ロビン・R・ヨーント(Robin R. Yount, 1955年9月16日 – )は、アメリカ合衆国イリノイ州ダンビル出身の元プロ野球選手(遊撃手、外野手)。 現役時代をミルウォーキー・ブルワーズ一筋で過ごした球団史上最高のフランチャイズ・プレイヤー[1]であり、2020年現在、通算試合数・打数・得点・安打・二塁打・三塁打・打点・塁打・四球の球団記録を全て保持している[2]。 兄のラリー・ヨーントは元投手[3]で、弟の代理人も務めた。 現役時代[編集] 1973年のMLBドラフト1巡目(全体3位)でミルウォーキー・ブルワーズから指名を受け入団。同年A-級で打率.285、3本塁打、25打点を記録。「メジャーに行っても守りは良いが、打つ方は駄目」という評価だった[4]。 1974年4月5日のボストン・レッドソックスとの開幕戦でメジャーデビュー[5]。107試合に出場し打率.250、3本塁打、26打点を記録した。 1975年は4月に打率.386を記録するなど前半戦は.289だったが、後半戦で.242[6]と失速した。20歳の誕生日目前の9月14日のレッドソックス戦で、メル・オットが47年間保持していた10代での最多出場記録241を更新[7]。 1976年は全試合出場ながら打率.252、2本塁打に終わる。 1978年は開幕に間に合わなかったが、9月6日のトロント・ブルージェイズ戦でキャリア初の1試合2本塁打を記録[8]するなど打率.293、9本塁打、71打点を記録。オフに突然プロゴルファー転向を宣言し、球団と対立して物議を醸すが[9][4]、翌年のスプリングトレーニングには復帰した。 1980年はウエイトトレーニングによりパワーが付き[9][4]、前半戦で打率.325、13本塁打を記録し[10]、オールスターゲームに初選出される。シーズン通算で打率.293、23本塁打、87打点、10三塁打、121得点、リーグ最多の49二塁打を記録し、同年から制定されたシルバースラッガー賞を受賞した。 1981年は50日間に及ぶストライキでシーズンが中断・短縮された影響で96試合の出場に留まる。同年は前後期制の変則日程となり、チームは後期優勝。ニューヨーク・ヤンキースとのディビジョンシリーズでは打率.316を記録するが、チームは2勝3敗で敗退した。 1982年は前半戦で打率.327、15本塁打、57打点の成績で[11]、2年ぶりにオールスターゲームに選出され、先発出場を果たした。チームはボルチモア・オリオールズと地区優勝を争い、最後の直接対決4連戦で1勝すれば優勝が決まるが、3連敗を喫して同率で並ばれる。10月3日のシーズン最終戦でジム・パーマーから2本塁打を放って勝利に貢献し、球団創設以来初の地区優勝を果たした[7][12]。キャリアハイの打率.331、29本塁打、114打点、210安打、いずれもリーグトップの46二塁打、長打率.578、OPS.957、367塁打を記録。カリフォルニア・エンゼルスとのリーグチャンピオンシップシリーズでは打率.250、本塁打・打点は共に0だったが、チームは2連敗の後3連勝で初のリーグ優勝。セントルイス・カージナルスとのワールドシリーズでは第1戦で4安打、第5戦でも本塁打を含む4安打を放つ[13]など打率.414、6打点を記録するが、チームは3勝4敗で敗退。カージナルスの監督ホワイティ・ハーゾグからは「現在のメジャーで3本の指に入る選手」と絶賛された[4]。MVPの投票では1位票28票中27票を獲得して受賞し[14]、2度目のシルバースラッガー賞、初のゴールドグラブ賞も獲得した。 1983年はリーグ最多の10三塁打を記録するが、打率.308、17本塁打、80打点と前年より全体的に成績を落とした。 1985年から肩を手術したため外野手に転向[1]。 1986年は4月に打率.408を記録するなど前半戦で打率.330[15]。シーズン通算で打率.312ながら9本塁打と7年ぶりの1桁に終わった。
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