Month: September 2019

フィン・マックール – Wikipedia

フィン・マックール(Fionn mac Cumhaill)はケルト神話に登場する、エリン(アイルランドの古い呼び名)の上王コーマックを守る、フィアナ騎士団の団長。レンスター国のバスクナ一族の生まれで、生来の名はデムナ(ディムナ)だったが、金髪で肌が白くて美しいことからフィン(『金色の髪』の意)と呼ばれるようになった。 アイルランド神話を構成する4つの物語群の内の三番目にあたる[要出典]フィン物語群で伝えられる。 一般的にフィンの両親とされるのはフィアナ騎士団の団長クール・マックトレンモー(英語版)とヌアザの孫娘マーナ(英語版)である。しかしこの他に、フィン・マックールとフィン・マック・グレオル(Find mac Gleoir)を同一視し、コンホヴァル・マク・ネサの子孫であるグレオルを父親と見做す場合がある。また、母親についてもFuincheやTarbda(Torba)とする場合がある。 フィン・マックールの血統に関する最も有名な系譜は、氏族の名祖であるバスクナを古代のレンスター王ヌアドゥ・ネフト(Nuadu Necht(英語版)[1])の末裔とするものである。しかし、バスクナの祖先を古代のマンスター王Deda mac Sin(英語版)[2]とする系譜も存在する。 フィンの母方の祖父 Tadg mac Nuadat(英語版)[3]の名は「ヌアドゥの息子タイグ」を意味する。このヌアドゥとはヌアザその物であるとも、レンスターにおけるヌアザの顕現であるともされる。また、一見奇妙な事だがタイグ本人もヌアザの別名である可能性があると考えられている。こうした理由でフィンはヌアザの孫とも曾孫ともされる。[4][5] 生い立ち[編集] フィン・マックールはヌアザの孫娘マーナとフィアナ騎士団の団長クール・マックトレンモーとの間に生まれた。成長してフィンと呼ばれるようになったが、それまでは別の名で呼ばれており、デムナという幼名が最もよく知られている。 クールとマーナの関係は周囲から祝福されたものではなかった。それというのもクールは舅となるタイグから許しを得ずにマーナを連れ出しており、タイグが上王である百戦のコン(英語版)に訴えたことでクールは追討を受ける立場になったからである。[6]そして現在のダブリン郊外キャッスルクノック(英語版)とされるクヌハの戦いで彼はコノートのフィアナの隊長であったゴル・マックモーナ(英語版)に殺された。マーナはゴルがクールの息子を生かしてはおくまいと恐れ、ボーウァル(英語版)[7]たちに密かに息子をブルーム山脈(英語版)で育てさせた。 育ての母親たちに荒野で生きるためのあらゆることを授けられたデムナは、素晴らしい狩人になった。ある日、家である小屋から離れたところに出歩いたデムナと同じ年頃の少年たちがしているハーリングに興味を持ち、仲間に入って遊んだところ、たちまちの内に上達し一人で全員を相手に勝利を治めた。このことを知った少年たちの族長がデムナに興味を持ち、名前を誰も知らなかったので外見の特徴である「太陽のように明るい髪をしている」から「フィン」と呼ぶようになった。[8] フィン・マックールという名が知れ渡るということは、同時にフィンの命が脅かされるということでもあった。当時のフィンの敵は上王である百戦のコン、コノートのフィアナの長であるゴル・マクモーナ、百戦のコンの養父だったコノート王コナル、上王コンに従う名高いターラのルグネ[9]だった。旅する中でフィンは王や族長に仕え、戦士としての経験を積む。

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バオ・ダイ – Wikipedia

バオ・ダイ(ベトナム語:Bảo Đại / 保大、1913年10月22日 – 1997年7月30日)は、阮朝大南国の第13代にして最後の皇帝(在位:1926年1月8日 – 1945年3月11日)、ベトナム帝国皇帝(在位:1945年3月11日 – 1945年8月30日)、ベトナム民主共和国最高顧問(1945年9月 – 1946年3月16日)、後にベトナム国国長(在任:1949年6月14日 – 1955年4月30日)。姓・諱は阮福永瑞(げんふく えいずい、グエン・フク・ヴィン・トゥイ、ベトナム語:Nguyễn Phúc Vĩnh Thụy)、後に阮福晪(げん ふくてん、グエン・フク・ティエン、ベトナム語:Nguyễn Phúc Thiển、晪は日偏に典)と改めた。バオ・ダイの名は治世の年号である保大(1926年

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コリドーズ・オブ・パワー – Wikipedia

『コリドーズ・オブ・パワー[注釈 1]』(Corridors of Power)は、北アイルランドのギタリスト、ゲイリー・ムーアが1982年に発表した4作目のスタジオ・アルバム[注釈 2]。ヴァージン・レコード移籍第1弾アルバムに当たる。 本作に参加したニール・マーレイとイアン・ペイスは、当初は一時的なサポート・メンバーとして加入したが、最終的にはムーアのバンドの正式メンバーとなり、マーレイは1983年11月頃にホワイトスネイクに再加入するまで、ペイスは1984年に再結成ディープ・パープルに加わるまで在籍した[5]。「ウィッシング・ウェル」は、フリーがアルバム『ハートブレイカー』(1973年)に発表した曲のカヴァーである[6]。「エンド・オブ・ザ・ワールド」は、2分に及ぶギター・ソロで始まり、ジャック・ブルースがボーカルでゲスト参加している[7]。 1982年当時には、同年8月26日のマーキー・クラブ公演におけるライブ録音を収録したEPを抱き合わせた限定盤も発売されている[8]。 反響・評価[編集] 全英アルバムチャートでは6週トップ100入りして最高30位を記録し、ムーアのアルバムとしては『バック・オン・ザ・ストリーツ』(1978年)以来の全英トップ100入りを果たした[3]。日本のオリコンLPチャートでは13週トップ100入りし、最高29位を記録した[2]。アメリカでは13週Billboard 200入りし、1983年6月4日に最高149位を記録した[4]。 Eduardo Rivadaviaはオールミュージックにおいて5点満点中4点を付け「ゲイリー・ムーアが初めて発表した、純然たるヘヴィメタル・アルバム」と評している[7]。 本作のリリースに伴うツアーでは、マーレイとペイスに加えて、元ユーライア・ヒープのジョン・スローマン(英語版)(ボーカル、キーボード)と、かつてムーアと共にコロシアムIIで活動していたドン・エイリー(キーボード)が帯同し、1983年に行われた日本公演の模様はライブ・アルバム『ロッキン・エヴリ・ナイト (ライヴ・イン・ジャパン)』に収録された[5]。しかし、スローマンはツアーを通じて喉の不調を抱えていたため、1983年2月頃に解雇され、以後の日程は4人編成で行われた[5]。また、エイリーは後にオジー・オズボーン・バンドに再加入したため、1983年6月以降のアメリカ・ツアーではニール・カーターがキーボードを担当した[5]。 特記なき楽曲はゲイリー・ムーア作。 ドント・テイク・ミー・フォー・ア・ルーザー – “Don’t Take Me

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和白 – Wikipedia

和白(わじろ)は、福岡県福岡市東区の北部に位置し、およそ志賀島へと延びた海の中道の基部に当たる地域である。和白地区にはJR鹿児島本線、香椎線、西鉄貝塚線が走り、連なった丘陵に多くの住宅地を擁する。また、玄界灘と博多湾という2つの海と古くから関わってきた地域であり奈多海岸や和白干潟のように自然の景勝に恵まれた地域でもある。 和白は、元来、和白干潟北部付近の地域の名称であるが、広くは旧和白村・和白町にあたる海の中道の東部から基部全体、すなわち奈多・雁ノ巣から三苫を含む。 和白の丘陵には 6 世紀末から 7 世紀の円墳群である「下和白塚原古墳群」があり[1]、また高美台の造成時には 6 世紀末の「宮前古墳群」など4群の古墳群が見つかるなど[2]、この地域では古墳時代末期には大きな農漁業集団が活躍していたと思われる。 10世紀の百科事典『和名抄』には糟屋郡に阿曇(あずみ)という郷名が見え、一説には和白および北の新宮にあたり阿曇連の発祥地であるという[3]。 阿曇連は志賀島などを本拠として朝鮮半島との往来も含む海洋で活躍し、天皇に仕えた『記紀』などに見える古代の神話的有力氏族である。 下って明治の町村制施行時には、新制の和白村となった地域に上和白・下和白・三苫・奈多・塩浜の5つの村があった。 うち上和白・下和白は17世紀初め頃までにひとつの村から分かれたと見られる[4]。 18世紀の『筑前国続風土記』では和白は「わしら」と読まれている[5]。 これらの村名のうち和白について、『新唐書新羅伝』に新羅の全会一致の合議制度を「和白」といったという記事があることから[6]、地名の和白にも会議の意味があるとし、さらにこれは神功皇后がここで三韓征伐の軍議を行ったことから来るもので、和白を日本の議会の発祥地だとする主張もある[7][8]。 また、入り江が深く入り込んだ地形を表すという推測もある[9]。 和白の地は立花山城にも近く、戦国時代の1567年(永禄10年)には、かねてから筑前の覇権を争っていた宗像の毛利勢と立花山城の大友勢との間で小規模な合戦が起こっている[10]。 三苫の名には北部九州の多くの地名と同様に神功皇后伝説と結びついた地名説話があり、イカツオミ(烏賊津臣、伊香津臣)が皇后遠征の無事を祈って荒れた海中に投げた3枚の「苫」(船の覆い)が、現在「綿津見神社」(八大龍王社)のある海岸に漂着したのだとされる[11]。 その後、イカツオミを祖とし、香椎宮の大宮司であった三苫氏がこの地を領地としたという。 ここの綿津見神社には、廃仏毀釈でも破壊をまぬがれた平安時代後期の作と見られる伝虚空蔵菩薩像など古い仏像群が祀られている[12]。

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雪の女王 (テレビドラマ) – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “雪の女王” テレビドラマ – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2013年10月) 雪の女王(ゆきのじょおう、ハングル: 눈의 여왕)は、2006年11月13日から2007年1月9日まで韓国KBSで放送されたテレビドラマ。全16話。脚本はドラマ『冬のソナタ』(2002年、KBS)を手掛けたキム・ウニ、ユン・ウンギョン。 あらすじ[編集] 科学高校に通うハン・テウン(ヒョンビン)は、ある日図書館でハンス・クリスチャン・アンデルセンの童話『雪の女王』の本を売ってくれとせがむ少女キム・ボラ(ソン・ユリ)と出会う。お嬢様のボラに振り回されながらも優しいテウンに「もう一度会いたい」とポケベルを渡した。そんな矢先、世界数学オリンピックの結果を巡って、親友キム・ジョンギュ(ボラの兄)を事故で亡くしたことに責任を感じたテウンは高校を中退。ボラとの約束を果たさぬまま姿を消す。それから8年後、テウンはハン・ドックと名前を変え、ボクシングジムに泊り込みながら暮らしていた。友人を見舞った病院の廊下で自殺を図ろうとしていた大学生のボラと再会するが、お互い会ったことがあるとは気付かず……。 キャスト[編集] 主人公[編集] 役名 役名(韓) 俳優 年齢

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朝日放送テレビ送信所・中継局一覧 – Wikipedia

朝日放送テレビ送信所・中継局一覧(あさひほうそうテレビそうしんじょ・ちゅうけいきょくいちらん)は、朝日放送テレビ(ABCテレビ)の送信所と中継局を一覧にしたものである。 JOAY-DTV[1] 朝日放送デジタルテレビジョン リモコンキーID:6 3桁:061、062、063。 「6」は、アナログ放送の親局が6chであったという在阪広域4局共通の理由で採った。ANN系列でアナログ親局と同じリモコンキーIDを使うのは「6」の本局と「1」の九州朝日放送(KBC)だけである。 キー局のテレビ朝日等、残るテレ朝系フルネット20局は全て「5」が使われる。名古屋テレビ放送(メ〜テレ)・北海道テレビ放送(HTB)が「6」を採ったのは、先発の他系列局(それぞれCBCテレビとSTV札幌テレビ放送)がアナログ放送と同じ「5」を踏襲したため本局に合わせて「6」を採った。 本局・メ〜テレ・HTB以外でリモコンキーID「6」を採っているのは全て、かつて本局が所属していたTBS系列局であるが、山陽・九州新幹線沿線をエリアとする局で「6」を採っているのは本局とRSK山陽放送(RSKテレビ)のみである。 テレ朝系フルネット局のない福井県、徳島県で直接受信やCATVを通じて視聴する場合は、リモコン番号は「6」を使う事が多い。隣接地域ではBSS山陰放送・RSK山陽放送・KUTVテレビ高知・メ〜テレがそれぞれ「6」を使う為、デジタル放送では福井県と徳島県以外で越境視聴する場合は枝番(061-1など)がつく。ポジションはリモコン番号が6以外の空き番号の5や9や11等に割り当てられる。 関西圏では、このために空いた「5」はKBS京都とテレビ和歌山に割り当てられている。 送信所・中継局(デジタル)[ソースを編集] 奈良県 栃原 37ch 10W(2012年1月までは15chで送信されていたが、同一周波数である親局との混信によりリパックを実施) 三郷立野 38ch 0.3W垂直 地上アナログテレビジョン放送[ソースを編集] 2011年7月24日停波時点

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任天堂 – Wikipedia

任天堂株式会社Nintendo Co., Ltd. 任天堂本社 種類 株式会社[1] 機関設計 監査等委員会設置会社[2] 市場情報 OTC Pink NTDOY BMV NTDOYN WBAG NTO 本社所在地 日本〒601-8501[3][4]京都府京都市南区上鳥羽鉾立町11-1[1]北緯34度58分11秒 東経135度45分22.3秒 /

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方臘 (水滸伝) – Wikipedia

この項目には、一部のコンピュータや閲覧ソフトで表示できない文字が含まれています(詳細)。 方 臘(ほう ろう)は、中国の小説で四大奇書の一つである『水滸伝』の登場人物。 北宋末に勃発した民衆反乱「方臘の乱」を率いた同名の指導者をモデルとした人物で、史実と同様に江南地方で大規模な反乱を引き起こす。四大叛徒の一人。朝廷に帰順し遼を退けて後、河北の田虎、淮西の王慶の反乱を鎮圧し、数々の死線を潜り抜けてきた梁山泊軍の前に、数多くの豪傑英雄を麾下に従えて立ち塞がった最大最後の強敵である。 元々は歙州出身の樵夫だったが、谷川に映った自分の姿が天子の冠と衣を纏っていたのを見て、これを自分が天子の座に上る予兆だとして人々に喧伝していた。その当時江南地方では、徽宗皇帝の庭園「艮嶽」を建造するために珍木・奇石を欲した帝の意を受けた朱勔という人物による、花石綱と呼ばれる苛烈な搾取に人々は苦しめられており、朝廷を大いに恨んでいた。その荒んだ民心を利用して方臘は同志を集め、反乱を引き起こすと、睦州清渓県を本拠地に朝廷を模して文武百官を配置する。瞬く間に歙州、睦州、杭州、蘇州、常州、湖州、宣州、潤州の八州、およびその管下である二十五県を占領、江南の地に覇を唱え、国号を呉と定める草頭王朝を開くと自らは国王を号した。 しかし、梁山泊軍が朝廷の命を受けて官軍として進撃してくると、局地戦でこそ配下の石宝らの活躍で、それまでの合戦の中で一人として欠けることのなかった梁山泊の英雄たちをたびたび討ち取る場面もあったものの、次々に版図を攻略されてしまう。部下にこそ有能な人材を数多く抱える方臘であったが、本人は国主として大局的な戦略眼を持ち合わせていたとは言えず、本拠地である睦州防衛の要となる烏竜嶺への増援を石宝・鄧元覚らが求めた時も自らの御林軍を出し惜しんだり、柯引と名を偽って接近してきた梁山泊の柴進を信用して女婿に迎え入れるなど、数多くの失策も犯している。 やがて、烏竜嶺を超えた梁山泊軍が睦州で方臘が切り札として頼みにしていた妖術使い、包道乙・鄭彪らをも打ち破ると、遂に方臘も重い腰を上げ、甥である金吾上将軍方傑や飛刀の名手である驃騎上将軍杜微らを率いて親征を決意するが、柴進と同様に偽って投降していた李俊の内応によって打ち破られ、幇源洞へと逃げのびる。しかし、そこでも最後まで偽りの駙馬として付き従っていた柯引が柴進として正体を現し、味方を攻撃し始めると、形勢不利と見て身一つで深山に逃亡する。その先で遭遇した魯智深の手で捕らえられ、東京に送り届けられた後、反乱首謀者の見せしめとして凌遅砕剮という、全身を刻み切りにして嬲り殺しとする極刑を受けて死んだ。

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大胡純 – Wikipedia

大胡 純(おおご じゅん、1847年(弘化4年[1]) – 1907年(明治40年)5月27日[1])は、幕末の水戸藩士。明治時代の公吏。東京市区長。 水戸藩士。大胡資敬の子としてのちの茨城県に生まれる[1]。1862年(文久2年)江戸に上り千葉道三郎の門に入り剣術を学ぶが、父と共に禁固5年に処される[1]。1869年(明治2年)箱館戦争で軍功を挙げた[1]。1871年(明治4年)水戸藩権少属に任じ、1880年(明治13年)東京府に出仕し、土木課長、1891年(明治24年)6月に参事官[2]、日本橋区長、市区改正課長、本所区長、麹町区長を歴任した[1]。 [脚注の使い方] ^ a b c d e f 大植 1935, 1032頁. ^ 『官報』第2382号「叙任及辞令」明治24年6月10日。 参考文献[編集]

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舘川範雄 – Wikipedia

舘川 範雄(たてかわ のりお、1966年9月19日 – )は、日本の放送作家。浅井企画所属。愛称はタッチー、タテノリなど。 来歴・人物[編集] 高校生の時、『ザ・欽グルスショー』(TBSラジオ)からコサキンの番組にはがき投稿を始める。大学は東洋大学に進学。大学生時代、『スーパーギャング・コサキン無理矢理100%』の1986年頃の当時は7割という高採用率を誇った[1]。そのようなことからスタッフに誘われ、1987年4月に『コサキン無理矢理100%』と『TOKYOベストヒット』(ニッポン放送)の本番に呼ばれる形で作家としてデビューした。しかしすぐにはブースの中には入れてもらえず、台本の書き方もわからないのでまずは『ゴミ箱から拾った先輩の原稿のコピーを真似して書いていた』状態だったと言う[2]。 その後コサキンのラジオ番組で同じくリスナーから放送作家になった有川周一、楠野一郎、先輩作家の鶴間政行とあわせて『アタック隊』(4人の名前の頭文字をとった名前)とリスナーから呼ばれていた(楠野は1995年にコサキンから離れた)。現在もその『コサキンDEワァオ!』の他、テレビ、ラジオで多くの番組の構成を担当。ラジオでは奥居香、谷村有美、TM NETWORKらアーティスト、ミュージシャンの番組の担当となった他、テレビでも音楽番組を担当している。 コサキンのラジオ番組では有川、楠野と共に時々リスナーの投稿ネタにもされている[3]。『コサキンコント劇場』のコーナーでは小堺一機、関根勤の二人のコントの台本を手掛ける(関根のユニ、ユニのセリフが印象的な「ユニーク関根のユニークモーニング」など)[4]。挨拶と笑い声以外ではあまり話さず裏方に徹する。二人からファッションセンスが良く、かっこいいと言われることをからかわれている[5]他、過去に女性からひどい扱いをされた事で恋愛に消極的になってしまい、これをネタにされたこともある[6]。 番組の構成だけでなく、『カンコンキンシアター』や、『小堺一機のコミック君』、ホンジャマカ、キャイ〜ン、あさりど、国分太一『地球ゴージャス』の脚本の執筆、または演出も務めている。 2013年4月1日、カンコンキンシアター女優 中村英香と入籍。 主な担当番組[編集] テレビ[編集] ラジオ[編集] ^ 参考:『月刊ラジオパラダイス』1987年6月号『コサキン特集』での記事。ここにおいて舘川は、楠野一郎ら当時のリスナー仲間4人と対談をしている。 ^ 参考:『月刊ラジオパラダイス』1990年7月号内の記事 ^

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