Month: September 2019

この道を真っすぐに – Wikipedia

『この道を真っすぐに』は、2021年12月22日にビクターより発売された橋幸夫の183枚目[1]のシングルで、12cmCD形式(VICL-37615)で発売された。 2023年5月3日80歳の誕生日に歌手活動を引退すると発表した橋幸夫のラストシングルとして発売された。合せて「橋幸夫ベストヒット全曲集」も発売となった。 本楽曲は、橋自身が「日本の安全を守っている全国の警察官に感謝し応援していきたい」と長年温め、実現したいと考えていた企画としている。[2] 橋は、半世紀前の1970年安保闘争の最中の1970年に、川内康範の作詞による警察官、機動隊を応援するメッセージ性の強い楽曲「この世を花にするために」(B面「この道」)を発表しているが、当時は「いろいろ誤解されるかも知れませんが、私は人間応援歌として捉えて」いるとしていた[3]。なおこの2曲は、当時警視庁で機動隊の指揮を執っていた佐々淳行が、警視総監の秦野章に「機動隊の新しい愛唱歌が欲しい」と要望し、秦野が親交のある川内に作詞を依頼したもので、特に「この道」は意図的に「機動隊」という言葉を歌詞から排している[4]。 今作は、警察官が社会を守る大切さと大変さを、警察官の息子・娘を持つ親からの目線で綴ったもので、警察官を子に持つ希雄由(のぞみたけよし)が作詞、橋自身が「橋幸夫」名義で作曲を担当している。 橋は作曲にあたっては「歌手とは違う別の立場」[5]として、初期には風間史郎(橋主演映画の主人公の名前)を好んで使用し、後には勅使原煌を使用していたが、近年は「花火音頭」「2020音頭(来たれ!希望の新時代)」 「この世のおまけ」など本人名義で発表されることが多い。 編曲の矢田部正とはこれまでも何度も共演しており、「「2020音頭(来たれ!希望の新時代)」 「この世のおまけ」も谷田部の編曲である。 カップリングの「この道」「この世を花にするために」は、1970年の発表曲を、新たに斉藤真也の編曲でセルフカヴァーし、3曲入りのシングルとなっている。 この道を真っすぐに 作詞:希雄由 作曲:橋 幸夫 編曲:矢田部正 この道 作詞:川内康範 作曲:猪俣公章 編曲:斉藤真也 この世を花にするために

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ポンマンの聖母 – Wikipedia

ポンマンの聖母(フランス語:Notre-Dame de Pontmain)は、普仏戦争中の1871年1月17日、フランスのポンマン(英語版)の上空で起こった出来事で、夕刻に、数人の子供たちの上空に「蒼い服の女性」が出現、子供たちのみが目撃した。当初はほほ笑むだけであったが、無言のまま文字によるメッセージを伝えたとされるものである。 その後奇蹟的にプロイセン軍が撤退し、文字によるメッセージは、聖母マリアの御加護と予言がなされたものと考えられている[1]。 初期[編集] ポンマンはフランス北西部のペイ・ド・ラ・ロワール地域圏マイエンヌ県にあるコミューンで、当時は15軒ほどの民家と80名の住民からなる小集落であったが、最初に異変に気付いたのは当時12歳のウジェーヌ・バルブデット(Eugène Barbedette)であった。ウジェーヌは道路を挟んで納屋の向かいにある民家の上方約6メートルのところに金の星をちりばめた蒼色の服の美しい婦人が両手を下げ加減に広げ、迎えるしぐさでほほ笑んでいるのを目撃した。月は出ていないが星は出ている4半時も立ったころ、納屋から父親と弟のジョゼフ(Joseph 当時10歳)が出てきたが、父親にはその婦人は見えず、弟には見えるという。母屋から出てきた母親にもその婦人は見えなかった。納屋の仕事を片付けて母屋で夕食を済ませて再び納屋に戻ると子供たち2人はそのままであるという。父親は、お前たちに見えるなら修道女にも見えるだろうと、修道女のスール・ヴィタリヌ(Sr.Vitaline)に声をかけ、彼女は寄宿舎から子供たちを呼び出した。すると当時10歳と9歳であった2人の少女たちがやはり何か見えると主張した。この後、別の修道女スール・マリー=エドゥアール(Sr.Marie-Edouard)が駆け付けたが、彼女はいち早く聖母と認識した。他の子供たちにも声をかけ、そしてカトリック教会の司祭であるゲラン神父(Fr.Guerin)にも「聖母が出現した」と報告し、連れてきた。 この騒ぎを聞きつけ、約50名の人々が駆け付けたことになるが、ここまでの段階では「蒼い服の女性」は子供たちに微笑みかけるばかりで何のメッセージも身元も伝えていなかった。子供たちの説明では、靴まで垂れ下がる星印の青いチュニック、金のリボンの蒼い靴、髪を覆う黒の長いヴェール、末広がりの円筒形の帽子と言った衣装の様子が人々に知らされているだけである[1]。 Norte-Dame d’Esperance de Pontmain 形象文字の出現[編集] 群がる人々の前で、「女性」まわりに蒼い楕円が後光のように包囲し、中に4本のロウソクが、肩と膝の高さに2本ずつ現れ、続いて「女性」の胸に小さな赤い十字架が生じ、その後悲しい表情を浮かべた。 司祭の「祈ろう」との一言で人々が跪くと、祈りと共に形状全体が伸びて拡大を始め、1.5倍の大きさになった。その後、「女性」の足元に白い長さ10 – 12メートルの幕が現れ、そこに左端から金色の大文字のアルファベットの活字体が一つずつ現れて2行の文章を作って行った。それは次のような文字列である。 MAIS PRIEZ

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三チオン酸 – Wikipedia

三チオン酸 1,5-dihydrido-2,2,4,4-tetraoxido-1,5-dioxy-2,3,4-trisulfy-[5]catena, trithionic acid[1] 識別情報 CAS登録番号 27621-39-2 [10][11] PubChem 492 [12][13] ChemSpider 478 [14] ChEBI ChEMBL CHEMBL3754893 InChI=1S/H2O6S3/c1-8(2,3)7-9(4,5)6/h(H,1,2,3)(H,4,5,6)[3][4][5] 特性 化学式 H2O6S3 モル質量

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マンガン欠乏症 (植物) – Wikipedia

マンガン欠乏症(まんがんけつぼうしょう、Manganese (Mn) deficiency)とは、植物に起こり得る、植物にとっての必須元素の1種であるマンガンの不足によって発生する生育障害である。 マンガン欠乏症が発生しやすい条件には次がある。 土壌pHが高い[1]。pHの上昇は炭カルなどカルシウム資材の多投入や窒素(硝酸態)の溶脱・流亡に伴う[2]。 砂質の転換畑[2]。典型例は、老朽化水田を畑転換した圃場である[1]。このような圃場では、有効態のマンガンが少なく欠乏しやすい。老朽化水田とは砂質で、地下への水の浸透量が多く、還元状態になりやすい水田である。老朽化水田では作土層の鉄やマンガンの溶脱が進んでいる。 貧しい排水土壌、特に有機質含量が高い場合。 鉄欠乏症に伴って起こる。また、症状が似ているため、2つの障害は混同されやすい。 バラにおけるマンガン欠乏症。 症状には葉脈が緑のままの葉の黄化がある。マンガン欠乏症であっても、若い葉には影響は現れないことがあるため、植物は問題なく成長するように見えることがある。葉の表面に茶色の斑点が現れる。障害が深刻な葉は褐色化し、枯死する。野菜類では上位葉に、麦類では下位葉に葉脈間クロロシスや褐色斑点、線状のネクロシスが生じる。 以下の植物はマンガン欠乏への感受性の高い。 メロン – つるや側枝の中位葉の葉脈間に淡い黄化症状が現れ、やがて上位葉へと進む[3]。葉を陽にかざして裏から見ると、網目状の黄化症状が葉の表よりもより鮮明に観察される。症状が進行するに伴い、葉脈間に斑点状の壊死斑が発生する。これらの症状は一般に新しい葉から発生する。なお、健全葉(葉身)のマンガン濃度はおおむね50〜800ppmで、20ppmより低いと欠乏の恐れが大きい[1]。また、土壌の易還元性マンガンが50ppm以下、交換性マンガンが2ppm以下の場合、メロンに欠乏症が発生しやすい。 桃 – 葉脈間がやや退色し、葉脈が鮮明となる。マンガン欠乏葉では、リンとマグネシウムの含有率は正常葉よりやや高くなる[4]。 イチゴ – 症状は新葉から発現し、葉脈を残して葉面全体が黄化する。なお、イチゴ(とよのか)の健全葉のMn濃度は概ね30〜500ppmである[5]。

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カスタマイZ – Wikipedia

カスタマイZ(カスタマイズ)は、日本のバンド。スターダストプロモーションの男性アーティスト集団「EBiDAN」から結成された。2016年解散。 2012年 3月20日に行われた『EBiDAN THE LIVE 春の陣』で結成を発表[1]。当初はユニット名なしで活動。ラジオ番組『恵比寿学園男子部 放課後Customize』のコーナーで募集。 5月、ユニット名が「カスタマイズ」に決定した。 2013年 8月1日、aube shibuyaにて初のワンマンライブ「武者修行ファイナル ワンマンライブ〜ろっくろくにしてやんよ〜」を開催。 9月1日、「きたまえ↑ 札幌☆マンガ・アニメフェスティバル」の出演を最後に、メンバー全員が卒業という形の解散となった。 10月、松井を除いた3人での再始動を発表。 10月31日、HAMAを加えた4人でバンド名を「カスタマイZ(読みはカスタマイズ)」に改名し、再結成。 12月29日、「EBiDAN THE LIVE 〜飛び出すEBi本

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必須脂肪酸 – Wikipedia

必須脂肪酸(ひっすしぼうさん、essential fatty acid)は、体内で他の脂肪酸から合成できないために摂取する必要がある脂肪酸である。ヒトを含めた後生動物には自身の生理代謝過程に必須であっても、自身では合成できない脂肪酸の分子種がいくつもあることが多い。それらを合成する他の生物を食物として摂取する必要がある。 ヒト及びその他の動物にとっては、多価不飽和脂肪酸のうち、ω-6脂肪酸のリノール酸、ω-3脂肪酸のα-リノレン酸が必須脂肪酸であり必要量が定められる。広義にω-6脂肪酸とω-3脂肪酸が必須脂肪酸と呼ばれることがある。その変換された脂肪酸も、正常な機能に必要不可欠であるためである。そのため、DHAとEPAについては推奨量が議論されてきた。 20世紀前半の半ばまで、食物中の脂肪は必須栄養素とまではみなされなかった[1]。 物質が特定される以前、必須脂肪酸はビタミンのビタミンFだと仮定されていた。 1929年にはミネソタ大学の植物生理学者ジョージ・オズワルド・バー(George Oswald Burr)が、脂肪のない食事によってラットで欠乏症状が起こり、ω-6系の多価不飽和脂肪酸であるリノール酸によって欠乏症が回復するのを確認し、必須栄養素だと報告した[1]。1940年代までにリノール酸が必須脂肪酸だと示されていった[1]。1938年にはヒトでの研究が実施されたが、1968年の長期実験まで確実だとみなされず、1970年代にはヒトでもリノール酸が必須栄養素だと明らかになった[1]。 また1931年にジョージ・オズワルド・バーは、ω-3系のαリノレン酸がラットで合成されなかったことを報告し、これも必須脂肪酸だと結論した[1]。しかし、欠乏症実験にてリノール酸と競合する結果が確認されるため、長い間αリノレン酸でも確実だとみなされなかった[1]。1953年には豚の脳からDHAが生成され、1960年にはαリノレン酸がDHAに変換される代謝経路が発見された[1]。DHAが神経伝達に重要だと提唱され網膜からも発見され、EPAの血小板凝集を阻害するプロスタグランジンE3への変換も報告されたが、1970年代初頭までω-3脂肪酸はあまり関心がもたれなかった[1]。 1976年にCuthbertonが粉ミルクの必要成分としてリノール酸のみが必須だと主張したが、Crawfordは異議を唱え、1978年には世界保健機関(WHO)と国際連合食糧農業機関(FAO)が、脂肪に関する専門部会でαリノレン酸の必須性を確定した[2]。1982年に、ラルフ・ホルマンが、αリノレン酸の摂取が増加すると、血中のDHAが増加することを確認しヒトでαリノレン酸が必須だと裏付けた[1]。 1978年に、DHAとEPAが豊富な海洋性脂質の摂取の多いグリーンランドのエスキモーに心筋梗塞の発生率が低いと報告され、脂質研究の最前線ではω-3脂肪酸が重要な話題となった[1]。そこで当初は血栓の形成を阻害することからEPAに注目されたが、関心は神経系に重要なDHAへと移行していき、1990年代末にはω-3脂肪酸が不可欠であると明らかになっていった[1]。さらにDHAは神経系への関与、人間の乳児の視力や認知機能に影響を与えると裏付けられその必要性の理由が提供されていった[1]。 1994年の世界保健機関による、「人間栄養学における脂肪と油」(Fats and oils in human nutrition)では必須脂肪酸の重要性が示され、適正な比率に言及するものの必要量までは踏み込んでいない[3] ヒトを含めた後生動物では、必須脂肪酸に限らず体内では脂肪酸は炭素鎖の不飽和化と長鎖化が進む生合成経路が存在している。 短鎖の飽和脂肪酸からステアリン酸、オレイン酸へと合成が進む経路。

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平均 – Wikipedia

平均(へいきん、英: mean, average, 独: Mittelwert, 仏: moyenne)または平均値(へいきんち、英: mean value, average value)とは、数学において、数の集合やデータの中間的な値のことで、算術平均(相加平均)・幾何平均(相乗平均)・調和平均・対数平均など様々な種類の平均がある。 特に指定しない場合は一般的には算術平均のことを単に平均という。これは、集合の要素の総和を集合の要素数で割ったものである。例えば A, B, C という3人の体重がそれぞれ 55 kg, 60 kg,

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訃報 2005年3月 – Wikipedia

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吉田幸一 – Wikipedia

吉田 幸一(よしだ こういち、1909年4月12日 – 2003年1月9日)は、日本の国文学者・書誌学者・出版人・古典籍蒐集家。学位は、文学博士(東洋大学・論文博士・1961年)(学位論文『和泉式部日記の基礎研究』)。東洋大学名誉教授。日本古典文学の叢書「古典文庫」を個人事業として編纂・発行したことなどで知られる。 1909年(明治42年)4月12日、静岡県静岡市に生まれる。1930年(昭和5年)4月東洋大学文学部国文学科入学、1933年(昭和8年)7月卒業。並行して東京外国語学校支那語専修科(夜間)で中国語を学ぶ。吉田は恩師として藤村作と久松潜一の名を挙げている。 会社勤務、小学校代用教員を経て、1939年(昭和14年)4月、静岡県立浜松商業学校・同工業学校嘱託(中国語担当)。1941年(昭和16年)4月、東洋大学予科・専門部助教授(国文学担当)。1944年(昭和19年)3月退職。 1945年(昭和20年)3月4日、空襲による火災で、西巣鴨四丁目の自宅と、学生時代から蒐集してきた蔵書を全て失う。吉田は後年、このときのことを「生涯最悪の日」と述懐している。1946年(昭和21年)6月、自宅を発行所として「古典文庫」の発行を開始。2002年(平成14年)9月まで発行を続ける。 1947年(昭和22年)11月、東洋大学文学部助教授。1951年(昭和26年)4月、文経学部教授に昇任。1961年(昭和36年)10月、『和泉式部日記の基礎研究』で東洋大学より文学博士の学位を取得[5]。1980年(昭和55年)3月東洋大学を定年退職、同名誉教授。 2003年(平成15年)1月9日、敗血症で死去[7]。 国文学者としては平安朝文学が専門で、特に『和泉式部集』と『狭衣物語』については徹底的な古写本蒐集を行っている。 学位論文ともなった『和泉式部日記』の研究は、1950年(昭和25年)頃に新出の異本を入手したことを機に始められたもので、『和泉式部全集』本文篇・資料篇(1959年 – 1966年)、『和泉式部研究』一・二(1964年 – 1967年)となってまとめられた。『和泉式部研究 三』の構想もあったが未刊に終っている。 瀧田貞治(台北帝国大学助教授、1901年 – 1946年)が主宰した西鶴学会(機関誌『西鶴研究』、1942年6月

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ジャック・ヴァレ – Wikipedia

この存命人物の記事には検証可能な出典が不足しています。信頼できる情報源の提供に協力をお願いします。存命人物に関する出典の無い、もしくは不完全な情報に基づいた論争の材料、特に潜在的に中傷・誹謗・名誉毀損あるいは有害となるものはすぐに除去する必要があります。出典検索?: “ジャック・ヴァレ” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2009年9月) ジャック・ファブリス・ヴァレ(Jacques Fabrice Vallée, 1939年9月24日 – )は、ベンチャー・キャピタリスト、コンピュータ科学者、作家、UFO研究者、元天文学者である。 メインストリームの科学の世界においては、NASAの求めに応じて史上初のコンピュータ・データによる火星の地図作成に共同研究者としてあたったこと、そして現代のインターネットの原型であるところのアーパネット開発のため、SRIインターナショナルに於いてネットワーク情報センターの仕事に取り組んだことで有名である。ヴァレはまた未確認飛行物体(UFO)研究における重要人物でもあって、初期には地球外起源仮説には科学的にみて正当性があるという主張を弁護していたものの、のちには多次元間仮説 interdimensional hypothesis を主張したことで知られる。 現在カリフォルニア州サンフランシスコに居住している。

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