ダアリタイ・オッチギン(モンゴル語: ᠪᠠᠷᠲᠠᠨ ᠪᠠᠭᠠᠲᠤᠷ/Da’aridai Otčigin/Даридай отчигин, 中国語: 答里台斡赤斤、生没年不詳)は、バルタン・バアトルの末子で、モンゴル帝国の創設者チンギス・カンの叔父。『元史』などの漢文史料では答里台/答里真、『集史』などのペルシア語史料ではداریتی اوتچگینDārītay Ūtchigīnと記される。「ダアリ(da’ari<daγari)」は「瘡」を意味し、「瘡を持つ者」といった意味の名前と考えられている。また、「オッチギン(Otčigin)」は「炉の主」を意味し、転じて「末子」を意味する名称である[1]。書籍によってはダリタイ、ダリダイ、ダーリタイとも表記される。 モンゴル部キヤト氏のバルタン・バアトルの息子として生まれ、兄にはモンゲトゥ・キヤン、ネクン・タイシ、イェスゲイ・バートルらがいた。ダアリタイが生まれた頃、モンゴル部では有力氏族間の抗争が悪化しており、「あまねきモンゴルのカン」を選出できない状態にあった。ダアリタイはキヤト氏の長として活躍する兄イェスゲイを補佐しており、『元朝秘史』によるとダアリタイはイェスゲイがホエルンを奪い取って妻とするのを手伝い、声を上げて泣くホエルンに 「 汝が抱ける[人]は多き嶺を越えたり/汝が泣ける[人]は多き川を渡りたり/叫ぶとも顧みざらん汝を/求むるとも道を得ざらん汝は 」 と語って慰めたという[2]。しかし後にイェスゲイがタタル部に謀殺されると、これが決定打となってキヤト氏は離散してしまった。 後にイェスゲイの長子でダアリタイの甥であるテムジン(後のチンギス・カン)が成長しかつての民を取り戻すと、ダアリタイらキヤト氏の有力者はテムジンを推戴してモンゴルのカンとした(第一次即位)[3]。この頃のチンギス・カンの勢力は「十三翼」によって構成されていたと記録されており、ダアリタイはこの内第9翼を率いていた。『集史』や『聖武親征録』によると、第9翼はダアリタイとネクン・タイシの息子クチャル(ダアリタイの甥、チンギス・カンの従兄)の二人に率いられており、その配下の部族にはニルン(純モンゴル)のドゥグラト(朶忽蘭/دوقلاتDūqlāt)、ドルルキン(隷属民)のネクズ(捏古思/نکوزNakūz)、クルカン(火魯罕/قورقاتQūrqān)、サカイト(撒合夷/سقایتSaqāīt)、ヌンジン(嫩真/ننجینNunjīn)といった遊牧集団が存在していた[4][5]。 しかし従来の氏族的紐帯を重視する社会体制を解体し絶対的な権力を確立しようとするチンギス・カンとダアリタイらキヤト氏の長はやがて対立するようになった。『元朝秘史』はこのような対立の象徴的な事件として、1202年タタル部を討伐した際にチンギス・カンの定めた軍法を破ってダアリタイらが自分勝手に掠奪を行い、チンギス・カンに叱責を受けた一件を記している[6]。この一件を切っ掛けとして、チンギス・カンから自分勝手な掠奪を責められたダアリタイ、アルタン、クチャルらはチンギス・カンの下を去り、ケレイト部のオン・カンに仕えるようになった[7]。ダアリタイらはオン・カンと協力してチンギス・カンと闘ったが、やがてオン・カンとも対立するようになり独立したが、結局は仲間割れにより衰退しチンギス・カンに降伏せざるを得なくなった。 ダアリタイの末路について『元朝秘史』と『集史』の記述は異なっており、『集史』が降伏したダアリタイはチンギス・カンの命によって処刑されたと伝える一方、『元朝秘史』はチンギス・カンは一度はダアリタイを処刑しようとしたがボオルチュ、ムカリ、シギ・クトクの3人に説得されて処刑をとりやめたと伝えている。『元朝秘史』は『集史』に比べて物語性が強く、チンギス・カンの事跡を美化する傾向にあるため、実際には『集史』の記すようにダアリタイはチンギス・カンの命によって処刑されたのが事実であると考えられている。また、『集史』はダアリタイの処刑と同時にダアリタイ配下の遊牧民及びその嫡子タイナル・イェイェはカチウンの息子アルチダイに与えられ、その隷属民になったと記している。 キヤト氏系図[編集] トンビナイ・セチェン(Tumbinai Sečen,秘史:屯必乃薛禅/元史:敦必乃/集史:تومبن
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