ヘンリー・タフトン (第11代サネット伯爵) – Wikipedia

第11代サネット伯爵ヘンリー・タフトン(英語: Henry Tufton, 11th Earl of Thanet、1775年1月2日 – 1849年6月12日)は、イギリスの貴族、政治家。

第9代サネット伯爵サックヴィル・タフトンとメアリー・サックヴィル(Mary Sackville、1746年4月1日 – 1778年9月30日、ジョン・フィリップ・サックヴィル英語版の娘)の四男として、1775年1月2日に生まれた[1]。1786年[2] にウェストミンスター・スクールで教育を受けた後、アンジェの軍事学校に入学、1790年には第26歩兵連隊英語版の士官になり、1793年に大尉に昇進[1]、以降1826年まで半給の軍人として過ごした[2]

1796年イギリス総選挙でホイッグ党の一員としてロチェスター選挙区英語版から出馬、186票で2位当選を果たした[3]。議会で演説した記録はなかったが、投票の記録はあり、1800年以降は常に野党の一員として投票した[2]。1802年イギリス総選挙では再選を目指さず[2]、同年にアミアンの和約が締結されると「熱烈なボナパルティストとジャコバン派」としてフランスに渡ったが[4]、1813年に一時ヴェルダンで抑留されたという[1]

1825年に長兄サックヴィルが死去すると、その遺産の一部を継承し、翌年の総選挙で兄チャールズの支持を受けてアップルビー選挙区英語版で当選した[4]。2度目の議員就任の後も議会で演説した記録はなかったが、たびたび野党の一員として投票したためウェリントン=ピール内閣英語版には敵視された[4]。1832年4月20日に兄チャールズが死去すると、サネット伯爵の爵位とウェストモーランド州長官英語版の官職を継承した[4]。1841年から1846年までケント統監英語版を務めた[1]

1849年6月12日に生涯未婚のまま死去、爵位は全て断絶した[1]。遺言状に基づき、庶子リチャードがケントにある6万エーカーの領地のうち4万エーカーを継承した[4]

生涯未婚だったが[1]、ジュリー・デュリユー(Julie Durieux)との間で庶子リチャード(1813年 – 1871年、フランス生まれ)をもうけた[4]。リチャードは1849年8月1日に議会の議決を受けてイギリスに帰化、1851年1月16日に準男爵英語版に叙された[4]

サネット伯爵 (初代-第11代) 系譜図

  1. ^ a b c d e f Cokayne, George Edward, ed. (1896). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (S to T) (英語). 7 (1st ed.). London: George Bell & Sons. pp. 389–390.
  2. ^ a b c d Thorne, R. G. (1986). “TUFTON, Hon. Henry (1775-1849).”. In Thorne, R. G. (ed.). The House of Commons 1790-1820 (英語). The History of Parliament Trust. 2019年10月12日閲覧
  3. ^ Thorne, R. G. (1986). “Rochester”. In Thorne, R. G. (ed.). The House of Commons 1790-1820 (英語). The History of Parliament Trust. 2019年10月12日閲覧
  4. ^ a b c d e f g Escott, Margaret (2009). “TUFTON, Hon. Henry (1775-1849).”. In Fisher, David (ed.). The House of Commons 1820-1832 (英語). The History of Parliament Trust. 2019年10月12日閲覧