間取ったため、実戦投入は翌1993年のMP4/8に持ち越しとなった。 マクラーレンMP4シリーズはオス型成型のカーボンモノコックにアッパーカウルを被せる手法を継続してきたが、MP4/7Aではトレンドに従いメス型成型に変更された。曲線のついた細いノーズは控え目ながらハイノーズ化された。 ハイテク装備では、前年のMP4/6からテストしていたセミオートマチックトランスミッションを正式に採用。エンジンのスロットル制御は機械式に代わり電気式のドライブ・バイ・ワイヤを導入した。 ホンダ最後のV12エンジンとなったRA122E/Bエンジンは、シャーシー搭載時の空力性能を阻害しないフォルムを追求するためにオイルポンプなどの 補機類を全てエンジン前半部に配置し、エキゾーストマニホールドの拡幅を防ぎ、またテールパイプをエンジン付近に配置することで排気系レイアウトをコンパクトにした。 1992年シーズン[編集] 実戦投入までの経緯[編集]

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岐阜クエスト – Wikipedia

『岐阜クエスト』(ぎふクエスト)は、blazeworksが開発・配信するスマートフォン向けゲームアプリ[1]。基本プレイ無料[1]で、アイテム課金が存在する。内容は岐阜県内の全市町村を舞台として、仲間を集めながら魔物と戦うストーリーのロールプレイングゲーム[1]。ビジュアルはファミリーコンピュータを始めとしたいわゆる8ビットゲーム機で用いられた「ドット絵」で構成されている[1][2]。 またこのページでは、岐阜クエストの後に開発された他県を舞台としたゲームについても述べる。 ゲーム内容[編集] 突如現れた魔王によって滅ぼされた岐阜県を舞台としている[3]。妖精と自称するネコの姿をした謎の生物「みぃねこ[注 1]」によって岐阜県に召喚された主人公[注 2]が、みぃねこや各地にいる仲間[注 3]と共に岐阜県内の全42市町村を巡り、地元グルメ[注 4]を獲得したりクイズに答えたりしながら経験値である「ぎふりょく」を高めていき[1]、各地の敵や中ボスらを倒し、岐阜を奪おうとする魔王と対決する。また、岐阜県内のタレント[注 5]やマスコットキャラクター[注 6][3]、戦国武将[1][注 7]を仲間として集めていく。各地域の物語や伝統文化も盛り込まれている[7]。 開発の経緯・経過[編集] 開発者の女性は名古屋市出身だが[2]、岐阜県出身の男性と結婚[1]。岐阜について調べるうちに、岐阜を舞台にしたゲームを作りたいと思い立ち開発した[3]。2019年にはゲームへの登場などを特典としてクラウドファンディングで資金を募集[2]。2021年2月17日にリリースした[1][3]。リリース後も、仲間や魔物、やりこみコンテンツの追加や、ゲーム内でのイベント開催など、アップデートを行なっている[8][9]。 リリース2日後の2月19日にはApp Storeの無料ゲームで9位を獲得[10]。また、リリース前後には各種メディアに取り上げられた他[注 8]、山形新聞にも掲載された[14][15]。2021年5月27日までに8万ダウンロード[16]、同年7月27日までに10万ダウンロード[9]を突破している。 他県を舞台としたゲーム[編集] 岐阜クエストがリリースされた時点で、開発者は「47都道府県全てを冒険できるようにしたい」と述べており[16]、岐阜クエスト以降にも以下のゲームがリリース・開発されている。 三重クエスト[編集] 第2弾として三重クエスト[17]が2021年12月17日にリリースされた[18]。岐阜クエストと同様に、地元のキャラクターや歴史上の人物、特産品、グルメが登場する[注

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