山田 才吉(やまだ さいきち、1852年8月19日 – 1937年1月31日)は、日本の実業家。美濃国出身。 料理人から経営者に[編集] 嘉永5年(1852年)、美濃国厚見郡富茂登村(現在の岐阜県岐阜市大仏町)で料理屋を営業していた山田辰次郎の長男として生まれる。板前などを経て名古屋の熱田神戸町・大須門前町に店を構え、1881年(明治14年)には末広町3丁目(現在の栄)の若宮八幡社西隣に漬物屋「きた福」を開店。この頃に守口漬(守口大根の味醂粕漬)を考案したとされ、これが評判を呼んだ[5]。なお、才吉が創業したきた福は同店から暖簾分けした「松喜屋」に屋号など含めて生前に売却され、「喜多福総本家」として現在も守口漬の製造販売を続けている。 1884年(明治17年)3月、缶詰工場を新開地(東築地5号地)において立ち上げて、愛知県下で初めて缶詰製造販売に参入した。初めは中京地方で多く取れるマツタケを貯蔵法を探っていたが、従来の塩漬では風味が壊されるため、塩漬けに代わる貯蔵法を考えていた。宮内省大膳職に務めていた弟から外国には缶詰というものがあることを聞き、缶詰事業に取りかかった。当初マツタケとタケノコの水煮から手がけ、ハマグリの時雨煮など、すべて才吉自身の創意工夫で種目を次第に増やした。1885年(明治18年)に東京支店、1890年(明治23年)に大阪支店を開いて販売網を広げると共に海外への輸出にも備えた。 缶詰事業の中で特筆すべきはイワシ油漬である。1901年(明治34年)に愛知県水産試験場が第1回のイワシ油漬缶詰の試験製造を始めた。才吉は農商務省水産局長の誘いで、1902年(明治35年)に日本罐詰合資会社を設立。同社は愛知水産試験場の製品を大部分を買い取り、外国市場を綿密に調査し本格的な販売対策を始めた。翌年に日本罐詰合資会社を株式会社に改組。1906年(明治39年)には愛知県知多郡豊浜、三重県志摩郡桃取に工場を新設し、愛知水産試験場のイワシ油漬缶詰の製造事業を譲り受けた。日清戦争・日露戦争で牛肉、福神漬、各種水産物の軍用缶詰の注文を受けて更なる財を為した。 ガス会社設立と政界進出[編集] 1887年(明治20年)中京新報(後の名古屋新聞で現在の中日新聞)を創刊した。才吉は政界へも関心を寄せた。1892年(明治25年)12月20日夜に末広座で開かれた政談演説会で弁士に立つと、1893年(明治26年)名古屋自由会発足にあたり幹部に就任。1895年(明治28年)には名古屋市議会議員に初当選した。1897年(明治30年)には現在の中区に料理旅館「東陽館」を開業。東陽館は396畳の大広間を併設した公会堂のような性格を持っており、伊藤博文や尾崎行雄も東陽館を訪れている。1899年(明治32年)には愛知県議会議員となり長らく議席を保持し市政・県政の運営に関与した。1901年(明治34年)には名古屋商業会議所議員に選出。1904年(明治37年)に愛知県五二会の幹事長に就く。 これら活動に並行してガス事業も手がけた。1896年(明治29年)当時の愛知県知事・時任為基の熱心な誘いもあり愛知瓦斯株式会社を創設。翌1897年(明治30年)には愛知県から許可が下り事業を開始しようとした。しかし時期が日清戦争時後の不況と重なり株式の募集が思うように運ばず計画は一時中断。その約10年後、日露戦争の勝利にわく国内で起業熱の高まりや会社の拡張が盛んになると、才吉は再びガス会社の設立に着手した。ところが時を同じくして奥田正香、服部小十郎らが東京の渋沢栄一、大阪の藤本清兵衛を誘いガス事業を計画すると、双方の陣営は衝突。当時の愛知県知事・深野一三の調停で協定となり、1906年(明治39年)に愛知瓦斯株式会社を名古屋瓦斯株式会社(現在の東邦ガス)と改称してガス事業をスタートさせた。同社の生みの親である才吉は創立から1915年(大正4年)まで重役を務め、特に1909年(明治42年)から1913年(大正2年)までは取締役として社業の発展に貢献した。 巨大施設を次々と建設[編集] 1910年(明治43年)現在の港区に南陽館と名古屋教育水族館を開き、白鳥橋と南陽館前をつなぐ熱田電気軌道(後に名古屋鉄道の前身である名古屋電気鉄道と合併)を敷設。同年には知多電車軌道の発起人にも名を連ねるとともに、柳橋に中央市場株式会社を設立した。同年東陽館で当時名古屋市新出来町にあった大龍寺の五百羅漢出開帳を行い、翌年同寺の名古屋市城山(現在の千種区)への移転計画を発表した。1911年(明治44年)には大曽根市場を開業。1916年(大正5年)現在の東海市に料理旅館「聚楽園」を開園した。1918年(大正7年)大龍寺の移転事業が終わり、同寺で入仏大供養が3日間にわたり開かれた。1924年(大正13年)現在の可児市に料理旅館「北陽館」を開業。日本ライン開発を進めた。1927年(昭和2年)聚楽園の敷地内に聚楽園大仏を建立した。晩年は聚楽園で暮らし1937年(昭和12年)1月31日没。享年85。葬儀は本願寺名古屋別院で営まれ墓所は千種区の大龍寺にある。 山田才吉が手がけた建築物[編集] 東陽館[編集] 1895年(明治28年)3月1日、東陽町(現在の中区栄五丁目24付近)に料理旅館「東陽館」を開業。6000坪におよぶ広い敷地を持ち、実業界での才吉の名を高めた。北寄りの東陽町沿いには御殿風檜皮葺屋根の2階建の本館が建てられた。階上386畳の大広間を持ち西側には間口30尺奥行18尺の舞台が、三方には2間の畳廊下とその外側に1間の板張り廊下が供えられていた。階下は20室に区画され1室の広さは8畳ないし32畳で計354畳あり、各部屋は四季にちなんだ名前が付けられた。 本館南側の庭園には人工の築山や舟遊びが出来る池を配置。庭園内には58の小座敷の建物を点在させ、広さは計314畳。他には小料理店、すし店、売店、汁粉屋、菓子店、雑品店、温泉諸遊戯場を設け、当時の市民にとって名古屋唯一の憩いの場所だった。明治30年代になり国内では各地の名所を讃えた流行歌が現れてくるが、その代表作『流行名所節』の名古屋を唄った箇所にも「名古屋名所を知らないお方に、名古屋名所を知らせたい。東陽館には建中寺、東掛所にノーエ、金のしゃちほこ、いつもぴかぴか」と東陽館が登場する。 1903年(明治36年)8月13日に客が投げ捨てた煙草の吸殻が原因で本館南側から出火。火災で本館を焼失した。120坪の平屋建の本館が再建されて営業は継続されたが昭和時代初期に閉館した。かつての「東陽町」および現在の「東陽通」の名前は東陽館に由来する。 南陽館と名古屋教育水族館[編集]
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