Month: April 2021

滝澤三郎 – Wikipedia

滝澤 三郎(たきざわ さぶろう、1948年 – )は、日本出身の国際公務員。UNHCR(国際連合難民高等弁務官事務所)財務局長や、UNHCR駐日代表、国連UNHCR協会理事長、国連大学客員教授等を務め、現在は東洋英和女学院大学名誉教授[1]。 人物・経歴[編集]  長野県出身。中学生の頃に体調を崩し、長野県松本深志高等学校を1年間休学した。高校卒業後は1年間の浪人生活の後に埼玉大学教養学部へ入学、国際関係論を専攻。1972年に卒業し、東京都立大学大学院へ進学。修士課程を終えた後に1976年法務省へ入省。入国管理局、訟務局勤務のあと、人事院「行政官長期在外研究員制度」により1978年から1980年までカリフォルニア大学バークレー校経営大学院へ留学した。ビジネススクール修了後は一度法務省に戻り、民事局に配属。  カリフォルニア大学留学中にMBAに加えて当時は日本では知られていなかった米国公認会計士(USCPA)試験勉強も並行して行い、1980年5月に初回で全科目合格。それをきっかけに1981年に国連に採用される。国連職員を目指した理由として、専門分野を生かせること、法務省に戻るよりも国連の方が将来性があると考えたことなどを『「国連式」世界で戦う仕事術』で挙げている。  1981年に国際連合ジュネーブ事務局の内部監査部に採用され、1983年に国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)に日本人として初めて採用された。その後1991年に国際連合工業開発機関(UNIDO)ウイーン本部監察部長[2]、同財務部長、同業務調整部長等を経て、2002年国際連合難民高等弁務官事務所(UNHCR)ジュネーブ本部財務局長。2007年UNHCR駐日代表。国連大学客員教授を経て、2009年東洋英和女学院大学教授[1]。2013年国連UNHCR協会理事長[3]。2020年東洋英和女学院大学名誉教授。2021年ケア・インターナショナル・ジャパン代表理事・副理事長。  一線を退いてからは日本の難民政策についての研究・著作を続けるほか、国際的に活躍する人材育成を目指してオンライン講座「国際機関で働いてグルーバル人材になる」をストアカ(https://www.street-academy.com/myclass/94646)を活用して運営している。趣味は66歳で始めたマラソン。年に数回フルマラソンを走ってい。 著書・訳書・監修書[編集] 『オマルとハッサン: 4歳で難民になったぼくと弟の15年』 ビクトリア・ジェスミン著、中山弘子訳、滝澤三郎監訳 2021年 『「国連式」世界で戦う仕事術』集英社新書 2019年 『世界の難民をたすける30の方法』合同出版 2018年 「UNHCRの国際社会福祉のプレーヤーとしての活動」 新世界の社会福祉12 『国際社会福祉』旬報社 2020年 『難民を知るための基礎知識』滝澤三郎、山田満共編著 明石書店 2017年

Continue reading

スペース・トラッキン – Wikipedia

「スペース・トラッキン」 ディープ・パープルの楽曲 収録アルバム 『マシン・ヘッド』 リリース 1972年 録音 1971年 ジャンル ヘヴィメタルハードロック 時間 4:34 19:54(ライヴ・イン・ジャパン) 4:52(1997年リミックス) 作詞者 イアン・ギラン 作曲者 リッチー・ブラックモアロジャー・グローヴァージョン・ロードイアン・ペイス その他収録アルバム ライヴ・イン・ジャパン

Continue reading

日本マランツ – Wikipedia

日本マランツ株式会社(にほんマランツ)は、かつて存在した音響機器・映像機器・通信機器メーカーである。2005年4月1日に株式会社ディーアンドエムホールディングス(以下、D&M)と合併し、消滅。以降マランツブランド製品の企画・開発・販売などはD&Mが行っている。(2005年から2011年まで、販売についてはD&M子会社の株式会社マランツコンシューマーマーケティングが行っていた)。 marantz 1122 DC Stereo Amplifier 前身はポータブルラジオやテープレコーダーなどを製造販売していた「スタンダード無線工業」。ポータブルラジオにおいてはトランジスタなど基幹部品の自社製造は行わないものの、弱い電波を確実に捕捉する受信性能の良さや、超小型トランジスタラジオ「マイクロニック・ルビー」シリーズに代表される小型化において設計開発力・実装技術を発揮していた。その社風はSTANDARDのブランドと共にアマチュア無線機・業務用無線機などの通信機事業部に引き継がれ、ハンディ型や車載型(モービル型)のトランシーバーを長年得意としたが、1998年から2004年頃にかけて通信機事業、拠点および関連資産のほとんどを八重洲無線や株式会社CSRなどに順次売却・譲渡し、通信機器分野からは撤退している。 1968年にスーパースコープ社と提携し、後に資本参加を得たことで当時スーパースコープ傘下だったアメリカの高級オーディオブランド「マランツ」製品の設計・生産に携わる。1975年に社名が「日本マランツ」となるとハイエンド製品も日本での設計・生産が中心となっていく。「SUPERSCOPE」「unix」など、マランツ以外のブランドでラジカセやミニコンポなどのゼネラルオーディオ機器も生産していたが、対米輸出を強く意識した製品企画やデザインは日本の家電市場において、やや浮いた存在であった。 1980年末にフィリップスへ売却される。フィリップスは当時発売直前だったCDの普及を図る上で、電球やシェーバーなど生活家電の印象が強いフィリップスとは別のブランドで製品を展開したい意向を持っていた。一方スーパースコープはその後約10年間に亘り本国である北米・カナダ地域のみでマランツブランド製品のビジネスを独自に継続したため、日本マランツは対米輸出偏重から欧州市場へ意識を移し、アナログからデジタルへのシフトも同時に行うなどものづくりの大転換を余儀なくされる。まずはフィリップス開発のCDプレーヤーにマランツのブランドがつけられ、生産を担当。続いて最新のフィリップス製部品を数多く搭載した自社のCDプレーヤーを開発し、日本のオーディオ誌などではデジタルオーディオ分野で先行するメーカーと一気に肩を並べる存在となる。製品の音質検討に用いるスピーカーもスーパースコープ傘下時代のアメリカ製品から徐々に欧州製品へ移行、1994年からは一貫してB&W社のスピーカーを用いている。フィリップスの影響は音作り以外にも及び、特にプロダクトデザインの分野では1989年頃から欧州製品を思わせるスマートなデザインの製品群を続々と発表。1990年代後半には10万円クラスのプリメインアンプに高さ110mmのスリムな筐体を採用したり、2000年代後半からはフロントパネルを縦に3分割し両サイドを奥行き方向にラウンドさせた独特な筐体デザインを採用している。 フィリップスの傘下から独立しデノンとの経営統合を経た2002年以降は映像機器やAVアンプへの取り組みを強化する一方、2010年からはDLNAやAirPlayに対応したネットワークオーディオプレーヤーを投入するなどオーディオ製品にも再び積極的な姿勢を見せている。 デノンとの経営統合前から行っていたイギリスB&W社製スピーカー、アメリカaudioquest社製接続ケーブルの日本国内での輸入代理店業務は親会社にあたるD&Mディストリビューター営業部に引き継がれている。かつてはフィリップスの音響・映像製品やデンマークバング&オルフセン社製オーディオ機器の輸入代理店をしていた時期もある。 ブランドの変遷[編集] 前身のスタンダード無線工業が自社製品に使用していたブランド。“逆三角形の枠の中に「SR」”(Standard Radioの略)のマークもあった。社名が日本マランツとなった1975年からは通信機専用のブランドとなる。斬新な形状の無線機を多く発売することで知られ「アマチュア無線界のホンダ」と評された。1998年に通信機事業部が八重洲無線へ売却された際にSRマークは消え当時の社名バーテックススタンダードを表すVSマークに変更。八重洲無線の業務用無線機と一部のアマチュア無線機の商標となっている。八重洲無線も参考のこと。 1953年にソウル・バーナード・マランツが興したオーディオメーカー「マランツ・カンパニー」が元祖。1980年以降は北米、カナダ地域はスーパースコープ(1993年まで)、その他地域はフィリップスが商標権を所有していたが2001年に日本マランツが全世界での商標権を買収した。現在はディーアンドエムホールディングスが所有している。ロゴタイプの書体、全小文字による表記はほぼ変わらないものの1969年、1982年、2003年に多少変更されている。マランツを参考のこと。 1964年よりマランツ・カンパニーを所有していた「スーパースコープ・テクノロジー」社の商標。1975年にスタンダード工業が日本マランツに商号変更した際、STANDARDブランドの音響機器(ラジカセなど)を置き換える形で日本国内でも使用された。株式会社CSRがスーパースコープ・テクノロジー社とのライセンス契約により製品の開発・生産、日本国内での販売を行っている。スーパースコープ (映画)も参考のこと。 1980年に日本マランツがフィリップス傘下へ移行した際、SUPERSCOPEブランドに代わって日本国内でラジカセ等のゼネラルオーディオ機器に使用。コンピューターのオペレーティングシステムのUNIXよりも早く電気機器分野で先行登録しており当時商標問題が発生した。日本マランツは後に国内向けのゼネラルオーディオ機器の生産を終了したが、unixブランドはオーディオコンピューターAX1000やカラオケ用機器などの業務用音響機器で引き続き使用していた。UNIXも参考のこと。 1946年(昭和21年) –

Continue reading

ドルアーガの塔 (テレビアニメ) – Wikipedia

『ドルアーガの塔』(ドルアーガのとう)は、バンダイナムコゲームス(旧ナムコ、現バンダイナムコエンターテインメント)のコンピュータゲーム『ドルアーガの塔』を原作としたテレビアニメ作品。アニメーション制作はGONZO。 2008年4月より『ドルアーガの塔 〜the Aegis of URUK〜』(ドルアーガのとう ジ イージス オブ ウルク)が放送され、また、2009年1月より第2期『ドルアーガの塔 〜the Sword of URUK〜』(ドルアーガのとう ザ ソード オブ ウルク)が放送された。 キャッチコピーは「世界の行く末はその塔に束ねられた」。 概要

Continue reading

伊百六十二型潜水艦 – Wikipedia

伊162型潜水艦(海大4型) 艦級概観 艦種 一等潜水艦 艦名 前級 伊百五十六型潜水艦(海大3型b) 次級 伊百六十五型潜水艦(海大5型) 性能諸元 排水量 基準:1,635トン 常備:1,720トン水中:2,300トン 全長 97.70m 全幅 7.80m 吃水 4.83m 機関

Continue reading

木原和敏 – Wikipedia

木原 和敏(きはら かずとし、1958年 – )は、日本の洋画家。美術団体白日会会員[1][2][3]。日展会員[2][3][4]。広島市在住[2][5]。ひろしま美術研究所出身[5][6]。 目次 1 経歴および受賞歴 2 作品所蔵美術館 3 取扱い画廊 4 脚注 5 外部リンク 経歴および受賞歴[編集] 1958年 広島県広島市生まれ[3][5][6]。 1983年

Continue reading

国鉄60系客車 – Wikipedia

オハフ61 182(1985年) オハフ61 791(1984年) 国鉄60系客車(こくてつ60けいきゃくしゃ)とは、日本国有鉄道(国鉄)が1949年(昭和24年)から木造客車を改造して鋼製客車とした客車の形式群である。このグループを総称する形で鋼体化改造車(こうたいかかいぞうしゃ)とも呼ばれる。 製造の背景[編集] 太平洋戦争後の1947年(昭和22年)2月25日、八高線東飯能 – 高麗川間で客車列車が脱線転覆し、184人が死亡する事故が発生した(詳しくは八高線列車脱線転覆事故を参照)。この事故は現代に至るまで、日本の鉄道史上における死者数第2位の大事故として記録されている。事故列車は木造客車で編成されており、構造脆弱な木造車体が転覆によって大破したことが、死者数を増大させたと考えられた。 鉄道省(国鉄の前身)が新規製造の客車を鋼製客車に切り替えたのは1927年(昭和2年)であり、八高線事故時点では既に20年以上が経過していた。しかし、この時点でもまだ国鉄保有客車数10,800両の約6割が木造客車[注 1]であり、ローカル線の普通列車では木造客車が当たり前、それも古い雑形客車[注 2]さえ珍しくない状況であった[注 3]。 これらの木造客車の多くは明治時代末期から大正時代末期にかけて製造されたもので、製造後最低でも20年から40年程度が経過し、全体に老朽化が進行していた。また、戦時中・戦後の酷使や資材難によって内外の荒廃は進み、木造客車の根本的な整備には鋼製客車と比較して莫大な費用がかかると試算された。そして、八高線での事故を契機として早期に木造客車を全廃し、鋼製客車に置き換えることが強く望まれるようになった。 だが当時は戦後の混乱期でインフレーションが進行しており、短期間のうちに鋼製客車を大量に新製して木造客車を全て取り替えることはコスト的に困難とされた。また当時の鉄道運営を管轄していた進駐軍は、車両新造許可には消極的で、度重なる車両増備の要望にも容易に応じなかった。 これらの課題の対策として、木造車の改造名目で安価に鋼製客車を製造する「鋼体化」と呼ばれる手法が取り上げられた。木造客車を構成する部材のうち、もともと鋼鉄製で流用の効く部材の台枠や台車、連結器などを再利用し、鋼製の車体のみを新製するものである。 国鉄では戦前の鉄道省時代に同様な手法で、車体の老朽化した木造電車を鋼製車体に改造する工事を大量に行った実績[注 4]があり、また少数ではあったが木造客車の鋼製化工事の施工例もあった[注 5]。木造電車は客車よりもドア数(開口部)が多く車体強度が劣り、加減速も頻繁で老朽化が早かったのが、戦前からの早期改造着手の原因である。 戦前の木造電車改造は「鋼製化改造」と呼ばれたが、戦後の木造客車改造についてはそれと区別する目的で「鋼体化改造」と呼ばれた[注

Continue reading

大熊良樹 – Wikipedia

大熊良樹(おおくま よしき、1965年〈昭和40年〉7月3日 – )は、日本の社会教育家、生命尊重活動家[1]、武道家[2]、絵本作家[3]。一般社団法人いのちを守る親の会理事長。 日本笑い学会講師[4]。 おおくま よしき 大熊 良樹 生誕 愛媛県 国籍 日本 職業 社会教育家、僧侶、絵本作家 ペンネームはわらいこうたろう[3]。「コアラさんシリーズ(名作6冊組み)」(七田ブックス)に収録された絵本「みんなみんなありがとう」の主人公「わらい和尚」は、禅僧であり、京都光明地蔵院(京都地蔵文化研究所)の主管でもある、大熊良樹がモデルである。全てに「感謝」する事と、笑顔で、「明るく物事をとらえる」ことで、幸せが来るという教訓を子供たちに伝えている絵本。ペンネームの「わらい」「こうたろう」の出典は「古事記」の「天岩戸開き伝説」であるという。 愛媛県松山市出身。愛媛大学法文学部在学中に、愛大進学塾を起業。家庭教師の派遣などを行い成功する。当時バブル期の中で、広告店や飲食店など6社を経営するが、高校生の時の同級生であった 旧姓 長井美穂と結婚(平成5年4月12日)。結婚を機に、いつか「生まれてくる子に、悟りをプレゼントしてやりたい」と、会社を整理。禅宗の僧侶として剃髪し出家した。育て母の実家(森家)が檀家であったお寺温泉郡重信町萬松山大安寺 住職窪田膨宗の推薦にて、当時「日本一の覚者」と言われた、京都八幡の円福寺僧堂の師家 西片擔雪老師(臨済宗妙心寺派第31代管長)が指導していた、円福寺僧堂に入門。西片擔雪師の会下となる。 最短3年とも言われる「無」の公案を1年で通過し、老師より「教育者であれ」との言葉を受ける。地元愛媛にて「光源坐禅堂」を主宰[5]。働きながら、10年間、経営者を中心に坐禅を指導。平成14年から、縁の深い宇治の神社(宝蔵神社)にて10年間修行[5]。「生命の教育」を提唱した 谷口雅春の高弟である楠本加美野宝蔵神社宮司の弟子となる。同時に、地元教育委員会の相談員(こころの相談室)として、心理学的知識と手腕で活躍。神社の講師としても、全国を対象とした、全国区の有名講師として数万人に心と体に関する講話を担当した。また、数千人を直接指導。指導後の奇跡的な「改善」や「免疫向上」が医療関係者から注目された[5]。その経験を生かし、日本唯一の笑いの市民学会「日本笑い学会」(会員は千人そのうち半数は医療関係者である)の講師も担当[5]。公的機関からの講演要請も多い。平成27年には、近畿PTA協会の講演会(2千人)で、薬師寺管長山田法胤と共に教育講話を担当、取りを務めた。 現在も京都で「いのちの相談室」「BSK人生相談室」室長を兼務[1]。その噂を聞き、全国から相談者が訪れている。 現在は、一般社団法人「いのちを守る親の会」理事長。京都いのちの教育センター主幹。「10月10日(とつきとおか)いのちに感謝する日」「お母さん生んでくれてありがとう運動」の事務局を担当。わらいこうたろうのペンネームで「みんなみんなありがとう」(七田ブックス)「うまれるってうれしいなぁ」(光栄出版社)がある。ユーチューブに、喜びが湧く心理学、生き方に関する講話として「いのちが喜ぶ話」全75話がある(令和元年9月27日現在)。(索引:「夢育て」七田教育研究所:472号(9月号)「いのちを守る親の会」特集より。) いのちを守る親の会[編集]

Continue reading