Month: September 2020

熊谷ゴルフクラブ – Wikipedia

熊谷ゴルフクラブ(くまがやゴルフクラブ)は、埼玉県熊谷市にあるゴルフ場である。 1960年(昭和35年)6月、「熊谷にゴルフ場の適地がある」という話が、日本クレジットビューロー株式会社社長の河村良介の許に持ち込まれたことに始まる[1]。ゴルフ場建設候補地は河川敷だとのこと、早速、現地を見て驚いた、河川敷というより草っ原に近い、杉林、松林、アカシアの森、欅の独立樹などが点々と茂り、隣接地には桑畑、麦畑、野菜畑が広がっていた[1]。 建設候補地は25万坪あり、民有地が5万坪で、その他は河川敷だから国有地、埼玉県が管理者である[1]。だが、河川敷の耕されていない所は、ゴミ捨て場になっていて汚染がひどかった[1]。埼玉県と熊谷市は、管理者を求めていたところで、用地賃貸契約や許認可手続きは順調に進んだ[1]。民有地は地元石原農協に委託して買収し、離作した人はゴルフ場職員として雇用した[1]。 1960年(昭和35年)9月14日、新たなゴルフ場の建設に向けて経営母体「熊谷観光ゴルフ株式会社」を設立し、社長には河村良介が、役員には国際自動車株式会社社長の波多野元二、株式会社 足利銀行頭取の藤松正憲らが就任した[1]。1961年(昭和36年)10月4日、「熊谷ゴルフクラブ」が創立され、理事長には三和銀行副頭取の宮森和夫、副理事長に波多野元二が就任した[1]。 1961年(昭和36年)3月15日、コース設計を株式会社大林組の間野貞吉に依頼し、コースの造成工事が着工された[1]。河村社長は「治水の大本に従い、河川の効用を重んじる趣旨」で設計して貰ったと語った[1]。1962年(昭和37年)4月29日、工事造成工事が完成し、18ホール、距離6,705ヤード、パー72規模のゴルフ場が開場された[1]。 コース開場後、河川敷コース離れしたコースだと好評だった[1]。15番、16番ホールは高いヒマラヤ杉が林立し、まるで山コースのようである[1]。10番ホールはフェアウェイに5本の松があり、戦略的に考えたコースとなっている[1]。 〒360-0816 埼玉県熊谷市石原1431番地 コース情報[編集] 開場日 – 1962年4月29日 設計者 – 間野 貞吉 面積 – 792,000m2(約23.9万坪)

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奈良岡にこ – Wikipedia

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江田島町 – Wikipedia

江田島町(えたじまちょう)はかつて広島県安芸郡に存在した町である。呉市の西方の瀬戸内海に浮かぶ江田島を主たる町域としていた。 2004年11月1日、地続きの東能美島・西能美島(総称して能美島と呼ぶこともある)にあった佐伯郡大柿町・沖美町・能美町と合併(新設合併)して市制施行し、江田島市に移行した。但し、江田島市役所は旧江田島町役場ではなく旧能美町役場に置かれ(2016年7月31日まで)、旧江田島町役場は江田島市役所江田島支所になった。 歴史・沿革[編集] 山 クマン岳(標高399.8m) 古鷹山(標高376m) 大原山(標高345m) 大須山(標高259.5m) 仏ノ塔(標高205.1m) 歴代町長[編集] 脇本恭一(1951年 – 1955年) 中浜吾祐(1955年 – 1966年) 岡本武男(1966年 – 1975年) 山中淳(1975年

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今羽町 – Wikipedia

今羽町(こんばちょう)は、埼玉県さいたま市北区の町名。現行行政地名は今羽町のみ。丁番を持たない単独町名である。住居表示未実施地区[4]。郵便番号は331-0801[2]。本項では、今羽町の前身である大字今羽(こんば)と、その前身である今羽村(こんばむら)についても述べる。 さいたま市北区北東部の大宮台地上に位置する[5]。東側で上尾市原市や東大宮に、南側で本郷町に、西側から北側にかけて吉野町に隣接する。芝川に並行する市道を境に東側は市街化調整区域、西側は市街化区域に指定されている[6]。近隣にニューシャトルの駅が設置されているものの、開発はあまり進んでおらず、生産緑地地区[6]としての農地が目立つ。東側および南側に見られる芝川都市下水路[6]周辺の沖積平野はかつての見沼の北端にあたり、隣接する原市地区同様に荒地が残る。湿地帯を埋め立てさいたま市立泰平小学校、さいたま市立泰平中学校などの学校用地に使われている場所もある。都市計画道路宮原駅前通線が宮原駅東交差点から今羽町団地の西を通り、県営砂団地の北側を経て第二産業道路へつながるよう計画されていたが、2013年3月1日に廃止された[7]。 古戦場跡である吉野原合戦(舟橋合戦)の跡が北東端の舟橋周辺に所在する[5]。 地価[編集] 住宅地の地価は、2015年(平成27年)1月1日の公示地価によれば、今羽町250番10の地点で9万8000円/m2となっている[8]。 もとは江戸期より存在した武蔵国足立郡吉野領に属する今羽村であった[5]。村高は正保年間の『武蔵田園簿』では197石余(田113石余、畑84石余)、『元禄郷帳』では211石余、『天保郷帳』では212石余であった[5]。助郷は中山道大宮宿に出役していた[5]。化政期の戸数は24軒で、村の規模は東西14町、南北18町余であった[5]。周辺の村々からの悪水が集まりやすく大水や旱魃の両方に見舞われやすい場所であった。甘藷や紅花の栽培が盛んで甘藷は鴻巣宿、紅花は桶川宿へ出荷していた[5]。 今羽村に存在していた小字[編集] 丸山・領家谷津・平・横枕・薬師堂前[17] 世帯数と人口[編集] 2017年(平成29年)9月1日時点の世帯数と人口は以下の通りである[1]。 小・中学校の学区[編集] 市立小・中学校に通う場合、学区(校区)は以下の通りとなる[18]。 鉄道[編集] (いずれもホームの一部が今羽町に掛かるが、駅の所在地は今羽町ではなく吉野町である。) 道路[編集] 町域の北部は吉野原工業団地に掛かる。 注釈[編集] ^ ただし、さいたま市行政区画審議会による行政区画の編成についての最終答申では「B区」(北区)に大字今羽が記載されている[15]。詳細は不明。 出典[編集]

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西平せれな – Wikipedia

西平せれな(にしひら せれな、1987年12月6日 – )は、日本の歌手、シンガーソングライター、トラックメイカー、パーカッショニスト、フルート奏者、俳優、奄美黒糖焼酎杜氏。 鹿児島県奄美大島の名瀬市(現奄美市)出身。[1] キャッチフレーズは「二足のハイヒール」。愛称のSelephantはゾウ好きな事による。 三味線で歌う奄美シマ唄が盛んな土地柄であるが、父は東京でロックミュージシャン、母はピアノ教師として活動をしていた事がある音楽一家、かつ奄美黒糖焼酎「加那」、「珊瑚」で知られる蔵元西平酒造の家に生まれ、幼少のころよりクラシックピアノを習う。8歳の時、カーペンターズのカレンにあこがれて、ドラムスを始め、親戚の結婚披露宴の余興で演奏した。 また、小学校、中学校では吹奏楽部でトランペット、アコーディオン、フルートを担当。高校時代はバンド活動と新体操に注力していたが、14歳の時に市民ミュージカル『パーフェクトファミリー!?』に出演してミュージカルに興味を持ち、東京などで『Sylphy』、『Life Pathfinder』に出演。 2008年から2014年まで、北海道札幌市のYOSAKOIソーラン祭り参加チーム「Gush」の毎年のテーマ曲を歌った他、2013年と2014年は作詞も担当した。 2011年より、ギタリスト盛保道とのユニット「ノチ圃ド」(のちほど)を結成、奄美の代表的なシマ唄「いきゅんにゃ加那」をポピュラーアレンジで歌い、独特の世界感を表現した他、「なんちゃってシャンソン」、「モノクロ連想ゲーム」などの新感覚な作品を演奏し、これらを収録したデモCDを作成。しかし、2012年9月5日の東京都新宿区の真昼の月 夜の太陽でのライブをもって活動を終了した。 その後、主にパーカッショニストやドラマーとして、様々なアーティストのライブでジャンベ、カホン、ドラムスの演奏をする他、フルート演奏やコーラスでサポートを行ってきた。 2014年6月1日には、自作、自演の曲を収録し、イラストも自ら描いたファーストマキシシングル『クリカエス民族』をリリース。民族音楽やジャズの要素を取り入れ、既存のジャンルに入りきらない、独特の感性の音楽のコンセプトは題して「奄美発、レトロポリタンポップ」。シングルリリースを機にソロでのライブ活動を開始した。 2014年末に奄美大島に帰郷、杜氏見習いとして奄美黒糖焼酎を作りながら、奄美市のライブハウスや音楽イベントを中心に活動を重ね[2]、2017年1月に正式に杜氏となった。 2017年4月26日、ポップ、テクノ、エスニックなど、ジャンルを越えた自作曲を集めたファーストフルアルバム『メッセオアマッサ -message or massage?-』をElec Recordsから発売。同時に杜氏としてのデビュー作奄美黒糖焼酎「珊瑚

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ちびまる子ちゃん イタリアから来た少年 – Wikipedia

『ちびまる子ちゃん イタリアから来た少年』(ちびまるこちゃん イタリアからきたしょうねん)は、2015年12月23日に公開された日本のアニメーション映画。配給は東宝。ちびまる子ちゃんの映画化作品の第3作目。アニメ放送25周年を記念して制作され、前作『ちびまる子ちゃん わたしの好きな歌』から23年ぶりの映画化となる[5]。 今作は、まる子の住む町にある日、5か国から子供たちが訪れるところから始まり、海外の子供たちとまる子たちの友情を軸に描かれる。また、初めて自分の住んでいる清水市を離れ、京都や大阪へ訪れる様子も描かれる[6]。 ぴあの調査による初日満足度ランキングで第1位となった[7]。 ゲスト声優[編集] 2015年10月19日には、5か国からやってくる子供たちの声を、俳優の中川大志、「永沢君」で主演を務めた劇団ひとり、タレントのローラ、お笑いタレントの渡辺直美、「ちびまる子ちゃん」のエンディングで使用されていた「アララの呪文」で振り付けを担当したパパイヤ鈴木の5人が起用されることが発表された[8]。またこのときに映画のタイトルが『ちびまる子ちゃん イタリアから来た少年』であることも明らかとなる[9]。 2015年11月27日には、オープニング及び挿入歌を歌う大原櫻子、エンディング曲「おーい!!」を歌うウルフルズのメンバーの1人のトータス松本、挿入歌「キミを忘れないよ」の作曲を担当した亀田誠治が出演することが発表された[10]。 2015年12月2日には、中田カウス・ボタン、笑福亭仁鶴、間寛平の3人が本人役、2006年のドラマ版においてまる子を演じた森迫永依がアンドレアの幼少期を演じることが発表された。また、2006年にまる子の両親を演じた高橋克実、清水ミチコが本作のキーパーソンを演じるほか、フジテレビアナウンサーの軽部真一、笠井信輔、永島優美が本作の随所に出演するという[11]。 スタッフ[編集] 監督はテレビシリーズの監督を務める[12]高木淳が[13]、脚本は過去2作同様、原作者のさくらももこが[14]それぞれ担当。 主題歌[編集] さくらのオファーで、オープニング及び挿入歌を大原櫻子、エンディングをウルフルズが担当[15]。 あらすじ[編集] 花輪家に、世界中から6人の少年少女がやってきた。彼らは、日本の文化をもっと知りたいということで、まる子たちの家にホームステイすることになった。まる子の家には「アンドレア」という少年がホームステイする。初めは嫌々だったまる子や家族も、彼と充実した日々を送っていくが、そんな中、彼には会いたい人がいることを知る。 3年4組 座席表[編集] 今作に登場する3年4組の40人の生徒と6人の外国の子供たちの座席表。

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吉川八幡神社 (豊能町) – Wikipedia

吉川八幡神社(よしかわ はちまんじんじゃ)は、日本の近畿地方南部の、大阪府豊能郡豊能町吉川(近世における摂津国能勢郡吉川村)に鎮座する神社である。「吉川八幡神社」と通称されているが、鳥居や灯籠の標記は、単なる「八幡神社」である。 現在は、吉川上地区、吉川中地区、吉川下地区、吉川西地区(ときわ台、東ときわ台、光風台、新光風台)、保ノ谷、川尻、黒川奥山、以上7地区の総氏神となっている。旧社格は郷社。 主祭神は応神天皇御霊(八幡大神)。本地垂迹時代には「八幡大菩薩(はちまん だいぼさつ)」と称。 奥から順に、拝殿、石階、石鳥居、神馬「いづめ」、巫女 [3] / 2019年撮影。また、この画像は公式Facebookではトップ画像になっている。 元禄8年(1695年、江戸時代中期)に記された『寺社吟味帳』によれば、平安時代後期の治暦年間(1065年-1069年中)に、源頼仲(摂津源氏・源頼国の七男)が吉川城(摂津吉川城)に在住していた折に創建したという。江戸時代の元禄期に描かれた名所絵には、同様の社殿が3社描かれている。主祭神である応神天皇の御霊は、平安時代に清和源氏の守護神・軍神として篤く信仰されるようになった。 本地垂迹説が隆盛となった中世以降は、真言宗御室派の七寶山高代寺(現在は豊能町吉川756番地に所在)を別当寺として、その統括下にあった。 明治時代初期には政府から神仏分離を強要され、仏教色は廃された。手水鉢に仏教用語で「御寳前(ごほうぜん)[字引 1]」と記されているのは、神仏習合の名残である。 年表[編集] 古代[編集] 中世[編集] 近世[編集] 神前石灯籠(一部) 元禄5年9月吉日(1692年10月頃[注 3])

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大石田謙治 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “大石田謙治” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2022年3月) 大石田 謙治(おおいしだ けんじ、1961年10月2日 – )は、大鵬部屋に所属した元力士。本名は石田 謙治(いしだ けんじ)、神奈川県相模原市出身、182cm、141kg。最高位は西十両13枚目。得意技は突き、押し、左四つ、寄り。 1977年3月場所初土俵、入門14年目の1990年9月場所に所要81場所で念願の新十両昇進を果たす。ただ初日は勝利したものの翌日から13連敗、千秋楽は勝利したが2勝13敗の成績で1場所で幕下に陥落。十両在位は結局この1場所で、最後は三段目まで陥落し1993年9月場所限りで現役を引退(廃業)した。現役晩年には短期間で体重が20㎏以上減り、当時幕内で活躍していた智ノ花の豪快な「いぞり」と関連し「どうした、げっそり元十両・大石田」とやくみつるの漫画でネタにされてしまった。 主な戦績[編集] 通算成績:351勝342敗7休 勝率.506

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ジャクソン・カワー – Wikipedia

この記事の項目名には以下のような表記揺れがあります。 ジャクソン・コーワー ジャクソン・コワー ジャクソン・カワーJackson Kowar カンザスシティ・ロイヤルズ #37 フロリダ大学時代(2018年3月3日) 基本情報 国籍 アメリカ合衆国 出身地 ノースカロライナ州ユニオン郡ウェディントン(英語版) 生年月日 (1996-10-04) 1996年10月4日(25歳) 身長体重 6′ 5″ =約195.6 cm200

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孫魯育 – Wikipedia

孫 魯育(そん ろいく、? – 255年)は、三国時代の呉の公主。字は小虎。通称を朱公主という。また、小公主とも呼ばれる。父は孫権。生母は歩皇后。同母姉は孫魯班。異母弟に孫和・孫休・孫亮など多数。夫は朱拠、後に劉纂。娘は景皇后(孫休の皇后)。 黄龍元年(229年)秋、朱拠に嫁いだことから朱公主と呼ばれた。 赤烏5年(242年)、孫和が太子となった時、姉の孫魯班の廃嫡計画に反対した。なお、朱拠も孫和を支えていたため、姉とは対立関係になっていた。 赤烏13年(250年)朱拠が死去し、早世した異母姉の夫でもある劉纂と結婚した。五鳳元年(254年)、孫英・孫儀らが相次いで孫峻の暗殺計画を立てるがいずれも失敗した。五鳳2年(255年)、姉が孫峻に対し「孫魯育も暗殺計画に加担していたようです」と誣告すると、孫峻は彼女を殺害したあと、その遺骸を石子岡(せきしこう、建業南郊の丘陵地帯)において乱雑に埋めさせた。 死後は呉の歴代の皇帝から重視された。太平年間、孫亮が魯育の死の真相を知り、姉の死を止められなかった孫峻の側近2人である朱熊・朱損(朱公主の継子とも)を責め、丁奉に命じて処刑した。後に娘婿の孫休が帝位に就くと、孫魯育を殺したことで孫峻の墓も暴かれ、棺が削られた。元興元年(264年)、即位した孫晧によって改葬された[1]。 小説『三国志演義』には登場しない。 『捜神記』によると、孫晧が帝位に即くと、朱公主を改葬しようと考えた。しかし、石子岡にある墓はみなよく似ていて、どれが朱公主のものなのかわからなかった。宮女の中に、朱公主が亡くなったときの衣服をいくらか覚えていた者がいたので、孫晧は2人の巫女に命じ、それぞれ別の場所から朱公主の霊の様子をうかがわせた。その際には別の者に命じ、2人の巫女が互いに接触しないよう監視させた。しばらくして、2人の巫女は 「ひとりの女の幽霊が見えました。30歳過ぎぐらいで、上には青錦の衣と束頭、紫と白の袷と裳を着けられ、赤い厚織りの絹の履物を履いておられます。その女性は石子岡を半ばまで登ったところで、手で膝を押さえて大きなため息をつかれました。そこにしばらく留まられたあと、ひとつの塚のほとりで立ち止まられ、そのあたりをうろうろされているうちに、ふと姿が見えなくなりました。」 と言った。 2人の言うことがまったく同じだったため、その塚を開いてみたところ、中から巫女が言った衣服を着けた朱公主の遺骸が出てきた。 ^ 『建康実録』より。 参考文献[編集]

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