Month: March 2021

マティアス・フリンク – Wikipedia

マティアス・フリンク(Mattias Flink, 1970年3月8日 – )は、スウェーデンの軍人、殺人犯。1994年6月11日、当時陸軍少尉だったフリンクはファールンにてAk 5突撃銃を乱射し、7人を殺害した。逮捕後、終身刑が宣告されたが後に懲役30年に改められ[1]、事件から20年後の2014年6月11日に釈放された[2]。 1970年、ファールンに生まれる[3]。父は自分の店も持っている祖父の代からの銃器工で、母は主婦だった。7歳の頃、フリンクはボーイスカウトに参加する。9歳の頃に両親が離婚する。この離婚は円満離婚であったとされる。フリンクは父の元に残ることを選んだが、母は父の家から200mほど離れたアパートへと引っ越した。後の心理学的評価によれば、この母との別離がフリンクの心に大きな傷を残したとされ、以後彼は女性を身の回りから遠ざけるようになったという。 高校に進学したフリンクは電気機械工学を専攻した。卒業後、フリンクは兵役を果たすために陸軍に入隊してダーラナ連隊(スウェーデン語版)へ配属された。1993年、フリンクは同連隊の士官となる[4]。 精神衛生[編集] 1994年春頃からフリンクは精神衛生上の問題に苦しめられ、その末に性格は攻撃的かつ嫉妬深くなり、睡眠障害も生じ、偏執病的な言動が増え始めた[5]。こうした諸症状は彼の精神を完全に崩壊させ、複数の女性に嫌がらせをしたために食堂から追い出されたという報告もある[6]。 殺人事件[編集] 1994年6月11日、マティアス・フリンク少尉は大量のアルコールを摂取した後、自宅で野戦服に着替えてから連隊に戻った。そして自らのAk 5突撃銃に加えて5.56x45mm NATO弾150発を持ちだしたフリンクは、ファールンのダウンタウンにある公園で銃を乱射し、居合わせた陸軍女性補助隊員6人を死傷させた。その直後、近くの交差点まで出たフリンクはサイクリングをしていた男性と警備員の男性2名を銃撃している。犠牲者のうち6人は即死で、女性1人は病院搬送後に死亡した。生存者は陸軍女性補助隊員1人のみであった。 死亡したのは以下の7名である[8][9]。 Karin Alkstål, 22 Therese Danielsson,

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ヴィアー・ポンソンビー (第9代ベスバラ伯爵) – Wikipedia

第9代ベスバラ伯爵ヴィアー・ブラバゾン・ポンソンビー(英: Vere Brabazon Ponsonby, 9th Earl of Bessborough、1880年10月27日 – 1956年3月10日)は、イギリスの貴族・政治家。 1931年から1935年にかけてカナダ総督を務めた。 1880年10月27日に後に第8代ベスバラ伯爵を継承するエドワード・ポンソンビー(英語版)とその妻ブランシェ(初代準男爵ジョン・ジョサイア・ゲスト(英語版)の娘)の間の息子として生まれる[3][4]。 ハーロー校を経てケンブリッジ大学トリニティ・カレッジへ進学[3]。 1910年にはチェルトナム選挙区(英語版)から選出されて保守党の庶民院議員を務める。1913年から1920年にかけてはドーヴァー選挙区(英語版)から選出されて保守党の庶民院議員を務める[3][4]。1920年12月1日に死去した父から爵位を継承し、貴族院議員に転じる[2]。 1931年に枢密顧問官(PC)に列せられるとともに、同年から1935年にかけてカナダ総督を務めた。前任者と同様に世界大恐慌に苦しむカナダ各地を歴訪した[5]。1932年には初となるカナダ全土の電話システムを発足させた[5]。同年庶民院に帝国経済会議(Imperial Economic Conference in the House

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ブラザー・セオドア – Wikipedia

ブラザー・セオドアBrother Theodore 本名 Theodore Gottlieb 生年月日 (1906-11-11) 1906年11月11日 没年月日 (2001-04-05) 2001年4月5日(94歳没) 出生地 ドイツ・デュッセルドルフ 死没地 アメリカ合衆国・ニューヨーク市 ジャンル 俳優声優 活動期間 1946年 –

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京成ホテルミラマーレ – Wikipedia

京成ホテルミラマーレ(けいせいホテルミラマーレ、英: Keisei Hotel Miramare)は、千葉県千葉市中央区にある京成グループのホテル。東京ディズニーリゾート・グッドネイバーホテルに加盟している。運営は株式会社千葉京成ホテル。京成カード加盟店。 1961年(昭和36年)8月16日に「千葉京成ホテル」として開業。2000年(平成12年)12月に建て替えのため休館。千葉中央駅東口再開発事業で複合型ホテルとして建設が進められ[3]、2002年(平成14年)9月6日に当ホテルとしてリニューアルオープン[1]。同一ビル内に千葉中央駅前交番も同年9月に移転して開所した[4]。京成電鉄千葉中央駅東口の複合ビル「ミラマーレ」内に所在する。 ロビーは1階、客室(176室)は9 – 15階に位置する。合わせて3つのレストラン・バーや、10の宴会場、シネマコンプレックス「京成ローザ10イースト」がある。 2003年(平成15年)度には「バリアフリー化推進功労者表彰」において、表彰最高位である内閣総理大臣賞を受賞した[5]。 建築主 京成電鉄株式会社 設計者 戸田建設株式会社 竣工 2002年(平成14年)6月 面積 6‚902平方メートル(m2 基本情報[編集] チェックイン・チェックアウト チェックイン13:00、チェックアウト11:00

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徳島市公安条例事件 – Wikipedia

最高裁判所判例 事件名 集団行進及び集団示威運動に関する徳島市条例違反、道路交通法違反被告事件 事件番号 昭和48年(あ)第910号 1975年(昭和50年)9月10日 判例集 刑集29巻8号489頁 裁判要旨 普通地方公共団体の制定する条例が国の法令に違反する場合には効力を有しないことは明らかであるが、条例が国の法令に違反するかどうかは、両者の対象事項と規定文言を対比するのみでなく、それぞれの趣旨、目的、内容及び効果を比較し、両者の間に矛盾牴触があるかどうかによってこれを決しなければならない。例えば、ある事項について国の法令中にこれを規律する明文の規定がない場合でも、当該法令全体からみて、右規定の欠如が特に当該事項についていかなる規制をも施すことなく放置すべきものとする趣旨であると解されるときは、これについて規律を設ける条例の規定は国の法令に違反することとなりうるし、逆に、特定事項についてこれを規律する国の法令と条例とが併存する場合でも、後者が前者とは別の目的に基づく規律を意図するものであり、その適用によって前者の規定の意図する目的と効果をなんら阻害することがないときや、両者が同一の目的に出たものであっても、国の法令が必ずしもその規定によつて全国的に一律に同一内容の規制を施す趣旨ではなく、それぞれの普通地方公共団体において、その地方の実情に応じて、別段の規制を施すことを容認する趣旨であると解されるときは、国の法令と条例との間にはなんらの矛盾牴触はなく、条例が国の法令に違反する問題は生じない。 徳島市公安条例の罰則を加重している規定が、道路交通法に違反して無効とはいえないとされた事例 徳島市公安条例3条3号における「交通秩序を維持すること」という規定が道路における集団行進等が一般的に秩序正しく平穏に行われる場合にこれに随伴する交通秩序阻害の程度を超えた、殊更な交通秩序の阻害をもたらすような行為を避止すべきことを命じているものと解されるのであり、この解釈について、通常の判断能力を有する一般人が、具体的場合において、自己がしようとする行為が右条項による禁止に触れるものであるかどうかを判断するにあたっては、その行為が秩序正しく平穏に行われる集団行進等に伴う交通秩序の阻害を生ずるにとどまるものか、あるいは殊更な交通秩序の阻害をもたらすようなものであるかを考えることにより、通常その判断にさほどの困難を感じることはないはずであり、犯罪構成要件の内容をなすものとして明確性を欠き、憲法31条に違反するとはいえない。 大法廷 裁判長 村上朝一 陪席裁判官 関根小郷 藤林益三 岡原昌男 小川信雄 下田武三 岸盛一 坂本吉勝 岸上康夫 江里口清雄 大塚喜一郎 高辻正己 吉田豊 団藤重光 意見 多数意見 村上朝一 関根小郷 藤林益三 岡原昌男 小川信雄 下田武三 岸盛一 坂本吉勝 岸上康夫 江里口清雄 大塚喜一郎 吉田豊 団藤重光(以上明確性の論点について)他の論点については全員一致

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徳川義宣 – Wikipedia

「徳川慶喜」とは異なります。 本来の表記は「德川義宣」です。この記事に付けられたページ名は技術的な制限または記事名の制約により不正確なものとなっています。 徳川 義宣(とくがわ よしのぶ、1933年12月24日 – 2005年11月23日)は、尾張徳川家第21代当主。美術史家、財団法人徳川黎明会会長、徳川美術館長。養子のため徳川家の直系の血筋ではないが、多数の著作や講演でのアピールで、他の御三家以上に露出度を高めた。徳川家康の遺訓だとされていた「人の一生は重荷を負て遠き道をゆくがごとし」は、家康のものではなく、徳川光圀のものであると確認した。 旧下総佐倉藩主家当主の堀田正恒伯爵の六男として東京市渋谷区に生まれた。生まれた時の姓名は堀田正祥。学習院幼稚園から学習院大学まで明仁親王(現・明仁上皇)の同級生であった。1955年11月、学習院大学政経学部経済学科在学中に尾張徳川家20代当主徳川義知の婿養子となり、徳川義宣と改名する。 1956年3月、学習院大学政経学部経済学科を卒業、同年4月、東京銀行に入行。1957年11月、財団法人徳川黎明会評議員に就任し1960年5月に徳川黎明会理事となった。 1961年7月、東京銀行を退職して同年9月、東京大学農学部林学科の研究生となった。1964年9月に東京大学を修了し、東京国立博物館の研究生となる。1965年3月に東京国立博物館研究生を修了し、学芸員の資格を取得する。この間の1965年1月に八雲産業株式会社社長となった。 1967年3月、財団法人徳川黎明会専務理事に就任する。1972年10月、有限会社徳川農場を設立し社長に就任した。 1976年4月、財団法人徳川黎明会および徳川美術館の館長に就任、旧大名家の家宝を収集する。特に尾張家旧蔵であった大名物《金花》の茶壺を再発見し、同家に買い戻した逸話は名高い。 徳川美術館所蔵の国宝《源氏物語絵巻》の研究で知られ、1977年4月、愛知学院大学文学部講師に就任する(1984年3月まで)。1981年4月、青山学院女子短期大学国文科講師に就任(2002年3月まで)。1983年4月、上智大学美術史講師に就任(~1991年3月まで)。 1990年4月、社団法人国際日本語普及協会評議員に就任、1991年4月、学習院大学日本社会史講師に就任、同年12月、博物館法制定40周年文部大臣を表彰、日本博物館協会から顕彰を送られた。 1993年5月、財団法人徳川黎明会会長に就任した。2002年11月、文化庁長官を表彰。 2005年11月23日、肺炎のため順天堂大学医学部附属順天堂医院で71歳で死去した。長男である徳川義崇が尾張徳川家22代当主を継承。 係累・血筋[編集] 姉の英子は小佐野賢治の妻。妻の三千子は尾張家20代当主徳川義知の長女。秩父宮妃勢津子は義理の伯母(三千子の母・正子の姉)に当たる。 女系で尾張徳川家の血を引く。 徳川吉通―三千君(九条幸教室)―二条宗基―二条治孝―千万(鍋島直与継室)―鍋島直紀―輝子(鍋島直柔妻)―堀田正恒―徳川義宣

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パサージュ! – Wikipedia

パサージュ! ジャンル ご近所幼なじみ恋愛ADV 対応機種 Win XP/Vista/7/8 発売元 戯画 シナリオ ギハラ水越ナゴ雪月竹馬 発売日 2014年9月26日 レイティング 18禁 メディア DVD-ROM テンプレートを表示 『パサージュ! 〜passage of

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藤沢桓夫 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “藤沢桓夫” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2014年2月) 藤沢 桓夫(ふじさわ たけお、1904年7月12日 – 1989年6月12日)は、日本の小説家。「藤沢恒夫」と表記される場合もあるが、これは誤記である。 大阪市生まれ。旧制大阪高校在学中に武田麟太郎(三高)・長沖一・神崎清らとともに同人誌『辻馬車』を発刊、1925年同誌に発表した「首」でデビューし新感覚派として目された。1927年大阪高校を卒業し東京帝国大学に入学、在学中は新人会で活動しプロレタリア文学に転向、1930年『傷だらけの歌』を書く。1931年文学部国文科を卒業したのち肺病で大阪に帰り、1936年『花粉』、1941年 – 1942年の『新雪』で新聞小説家として復帰。その後、大衆・流行作家として数多くの小説を書き、晩年まで関西文壇の長老として活動を続けた。 エピソード [編集] 1931年秋に大阪朝日新聞文芸部の白石凡は、横山エンタツ・花菱アチャコのしゃべくり漫才をキタの花月の寄席で見た。コンビ結成以来漫才を自作してきたエンタツに優秀な漫才作者が付くと更に新しい漫才が期待できると考えた白石は、親交のあった藤沢に相談した。この時藤沢は高校・大学の同期で交流のあった文芸作家の林広次を紹介し、エンタツと引き合わせた。エンタツと林は意気投合して林は漫才作家に転向した。この林こそ後に「上方漫才の父」とも称される秋田實である。 アマチュア五段(没後七段を追贈された)の段位を持つ程の、文士きっての将棋好きとしても知られ、その腕前は山口瞳から「ほとんどプロに近い」と評されている。本人は奨励会の初段・二段と対等の棋力と書いている[1]。藤沢は四段・五段のプロ棋士と平手で指しだだけでなく、自分が香車を落とす手合いでも指したが、それは「どうみても行きすぎ」でプロ棋士の側の迎合であったと内藤国雄は書いている[2]。また、それを生かした将棋を題材にした小説や随筆を多く書き、新境地を開いた。

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干拓 – Wikipedia

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オスマン帝国軍 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “オスマン帝国軍” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2012年2月) オスマン帝国軍(オスマンていこくぐん)は、かつてオスマン帝国に存在した軍隊。1923年のトルコ共和国成立にともない、現在のトルコ軍に取って代わられる形で解体した。 13世紀末期にオスマン1世によってアナトリア半島西部にトルコ遊牧民軍事勢力が確立される。これが最初のオスマン軍とされる。初めはトルコ人や周辺のムスリム(ガーズィー)で成りたっていて、勢力拡大につれて精鋭軍が創設される。そのなかの代表的なものがイェニチェリ(新軍)である。それは創設当初、敵軍の捕虜によって構成されていたが、帝国領が拡大していくにつれて領内(主にバルカン半島)のキリスト教徒の子弟から徴兵(デウシルメ)されることになる。 また、オスマン帝国が内陸部からエーゲ海などの沿岸部に進出するにしたがって海軍も成立した。海軍は初め弱体であったが、北アフリカの海賊のオスマン帝国への帰順などによって強化され、16世紀には地中海の制海権を握るまでに成長した。 さらに、エジプトを制圧した際に、地元のマムルーク勢力と結託し、軍の主力として組み入れられる。これらの軍構成によって中世・近世ヨーロッパ諸国に脅威を与え続けた。 西洋化改革と軍[編集] 18世紀以降、度重なる領土の喪失などによって帝国の衰退が認識されるようになると、衰退の原因を軍の弱体化に求める意見が現れるようになる。こうして様々な軍事改革が企画されるようになった。 1793年、セリム3世は新式軍「ニザーム・ジェディード」をつくり軍事改革を試みたが、既存のイェニチェリの反発を受けて失敗に終わる。 1808年に即位したマフムト2世はセリム3世の路線を受け継ぎ、イェニチェリの不興を買わないように配慮しつつも、西洋式軍制を取り入れた新部隊を創設した。1826年にはイスタンブールで反乱を起こそうとしたイェニチェリを、この新部隊を用いて逆に兵舎ごと覆滅し、イェニチェリ制度を廃止した。こうして正式に西洋式の新式軍「ムハンマド常勝軍」を創設した。 同じ頃、エジプト州ではエジプト州総督にのしあがったムハンマド・アリーが、オスマン帝国からの自立を目指して諸改革を行っていた。軍事力の強化を目指すムハンマド・アリーは、1811年には長年にわたりエジプトに勢力を張ってきたマムルークを完全に崩壊させ、本国オスマン帝国に先んじて西洋式の軍隊を創設することに成功していた。 こうして、シリアの領有を巡ってエジプトとオスマン帝国は争う。この二度にわたるエジプト・トルコ戦争での軍事的敗北はオスマン帝国に大きな衝撃を与えた。プロイセンから大モルトケを招いて軍制改革を行ったにもかかわらず、その新式軍がムハンマド・アリーのエジプト軍に敗れ、エジプト軍がアナトリア半島西部にまで進軍したことは、当時のオスマン帝国の指導者層に軍備強化の必要性を強く認識させるのに十分な出来事であった。 以後、徴兵制度の導入などの近代的諸制度の整備や欧州列強からの兵器購入などを行い、クリミア戦争ではロシアに対して善戦することができた。しかし、1877年の露土戦争では最終的にロシア軍にイスタンブール郊外まで進軍することを許し、敗北に終わってしまう。また、露土戦争ではタンズィマート期に大増強を行った海軍がほとんど活躍しなかったこともあり、以後オスマン帝国において陸軍と比べると海軍はその地位を低下させていくことになった。

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