Month: May 2020

山高昭 – Wikipedia

山高 昭(やまたか あきら、1927年 – 1993年4月18日)は、日本の翻訳家、編集者。 東京・赤坂生まれ。1952年、東京大学理学部化学科卒業。岩波書店に入社し、雑誌「科学」を担当し。その後、英和辞典や広辞苑の編集にも携わる。アイザック・アシモフのエッセイ集を訳したのをきっかけに、SFの翻訳をはじめる。以後25年間、編集と翻訳家の二足のワラジで活躍、主にハードSFを翻訳した。 1987年、退職し、以後翻訳に専念。主訳書にシェフィールド「星ぼしに架ける橋」、ベンフォード「星々の海をこえて」、アシモフ「見果てぬ時空」「木星買います」「アシモフ自伝」、A.C.クラーク「宇宙島へ行く少年」「楽園の泉」他。 宇宙文明論 アーサー・C・クラーク 早川書房 1965 (ハヤカワ・ライブラリー) 空想自然科学入門 アイザック・アシモフ 小尾信弥共訳 早川書房 1968 (ハヤカワ・ライブラリー) のち文庫 生命と非生命のあいだ アイザック・アシモフ 早川書房

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フォッシュ (重巡洋艦) – Wikipedia

フォッシュ(croiseur lourd Foch)はフランス海軍のシュフラン級の1隻。艦名は第一次世界大戦時の連合軍総司令官であり1929年に没したフェルディナン・フォッシュにちなむ。[2] 就役後しばらくは姉妹艦「デュプレクス」と共に地中海で活動していたが1940年よりイギリス海軍と共に南大西洋及びアフリカ西方でドイツ海軍の通商破壊艦への哨戒任務に就いていた。[3] 第二次世界大戦時には1940年6月13日に僚艦「アルジェリー」と共に第1駆逐隊(駆逐艦ヴォーバン、リヨン、エーグル)、第5駆逐隊(駆逐艦タルテュ、シュヴァリエ・ポール、カサール)らの大型駆逐艦を率いてイタリア本土のジェノヴァを砲撃する作戦を行い、損傷を受けることなくトゥーロンへ凱旋した。(ジェノヴァ砲撃) 1942年11月11日にドイツ陸軍が南部フランスへと進駐するにあたり、トゥーロンにあった本艦を含む地中海艦隊は同月15日にはヴィシー政府のペタン首班、ラヴェル副首班、海軍大臣ウファン(Gabriel Auphan)、海軍大将ド・ラボルド(Jean de Laborde)とのあいだで合意がなされており[4]、同月27日に海軍大将ド・ラボルドの命令により一斉自沈を行った。[5]その後、イタリア軍に鹵獲された本艦は1943年4月に浮揚されたが修理はされずに解体処分となった。[6] 参考図書[編集] 「世界の艦船 増刊第50集 フランス巡洋艦史」(海人社) 「世界の艦船 1986年1月増刊号 近代巡洋艦史」(海人社) 「世界の艦船 2010年1月増刊号 近代巡洋艦史」(海人社) 「世界の重巡洋艦パーフェクトガイド」(学習研究社)

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山田才吉 – Wikipedia

山田 才吉(やまだ さいきち、1852年8月19日 – 1937年1月31日)は、日本の実業家。美濃国出身。 料理人から経営者に[編集] 嘉永5年(1852年)、美濃国厚見郡富茂登村(現在の岐阜県岐阜市大仏町)で料理屋を営業していた山田辰次郎の長男として生まれる。板前などを経て名古屋の熱田神戸町・大須門前町に店を構え、1881年(明治14年)には末広町3丁目(現在の栄)の若宮八幡社西隣に漬物屋「きた福」を開店。この頃に守口漬(守口大根の味醂粕漬)を考案したとされ、これが評判を呼んだ[5]。なお、才吉が創業したきた福は同店から暖簾分けした「松喜屋」に屋号など含めて生前に売却され、「喜多福総本家」として現在も守口漬の製造販売を続けている。 1884年(明治17年)3月、缶詰工場を新開地(東築地5号地)において立ち上げて、愛知県下で初めて缶詰製造販売に参入した。初めは中京地方で多く取れるマツタケを貯蔵法を探っていたが、従来の塩漬では風味が壊されるため、塩漬けに代わる貯蔵法を考えていた。宮内省大膳職に務めていた弟から外国には缶詰というものがあることを聞き、缶詰事業に取りかかった。当初マツタケとタケノコの水煮から手がけ、ハマグリの時雨煮など、すべて才吉自身の創意工夫で種目を次第に増やした。1885年(明治18年)に東京支店、1890年(明治23年)に大阪支店を開いて販売網を広げると共に海外への輸出にも備えた。 缶詰事業の中で特筆すべきはイワシ油漬である。1901年(明治34年)に愛知県水産試験場が第1回のイワシ油漬缶詰の試験製造を始めた。才吉は農商務省水産局長の誘いで、1902年(明治35年)に日本罐詰合資会社を設立。同社は愛知水産試験場の製品を大部分を買い取り、外国市場を綿密に調査し本格的な販売対策を始めた。翌年に日本罐詰合資会社を株式会社に改組。1906年(明治39年)には愛知県知多郡豊浜、三重県志摩郡桃取に工場を新設し、愛知水産試験場のイワシ油漬缶詰の製造事業を譲り受けた。日清戦争・日露戦争で牛肉、福神漬、各種水産物の軍用缶詰の注文を受けて更なる財を為した。 ガス会社設立と政界進出[編集] 1887年(明治20年)中京新報(後の名古屋新聞で現在の中日新聞)を創刊した。才吉は政界へも関心を寄せた。1892年(明治25年)12月20日夜に末広座で開かれた政談演説会で弁士に立つと、1893年(明治26年)名古屋自由会発足にあたり幹部に就任。1895年(明治28年)には名古屋市議会議員に初当選した。1897年(明治30年)には現在の中区に料理旅館「東陽館」を開業。東陽館は396畳の大広間を併設した公会堂のような性格を持っており、伊藤博文や尾崎行雄も東陽館を訪れている。1899年(明治32年)には愛知県議会議員となり長らく議席を保持し市政・県政の運営に関与した。1901年(明治34年)には名古屋商業会議所議員に選出。1904年(明治37年)に愛知県五二会の幹事長に就く。 これら活動に並行してガス事業も手がけた。1896年(明治29年)当時の愛知県知事・時任為基の熱心な誘いもあり愛知瓦斯株式会社を創設。翌1897年(明治30年)には愛知県から許可が下り事業を開始しようとした。しかし時期が日清戦争時後の不況と重なり株式の募集が思うように運ばず計画は一時中断。その約10年後、日露戦争の勝利にわく国内で起業熱の高まりや会社の拡張が盛んになると、才吉は再びガス会社の設立に着手した。ところが時を同じくして奥田正香、服部小十郎らが東京の渋沢栄一、大阪の藤本清兵衛を誘いガス事業を計画すると、双方の陣営は衝突。当時の愛知県知事・深野一三の調停で協定となり、1906年(明治39年)に愛知瓦斯株式会社を名古屋瓦斯株式会社(現在の東邦ガス)と改称してガス事業をスタートさせた。同社の生みの親である才吉は創立から1915年(大正4年)まで重役を務め、特に1909年(明治42年)から1913年(大正2年)までは取締役として社業の発展に貢献した。 巨大施設を次々と建設[編集] 1910年(明治43年)現在の港区に南陽館と名古屋教育水族館を開き、白鳥橋と南陽館前をつなぐ熱田電気軌道(後に名古屋鉄道の前身である名古屋電気鉄道と合併)を敷設。同年には知多電車軌道の発起人にも名を連ねるとともに、柳橋に中央市場株式会社を設立した。同年東陽館で当時名古屋市新出来町にあった大龍寺の五百羅漢出開帳を行い、翌年同寺の名古屋市城山(現在の千種区)への移転計画を発表した。1911年(明治44年)には大曽根市場を開業。1916年(大正5年)現在の東海市に料理旅館「聚楽園」を開園した。1918年(大正7年)大龍寺の移転事業が終わり、同寺で入仏大供養が3日間にわたり開かれた。1924年(大正13年)現在の可児市に料理旅館「北陽館」を開業。日本ライン開発を進めた。1927年(昭和2年)聚楽園の敷地内に聚楽園大仏を建立した。晩年は聚楽園で暮らし1937年(昭和12年)1月31日没。享年85。葬儀は本願寺名古屋別院で営まれ墓所は千種区の大龍寺にある。 山田才吉が手がけた建築物[編集] 東陽館[編集] 1895年(明治28年)3月1日、東陽町(現在の中区栄五丁目24付近)に料理旅館「東陽館」を開業。6000坪におよぶ広い敷地を持ち、実業界での才吉の名を高めた。北寄りの東陽町沿いには御殿風檜皮葺屋根の2階建の本館が建てられた。階上386畳の大広間を持ち西側には間口30尺奥行18尺の舞台が、三方には2間の畳廊下とその外側に1間の板張り廊下が供えられていた。階下は20室に区画され1室の広さは8畳ないし32畳で計354畳あり、各部屋は四季にちなんだ名前が付けられた。 本館南側の庭園には人工の築山や舟遊びが出来る池を配置。庭園内には58の小座敷の建物を点在させ、広さは計314畳。他には小料理店、すし店、売店、汁粉屋、菓子店、雑品店、温泉諸遊戯場を設け、当時の市民にとって名古屋唯一の憩いの場所だった。明治30年代になり国内では各地の名所を讃えた流行歌が現れてくるが、その代表作『流行名所節』の名古屋を唄った箇所にも「名古屋名所を知らないお方に、名古屋名所を知らせたい。東陽館には建中寺、東掛所にノーエ、金のしゃちほこ、いつもぴかぴか」と東陽館が登場する。 1903年(明治36年)8月13日に客が投げ捨てた煙草の吸殻が原因で本館南側から出火。火災で本館を焼失した。120坪の平屋建の本館が再建されて営業は継続されたが昭和時代初期に閉館した。かつての「東陽町」および現在の「東陽通」の名前は東陽館に由来する。 南陽館と名古屋教育水族館[編集]

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カイちゃん – Wikipedia

カイちゃんは、吉本興業に所属する日本のお笑い芸人。 竹原慎二&畑山隆則のボクサ・フィットネス・ジムへ所属していた元プロボクサーであり、リングネームはカイ・ジョンソン[1][2][3][4]、由来は往年のNBAのスーパースターマジック・ジョンソンから[5]。現役時代の戦績は20戦5勝(高野人母美などから2KO[6][7])12敗3分。東洋太平洋スーパーフライ級(対戦相手は小澤瑶生)、日本バンタム級(対戦相手は吉田実代)で1位となった経験を持つ[2][8][9]。なお、プロボクサー時代にも日本テレビ系『幸せ!ボンビーガール』への出演歴がある[10]。 カリフォルニア州立大学卒業、当時のカリフォルニア州知事だったアーノルド・シュワルツェネッガーのサインが卒業証書にて書かれている。大学の先輩にはトム・ハンクスがいた[11]。 一時期、同期の大天使マイク・こだま児玉と共にトリオ『赤鬼合衆国』を組んでいた[12][13]。2020年のキングオブコントでは準々決勝進出。 体重65kg。 趣味はウーバーイーツ配達。特技は英語、ボクシング(前述の通りプロとしての経歴あり、他には藤本奈月・三好喜美佳などと対戦した実績を持つ)。 手作りの小道具を生かしたコントを主に演じる。 M-1グランプリには2020年大会において『赤鬼合衆国』として出場し2回戦進出。2021年大会では、『カマンベールガイモン』[14]として出場するも1回戦敗退に終わっている。 ^ “カイ・ジョンソン(Kai Johnson)” (日本語). 女子ボクシング 選手名鑑 -戦績一覧- -戦歴一覧- (2020年5月30日). 2021年11月25日閲覧。 ^ a b

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松井恵理子・松嵜麗の声優アニ雑団 – Wikipedia

松井恵理子・松嵜麗の声優アニ雑団(まついえりこ・まつざきれいのせいゆうあにざつだん)はインターネットテレビ局AbemaTVのアニメLIVEチャンネルで2018年4月10日から2018年9月18日まで配信されていた声優トークバラエティ番組。2016年4月12日から2018年3月20日までは、AbemaSPECIALチャンネルで配信されていた。 なお、Twitterでリアルタイムに番組を実況するツイートをする際には、ツイートに、ハッシュタグ#AbemaTVと#アニ雑団を同時に付けることが推奨されている。 『アイドルマスター シンデレラガールズ』等で共演している声優の松井と松嵜が、互いに好きなアニメ・漫画に関して毎週お題を決めつつ生配信でトークを繰り広げる。加えて視聴者へも先述のTwitterからのコメントやメールを募り、意見を求めていく。 寝室のようなスタジオセットでパジャマ姿で進行していくが、毎回番組冒頭はスマホを使ってtwitterでつぶやいたり、東京ヤクルトスワローズファンの松嵜が当日の試合状況を確認したりしていて、番組が始まっているのに気付かないという体裁で開始するのがお約束となっている。試合状況や結果によって松嵜の機嫌も変わる。 2016年6月18日(土曜日)に番組初の過去回一挙配信が行われた[2]。 2016年7月26日、2017年8月15日配信分はカラオケ回として、アニメソングを中心としたカラオケの模様が放送された。2017年4月から9月まで「WEEKDAYS PM 10:00 ON AIR」枠番組として配信。 2018年4月からはAbemaSPECIALチャンネルからアニメLIVEチャンネルに移動した上、配信時間を1時間繰り上げる。2018年9月18日で最終回を迎えた。 コーナー[編集] 今週の趣味語り 松井と松嵜、さらにゲスト出演回ではゲストも交えて、それぞれの趣味に関する近況を報告する。 ゲストになんでもアンケート ゲストが事前に回答したアンケートをもとに、ゲストの人となりを掘り下げるコーナー。 松井・松嵜のアニ雑談 毎週お題が決められ、それに沿って松井と松嵜(ゲスト出演回にはゲストも交え)、視聴者から作品を挙げていって思い入れをトークしていく。 ゆる〜い人生相談

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ノーバディ・エルス – Wikipedia

『ノーバディ・エルス』(Nobody Else)は、1995年にリリースされたテイク・ザットの3枚目のスタジオ・アルバムである[1]。 解散前最後のスタジオ・アルバム(後に再結成)。 # タイトル 作詞・作曲 プロデューサー 時間 1. 「シュア」(Sure) ゲイリー・バーロウ、マーク・オーエン、ロビー・ウィリアムズ Brothers in Rhythm、バーロウ 3:42 2. 「バック・フォー・グッド」(Back for Good) バーロウ

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いち・にの三太郎〜赤坂月曜宵の口 – Wikipedia

『いち・にの三太郎〜赤坂月曜宵の口』(いち・にのさんたろう あかさかげつようよいのくち)は、TBSラジオで放送されていた生ワイド番組。2016年7月4日に放送開始。2017年3月27日に放送終了。 永六輔がパーソナリティを務めてきた『土曜ワイドラジオTOKYO 永六輔その新世界』は2015年9月26日で終了。番組の体裁はそのままに、月曜夜に『六輔七転八倒九十分』を開始した。しかし、永が背中の痛みの治療と、その間に患った肺炎のため、2016年2月より番組を休むこととなり、6月27日を以って、永は番組を降板。『六輔七転八倒九十分』は終了した。 これに伴い、『永六輔その新世界』から『七転八倒九十分』に掛けて出演して来た、はぶ三太郎をメイン パーソナリティに据えた新番組を開始することが決まり、長峰由紀と外山惠理も引き続き、隔週交代で出演する。番組内容は前番組から継承するが、2015年12月の没後も続けられていた野坂昭如からの手紙のコーナーは終了し、永の放送音源を紹介するコーナー「六輔語録」となった。ラッキィ池田も不定期ではあるが、番組冒頭に電話出演をしている。 『七転八倒九十分』時代から放送中の電話、FAX、メールの宛先の紹介を行う。 番組2回目となる2016年7月11日の放送では、『七転八倒九十分』のパーソナリティを務めた永六輔が7月7日に逝去したことを受け、番組内容を大幅に変更。永の追悼特別企画を放送した。三太郎、外山、長峰とゲストのピーコが生前の永のラジオ音源を聴きながら、在りし日の永を偲んだ。永の次女で、元フジテレビ アナウンサーの永麻理も葬儀からそのまま駆けつけ、父との突然の別れを惜しんだ。同日の放送では、オープニングに永が作詞した坂本九の『上を向いて歩こう』を掛け、エンディングも、永が作詞した坂本九の『見上げてごらん夜の星を』が流れた[1]。 また、2016年7月25日放送分では、7月12日に逝去し、7月20日に訃報が公表された大橋巨泉の追悼特集を放送し、『七転八倒九十分』の第1回(2015年9月28日放送)に巨泉がゲスト出演した際の音源が放送された[2]。 しかし、2017年2月20日放送の冒頭で、3月いっぱいで放送を終了する事が発表され、前番組の『七転八倒九十分』同様、約9ヶ月で幕を閉じる事になり、3月27日が最終回となった[3]。 放送時間[編集] 毎週月曜 18:00 – 19:30 パーソナリティ[編集] アシスタント[編集] 外山アナの代理アシスタント[編集] 戸崎貴広(TBSアナウンサー)2016年10月17日、2017年1月23日、2017年3月6日

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大和球士 – Wikipedia

大和 球士(やまと きゅうし、1910年4月14日 – 1992年3月4日)は、日本のスポーツライター。本名:安藤 教雄[1][2](あんどう のりお)。埼玉県出身。 野球選手としての経験はない[3]ものの、野球記者・野球評論家として活動した。 来歴・人物[編集] 戦前、都新聞(現:東京新聞)記者。当時は社会記者だったが後にスポーツ部へ配属される。当時、日本は太平洋戦争(第二次世界大戦)の真っ只中にあり、当時の突貫精神を意識して「大和魂」と「野球博士」を絡ませたペンネームとして「大和球士」なる名前が付けられた。 戦後はフリーのスポーツライターとして主として野球を中心に取材した。1950年には参議院選挙に全国区から立候補したが落選している。1952年からはライター活動と並行し、ラジオ東京(1960年11月29日より、東京放送=TBS)[4]専属のプロ野球解説者として、1974年までラジオ・テレビに登場していた(1957年までは同局唯一の専属解説者だった)。専属から離れる同年11月には、プロ野球中継での解説が評価され、TBSラジオからゴールデンマイク賞を受賞した[5]。 晩年は野球殿堂の特別表彰委員会の選考委員をつとめた。 「タコ足」(中河美芳)[6]「弾丸ライナー」(川上哲治)「塀際の魔術師」(平山菊二)[1]といったプロ野球選手へのキャッチコピーの名付け親である。また、コラムなどの文中では「川上九連覇」や「王酒豪」といったその人の特徴やエピソードに因んだ呼称を用いた(考案した)。 プロ野球創成期から2リーグ分立にかけて、東京巨人軍と鈴木龍二、赤嶺昌志らが企てた数々の策謀を描いた書籍『プロ野球三国志』シリーズ(もともとは日刊スポーツでの連載作品)は、大和の野球ライターとしての集大成的な作品となった。また、『真説日本野球史』は明治から第二次大戦後までの野球史をまとめた書籍として、現在でも資料価値が高く、Wikipediaを含む多くの出版物で情報源として使用されている。 ラジオ東京と解説者契約をしたきっかけについて、1951年11月に『民放におけるプロ野球放送私案』と題した小論文(NHKのようなかたい放送ではなく、楽しい放送をすべきという旨の案)をもって開局事務所を訪れ、当時の社長足立正との会食で私案を説明し、足立から連絡を受けた運動部長の鈴木恒治より私案を採用され自身も契約に至った事を、会社創立20周年を迎えた1971年に当時のTBSが発行した社内報で明かしている[7]。 1992年3月4日、死去。享年82。 詳細情報[編集] 著書[編集] プロ野球名選手物語(1955年、朋文堂) –

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逆転裁判シリーズの世界における年表 – Wikipedia

逆転裁判シリーズの世界における年表(ぎゃくてんさいばんシリーズにおけるねんぴょう)では、カプコンの法廷バトルアドベンチャーゲーム『逆転裁判』(世界観が同じ逆転検事と前日談の大逆転裁判を含む)における架空の出来事を年表形式に掲載する。この世界の出来事は現実の時間軸に沿って展開する設定になっており、以下の年代表記は西暦を用いている。 紀元前2000年代[編集] 紀元前2000年 西鳳民国の狼一族の祖・狼子、悪人捕縛の方法「逮捕学」を作り上げる(逆転検事) 1800年代[編集] 1818年 高菱屋百貨店が創業する(逆転裁判3)。 1876年 成歩堂 龍之介誕生。 1899年 11月19日、事件に巻き込まれ犯人にされるが、11月22日、御琴羽教授の提案で自分で自分を弁護する裁判で亜双義の協力もあり無罪を勝ち取る。[1]。 成歩堂 龍之介、ロンドンへ旅立つ[2]。 1900年代[編集] 1900年 2月18日、ロンドンに到着後、成歩堂 龍之介初の法廷に立つ。[3]。 1941年 鹿羽

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