Month: November 2020

電車 – Wikipedia

「電動貨車」はこの項目へ転送されています。電動貨車の用途別の分類については「貨車」をご覧ください。 「寝台電車」はこの項目へ転送されています。寝台車として運行する電車列車については「寝台列車」をご覧ください。 この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “電車” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2011年1月) 電車(でんしゃ)は、鉄道車両のうち、電気を動力として自走する事が可能な客車や貨車の総称である。すなわち、客車や貨車そのものに動力が備わっており、機関車なしで自走可能な「電動客車」および「電動貨車」を指す。「電気列車」または「電動列車」とも呼ばれる。 電車のうち、動力を持つ車両は電動車、動力を持たず電動車と編成を組む車両は付随車と称する。 電動機を駆動する電力は、集電装置により外部から取り込む場合と、車載の蓄電池から供給する場合の2通りがある。車上の内燃機関で発電機を稼動させ、得られた電力で電動機を駆動する車両は電気式気動車と呼ばれ「電車」には含まれない[注釈 1]。 また、電気を動力にする鉄道車両としては電気機関車もあるが、これも電車には含まれない。 もともと「電車」は、自走式の電動機付き客車「電動客車」、および事業用車を含む電動機付き貨車「電動貨車など」の略称だったが、現在では一般名詞となり、各省庁をはじめ、運輸事業者や車両製造会社でも正式に用いられている。 更に近年では、電気機関車などの電気を動力とする列車全般を「電車」と呼んだり、電気以外の機関車、客車、貨車、気動車も含め、列車や鉄道路線、さらには鉄道そのものに対する一般名詞として「電車」を用いる誤用が多く見られるが、これも誤用から転じて一般名詞になりつつある。 英名については本文#「EC」と「EMU」で詳述する。 世界最初の電車(電動車)は、ジーメンスが1879年にドイツのベルリン工業博覧会において、今で言う電気機関車が人の乗った客車を牽引して披露されたのが最初とされている[1]。

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おおすみ (フェリー) – Wikipedia

おおすみは、日本カーフェリーが運航していたフェリー。 志布志航路の開設にあたって幸陽船渠で建造され、1980年3月に就航した。本船が日本カーフェリーとしては最後の新造船となった。 1982年11月、志布志航路の廃止により、日向航路に転配されるが、1986年3月に引退した。 その後、韓国の国際フェリーへ売却され、Olympia 88となり、大阪 – 釜山航路に就航した。1988年1月には幸陽船渠で定期検査と合わせて旅客スペースの拡大工事を実施、旅客定員が100名増加した[2]。1990年7月に日本側の発着地を神戸港に変更した。1993年5月に航路休止となった。 1993年、ウェイドンフェリー(威東航運)に売却され、New Golden Bridgeとなり、仁川 – 威海航路などに就航した。 2003年、Seayang Shippingに売却され、Morning Gloryとなった。 2005年、KC Lineに売却され、KC Bridgeとなった。 2008年6月21日、C &

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王宮 (マドリード) – Wikipedia

マドリード王宮 マドリード王宮(マドリードおうきゅう、西: Palacio Real de Madrid)は、スペイン・マドリードにある宮殿。オリエンテ宮殿(Palacio de Oriente)とも呼ばれる、スペイン王の王宮である。実際には国王や王族は住んでおらず、彼らは郊外にあるマドリード王宮より小さなサルスエラ宮殿に好んで暮らす。しかし、マドリード王宮は未だに国の行事に使用されている。宮殿はスペイン政府の所有で、外局の国家遺産局(Patrimonio Nacional)が管理している。 王宮は、マドリード中心部の西部バイレン通りにある。東はマンサナーレス川で、マドリード地下鉄オペラ駅が最寄りである。宮殿は、公的行事で使用される時を除き、一般公開されている。 庭園から見た王宮 王宮 現在、宮殿のある場所は、10世紀からマイリット(mayrit)と呼ばれる要塞が建っていた。マイリットはコルドバ太守モハンマド1世 (en) の辺境地として建設され、1036年のムーア人のトレド王国独立後はムーア人に継承された。1085年、マドリードがカスティーリャ王アルフォンソ6世によって陥落すると、大邸宅はカスティーリャ王に使用された。1329年に、カスティーリャ王アルフォンソ11世は初めてマドリードにコルテスを招集した。フェリペ2世は1561年に宮廷をマドリードに移した。 古いアルカサル(Antiguo Alcázar)は、この場所に16世紀に建てられた。アルカサルは、1734年12月24日に全焼したがフェリペ5世は同じ場所に新たな宮殿の建設を命じた。建設は1738年から1755年にかけて行われ、フィリッポ・ユヴァーラとジョヴァンニ・バッティスタ・サンチェッティによってベルニーニ風に建てられた。協力したのはベントゥラ・ロドリゲス、フランチェスコ・サバティーニ、スシメントである。1764年に新たな宮殿を占有したのは、カルロス3世であった。 王座の間 王立武具博物館 広大な宮殿は、ディエゴ・ベラスケス、ジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロ、アントン・ラファエル・メングス、ガスパリーニ、フアン・デ・フランデス、カラヴァッジオ、フランシスコ・デ・ゴヤといった芸術家の作品で贅沢に飾られている。歴史的に重要性のある王家の収集品のいくつかは宮殿内にあり、13世紀以降の兵器類を収める王立武具博物館、世界で唯一の完全なストラディヴァリウスの弦楽四重奏、タペストリー、磁器類、家具などを含む。 宮殿の西部分は、カンポ・デル・モーロという庭園である。1109年にここでムーア人首領アリ・ベン・ユースフとその部下たちが、キリスト教徒からマドリードとアルカサルを奪還しようとした故事にちなむ名前である。宮殿の東ファサードはオリエンテ広場とオペラハウスである王立劇場に面している。南側はアルマス広場という広い広場で、宮殿の狭い翼で囲まれている。同じく南側はアルムデナ大聖堂に面している。北側はサバティーニ庭園がある(建築家サバティーニにちなんだもの)。 アストゥリアス公フェリペ(のちの国王フェリペ6世)と民間出身の妃レティシアの結婚披露宴は2004年5月22日、宮殿の中央にある庭で行われた。

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本泉莉奈 – Wikipedia

発売日 商品名 歌 楽曲 備考 2018年 3月7日 We can!! HUGっと!プリキュア/HUGっと!未来☆ドリーマー キュアエール(引坂理絵)、キュアアンジュ(本泉莉奈)、キュアエトワール(小倉唯) 「HUGっと!未来☆ドリーマー」 テレビアニメ『HUGっと!プリキュア』エンディングテーマ 5月23日 HUGっと!プリキュア キャラクターシングル キュアアンジュ(本泉莉奈) 「イマージュの翼」 テレビアニメ『HUGっと!プリキュア』関連曲 7月4日

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American Megatrends – Wikipedia

American Megatrends Incorporated(アメリカン・メガトレンズ・インコーポレーテッド、AMI、または、アメリカンメガトレンド)はアメリカ合衆国ジョージア州に本社を置くパーソナルコンピュータ向けハードウェア・ソフトウェアの開発を行う企業。2005年まで同社の日本代理店であったアメリカンメガトレンド(現・プラネックスカーズ)についてもここに記述する。なお、本記事においては略称のAMIと称する。 AMIは1985年にインド・チェンナイ出身のサブラモニアン・シャンカー(Subramonian Shankar)によって設立された[10]。同社はハイエンドを対象としたマザーボードメーカーとして開業した。その最初の顧客はPC’s Limited[4](後のデル[11])で、初期のIntel 80386設計マシンであった。 ハードウェア事業は台湾でのODMに移し[12]、AMIは主要なマザーボードメーカーにBIOSファームウェアを供給し続けた。同社はマザーボード用BIOSソフトウェア、サーバー用マザーボード、ストレージコントローラ、リモート管理カードを手がけた。 1996年、AMIはストレージコントローラ(RAIDカード)のMegaRAIDを開発し、HPやデルといった主要なOEMに採用された。RAID事業は2001年にLSIロジック[4] に売却された。[13] 2011年時点でもAMIはOEMを中心とした事業を継続している。製品の系統はAMIBIOS、Aptio(UEFI標準をベースとしたAMIBIOS8の後継)、診断ソフト、リモートアクセスファームウェア、マザーボード、SGPIOバックプレーンコントローラ、ドライバ・ファームウェア開発、プロセッサ供給、中小企業向けNAS・SANストレージシステム、Androidオペレーティングシステム用のソリューション事業など。[4] AMIBIOS(AMI BIOSとも書く)はAMIによって開発・販売されているIBM PC互換BIOSである。1994年頃には、同社の発表では75%のPC互換機にAMIBIOSが使われていた。[14] AMIはAMIBIOSに関しては厳格なOEMビジネスモデルを持っている。マザーボードメーカーに対しては、どんな取引形態を持ちかけられようと、ソースコードを販売、あるいはそれぞれのOEM先に個別にAMIBIOSをカスタマイズして提供した。AMIBIOSはエンドユーザーには販売せず、従ってライセンス企業以外へはドキュメントや技術サポートを提供しなかった。ただし、同社は1994年と1995年にBIOSに関する書籍を2冊発行している[15]。 起動時、BIOSファームウェアは画面の左下隅にID文字列を表示する。このID文字列はファームウェアがいつコンパイルされたか、何の設定オプションが選択されたか、OEMライセンスコード、対象のチップセットとマザーボード、といった様々な情報の断片を含む。それには3種類のID文字書式があり、最初は古いAMIBIOS、2番目と3番目は比較的新しいAMI Hi-Flex(high flexibility) BIOSである。これらの文字はPOST中にInsertキーが押されているときに表示される。[15] 元々のAMI

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日野輝資 – Wikipedia

日野 輝資(ひの てるすけ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての公家。日野 唯心(ひの ゆいしん)とも。日野家28代当主。官位は正二位・権大納言。 藤原北家日野家庶流広橋家の出身で、権大納言・広橋国光の子。初名は広橋 兼保(ひろはし かねやす)または兼潔(かねきよ)といったが、後に本家筋の日野家を継いだ。 弘治元年(1555年)、広橋国光の子として生まれた。 天文24年9月、日野家では27代・晴光が薨去したものの、嗣子・晴資は早世してしまっており、後を継ぐべき子がいなかった。そのため、広橋国光の子・兼保を擁する13代将軍・足利義輝と、飛鳥井雅綱の子・資堯を擁する三好長慶との間で争いが生じた。 結局、日野流の柳原資定・広橋兼秀(兼保(輝資)の祖父)の賛同を得た義輝の意見が通り、永禄2年(1559年)4月23日に正親町天皇の承認によって、広橋兼保の日野家相続が決定され、直ちに侍従に任ぜられて日野家当主(嫡子)の慣例通り将軍家の一字(将軍義輝から「輝」の字)を与えられて、日野輝資と改名した(実家の広橋家は弟の広橋兼勝が代わって相続した)。 輝資は昵近公家衆として15代将軍・足利義昭に仕えるが、天正元年(1573年)7月に義昭が織田信長に対して挙兵するとこれに従った。義昭が巨椋池の傍にある槇島城に籠城すると、輝資は奉公衆の三淵藤英、政所の伊勢貞興、同じく昵近公家衆の高倉永相などと共に二条御所を任された。輝資らは籠城したものの、織田軍に御所を囲まれると、三淵藤英を一人残して降伏して退城した。 天正2年(1574年)3月26日、正親町天皇の勅使として、飛鳥井雅綱(雅清)と共に織田信長の下に訪れ、蘭奢待切り取りの勅許の旨を伝えた。 天正4年(1576年)2月1日、烏丸光宣・広橋兼勝らと共に山科言継・言経に同行し、村井貞勝を訪問した。 天正9年(1581年)2月28日、正親町天皇の御前で信長が行った京都御馬揃えにも公家衆の一人として参加している。 慶長7年(1602年)1月7日、近衛家との論争により京都を出奔する。2ヵ月後、徳川家康の取り計らいにより京都に戻る。 慶長11年(1606年)5月29日、家康から寸白の薬の膏薬を与えられる[1]。 慶長12年(1607年)5月、輝子の死去をきっかけにして、出家して唯心と号した。以後、江戸や駿府において徳川家康・秀忠父子に仕えて、近江国蒲生郡内において1,030石を与えられた。 元和9年(1623年)、秀忠の上洛に従って京都に戻った。 閏8月2日、薨去した。

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クサスギカズラ属 – Wikipedia

クサスギカズラ属 Asparagusは、キジカクシ科に属する植物の1群。多くは細かく細い葉を多数つけるように見えるが、これは茎の変形したものである。多くの実用的な種があり、それらは概してアスパラガスの名で呼ばれる。 クサスギカズラ属 オランダキジカクシAsparagus officinalis 分類(APG III) 学名 Asparagus 和名 クサスギカズラ属 この属の植物は、細かな線状の葉が多数着いているように見えるものが多い。だが、これは実は茎が細かく枝分かれしたものである。これを葉状枝、あるいは偽葉、仮葉等という[1]。本当の葉は鱗片状に退化し、茎に張り付くようになっている。根茎が発達し、地上部は草状から低木状、蔓状などになる。 姿形が面白く、あるいは美しくて観賞用に栽培されるものは数多く、食用となるものや薬用になるものがある。それらの多くは学名仮名読みのアスパラガスの名で流通する。 学名は、一説にはギリシア語の asparasso に由来するとも言われ、これは「刺す」の意味であり、ある種のものが鋭い棘を持つことによる。また異説ではギリシャの古名 asparaagos によるとされ、これは「甚だしく裂ける」の意味で、仮葉が細かく分かれていることによるという[2]。 地下に根茎を持つ多年生の植物[3]。多年生草本か半低木であり、茎が蔓性になるものもある。葉は退化して鱗片状となり、その葉腋から出る茎が扁平になり、葉のように見える。この仮葉は針状のものが多いが、糸状のものや、扁平で幅広いものもある[4]。 茎先端・鱗片状の葉が並ぶ(オランダキジカクシ)

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ドコモパシフィック – Wikipedia

グアムのドコモパシフィック店舗 ドコモパシフィック(DOCOMO PACIFIC, INC.)は、アメリカ合衆国・グアム及び北マリアナ諸島の電気通信事業者。現在はNTTドコモの完全子会社。 元々はグアムでGSM方式による携帯電話事業を行っていたGuam Wireless Telephone Company, LLC.(グアムワイヤレス、ブランド名は「HafaTEL」)と、同じくグアム・サイパンでCDMA方式による携帯電話事業を展開していたGuam Cellular & Paging, Inc.(グアムセルラー、ブランド名は「Guamcell Communications」及び「Saipancell Communications」)の2社が前身。 2006年3月にNTTドコモが、新たに設立した投資持株会社を通じてグアムセルラーを完全買収し、さらにグアムセルラーがグアムワイヤレスの営業譲渡を受ける形で両社を統合することを発表し[1]、最終的に同年11月に米国連邦通信委員会(FCC)による買収承認が下りたことで正式にNTTドコモ傘下入り[2]。2008年10月にはグアムセルラーの社名を現在の「ドコモパシフィック」に変更し[3] 現在に至る。 NOKIA、モトローラ、HTC、BlackBerryといった機種を扱っている。またその他にポケットベルも扱っている。 2010年9月からはNTTドコモの国際パケット定額サービスの「海外パケ・ホーダイ」の対象事業者となっている。 2013年5月には、グアム島内でケーブルテレビ・ISP事業を行っているMCV社を買収・統合し、携帯電話・CATV・固定電話等を提供する総合通信事業者となった[4]。

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伊号第五十八潜水艦 – Wikipedia

この項目では、1944年竣工の潜水艦について説明しています。1928年竣工の初代伊号第五十八潜水艦については「伊号第百五十八潜水艦」をご覧ください。 伊58(最終時)の模型 伊号第五十八潜水艦(いごうだいごじゅうはちせんすいかん)[1]は、大日本帝国海軍の潜水艦で、巡潜乙型潜水艦である伊五十四型潜水艦の一隻。この名を持つ日本海軍の潜水艦としては2隻目。 建造[編集] 1941年(昭和16年)の昭和17年度計画(マル追計画)により横須賀海軍工廠で建造され、1942年12月26日起工、1943年(昭和18年)10月9日進水、1944年(昭和19年)9月7日に竣工。呉鎮守府籍となり、訓練部隊の第六艦隊第11潜水戦隊に編入される。 12月4日第15潜水隊に編入、先遣部隊に配備された。これより先の11月、日本海軍は人間魚雷回天を戦線に初めて投入し、第一陣である菊水隊の回天がウルシー環礁で給油艦ミシシネワ(USS Mississinewa, AO-59) を撃沈する戦果を挙げていた。伊58も回天作戦に2回目から起用される事となった。 金剛隊[編集] 金剛隊は伊58を含む6隻の潜水艦、24基の回天を以って編成され[2]、伊58の攻撃目標はグアムアプラ港と指定された[2]。12月29日、伊58は呉を出港し、大津島に移動する。翌30日、伊58は大津島を出港し呉に移動。翌31日、呉を出撃。アプラ港はウルシー環礁と違って大型艦船は期待できなかったものの、彩雲の偵察に基づいて攻撃目標等が整理されていった[3]。伊58は攻撃予定日の前日である1945年1月11日にはグアム近海に到達したものの、アメリカ軍の警報を傍受して攻撃を繰り上げる事とした[4]。伊58はグアムから約32キロ離れた海上[4]に近接して4基の回天をすべて発進させた。1月12日の夜明けごろに橋本以行艦長(海軍兵学校59期)が潜望鏡で観測したところ、アプラ港の方角から黒煙が2筋たなびくのを目撃した[5]。伊58は潜航したまま西方へ避退した後浮上して、1月16日に戦果速報を打電[5]。1月22日、伊58は呉に帰投した[5]。 この攻撃の際、日本海軍はアメリカ側のおびただしい交信記録を傍受し、米護衛空母と大型タンカー1隻ずつを撃沈したと判断した。しかしながら米軍側に該当艦は無い。 神武隊[編集] 金剛隊の後、日本海軍は硫黄島に上陸したアメリカ軍に対して回天特別攻撃隊(千早隊)を編成して投入したが、伊368、伊370の二艦を失い、生還した伊44は、「作戦は無謀」と意見具申した川口源兵衛艦長(兵66期)が、命令違反を理由に解任されるなど無益の結果に終わった[6]。 伊58は、呉から光に移動して回天を搭載した後、2月28日に光を出港し呉に移動。千早隊に続いて編成された神武隊に加わり、3月1日に呉を出撃。回天発進地点に予定していた硫黄島北西沖に向かったが、3月6日に神武隊に対して作戦中止が指令された。伊58は沖ノ鳥島西方海面に移動して、ウルシー特攻に向かう第七六二海軍航空隊の陸上爆撃機「銀河」24機で編成された「菊水部隊梓特別攻撃隊」(丹作戦)の電波誘導を行うようにとの指令を受信した[7]。回天2基を海中に投棄して沖ノ鳥島と南大東島の間に設定された予定地点に急行した伊58は[8]、3月11日に電波誘導の任を果たした。3月16日、伊58は光に到着して残った回天2基を陸揚げした後、17日に呉に帰投した。 多々良隊[編集] 硫黄島を占領したアメリカ軍は、3月末から4月1日にかけて慶良間列島および沖縄島に上陸を開始。日本海軍はこれに抗するため、回天搭載潜水艦と回天を搭載しない通常の潜水艦合わせて11隻を投入[9]。このため、伊58は大津島に移動して回天を搭載した後、31日に出港。回天搭載潜水艦で編成された多々良隊の一艦として4月1日に光を出撃[10]。東シナ海を経由して沖縄島西方に出て、一時は戦艦大和の水上特攻に合流してついて行く腹で[11]、慶良間列島沖のアメリカ艦隊を目標に進撃したものの悪天候に悩まされて突入が果たせなかった[12]。橋本艦長は4月10日に状況を打電し、これを受けて第六艦隊司令部は作戦を変更し、沖縄とマリアナ諸島間の航路を狙うよう指令を出した[13]。伊58も当該海域に移動したが、4月25日に駆逐艦と遭遇した以外は全く会敵せず、作戦中止指令を受け取って4月29日に光に帰投[14]。回天とその搭乗員を降ろし、30日に呉に帰投した。 この後、伊58は航空機搭載設備(格納筒、射出機、クレーン)を撤去して、空いた前甲板に回天2基を搭載し、合計6基搭載となった[15]。また、シュノーケルも装備された[15]。 多聞隊・インディアナポリス撃沈[編集] インディアナポリス(メア・アイランド沖

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