呉 (姓) – Wikipedia

(ご、くれ)は、漢姓の一つ。

(ご)は中華圏の代表的な姓の一つで、2007年の統計によると、中華人民共和国で9番目に多い姓であった[1]

北方語では「ウー」、閩南語では「ゴ」または「ゴー」、広東語では「ン」(ローマ字ではNg)のように仮名表記されることが多い。発音が近い「武」「中国語版」などと区別するために、「口に天の呉」と呼ぶことが多い。

著名な人物[編集]

架空の人名[編集]

(オ)は、朝鮮人の姓の一つである。

著名な人物[編集]

氏族[編集]

文献には210本の本貫が伝わる。海州呉氏、宝城呉氏、同福呉氏の3本が呉氏人口の90%以上を占める。

ベトナム[編集]

呉(ゴ、ンゴ)は、ベトナムの姓の一つ。

著名な人物[編集]

(くれ、ご)は、日本の姓・氏族の一つ。「くれ」とも表記されることがあった。

呉氏の由来について『姓氏家系大辞典』の説明によると、飛鳥時代から奈良時代後期の日本は、多くの場合中国の南朝と交流していた。その南朝の支配地域が三国呉の故地だったため、「くれ」の音に当てて「呉」の字を使用したとされる。そして、中国から日本に移住してきた氏族であること、その移住者が住んでいたことから生じた地名を氏としたこと、中国に使者として赴いたこと、などの理由から呉という氏がはじまったとされる。

呉勝[編集]

呉勝くれ の すぐりは、「呉」を氏の名とする氏族。渡来系氏族である。

『播磨国風土記』、揖保郡大田里条に「大田と称するゆえんは、昔・呉勝・韓国より渡り来たり、はじめて紀伊国名草郡大田村にいたり、その後、分かれ来て、移りて摂津国三島加美郡大田村に遷り来る。これ本の紀伊国なる大田をもって名となすなり」とあり。紀伊国、摂津国、播磨国に姓を勝とする呉氏が住んでいたことが記されている。

呉公[編集]

呉公くれ の きみは、「呉」を氏の名とする氏族。

この氏族については『新撰姓氏録』の「山城国、神別」に「天相命十三世孫・雷大臣命の後なり」と収録されている。雷大臣命いかつおみ中臣烏賊津なかとみのいかつおみのことであり、この呉氏は中臣氏の一族であるといえる。

吉士族の呉氏[編集]

吉士族の呉氏は、「呉」を氏の名とする氏族。遣唐使を務めた吉士長丹きし の ながにからはじまる呉氏である。

『日本書紀』白雉5年(654年)7月条に「西海使吉士長丹等、百済・新羅の送使とともに、筑紫に泊す。」「この月、西海使等が、唐国の天子に奉対して、多くの文書・宝物を得たるを褒美して、小山上大使・吉士長丹に小華下をもってして、封二百戸を賜い、姓を賜いて呉氏となす」と記されている。

百済渡来人の呉氏[編集]

百済渡来人の呉氏は、「呉」を氏の名とする氏族。百済から来た渡来系氏族である。

この氏族については『新撰姓氏録』の「未定雑姓、右京」に「呉氏、百済国人徳率呉伎側の後と云えり、見えず」と収録されている。

呉人裔の呉氏[編集]

渡来系氏族と思われる呉氏である。

この氏族の人物として、奈良時代の医術家・呉粛胡明ごしゅく こめいがあげられる。呉粛胡明の名前は『続日本紀』養老5年(721年)正月紀に「従五位下呉粛胡明」、神亀元年(724年)5月紀に「従五位下呉粛胡明に姓を御立連と賜う」と記述されている。『姓氏家系大辞典』では、「呉粛」の「呉」は国名を指し、氏は「粛」ではないかと推測している。

その他の呉氏[編集]

『正倉院文書』、天平20年(748年)4月25日の写書所解(案)申願出家人事などに、右京六条三坊の人「呉金万呂」の名前がある。また『撰解文集』に「呉公員」という名が見える。
呉浦(現在の広島県呉市)の開発領主は呉氏であった。

著名な人物[編集]

  • 呉文聰 – 統計学者。呉黄石(山田黄石)の次男、箕作阮甫の外孫。
  • 呉秀三 – 医学者。呉黄石の三男、呉文聰の弟。
  • 呉建 – 医学者。呉文聰の長男。
  • 呉文炳 – 経済学者。呉文聰の四男。
  • 呉茂一 – 西洋古典学者。呉秀三の長男。
  • 呉智英 – 評論家。「呉智英」はペンネームで、本名は新崎智。
  • 呉由姫 – 漫画家。

参考文献[編集]

関連項目[編集]