テイン・セイン – Wikipedia

テイン・セイン(ビルマ語: သိန်းစိန်Thein SeinALA-LC翻字法: Sinʻ” Cinʻ、IPA: /t̪éʲn sèʲN/1944年4月20日[要出典] – )は、ミャンマーの政治家、同国大統領(軍事政権後初代・国家元首通算第10代)、連邦団結発展党党首を歴任した。軍事政権内での序列は4位であった[1]。同国首相などを歴任。

就任時の階級は中将、後に政党結党前に軍籍を離れる[2]。民族的には華人であり、中国語名は登盛(簡体字:登盛)。

  • 三角軍区司令
  • 2003年 – 国家平和発展委員会副秘書長
  • 2004年 – 国家平和発展委員会第一秘書長
  • 2007年5月 – 中旬より、病気療養中のソー・ウィンの首相代行
  • 2007年10月24日 – ソー・ウィンの死を受け、正式に首相就任の布告がなされた
  • 2010年4月26日 – 軍籍を離脱し、29日に連邦団結発展党を結成
  • 2010年11月7日 – 2010年ミャンマー総選挙で当選を果たす
  • 2011年2月4日 – 大統領に選出
  • 2011年3月30日 – 大統領に就任、ポスト廃止に伴い首相を退任
  • 2016年3月30日 – 大統領を退任。
  • 2016年4月2日 – 仏門に入ったことを公表[3]
  • 2016年4月22日 – 連邦団結発展党党首に復帰すると共に、トゥラ・シュエ・マン前下院議長を含む17人を党から除名[4]
オバマと会談するセイン(2012年11月18日)

貧しい家庭の出身であり、18歳で国軍士官学校に入った[5]

他の軍高官とは違い、利権や汚職などのスキャンダルに見舞われず、国民にはクリーンなイメージを持たれているとされる[6]。また野心がなく、上官の命令に逆らうことはない官吏タイプとも評されている[6]。このためタン・シュエの信頼が厚く[6]、「忠実な部下」「典型的なイエスマン」[7]とも評される。他、タン・シュエの後に大統領として指名されたのは、タン・シュエ自身が引退後に、「自らの安全」も考慮した結果ともされる[5]

軍出身ではあるが基盤がなく、このため大統領就任前にはタン・シュエの意向に沿った政権運営がなされるとの指摘もあった[8]。しかし、就任後はアウンサンスーチーの政治活動を容認するなど、民主化に一定の寄与をしていることも事実であり、タン・シュエが保守派と言われるのに対し、テイン・セインは改革派と称されることもある[9]。朝日新聞とのインタビューでは、民主化の必要性を認識したうえで、民政移管に向けて道路や教育施設といったインフラストラクチャーや法制度を軍政下で整備してきたと述べた。任期中、タン・シュエ前議長は「何の影響力もありませんでした」とも語っている[10]。2015年に中国で行われた中国人民抗日戦争・世界反ファシズム戦争勝利70周年記念式典に出席した。

アウンサンスーチー以外の政治犯も釈放しており、メディアの自由化の促進、国民の人権を脅かす法律の廃止なども実施している。特にミャンマー最大の反政府武装組織カレン民族同盟と停戦合意にこぎつけるなど、様々な改革を実行している。これらの改革は諸外国にも歓迎されており、これまで敵対的だった西側諸国との関係が改善している。2011年12月にはヒラリー・クリントン国務長官が、2012年11月にはバラク・オバマ大統領がミャンマーを訪問している[11]。2012年4月には第4回日本・メコン地域諸国首脳会議に出席するため来日し、当時の野田佳彦内閣総理大臣と会談している[12]。2013年5月20日にはミャンマーの国家最高指導者としては1966年以来47年ぶりに訪米し、ホワイトハウスでバラク・オバマ大統領と首脳会談を行った[13]

健康問題[編集]

心臓病のため、心臓ペースメーカーを使用している[14]

誕生日について[編集]

2015年の毎日新聞の報道によると、ミャンマーにおいては占星術と結びついた呪術に使われるのを避けるため、テイン・セインに限らず要人は正確な誕生日を公表しないという[15]。記事では関係者への取材から、実際にテイン・セインが生まれたのは1944年の可能性が高いと述べ、ある占星術師は1944年5月の金曜日の生まれと明かしたと記載されている[15]