出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2014年2月) 箱館戦争(はこだてせんそう、慶応4年/明治元年〈1868年〉 – 明治2年(1869年〉)は、戊辰戦争の戦闘の一つで、新政府軍と旧幕府軍との最後の戦闘である。旧幕府軍の本拠地が蝦夷地だったことから「五稜郭の戦い」とも呼ばれる。この戦争の最中に干支が戊辰から己巳に替わったことから、己巳の役(きしのえき)と呼ばれることもある。 慶応4年(1868年)4月、江戸城無血開城により、戊辰戦争は北陸、東北へ舞台を移した。5月、新政府が決定した徳川家への処置は、駿河、遠江70万石への減封というものであった。これにより約8万人の幕臣を養うことは困難となり、多くの幕臣が路頭に迷うことを憂いた海軍副総裁の榎本武揚は、蝦夷地に旧幕臣を移住させ、北方の防備と開拓にあたらせようと画策する。 榎本艦隊の北行[編集] 榎本は新政府への軍艦の引渡しに応じず、4月12日、悪天候を理由に艦隊を館山沖へ移動。恭順派の勝海舟の説得で品川沖に戻り、富士山丸・観光丸・朝陽丸・翔鶴丸の4隻を新政府に引渡すが、開陽など主力艦の温存に成功した。7月、榎本に対して仙台藩を中心とする奥羽越列藩同盟から支援要請があり、8月20日、開陽を旗艦として8隻からなる旧幕府艦隊(開陽・蟠竜・回天・千代田形の軍艦4隻と咸臨丸・長鯨丸・神速丸・美賀保丸の運送船4隻)が品川沖を脱走し、仙台を目指した。 蝦夷へ向かう旧幕府軍 品川沖を脱走する旧幕府艦隊左から美賀保丸、長鯨丸、咸臨丸、開陽、回天 この榎本艦隊には、若年寄・永井尚志、陸軍奉行並・松平太郎などの重役の他、大塚霍之丞や丸毛利恒など彰義隊の生き残りと人見勝太郎や伊庭八郎などの遊撃隊、そして、旧幕府軍事顧問団の一員だったジュール・ブリュネとアンドレ・カズヌーヴらフランス軍人など、総勢2,000余名が乗船していた。 榎本艦隊は出航翌日から悪天候に見舞われて離散し、咸臨丸・美賀保丸の2隻を失いながらも9月中頃までに仙台東名浜沖に集結した。直ちに艦の修繕と補給を行うとともに、庄内藩支援のために千代田形と陸兵約100名を乗せた長崎丸を派遣した。しかしその頃には奥羽越列藩同盟は崩壊しており、米沢藩、仙台藩、会津藩と主だった藩が相次いで降伏。庄内藩も援軍が到着する前に降伏し、これにより東北戦線は終結した。 榎本艦隊は、幕府が仙台藩に貸与していた運送船・太江丸、鳳凰丸を加え、桑名藩主・松平定敬、備中松山藩主・板倉勝静、唐津藩世子・小笠原長行、歩兵奉行・大鳥圭介、旧新選組副長・土方歳三らと旧幕臣からなる伝習隊、衝鋒隊、仙台藩を脱藩した額兵隊などの兵を収容。榎本艦隊は官軍の仙台城入城を受けて、10月9日、東名浜から牡鹿半島基部の折浜(現石巻市)に移動。その際、平潟口総督四条隆謌宛てに旧幕臣の救済のため蝦夷地を開拓するという内容の嘆願書を提出する[1]。旧幕府軍は4,000名あまりに膨れ上がったため、新政府軍は2,000名ほどの軍勢を石巻に向けて進軍させることとなった。戦闘になることを恐れた仙台藩は、石巻の豪商を通じて榎本武揚に大量の兵糧や物資を提供し、退去してもらうよう交渉した。榎本はこれに応じ、艦隊に精兵2,000あまりを抽出乗船させ、10月12日に折浜を出航し宮古湾に向かった。取り残された旧幕府軍は四散したが、逃げ遅れた100名以上の兵が新政府軍に捕縛されて浜辺で次々と斬首され、町に首が晒された。 石巻を退去した榎本艦隊は、回天が気仙沼で幕府が仙台藩に貸与していた千秋丸を拿捕。宮古湾で薪を補給、10月18日、蝦夷地に向け出港した。 箱館港には官軍の防備があるため、危険を冒しての敵前上陸を行わず、まず安全な地点に部隊を上陸させれば、兵力差のある新政府軍を野戦で撃破することは容易と考え、箱館の北、内浦湾に面する鷲ノ木を上陸地点とし、10月21日(グレゴリオ暦1868年12月4日)に約3,000名が上陸した[2]。 旧幕府軍の蝦夷地平定[編集] 箱館制圧[編集] 明治維新時には松前・江差周辺の松前藩領を除き蝦夷地の大部分は幕府が直轄し、箱館奉行が置かれていたが、新政府はこれに代わり、箱館府を設置した。幕府直轄時代には奥羽諸藩が蝦夷地に兵を派遣していたが、東北戦争に伴い悉く撤兵し、防備兵力は僅かな箱館府兵と松前藩兵のみとなっていた。かかる中、榎本艦隊の北行が判明したため、箱館府は援軍を要請、一番近い弘前藩から家老杉山成知以下4小隊が10月19日、秋田に入港していた福山藩兵約700名および大野藩兵約170名が野田豁通に率いられ10月20日に箱館に到着、これらで旧幕府軍を迎え撃つこととなった[3]。 旧幕府軍は上陸後、大鳥圭介率いる隊が峠下・七重方面から、土方歳三率いる隊が鹿部・川汲峠を経て湯の川方面からと、二手に分かれて箱館へ向けて進軍するが、無用な戦闘は意図しておらず、まずは箱館府知事・清水谷公考に使者を派遣した。新政府への嘆願書[注釈 1]をたずさえた人見勝太郎・本多幸七郎ら30名が先行するが、明治元年(1868年)10月22日夜、峠下に宿営中、箱館府軍の奇襲を受け、戦端が開かれる[5]。 五稜郭本陣
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