Month: October 2020

終戦の日 – Wikipedia

終戦の日(しゅうせんのひ)は、日本における第二次世界大戦の終結(終戦)の日。 日本では一般的に終戦記念日は8月15日と認識されているが、アメリカ合衆国など多くの国々では第二次世界大戦は1945年9月に終結したと認識されている(国によって1945年9月2日とする国(アメリカ合衆国など)と9月3日とする国(中華人民共和国など)がある)[1]。 これに対し、第二次世界大戦戦勝国にあたるいくつかの国では対日戦勝記念日が祝われる。 昭和23年に国会でこの日を「追憶の日」とする議論があった[2][3]。 日本における終戦の日[編集] 日本政府は、8月15日を「戦没者を追悼し平和を祈念する日(せんぼつしゃをついとうしへいわをきねんするひ)」とし、全国戦没者追悼式を主催している。一般にも同日は終戦記念日(しゅうせんきねんび)や終戦の日(しゅうせんのひ)と称され、政治団体・非営利団体(NPO)等による平和集会が開かれる。 日本において太平洋戦争(日中戦争)が終結したとされる日については諸説あり、主なものは以下のとおりである。 1945年(昭和20年)8月15日:正午からラジオで放送された玉音放送により、前日に決まったポツダム宣言受諾及び日本の降伏が国民に公表された日。日本政府が軍に武装解除とアメリカ・イギリス・中国などの連合軍への投降命令を発し、連合国もそれを受け戦闘を止めた。 1945年(昭和20年)9月2日:日本政府が、ポツダム宣言の履行等を定めた降伏文書(休戦協定)に調印した日 1952年(昭和27年)4月28日:日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)の発効により、国際法上、連合国各国(ソ連等共産主義諸国を除く)と日本の戦争状態が終結した日 4月28日については、サンフランシスコ平和条約が発効して日本が完全な独立を回復した日であることから、「主権回復の日」や「サンフランシスコ条約発効記念日」とも呼ばれている。連合国軍の占領下にあった1952年(昭和27年)4月27日までの新聞紙上[要追加記述]では、9月2日を降伏の日や降伏記念日や敗戦記念日と呼んでいた。 歴史[編集] 1945年7月26日、英華米の3か国(のちにソ連も参加)はポツダム宣言を発し、日本軍の無条件降伏を要求した。日本政府は、日ソ中立条約があるソ連に和平講和の仲介を託していたが、8月6日に広島市に原子爆弾が投下され、8月8日未明にソ連対日宣戦布告、8月9日に広島市に続き長崎市にも原子爆弾が投下されるという重大な事態が続いた。 松花江で進軍を続けるソ連軍(8月10日) 終戦の詔書の国務大臣署名欄(8月14日) 小田原空襲後の市街地(8月15日) 8月10日午前0時3分[4]から行われた御前会議での議論は、東郷茂徳外相、米内光政海相、平沼騏一郎枢密院議長は、天皇の地位の保障のみを条件とするポツダム宣言受諾を主張、それに対し阿南惟幾陸相、梅津美治郎陸軍参謀総長、豊田副武軍令部総長は「受諾には多数の条件をつけるべきで、条件が拒否されたら本土決戦をするべきだ」と受諾反対を主張した。 しかし唯一の同盟国のドイツの政府は無条件降伏し、イギリスとアメリカ、オーストラリアやカナダなどの連合軍は本土に迫っており、さらに唯一の頼みの綱であった元中立国のソ連も先日の開戦により日本領土へ迫っており、北海道上陸さえ時間の問題であった。ここで鈴木首相が昭和天皇に発言を促し、天皇自身が和平を望んでいることを直接口にしたことにより御前会議での議論は降伏へと収束し、10日の午前3時から行われた閣議で承認された。 日本政府は、ポツダム宣言受諾により全日本軍が降伏を決定する事実を、10日の午前8時に海外向けのラジオの国営放送を通じ、日本語と英語で3回にわたり世界へ放送し、また同盟通信社からモールス通信で交戦国に直接通知が行われた。また中立国の加瀬俊一スイス公使と岡本季正スウェーデン公使より、11日に両国外務大臣に手渡され、両国より連合国に渡された。しかしその後も日本政府と軍内部、特に鈴木首相や東郷外相らと阿南陸相ら陸海軍の上層部内で意見が紛糾し、御前会議での決定を知らされた陸軍省では、天皇の元の会議で決定されたにもかかわらず、徹底抗戦を主張していた多数の将校から激しい反発が巻き起こった。 10日午前11時からソ連大使館側の要請によって貴族院貴賓室において東郷外相とヤコフ・マリク駐日ソ連大使の会談が行われた。その中で、マリク大使より正式に対日宣戦布告の通知が行われたのに対し、東郷外相は「日本側はソ連側からの特使派遣の回答を待っており、ポツダム宣言の受諾の可否もその回答を参考にして決められる筈なのに、その回答もせずに何をもって日本が宣言を拒否したとして突然戦争状態に入ったとしているのか」とソ連側を強く批判した。また10日夜にはソ連軍による南樺太および千島列島への進攻も開始された。

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ローレンス・ダンダス (第2代ゼットランド侯爵) – Wikipedia

第2代ゼットランド侯爵ローレンス・ジョン・ラムリー・ダンダス(英語: Lawrence John Lumley Dundas, 2nd Marquess of Zetland, KG, GCSI, GCIE, PC、1876年6月11日 – 1961年2月6日)は、イギリスの貴族、政治家。 保守党の政治家で植民地インドの統治に関する役職を主に務めた。1892年までダンダス卿(Lord Dundas)、1892年から1929年までロナルドシー伯爵(Earl of Ronaldshay)の儀礼称号を使用した。 1876年6月11日、初代ゼットランド侯爵ローレンス・ダンダスとその妻リリアン(第9代スカーバラ伯爵リチャード・ラムリーの娘)の息子としてロンドンに生まれる[3]。次男だったが、長男が早世していたので嫡男としての出生だった[4]。

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ホセフ・マルティネス – Wikipedia

この名前は、スペイン語圏の人名慣習に従っています。第一姓(父方の姓)はマルティネス、第二姓(母方の姓)はメンシアです。(Template:スペイン語圏の姓名) ホセフ・マルティネス アトランタ・ユナイテッドFCでのマルティネス (2017年) 名前 本名 ホセフ・アレクサンデル・マルティネス・メンシアJosef Alexander Martínez Mencia ラテン文字 Josef MARTINEZ 基本情報 国籍 ベネズエラ 生年月日 (1993-05-19) 1993年5月19日(28歳) 出身地

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サーミ大学 – Wikipedia

サーミ大学(サーミだいがく、北部サーミ語: Sámi allaskuvla ; SA, ノルウェー語: Samisk høgskole ; SH)は、ノルウェーの国立専門大学 (statlig høgskole) である[1][2][3][4]。 機関の英語名は、設立当初はサーミ・カレッジ (Sámi College) であったが、2000年に名称変更が行われ、サーミ・ユニバーシティ・カレッジ (Sámi University College ; SUC) となった[5]。2016年以降はサーミ・ユニバーシティ・オブ・アプライド・サイエンシス

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松島 (岡山県) – Wikipedia

松島(まつしま)は岡山県倉敷市下津井にある島である。面積0.08km2であり、岡山県の有人島の内、面積最小の島である[2]。 鷲羽山麓の大浜の方約600m沖にある有人島。周囲は約1.2km[1]。松が多いことが島名の由来とされる。島に平坦地は少なく、集落は海岸沿いにある[2]。また、島の周囲は、岡山県下でも有数の優良な漁場とされる[2]。 中世には松島庄太夫という豪族が島内を開発し、その宅地跡の遺跡が現存する。また、水軍の根拠地の一つとなり、島全体が要塞化されていたこともあり、島内には、藤原純友に由来する純友神社が存在する[2]。『吉備温故秘録』には田畑1反2畝、家数2軒、男女9人と記載されている。近代には移住者が増え、大正年間には20戸以上になるなど、人口が増えていった。その中で1902年(明治35年)に筆海小学校の分教場が設置された[注釈 1][4][5]。戦後間もない頃には人口は100人を超え、1948年(昭和23年)には、児島市立下津井中学校の分校が設置された[注釈 2][6]。1971年(昭和46年)には52人が生活。1979年(昭和54年)には本土からの海底送水管が敷設された。昭和40年代には、小中学校の校舎が相次いで新築されたが、1979年(昭和54年)には小学校が休校となり、1989年(平成元年)には中学校が休校となった[4][6]。その後、1989年(平成元年)に小学校の分校が、2000年(平成12年)に中学校の分校がそれぞれ廃校となった[4][5][6]。現在、同校の建物は松島分校美術館として活用されている。1998年(平成10年)には島民は一桁になり、2010年(平成22年)時点の人口は3名であった[1]。2017年(平成29年)には、この内1人が島を去った[5]。2018年4月時点の人口は1家族2名[3]。現在の主産業は漁業である。 水道、電気、電話は通じている[5]。 定期船は無く、児島味野港または下津井港などからチャーター便を利用する必要がある[1][7]。 ^ 後に、下津井町立下津井尋常小学校(1908年(明治41年):改称)、下津井町立下津井尋常高等小学校(1931年(昭和6年):改称)、下津井町立下津井国民学校(1941年(昭和16年):改称)、児島市立下津井小学校(1948年(昭和23年):改称)、児島市立下津井西小学校(1958年(昭和33年):下津井小学校廃校後の新設)、倉敷市立下津井西小学校(1967年(昭和42年):改称)と、本校が変遷している[4]。 ^ 1967年(昭和42年)に、本校が倉敷市立下津井中学校と改称され、同校の分校となった[6]。 関連項目[編集] 外部リンク[編集]

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ハチドリ – Wikipedia

「はちどり」はこの項目へ転送されています。韓国のドラマ映画については「はちどり (映画)」をご覧ください。 ハチドリ は鳥綱アマツバメ目(ヨタカ目とする説もあり)ハチドリ科(ハチドリか、Trochilidae)に分類される構成種の総称。 北米・カナダ、アメリカ合衆国南西部からアルゼンチン北部にかけて(カリブ諸島を含む) 鳥類の中で最も体が小さいグループであり、体重は2〜20g程度である。 キューバに生息するマメハチドリ Calypte helenae は世界最小の鳥であり、全長6cm、体重2g弱しかない。 飛翔[編集] 毎秒約55回、最高で約80回の高速ではばたき、空中で静止するホバリング飛翔を行う。 「ブンブン」 とハチと同様の羽音を立てるため、ハチドリ(蜂鳥)と名付けられた。英語ではハミングバード Hummingbird で、こちらも同様にハチの羽音(英語における擬音語が hum)から来ている。フランス語では oiseaux-mouche で直訳すると 「蝿鳥(ハエドリ)」

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電鈴 – Wikipedia

この項目「電鈴」は翻訳されたばかりのものです。不自然あるいは曖昧な表現などが含まれる可能性があり、このままでは読みづらいかもしれません。(原文:2018-01-29T10:16:31時点におけるGilliam による版) 修正、加筆に協力し、現在の表現をより自然な表現にして下さる方を求めています。ノートページや履歴も参照してください。(2020年3月) 古い電磁式ドアベルの内部。 電鈴(でんれい)またはベルとは電磁石を利用した鐘を鳴らす機構である。電流が流れると繰り返しせわしなく鐘を打ち鳴らす。電鈴は1800年代遅くから、鉄道の踏切警報機、電話機や火災報知機、学校の授業開始・終了を知らせたり玄関に付ける呼び鈴、工場設備における警報として広く用いられてきたが、現代においてはそのほとんどが電子音によるものに置き換えられている。電鈴は鉄のロッドにエナメル線を巻きつけられたコイルが置かれたもので、電流がコイルに流れるとロッドが磁気を帯び、ベルを叩くハンマーと一体の鉄片を吸い付けてベルを鳴らすものである。 断続ベル[編集] 動作原理[編集] 断続ベルの動作原理。 広く用いられている断続ベルは電流を通じることにより連続した音を出すベルである(動作アニメーションを参照)。ゴングとも呼ばれるベル (B) はカップ型または半球状のかたちをしたベルの中に弾力性のある先端に小さな金属球の付いた、「クラッパー」と称されるアーム[訳注 1] (A) が電磁石 (E) により動作させられる。ベルが鳴動しない状態では、クラッパーは弾力性のあるアームによってベルから少し離れた位置に保持される。スイッチ (K) を閉じることによって(ドアベルボタンを押す、という動作)電流が電磁石に流れると電流によって磁場が生じ、クラッパーの鉄製のアームを引き寄せ、ベルを叩く。ベルを叩くことでクラッパーに付いた接点 (T) が開き、電磁石に流れる電流を切断する。電流が切断されることで電磁石の磁場が崩壊し、クラッパーがベルから離れる。クラッパーがベルから離れることにより接点が再び閉じられ、電磁石に電流が再び流れ、電磁石がクラッパーを吸い付けてベルを再び鳴らす。この反復動作を素早く行うことから結果として連続して「ジリジリジリ……」と連続した音が鳴ることになる。

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青山祥子 – Wikipedia

青山 祥子(あおやま さちこ)は、日本の女優である。長崎県出身。身長165cm[1]。 所属事務所はアプレで、贅沢貧乏の劇団員として活動している。 2010年から2014年まで大人計画の研究生として参加[2]。2012年に同じく研究生であった矢本悠馬、井上尚、菅井菜穂らと「劇団こまつな」を旗揚げし[3]、同年5月24日に読売テレビ・日本テレビ系列で放送されたテレビドラマ『たぶらかし-代行女優業・マキ-』第1話でテレビドラマ初出演。 2019年5月1日、アプレに所属することが発表された[4]。 2020年1月4日に山田由梨が主宰の劇団「贅沢貧乏」に加入[5]。 大阪芸術大学短期大学部卒業生[2]。 特技は書道と猫の鳴き真似[1]。 テレビドラマ[編集] 舞台[編集] DIVE×メイシアタープロデュース「オダサク、わが友」(2011年3月26日・27日) ウーマンリブVol.12「SAD SONG FOR UGLY DAUGHTER」(2011年7月13日 – 18日) 大人計画「ウェルカム・ジャパン」(2012年3月16日

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