Month: August 2019

国道182号 – Wikipedia

国道182号(こくどう182ごう)は、岡山県新見市から広島県福山市に至る一般国道である。 岡山県新見市哲西町畑木(2020年6月撮影) 起点の岡山県新見市より南に進路を取り、広島県の東端に位置している庄原市 、神石郡神石高原町を経て、終点である福山市に至る路線である。終点の福山市の一部に4車線区間が存在するが、その他の区間は片側1車線で整備されている。 路線データ[編集] 一般国道の路線を指定する政令[1][注釈 1]に基づく起終点および経過地は次のとおり。 現行の道路法(昭和27年法律第180号)に基づく国道として初回指定された1953年(昭和28年)では、広島松江線(広島市 – 松江市)として指定されていた[4]。1963年(昭和38年)に一級国道54号への昇格に伴って欠番となり、同日新たに指定された新見福山線に採番された[5][6]。 新見福山線として指定された区間の前身は、主要地方道に指定されていた県道であり、広島県道・岡山県道庄原新見線(広島県道23号庄原東城線の前身)の一部[7]、広島県道福山東城線の全線[7]、広島県道福山井原線(国道313号の前身)の一部[7]をもって成立した。 なお、福山市加茂町下加茂から終点にかけては新道として整備され、経路が新道に一本化されるまでの間は、福山市道 – 広島県道391号加茂福山線 – 国道313号を通り、国道2号府中分かれ交差点に至る経路が存在していた[8]。 年表[編集] 1963年(昭和38年)4月1日 – 二級国道182号新見福山線(新見市

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ニコラ・シカール – Wikipedia

狩りをする2人のベドウィン ニコラ・シカール(Nicolas Sicard、 1846年1月9日 – 1920年1月1日 )はフランスの画家である。風俗画や戦争画、「オリエンタリズム」の絵画を描いた。リヨン国立高等美術学校の教授、校長も務めた。 リヨンで生まれた。父親は薬剤師であり、アマチュア画家であった。父親から美術を学び、12歳でリヨン国立高等美術学校に入学し、ヴィベール(Victor Vibert)やダンギン(Jean-Baptiste Danguin)から版画を学んだ。1861年にリヨンの美術愛好者協会の展覧会で絵画、版画で1等を受賞した。 1865年から1868年の間はリヨンの装飾画家、アントワーヌ・スブレの工房で働き、1869年に23歳でサロン・ド・パリにデビューした。普仏戦争が始まり、絵の修行を中断し、兵士に召集されパリ防衛の任務に就いた。この時の軍務の経験から、戦争を題材にした絵も描くことになった。 1872年からリヨンとパリの両方の展覧会に出展し、人気のある画家になり、批評家の評価も高まった。スペインも旅した。1881年に父親が亡くなり、リヨンに戻り、その後はリヨンで活動した。1882年に結婚した。リヨンの美術団体や画家協会に入会し1888年にリヨン美術館の諮問委員となり、リヨン国立高等美術学校の教授になった。1894年に校長に任じられた。 目が悪くなって1918年に校長を辞めるまで美術学校は4人の学生がローマ賞を受賞するなどの成果を上げた。1900年にレジオンドヌール勲章(シュヴァリエ)を受勲した[1] 。 リヨンのギヨティエール橋(1879) 参考文献[編集] Emmanuel Bénézit, Dictionnaire des

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西日本ジェイアールバス – Wikipedia

西日本ジェイアールバス株式会社(にしにほんジェイアールバス、英名:West JR Bus Company)は、路線バス・貸切バス事業者で、西日本旅客鉄道(JR西日本)の完全子会社である。本社は大阪府大阪市此花区北港一丁目3番23号。 1986年(昭和61年)12月4日 – 日本国有鉄道改革法施行。旅客自動車運送事業(国鉄バス)は各旅客会社が引き継いだのち、原則として経営分離するものとされた。 1987年(昭和62年)4月1日 – 国鉄が分割民営化、JR西日本が発足[2]。 1988年(昭和63年) 3月1日 – 西日本ジェイアールバス株式会社設立[2]。 4月1日 – JR西日本からバス事業部門を引き継ぎ、営業開始。 1995年(平成7年)6月1日 – 穴水営業所が金沢営業所穴水地方営業所になる。

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モンカルム (軽巡洋艦) – Wikipedia

モンカルム (Croiseur Montcalm) はフランス海軍のラ・ガリソニエール級軽巡洋艦。艦名はフランス陸軍の軍人ルイ=ジョゼフ・ド・モンカルムに因む。 1952年に撮られた「モンカルム」。右側の重巡洋艦は「デ・モイン」。 F C de la Méditerranée社ラ・セーヌ造船所にて1933年11月15日に起工、1935年10月26日進水、1937年11月に竣工した。就役後はブレストの第4巡洋艦戦隊に所属した。その後、フランス領インドシナに派遣されてサイゴン方面の哨戒任務に就いた。1938年1月よりフランス大西洋艦隊に所属した。第二次世界大戦時には大西洋での船団護衛やドイツ海軍の「シャルンホルスト」と「グナイゼナウ」に備えての哨戒任務に従事した。 フランスの降伏後の1940年4月にはメルセルケビル港に移動し、現地でヴィシー政権に属し、フランス領北アフリカのアルジェ港に留まった。連合軍のメルセルケビル海戦以降は北アフリカよりトゥーロンに移動した。ヴィシー政権は1940年9月9日に植民地の支配維持のため「モンカルム」の姉妹艦「ジョルジュ・レイグ」「グロワール」と大型駆逐艦「ル・マラン」、「ル・ファンタスク」、「ローダシュー」をツーロンから出撃させた。この艦隊は9月11日に妨害を受けることなくジブラルタル海峡を通過し、9月12日にカサブランカに到着した。9月18日、3隻のフランス巡洋艦はダカールを出航しガボンへ向かったが、オーストラリア海軍の重巡洋艦「オーストラリア」とイギリス海軍の重巡洋艦「カンバーランド」に発見されリーブルヴィル沖で追跡してきた二隻と戦闘になり、「モンカルム」は「オーストラリア」を退けたが、機関の故障で僚艦より離れてしまった「グロワール」は「オーストラリア」に捕捉され、カサブランカに送られた。「モンカルム」と「ジョルジュ・レイグ」はダカールへと帰還した。(ダカール沖海戦) 1943年のトーチ作戦により北アフリカ行政の最高責任者であったダルラン大将は連合軍への停戦を受諾したことにより「モンカルム」は連合軍側に所属する事となった。4月より自由フランス海軍の艦艇として再就役してダカールを母港にして大西洋方面の哨戒任務に就いた。アメリカのフィラデルフィアで2月から8月にかけて近代化改装を受け、艦橋の背後に四脚型のマストを新設して各種レーダーの装備と対空機関砲の更新が行われた。その後1944年1月までダカール沖から南大西洋で任務に就いた。 その後、ラ・セーヌ造船所で1946年1月まで整備に入った。インドシナ戦争時には艦砲射撃に就いた。(第一次インドシナ戦争) 1957年にチュニジアで予備役になりハルクとなった。1959年に除籍後、1969年に廃棄船「Q457」に対別されて1970年に解体処分となった。[1] 参考図書[編集] 「世界の艦船 増刊第50集 フランス巡洋艦史」(海人社) 「世界の艦船 1986年1月増刊号

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ホーン岬 – Wikipedia

ホーン岬 ホーン岬の位置 南米最南部の地図(英語) ティエラ・デル・フエゴ諸島南部の地図(スペイン語)。地図の最下部(最南部)のオルノス島にホーン岬が位置する。上部の赤線はチリ・アルゼンチン国境。 ホーン岬があるオルノス島周辺のウォラストン諸島およびエルミテ諸島の島々の地図(英語) ホーン岬(ホーンみさき、英: Cape Horn)またはオルノス岬(スペイン語 Cabo de Hornos)は、南アメリカ最南端、ティエラ・デル・フエゴ諸島最南に位置するオルノス島最南端の岬である。ドレーク海峡に面している。 目次 1 解説 2 歴史 3 脚注 3.1 注釈

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堺小春 – Wikipedia

この項目では、2005年に栗原小春の芸名でデビューした女優について説明しています。2001年に栗原千春の芸名でデビューしたグラビアアイドルについては「若槻千夏」をご覧ください。 堺 小春(さかい こはる、1994年3月10日 – )は、日本の女優、タレント。本名および旧芸名、栗原 小春(くりはら こはる)[1][2]。東京都出身。アルファーエージェンシー所属。父方の祖父は喜劇役者の堺駿二、母方の祖父はタレントのE・H・エリック、父はタレントの堺正章、母はタレントの岡田美里。 タレントの堺正章とタレントの岡田美里の次女として誕生。両親は2001年に離婚。3歳上の姉とともに母のもとで育つ。両親の離婚後も父は徒歩圏内で生活し、1人で父の家に泊まりに行くなど父とも良好な関係を築いていたという[1][3]。 6歳の時に初めてダンスカンパニーの舞台に立ち、2004年、10歳の時にミュージカル『アニー』のオーディションに合格しストリートチャイルド役を演じて[4]、栗原 小春(くりはら こはる)の芸名で芸能界デビューを果たした[2]。 父と共演した[1]2007年のNHKの時代劇『夏雲あがれ』以降、学業優先のため芸能活動を休止し[4]、東京都内の大学へ進学して建築・インテリアを学ぶ[5]。 卒業後の進路に悩む中で「やはり舞台に立ちたい」として父に相談し、「小春がやりたいことをやることがパパは幸せ。後悔しないならやりなさい」と後押しを受けて、個人的に演技のレッスンに通い、大学4年に在学中の2015年、舞台を見に行った際に目にしたチラシをきっかけに受けたオーディションに合格して舞台『転校生』に出演[4][5]。祖父の喜劇役者・堺駿二、父のタレント・堺正章と2代続いた「堺の名を継ぎたい」[6]として堺 小春(さかい こはる)へと芸名を改め約8年ぶりに芸能界復帰を果たし[4]、女優活動を再開する[7]。 2018年にはオーディションを経て地人会新社『金魚鉢のなかの少女』で舞台初主演を務める[1][3]。 2021年9月1日、結婚を発表[8]。 身長は164cm[1][2]。特技は書道、乗馬、タップダンス[2]。 家族・親戚[編集]

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ゲーム機 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “ゲーム機” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2019年3月) ゲーム機(ゲームき)とは、ビデオゲーム(コンピューターゲーム)を動作させるための装置の総称[1]。ゲーム用のハードウェア全般[1]。あくまで総称なので、 家庭用ゲーム機やアーケードゲーム機、(もっと素朴な)任天堂のゲーム&ウオッチや(初期の)たまごっちなどもゲーム機であり[1]、さらに言うとビデオゲームをプレイするために使われている状態のPC(パーソナルコンピュータ)も、ゲーム専用機ではないが、ゲーム機の一種である[1]。とは言え世の中に普及している台数の比率の影響で、子供などが漠然と「ゲーム機」と言う場合は「家庭用ゲーム機」を指すことが多くなっている[1]。 総称でゲーム機と呼ばれるものには、アーケードゲーム機、家庭用ゲーム機、電子ゲーム、パーソナルコンピュータなどがある。それぞれがさらに下位分類されている。→#種類・分類 アーケードゲーム アーケードゲームとして最初に成功した製品はアタリ社が1972年に登場させた『ポン』である。その後続々とアーケードゲーム機が登場。特に1978年にはタイトーがスペースインベーダーを開発、好評を博し、世界各地でゲームセンターが作られ、タイトーのアーケードゲーム機が設置されることになり、ゲームを産業として確立させた。インベーダーゲームのヒットを目の当たりにして、そのゲーム機を模倣したアーケード機も製造する会社も多数登場した。このインベーダーゲームのゲーム機と、その後タイトーがとったやりかたで、新しいゲームをプレーヤーに提供する場合は、一番外側の筐体はそのままに、内部のメモリ(メモリボード)を交換する形で、そして必要に応じてグラフィックボードも交換することで、あらたなゲームが動くゲーム機に仕立てる、という方式が広まっていった。 家庭用ゲーム機 一方、アーケードゲームを家庭で手軽に楽しむため最初期の家庭用のゲーム機が登場したが、初期の家庭用ゲーム機は初期のアーケードゲーム同様にワイヤードロジックで構成されていた[注 1]ため、「1ハード1ゲーム」つまりひとつのゲーム機ではひとつのゲームしか遊べない状態で、あるいはせいぜい複数のゲームをスイッチで切り替える方式だった。その欠点を解消するために、1977年に登場したAtari 2600ではカートリッジでプログラムを交換する方式を導入し、ヒット機となった。 1980年代から1990年代前半にかけて、多くのメーカーによってゲーム機が開発・発売された。この時期に主要ゲーム機を販売していたのは任天堂、セガ、日本電気ホームエレクトロニクスであり、1983年に任天堂から発売されたファミリーコンピュータはカートリッジ方式(カセット方式)を採用し、サードパーティーにライセンス方式でソフトウェアの製造をさせ、価格を安価に設定した上に、多くのソフト開発会社から良質のゲームソフトが続々と発売された。結果的に累計販売台数は1991年3月末時点までに約1,600万台に達した。 1994年にソニーコンピュータエンタテインメント(SCE)(現・ソニーインタラクティブエンタテインメント)のPlayStationが市場に参入してからは、任天堂とセガ、SCEの3強による寡占状態へとなっていった。

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キム・ボドゥニア – Wikipedia

キム・ボドゥニアKim Bodnia 2012年5月撮影 生年月日 (1965-04-12) 1965年4月12日(57歳) 出生地  デンマーク・コペンハーゲン 身長 179 cm 職業 俳優 ジャンル 映画・テレビ 活動期間 1989年 – 配偶者 リッケ・ルイーズ・アンデルソン(デンマーク語版)

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海老煎餅 – Wikipedia

「えびせん」はこの項目へ転送されています。アニメーション自主制作サークルについては「グループえびせん」をご覧ください。 海老煎餅(えびせんべい)は、エビと馬鈴薯澱粉を主原料とする菓子[1]。愛知県の特産品である[1]。 米を原料とする一般的な煎餅と異なり、ジャガイモなどから作られる澱粉とエビを材料として用いて製造される。エビを「そのまま」「乾燥させる」「身を磨り潰したもの」と澱粉を混ぜ、焼くか油で揚げたものである。もともとは製造過程で糊化と膨化を同時に行う製品(一度焼き)が多かった[1]。しかし、油処理を入れず、糊化と乾燥により生地を作り、それを焙焼または油で揚げて膨化させる製品(二度焼き)が増えている[1]。エビと米を使ったものは「エビおかき」、「エビかき餅」などと称される。 愛知県が生産量日本一[2]・日本国内シェア約95%[3]となっており、三河地方と知多地方が主な生産地で、その中でも西尾市一色地区が全国シェアの約60%を生産している[4]。 この地域で獲れながらも食用の需要が無く、一部は乾燥加工され清(現・中華人民共和国)に「カジエビ」という名で輸出されていた「アカシャエビ」・「アカシエビ」と呼称されるエビを使い、蒲鉾等の練り物製造を営んでいた通称「かまぼこ文吉」が明治時代中期(明治27年頃や明治30年頃といわれる)に考案・製造し、その後に伊勢富田より往来した通称「ひげ貞」により多量のエビを処理する技法が編み出された事によって海老煎餅が安価で大量に製造できるようになったとされる[2][3][4][5]。また、製菓会社『坂角総本舗』の創業者である坂角次郎が、江戸時代初期から尾張に伝わる「えびはんぺん」を1889年に加工して作成したとも言われている[6]。 海老満月 – 乾燥エビをそのままの姿で使用。海草をあしらい一つの世界を作る。丸に成形されることから海老満月と称する。 ゆかり – エビを殻のまま磨り潰して使用。エビの含有量が一般的なものより多く濃厚な味が特徴。 えびみりん揚げ – 一般的な塩味ではなく、みりんをまぶして揚げたもの。 いかぶつ – エビではなくイカを材料にしたもの。 アーモンド揚げ – 中央にアーモンドを縦半分にスライスしたものを乗せ揚げたもの。

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