大西慎也 – Wikipedia
大西慎也(おおにし しんや 1975年6月26日-)は、兵庫県出身の実業家。播州地方を中心に兵庫県下に「らーめん八角」、居酒屋「昭和お好み焼き劇場うまいもん横丁」、「食堂 銀シャリ ぱっぱ屋」、「浪速大だこ たこの壺」など4業種34店舗を運営する株式会社八角の経営者[1][2][3]。 19歳で八角形の小さな屋台から出発し34店舗を運営する企業にまで育て上げ、「日本一安い88円餃子」や「10円ビール」など奇抜で思い切った戦略で経営を立て直した現場叩き上げの経営者として、その辣腕経営者ぶりが2000年以降より多くのマスメディアに注目されテレビ、雑誌などへの露出も多いほか、中学校での講演も行っている[1][3]。 両親と姉、妹の5人家族で両親は店をしていたために不在がちで、兄妹3人で過ごすことが多い幼少期を過ごす。活発な性格で、学校ではどんなタイプの生徒とも性別を問わず全員と友達になるような明るい少年であった。のちに八角が企業として大きくなった後も中学時代の友人が社員として共に働いている。父、大西敏文は当時、その地方では知らない人がないほどの人気喫茶店「カサノバ」と居酒屋を11店舗運営しており、慎也もそんな父の影響で少年時代より「自身の店を持ちたい」という願望を抱き、父の反対を押し切り高校を中退してまで17歳で飲食業界入りする。当初は父親の仕事を手伝う形で始めたが、すでに40代に入り終日の立ち仕事が体力的に厳しくなっていた父に代わり、バブル崩壊で喫茶店の経営が傾きだしていた父が発案したラーメン屋台を一人で切り盛りする形で始めたのが現「らーめん八角」の原点となる。1994年、慎也19歳の時であった。皮肉にも経営が傾いたことが自分の店を持つきっかけとなった。父からは手取り足取り教えられたわけではなく「見て覚えろ」という姿勢だった。この方針のお陰で何でも経験でき今の自分があるとのちに大西は吉沢京子との対談(『The Human』誌上)で語っている[1][4]。播州の醤油を使いやや甘めに仕上げたラーメンはまたたく間に話題を呼び、繁盛店に。一挙に5店舗を運営するまでになる。この予想を超える人気に、大西は一気に勝負に出る。2000年には、初の大型店舗である播磨本店をオープン、同時に法人化を行い「有限会社八角」とする[5][6]。 実業家として大西は2度、大きな試練を経験している。前述がその一度目で2度目は他県進出を目指した2008年のショッピングモール(岡山県のイオンタウン水島)への出店であった。当時大西は全国展開の野望を抱いていたが、その根底にあるのは「父を超えたい」という一心であった。その足掛かりとしての水島での出店であったが、地域性やフードコートの特性について勉強不足でその上、リーマンショックが重なり施設そのものの集客力も低下、9ヶ月で撤退し多額の借金を残す。「19歳の時の借金とは異なり、従業員たちの生活がかかっていると思うとその重みは全く違った」とのちに日経トレンディで述懐している[7][5]。 しかし、この負の経験が転機となり、会社の立て直しのためそれまで無知であった経営や経理を猛勉強、従来のどんぶり勘定を転換。従業員へも経営感覚を付けさせる工夫をするなどこれまでの経営方針を一転。店舗ごとの収支を店長にも開示するようになる。新規出店は見合わせ、既存店の徹底見直しを開始、2011年よりは全店舗を黒字転換させ、さらには4年連続増収増益を達成した。この間の2009年には姫路総本店をオープンしている[5][6]。 30歳で結婚、妻と子の3人家族。大のクルマ好きで、多くのクルマを乗り継いできている。座右の銘は「夢を語らず目標を持て」[4]。 1975年6月26日 – 兵庫県に両親が店舗経営をしている家庭に生まれ、幼少期は兄妹3人で過ごすことが多かった[1][4]。 1972年5月 – 父、大西敏文が姫路市辻井に「喫茶カサノバ」オープン[8]。 1986年11月 –
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