福地城 – Wikipedia
福地城 |
|
---|---|
福地城主郭虎口 |
|
別名 | 福地氏城 |
城郭構造 | 丘城、城館 |
築城主 | 福地氏 |
主な改修者 | 福地宗隆(福地伊予) |
主な城主 | 福地氏、池尻氏[1] |
廃城年 | 天正10年6月(1582年6月) |
遺構 | 主郭、大手門礎石、土塁、石塁、空堀、石組井戸、石列、土壇、階段 |
指定文化財 | なし |
再建造物 | なし |
位置 |
福地城(ふくちじょう)は、三重県伊賀市柘植字浦出にあった丘城・城館。
城主[編集]
城主の福地氏は、平清盛の末裔を称した土豪で[2]、柘植の有力な国人「柘植三方(日置氏・北村氏・福地氏)[3]」を構成した氏族[4]。祈願寺は長福寺(現・万寿寺)と推定され、本尊の地蔵菩薩像の内部から発見された南北朝時代の文書に「ふくちの御てら」とある[5]。この文書には「やなき」という女性から「ふくちの御てらの了賢房」へ宛てた書状が含まれるが、了賢房はやなきの子で、いずれも福地氏の一族と推定される[6]。福地氏は正長2年(1429年)に室町幕府から関氏の討伐を命じられており、この頃既に柘植を代表する国人に成長していたことが確認できる[4]。天正9年(1581年)に織田信雄が伊賀国を攻めた天正伊賀の乱では、福地宗隆が織田方に味方して勢力を拡大した[2]が、天正10年6月(1582年6月)に織田信長が没する(本能寺の変)と、伊賀衆の残党に裏切り者として攻められ、国外へ逃亡した[2][4]。菊岡如幻の著した『伊水温故』は、福地氏の戦国時代の所領を1000石程としている。
構造[編集]
丘陵頂上の城郭と丘陵の裾の城郭に大きく分けられ、前者は詰城・後者は居館と推定される[7]。大手門は石垣を用い、礎石の遺構から門扉の存在が確認される[7]。大手門の両側には高さ3.5-4.8メートルの土塁があり、櫓の遺構と推測されている[7]。丘陵頂上には11以上の郭が確認され、同心円状に配置されている[7]。
現在、城跡は芭蕉公園として整備され、「伊賀の小屋組みの家」という懐石料理屋が営業している。
出土物[編集]
[7]
- 鍋
- 羽釜
- 皿
- 香炉
- 白磁碗
- 染付椀
- 染付皿
- 天目茶碗
- 捏鉢
- 摺鉢
- 深鉢
- 壺
- 甕
- ^ 『伊賀市史』819P
- ^ a b c 伊賀流忍者博物館 忍者関連施設・史跡(閲覧:2016/06/24)
- ^ 『伊賀市史』751P
- ^ a b c 『伊賀市史』667P
- ^ 『伊賀市史』485P
- ^ 『伊賀市史』674P
- ^ a b c d e 三重県教育委員会福地城発掘調査報告書(1982)
外部リンク[編集]
ウィキメディア・コモンズには、福地城に関するカテゴリがあります。
Recent Comments