麦宝嬋 – Wikipedia
麦 宝嬋(麥 寶嬋、マク・ボウシム、Bow Sim Mark)は、アメリカ合衆国の武術家。アメリカ、ボストンにある「中華武術研究所( Chinese Wushu Research Institute)」の創健者であり「麥寶嬋太極協會(Bow Sim Mark Tai Chi Arts Association)」創始者[2]。夫は香港の新聞社、星島日報のボストン支局で編集員を務めた甄雲龍(クライスラー・イェン)。息子に香港のアクション俳優でアクション監督の甄子丹(ドニー・イェン)、娘に女優の甄子菁(クリス・イェン)を持つ。 経歴・人物[編集] 幼少、広東省時代[編集] 中華民国時代の中国大陸、広東省台山市で生まれる。歌や踊りが得意で、粤劇(えつげき、広東オペラ)を愛し地元の劇団に入団することを夢見る少女であった[1]。また父や叔伯が武術愛好者であったため、幼い頃より槍や棒に親しんだという[3]。 まず長拳剣術を学び、その後、かつて“五虎下江南(北方武術を南に伝えた五虎)”の1人と数えられ[4]太極拳・八卦掌・形意拳の三つを総合した「傅式太極拳」と「傅式太極剣」の宗師、傅振嵩(中国語版)[5]の息子である傅永輝のもとへ入門。彼女の育った広大な農村では武術は男女に公平であった[6]。10年もしないうちに、師、傅永輝の高弟として武館で代稽古をするまでになる[1]。やがて師匠はマクに2巻の書を与え、それは彼女が正式な継承者として認められたことを意味した[1]。 また武術のほかにソプラノ歌手としてアマチュア活動も行っており[7]、夫である甄雲龍は広州華南歌舞団のバイオリニストであった[8]。2人は同郷の同級生で1962年に結婚。翌年ドニーが生まれる。やがて文化大革命の嵐が吹き始めた中国大陸を出るため、まずは夫が幼い息子を連れて肉親の住む香港へと移住[6]。彼はしばしば中国を訪れることができたが、なかなかマクの移住が認められず[6]、親子が揃ったのは1973年。9歳となっていた息子ドニーに武術を教え始める。毎日学校に行く前の朝5時に鍛練を始め、なにかあると母は息子のお尻を棒で打ち据えたという[9]。そして2年後の1975年、『総合太極拳』という初めての武術教材書を出版[10]。同年、娘クリスを加えた一家4人はアメリカのボストンへ移住した。
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