近藤義之 – Wikipedia

近藤 義之
基本情報
国籍 日本
出身地 神奈川県川崎市中原区
生年月日 (1953-01-01) 1953年1月1日(69歳)
身長
体重
175 cm
68 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 投手、野手
プロ入り 1967年 ドラフト外
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
  • 川崎市立中原中学校
  • 近鉄バファローズ (1968 – 1971)
  • 南海ホークス (1972)

近藤 義之(こんどう よしゆき、1953年1月1日 – )は、神奈川県川崎市出身の元プロ野球選手(投手、野手)。左投左打。

川崎市立中原中学校を卒業後、1967年夏に行われた近鉄バファローズのテストに合格し、ドラフト外で入団した。この年、近鉄はスカウト制度を廃止し、仙台、東京、名古屋、中国、九州に情報提供者を置き、そこからの情報を元に新人選手を獲得する試みをした。更に当時の球団社長だった芥田武夫は「どうしてもプロ野球でやりたいという強い意志と素質のある選手」に狙いをつけて日本球界で初の三軍構想を練った[1]。8月25日に藤井寺球場等で新人公募テストが行われ、98人の受験者から近藤、釜野照義、東新昇、原野一博の4人が最終合格し、入団に漕ぎ着けた[1]

しかし、近鉄在籍3年間で一度も一軍に上がる事は出来なかった。また大阪府立天王寺高等学校定時制に入学して、野球と学業の両立を目指すも中退した。1971年11月26日に南海ホークスにトレードされて野手転向も図るが、南海でも一軍出場は果たせず、1972年オフに引退した。引退後は、実家に戻り石油販売会社員として働いていた。

近藤の入団については2点の特筆部分があり、一つは15歳でシーズン1年目を迎えた事である。日本プロ野球界では最年少記録であり、近藤の他には1936年に名古屋軍(現・中日ドラゴンズ)にテスト入団した西沢道夫と2004年のドラフト会議で阪神タイガースに8巡目指名された辻本賢人しかいない記録である[2]。もう一つは、1965年のドラフト制導入後において数少ない、最終学歴が中卒の選手と言う事である[3]。近藤の他には上森合直幸(1972年〜1976年にロッテの投手として在籍)と稲垣秀次(1983年〜1989年に巨人に野手として在籍)の2人がいるのみである。なお、この3人の内、先述の通り近藤が最も若くしてプロ入りした。

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

  • 一軍公式戦出場なし

背番号[編集]

  • 71 (1968年 – 1970年)
  • 81 (1971年)
  • 43 (1972年)
  1. ^ a b 三軍にも歴史があるああだこうだと好き放題書くブログ。2015年1月16日記事。
  2. ^ 15歳の辻本賢人、「虎風荘」へAsahi.com、2004年11月18日記事。
  3. ^ 高校中退の選手には、辻本やドラフト外入団した新浦壽夫(巨人など)、松永浩美(阪急など)。また大リーグから日本プロ野球に入ったマック鈴木(オリックスなど)等がいる。また先述の西沢は、旧制小学校(品川区立第二日野高等小学校)卒業後にプロ入りしたが、プロ在籍中に旧制鹿児島総合中、日本大学に在籍した。

関連項目[編集]

  • 神奈川県出身の人物一覧
  • 大阪近鉄バファローズの選手一覧
  • 福岡ソフトバンクホークスの選手一覧