Month: March 2019

ドレッドノータス (競走馬) – Wikipedia

ドレッドノータス(英: Dreadnoughtus[1])は、日本の競走馬。主な勝ち鞍は2019年の京都大賞典(GII)、2015年の京都2歳ステークス(GIII)。馬名の意味は「世界最大の恐竜名」[2]。 2013年3月9日に北海道安平町のノーザンファームで誕生。一口馬主法人「キャロットクラブ」より総額5000万円(1口12.5万円×400口)で募集され[3]、ノーザンファーム空港牧場で育成された。育成中は精神面に幼さが見られ、馴致などでスタッフの手を煩わせることがあった。半兄ディアデルレイ、全兄サンマルティンよりも小柄だったが、成長に合わせてじっくりと育成され、2歳夏頃に劇的な良化を見せた[4]。 栗東・矢作芳人厩舎に入厩し、2015年10月25日の新馬戦(京都芝2000m)で武豊を背にデビューし、1番人気に応えて快勝する[5]。2戦目の京都2歳ステークスでも武豊とのコンビで好位追走からゴール前で差し切り勝ちを収め、デビュー2連勝での重賞勝ちを飾った[4]。 2歳時は2戦のみで休養に入り、3歳となった2016年はスプリングステークスから始動。しかし、パドックから入れ込みが酷く、7着に終わる[6]。次戦の皐月賞でも行きっぷりが悪く、最後はスタミナ切れを起こして15着と大敗した[7]。その後は東京優駿へ向かう予定だったが[8]、体調不良のため回避となった[9]。 皐月賞以来の休み明けとなったアンドロメダステークスでは結果次第で去勢手術が予定されていたが、2着に好走する[10]。しかし、初ダートとなったベテルギウスステークスではレース前からテンションの高さが目立ち、10着と大敗。矢作調教師も「芝、ダートうんぬんよりも自分からやめてしまうのが問題」と気性面の課題を指摘していた[11]。次戦の中山金杯でも10着に敗れ、ついに去勢手術が施された。 せん馬となってからは、オープンからの2階級降級となった稲村ヶ崎特別こそ勝利したものの、準オープンで1年以上勝ち切れない競馬が続いた。しかし、2018年に入ってからは堅実な成績が続くようになり、厩舎スタッフからも「去勢してから落ち着きが出て崩れなくなった。気持ちひとつで」と復活を期待されていた[12]。そして同年9月、レインボーステークスを3馬身差で逃げ切ってオープン復帰を果たすと[13]、次戦のアンドロメダステークスも好位抜け出しで制して古馬オープン戦初勝利を挙げた[14]。 その後はしばらく大敗が続いたが、2019年夏の北海道開催では3走連続で掲示板に入り、復調の兆しを見せる。迎えた京都大賞典では11番人気の低評価だったが、3番手追走から先行するダンビュライトを交わして抜け出し、約4年ぶり2度目の重賞制覇を果たした[15]。(詳細は第54回京都大賞典を参照) 2020年9月13日、放牧先のノーザンファームしがらきで疝痛を発症。腸捻転の疑いがあったため手術を行ったが回復せず、9月16日に安楽死の措置がとられた[16]。 競走成績[編集] 以下の内容はnetkeiba.comの情報[17]に基づく。 競走日 競馬場 競走名 格 距離(馬場) 頭数 枠番 馬番 オッズ(人気)

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中国大陸におけるウィキペディアへのアクセス封鎖 – Wikipedia

中国大陸におけるウィキペディアへのアクセス封鎖(ちゅうごくたいりくにおけるウィキペディアへのアクセスふうさ)は、中華人民共和国(香港とマカオを除く)にあるISPが、ウィキペディアを含むウィキメディア財団系列サイトへのアクセスを意図的に封鎖し、中国大陸に住む中国人が通常の手段を用いてこれへのアクセスを不能にしていたことを指す。 目次 1 概要 2 脚注 3 関連項目 4 外部リンク 4.1 News reports 中国政府とその支配下のISPは大陸に住む中国人が同国に議論を巻き起こす可能性があるインターネット・サイトへのアクセスを常に審査している。ウィキメディア財団系列のサイトは中国政府から事前注意、事後説明なしにこれまで少なくとも7回のアクセス封鎖を受けている。2004年に始まった一連の封鎖は、北京オリンピック直前の2008年7月末に解かれ、その後何度も封鎖されて、2015年5月19日から封鎖は行われている。 経験がある大陸在住のインターネットユーザーはさまざまな手段を用いてこれを回避することが可能であったが、一般のインターネットユーザーがウィキペディアにアクセスすることは容易でないため、中国語版ウィキペディアの編集は台湾、香港、マカオの居住者やその他国外にいる中国人によるものが主となっている。 一方で、ウィキペディアに掲載されている記事で、中国政府に影響を与えないような内容は、百度百科など、中国の他のサイトに転載して利用されることも多く、一種の検閲となっている。 2015年12月4日頃から、中国国内の諸言語のうち、北京語版、広東語版、呉語版及びウイグル語版は全遮断されたが、贛語版、漢文版、白話字で書かれる閩南語版、客家語版、閩東語版及びチベット語版、朝鮮語版は遮断されていない。また、2017年12月28日よりウィキペディア日本語版のデスクトップバージョンが中国大陸部で遮断された[1]。 2019年4月23日から、ウィキメディア・コモンズ等のウィキメディア・プロジェクトを含む全言語版のウィキペディアが中国大陸部で遮断された[2][3][4][5]。ウィキメディア財団は、遮断の理由は分からず、当局からの通知はないとしたうえで、公開情報の自由な入手は「基本的な人権だ」と主張し、遮断の解除を求めている[6]。 国境なき記者団によると2019年度の「世界報道自由度ランキング」では世界180カ国中177位となっている[3]。 一方で、台湾問題や2019年-2020年香港民主化デモなど、中国が過敏になっている問題の記事について、相次いで中国当局の主張に沿った内容の書き換えられていると指摘されている[7]。

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バルトロメオ1世・デッラ・スカラ – Wikipedia

バルトロメオ1世・デッラ・スカラ(イタリア語: Bartolomeo I della Scala、1269年もしくは1270年? – 1304年3月7日もしくは3月8日)は、デッラ・スカラ家の人物で、その祖先や子孫が代々務めたようにヴェローナの領主であった。フィレンツェから追放されたダンテ・アリギエーリの保護者であったことも知られている。 [1] 家督相続まで[編集] アルベルト1世・デッラ・スカラの息子として生まれたが生年は不明。1297年と1299年には、父アルベルトから2つの戦争事業を任された。1つ目はトレント司教領(Principato vescovile di Trento)に対するもので、カステルバルコ家(Castelbarco、ロヴェレートとリーヴァ・デル・ガルダの間に領地を持っていた)を脅かし、2つ目はマントヴァに対するもので、バルデローネ・ディ・ボナコルシ(Bardellone dei Bonacolsi)を退却させるためにマントヴァを占領したのだった。[2] この2つの勝利は、カステルバルコ家とマントヴァの忠誠心をさらに強固なものにした。バルトロメオはこのようにして、2つの遠征で偉大な指揮官の称号を誇ることができた。 父は1301年9月3日にヴェローナで亡くなり、31歳の長男である彼が領主の座に就き、まだ未成年であった2人の弟、アルボイーノ(後のアルボイーノ1世・デッラ・スカラ)とカングランデ(後のカングランデ1世・デッラ・スカラ)の親権も与えられた。 ヴェローナ領主として[編集] バルトロメオは戦士としての資質を備えていたが、平和を維持し、都市を統治することを好んだ。実際、1301年9月30日には、トレントの司教と和平協定を結ぶことができた。この平和が求められたのは、バルトロメオ自身がロンバルディアに新たな脅威が生まれつつあることを感じ取っていたからである。ミラノのギベリンが新たな指導者を見つけ、デッラ・スカラ家に代わって北イタリアのギベリンの勢力となろうとしていたのである。実際、マッテオ・ヴィスコンティ(Matteo Visconti)はすでに皇帝の代官に任命されていたので、北からの攻撃の危険性があったが、トレントの国境が平和になったことで、そのようなことは起こらなくなった。和平が成立すると、バルトロメオは直ちに新たな同盟を求め、翌1302年9月7日、ロンバルディア地方の主要なゲルフであるピアチェンツァ公との間で締結された。この同盟は、ミラノを去ることを余儀なくされたヴィスコンティの崩壊を早めるのに重要であった。このようにして、ヴィスコンティ家の拡大の試みは一時的に停止した。[3]

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大畠町 – Wikipedia

おおばたけちょう大畠町 大畠瀬戸と大島大橋 大畠町旗 大畠町章 廃止日 2005年2月21日 廃止理由 新設合併柳井市、大畠町 → 柳井市 現在の自治体 柳井市 廃止時点のデータ 国 日本 地方 中国地方中国・四国地方 都道府県 山口県 郡

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六兵衛 – Wikipedia

六兵衛(ろくべえ)は長崎県島原半島周辺と対馬に伝わる麺料理である。島原地方では基本的に「六兵衛」と漢字で表記するが、対馬では「ろくべえ」とひらがなで表記される事が多い[1]。対馬では古くは「せんじる」と呼ばれていたという[1]。 サツマイモを主原料とする麺料理で、魚介や地鶏などでダシを取った澄まし汁に入れて食する[2]。黒っぽい麺とプルプルした食感、サツマイモ由来のほのかな甘さが特色で[2]、この黒っぽい色はサツマイモに含まれる色素によるものだという[1]。また、麺を作る際に「六兵衛突き」(「六兵衛おろし」、対馬では「ろくべえせぎ」とも。穴の開いた鉄板の付いた板で、羽子板を大きくしたような形をしている)から押し出して麺を作る、日本では珍しい「押し出し麺」であるのも特徴といえる。 六兵衛は島原半島と対馬で郷土料理として食されており、両地域で外見や製法も類似している。しかし両地域は現在でこそ同一の県内であるが、江戸時代以前は肥前国と対馬国に分かれており、また地理的にも大きく離れたこの2つの地域に、なぜ同じ名前の類似した郷土料理が存在するのかは、現在でも不明である[1]。 両者では材料や製法に少し違いがあるが[3]、大まかな製法としてはサツマイモから作った粉に水や湯を加えて耳たぶ程度の固さになるまでこね(こねた生地を丸めて一度茹でることもある[2])、湯を沸かした釜の上で六兵衛突きに生地を押し付けて麺を押し出し、茹で上がった麺をつゆに入れれば完成である[1]。長い麺を作るのは(主な原材料がサツマイモであることも関係し)製法の関係上難しいが、熟練者になると比較的長い麺を作ることが可能であるという[1]。 島原地方の「六兵衛」[編集] 島原では干したサツマイモを粉にしたものを麺の材料として用い、つなぎに山芋を使う。かつて島原半島や近接した諫早地方では、サツマイモが主食作物として非常に重要であった。秋に収穫したサツマイモは民家の床下に設けた貯蔵庫の中に籾殻で防寒して保存し、これを適宜切って粟や大麦、米とともに炊飯して主食としたが、そのほかに細かく切ったサツマイモを干し芋(そのまま食べられる蒸してから干したものではなく、生のまま乾燥したもの)にし、これを製粉して年間を通じての保存食とした。 以前はワラスボ(方言で、すぼたろうともいう)の干物でだしを取り、醤油で味付けしたつゆが使われていたが、現在では鰹節や昆布が使われることが多いという。 島原地方では名称の由来として、江戸時代に島原を飢饉が襲った際、深江村の名主を務めていた六兵衛が保存食のサツマイモ粉を食べる方法として考案したためにこの名前が付いたと言われている。 対馬の「ろくべえ」[編集] 対馬では原材料にサツマイモのデンプンを取り出して乾燥させた「せん」という保存食を用いる。せんは一般的に丸めて乾燥させた形で保存されており、料理に用いる際には粉にしてから用いる[2]。旧称の「せんじる」とはせんで作った麺を汁に入れて食べる料理という意味である[1]。 対馬のろくべえにはつなぎは用いない。ダシには対馬の地鶏やシイタケ[1]、メジナ[2]などが用いられる。 参考資料[編集] 外部リンク[編集]

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Timelie – Wikipedia

『Timelie』(タイムライ)は、タイのインディーゲームスタジオUrnique Studioが開発したアクションパズルゲーム。日本のNintendo Switch版は『Timelie – タイムライ』の表記で発売されている。また、タイトルロゴでは『TIMELiE』表記で、後方2文字の「i」と「E」の間に薄い色で「\」の線が引かれ「TIMELiNE」とも読めるようなデザインになっている。 無機的な謎の異世界を舞台に、少女と猫が警備ロボットの目をかいくぐりながら世界からの脱出を目指す。少女は時間を操作する能力を保持しており、時間を進めてロボットの先の行動を把握したり時間を戻して少女たちの行動をやり直したりしながら攻略していく。作品内ではキャラクターの明確な台詞はなくテキストによる説明も限定的であるため、世界観やキャラクター設定などはプレイヤーの解釈に委ねられる。 本作のプロトタイプは、当時チュラーロンコーン大学工学部コンピュータ工学科の学生だった5人のメンバーにより3か月ほどで制作され、2016年にタイ代表として出場したマイクロソフト主催の学生ITコンテスト「イマジンカップ」のゲーム部門で優勝した[1][2]。その後開発スタジオを立ち上げ製品化に向けて開発を進める中でユーザーの好みや開発者のスキル上昇などを勘案した結果、プロトタイプと製品版は内容が大きく異なるものになった[2]。Urnique StudioのParimeth Wongsatayanonは、影響を受けた作品として、プロトタイプ版では『メタルギアソリッド』『STEINS;GATE』『Transistor(英語版)』を、製品版ではWongsatayanonが大ファンだという上田文人が手掛けた『ワンダと巨像』『人喰いの大鷲トリコ』やドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の映画『メッセージ』を挙げ、ゲームメカニックの中でストーリーを語るという上田作品の手法が本作のテキストや音声によらない演出に反映されたとしている[2]。 システム[編集] 各ステージは少女と猫がゴール地点に到達すればクリアとなる。序盤などでは片方のみを操作するステージもある。 画面下に表示されているタイムライン(メディアプレーヤーのシークバーのようなUI)を操作することにより、ステージの状況を任意の時点まで進めたり戻したりできる。 少女は一部ステージ内にある白い光の玉を取得すると特別な力が備わり、これを消費することで周囲にある壊れた橋を修復したりロボット1体を消滅させたりできるようになる。一方、猫は鳴き声を上げて周囲のロボットの注意を自分に向ける能力があるほか、少女よりも移動速度が速く狭い通路をくぐることもできるが、壁にあるボタンを押せない。 ロボットはおおよそ既定ルートを移動したり一つの場所に留まったりしているが、少女や猫が視界に入ると高速で追跡してくる。ロボットに捕まるなどすると時間がそれ以上進まず、時間を戻してやり直すことになる。 一部ステージには「レリックチャレンジ」と呼ばれる特別なクリア条件が設定されており、これらをすべて達成するとエンディングに変化が現れる。 2020年10月9日配信の無料DLC「Hell Loop」により、高難易度の新ステージ30種類が追加された[3]。 タイ National Software

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上方落語 – Wikipedia

上方落語(かみがたらくご)は、大阪・京都を中心とする畿内の上方で主に演じられる落語の総称である。        「上方落語」の語源[編集] 上方で催される落語は「大阪落語」や「京都落語」などと称されていたが、1932年(昭和7年)7月1日発行の雑誌『上方』十九号で初めて「上方落語」が用いられた、と花月亭九里丸は『寄席楽屋事典』で著している。現在、京都落語は系譜上衰えていることから、大阪落語が上方落語と称される。 江戸時代まで[編集] 江戸時代中期に、京都の初代露の五郎兵衛や大阪の初代米沢彦八が道端に舞台を設け、自作の噺を披露して銭を稼いだ「辻咄」(つじばなし)や「軽口」(かるくち)が落語の起源とされる。寛政から文化にかけて、浄瑠璃作家から転じた芝屋芝艘や、京都から大阪へ下り御霊などの社地で噺を演じた松田彌助が台頭した。彌助一門に松田彌七、2代目松田彌助や「桂一門の祖」初代桂文治がおり、初代文治は大阪で初めて寄席を開き、声色鳴物道具入りの芝居話を創始したことで知られる。文治は3代目と4代目が東西に並立するが、上方4代目の弟子である桂文枝は文治を継がず、以来上方桂一門は文枝を止め名とした。初代文枝は「三十石」などで人気を博し、門下の初代桂文之助(のち2代目曽呂利新左衛門)、2代目桂文都(のち2代目月亭文都)、初代桂文三(のち2代目桂文枝、晩年桂文左衛門)、初代桂文團治も人気・実力ともに高く、「四天王」と称された。 桂一門に並ぶ現代の上方落語で主力門派の笑福亭一門は、始祖とされる松富久亭松竹の詳細が明らかでないが天保から安永の時期に成立しており、桂と笑福亭の両門派に立川、林屋(林家)を加えた4門派が、明治期まで上方落語の主流を成した。上方林屋一門は、江戸の初代林屋正蔵の孫弟子に当たる初代林屋正三が故郷の岡山に近い大阪で腰を据えたことを端緒に、明治維新前後の時期までは最大勢力であったが、やがて桂一門に代わられていく。 明治期[編集] 七代目文治『落語系圖』 明治期に入ると、2代目文枝襲名をきっかけに四天王は割れ、2代目文枝らを中心に滋味で噺をじっくりと聞かせる「桂派」と、文都、2代目文團治(のち7代目桂文治)、初代笑福亭福松、3代目笑福亭松鶴らを核とする派手で陽気な「三友派」が並立する。 この他諸派がたくさん出来ては消えつつも、2代目文團治の7代目文治襲名前後に全盛期を迎えた。この間、大阪では3代目桂文三、初代露の五郎、3代目桂文團治、2代目林家染丸、初代桂枝雀、初代桂ざこばなどの名人上手を輩出。京都では2代目曾呂利新左衛門、2代目桂文之助、初代桂枝太郎が活躍した。また東京から初代橘ノ圓、2代目三遊亭圓馬、5代目翁家さん馬らが移住し、寄席を盛り上げた。 大正から昭和初期まで[編集] 大正から昭和初期にかけては初代桂春團治、2代目桂三木助、3代目三遊亭圓馬、2代目立花家花橘、初代桂小春團治[1]らが人気を集めたが、やがて横山エンタツ・花菱アチャコなどの新興の漫才の人気、吉本興行部による定席の寄席や諸派の買収、看板落語家の相次ぐ他界、などから低迷した。 漫才は、エンタツやアチャコが大学野球のラジオ中継から『早慶戦』を創作するなど時代に即する新しい笑いを創造した。落語は内部抗争で秩序が整わず、林正之助をはじめとする吉本興行部は商品価値が無いと見なされ、旧態依然の古い芸に安住して愛好家が離れた。初代春團治は、洒落を盛り込んだ不条理に加えて新しい媒体であるレコードを活用した演出で、唯一新しい笑いを提供して多くの愛好家を獲得し、今日の上方落語に大きく影響したが、孤軍奮闘の感を禁じ得ず、春團治の死で上方落語は漫才に王座を譲ったと見られた。 5代目笑福亭松鶴、4代目桂米團治らは「楽語荘」を結成し、落語会「上方はなしを聞く会」の運営や雑誌『上方はなし』の発行などを通じて上方落語の保存・継承に尽力した。 戦時中の漫才師や漫談家はわらわし隊などの慰問団で中国などへ派遣されたが、座して演ずる落語家は兵士に対して酷なので呼ばれず、比較的空襲が少ない神戸や京都などで富裕層や芸者を客として落語会を催して好評を得た。 太平洋戦争後から昭和30年代[編集] のちに人間国宝となる三代目米朝(右)と、三代目春団治(左。当時小春)。1947年から1950年ごろ 太平洋戦争終結直後は定席の寄席もなく、2代目桂春團治は吉本興業との契約問題から京阪神を含む都市部では口演できずに、自ら演芸団を組織して地方を回るような状態だった。1947年、松竹の白井松次郎は、大阪ミナミの映画館「戎橋松竹」を演芸場に改め、ここに5代目松鶴、4代目米團治、2代目花橘、2代目春團治(1945年末に吉本との問題が解決していた)らが結集する。一方、戎橋松竹の新人会(「戎松日曜会」)などに出ていた若手の2代目笑福亭光鶴(のちの6代目笑福亭松鶴[5])・3代目桂米朝・2代目桂小春(のちの3代目桂春團治[6])・2代目桂あやめ(のちの5代目桂文枝)・3代目桂米之助らは1948年に「さえずり会」というグループを結成する。 5代目松鶴と漫談家の丹波家九里丸との確執から、1948年3月に京都・新京極に「富貴」がオープンしたことを期に、九里丸が誘う形で2代目春団治や4代目米團治・4代目文團治・4代目桂文枝・橘ノ圓都・文の家かしく・橘家小圓太らが戎橋松竹を抜けて浪花新生三友派を結成する分裂状態となった。しかし、九里丸の姿勢から浪花新生三友派からは次第に離反者が相次ぎ、「さえずり会」も仲裁に入る形で1949年4月に両者が合同する形で関西演芸協会が結成され、分裂は約1年で収束した。

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小林絹治 – Wikipedia

日本の政治家 小林 絹治 こばやし きぬじ 生年月日 1988年2月20日 出生地 兵庫県加東郡河合村(現・小野市三和町) 没年月日 1973年3月28日 出身校 関西大学法学部卒業カリフォルニア大学大学院法科修了 所属政党 (立憲政友会→)(日本進歩党→)(公職追放→)(自由党→)(日本民主党→)自由民主党 親族 小林正巳 農林参与官 内閣 廣田内閣

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マゼラニックストリーム – Wikipedia

マゼラニックストリーム Magellanic Stream は大小マゼラン雲の近くに広がる中性水素(HI)のガスである。1972年にWamnierとWrixonが発見し、1974年にはMathewsonらがその成因にマゼラン雲との関係を見出した。これに先立ち1965年には異常な視線速度をもつガス星雲がこの領域に存在することが知られていたが、ガスの位置と広がりは正確に把握できず、マゼラン雲との関係も不明であった。その後の観測でわかったガスは大変長く(地上観測で100度ほどあるらしい)、その形状は銀河系などと比較するとかなり直線状である。この領域としては視線速度差が異常に大きく、周辺銀河の視線速度パターンに同期するものではない。高速度雲(HVC)としては古典的な例である。 階層型クラスタリング研究からわかるのは、小宇宙が長い時間をかけてより小さな小宇宙の衝突により形成されたことである。このような衝突・合体の副産物としてもっともよく知られ研究されてきたのがマゼラニックストリームである。 マゼラン雲に近いことや観測機器の分解能が向上して恒星の年周視差の測定精度が向上するにつれ、大小マゼラン雲の位相空間像(但し地球に対し横断方向の視線速度には大きな誤差を伴う)が明らかになった。これをもとに3つの銀河の形状や質量といった大仮説や、互いに運動する物体の間にはたらく力学的摩擦の性質を組み込んだ過去の軌道を計算することが可能になった。星の観測からは、星形成の歴史がわかる。 1980年以後各種のマゼラニックストリーム形成モデルが提示されてきた。まずコンピュータの性能向上によりモデルは単純化・非自己重力化・非粒子化に向かった。ほとんどのモデルがマゼラン雲に至る浮遊物を予測してみせたが(これらのモデルは潮汐力モデルであり、地球の潮汐のように逆向きの2方向に物質が引っ張られる)、実際に2方向に伸びた様子は観測されなかった。そこで腕を伸ばさないモデルがいくつか残ったが、これはモデル自体に問題があった。1988年にパークス天文台のHIPASSチームが実施した全天掃天の結果からPutmanらは、マゼラン雲に至る高速度雲の質量成分が実際にマゼラン雲の重力の影響下にあることを明らかにした。これで銀河ハローに立ち上るガス(Leading Arm Feature)の存在は裏付けられた。さらに1998年にはLuほかが、2000年にはGibsonらがマゼラニックストリームとマゼラン雲の化学組成の類似性を確認した。 以来ガス(Leading Arm Feature)の存在を前提にした新しいモデルが現れるたびに、モデルは徐々に洗練の度を高めた。モデルの多くが重力を援用し潮汐場を土台に(一部のモデルではラム圧による粒子のはぎ取りを形成機構に借用し)、次第に銀河系の銀河ハローからのドラッグ・ガスの動力学・星形成・化学物質の成長をモデルに盛り込むようになった。潮汐力が大きく影響するのは小マゼラン雲であると考えられるが、その理由は質量が小さく固有の重力が小さいためであり、ラム圧によるはぎ取りが大きく影響するのは、多量のガスがある大マゼラン雲であると考えられている。 関連項目[編集] 参考資料[編集] Latest models: Yoshizawa, Akira M.; Noguchi,

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須山敬之 – Wikipedia

須山 敬之(すやま たかゆき)は、日本の情報工学者。大阪工業大学情報科学部データサイエンス学科教授。博士(情報学)(京都大学)。元IEEE関西支部理事。 主な専門は、AI(特に分散人工知能)・機械学習・ディープラーニング、ユビキタスコンピューティング・センシング(IoT含む)、脳情報解析(特にブレイン・マシン・インターフェース)など。 主な所属学会は、情報処理学会、電子情報通信学会、IEEE、ACMなど[1][2][3][4]。 1990年大阪大学工学部電子制御機械工学科卒業。1992年同大学大学院工学研究科修士課程修了。京都大学大学院情報学研究科通信情報システム専攻博士課程修了、博士(情報学)。 NTTコミュニケーションズ科学基礎研究所主幹研究員、国際電気通信基礎技術研究所(ATR)認知機構研究所動的脳イメージング研究室室長などを経て、2021年より大阪工業大学情報科学部データサイエンス学科教授。 主な研究は、 クラウド側とエッジ側機器の動的な協調に基づく自律分散共進化AI基盤技術の研究開発 – 慶應義塾大学SFCとの共同研究[5] 環境情報をセンシングするための方式を実環境に適用する手法の研究 オートエンコーダを用いたセンサノードの異常検出手法の検討 ウェアラブルコンピューティングの安全性を確保するディペンダブルOS技術の確立 – 神戸大学との共同研究 社会人向けデータサイエンスの啓蒙活動として、大阪工業大学「AIデータサイエンス講座」で講師を務めている。 また、大阪府・大阪産業局が運営するものづくりビジネスセンター大阪(MOBIO)の「MOBIO-Cafe」2021で講演している[6][7]。 ^ https://www.oit.ac.jp/laboratory/room/404

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