石田流 – Wikipedia

石田流(いしだりゅう)は、振り飛車における駒組みの一つである。三間飛車からの変化の一種で、▲7五歩(後手ならば△3五歩)と突いて飛車を高位置に配置する構えを言う。

石田流の誕生[編集]

江戸時代中期に盲目の棋士・石田検校が生み出したといわれる。石田の実戦譜も残っているが、いずれも石田の負けに終わっている。

俳人の各務支考の「将棋の賦」という文章に「さて角行は物の影に扣(ひか)えて千里の外の勝を窺ふ。いづれの時よりか石田といへる馬組(こまぐみ)に、香車道に身を隠し、おほくは金銀と引組、飛車のために命を惜しまず死後の勇気をふるふより、かの仲達も遥かに恐れつべし。」とあり、明治の文豪幸田露伴がそれに付した注釈(将棋雑話)に「石田といへる馬組(こまぐみ)は石田検校の案じ出せる陣法にして、敵の未だ戦意を発せざるに乗じ、急(にわか)に突撃悪闘して我が上将を失ふも顧みず、只管(ひたすら)敵陣を粉砕するを主とする者なり。されば此段は我が角行の死して却つて敵陣の大(おおい)に乱るる様を云へるにて、三四句の中に能く石田の陣法戦略を説き尽せり」とあるように、一般にもよく知られた戦法であった。

石田流対策としては棒金が有効であることもよく知られており、古川柳にも「尻から金とうたれで石田負け」(誹風柳多留、棒金で石田流が崩されて負けることと、小早川金吾(秀秋)に攻められて石田三成が関ヶ原の戦いで敗れたこととをかけた句)[1]というものがあるほどである。

江戸時代の定跡書には既に早石田・石田本組・棒金・桂交換などの定跡が掲載されており、また当時の将棋所の棋譜には升田幸三が後に升田式石田流を思いつくヒントとなった実戦例(▲7五歩-▲4八玉と上がるもの)も存在していることが指摘されている。

その後の展開[編集]

1970年代には升田幸三創案の升田式石田流が登場し流行を見せる(後述)。さらに2000年代には、2004年の鈴木大介による新・早石田、2007年の今泉健司による2手目△3二飛、2008年の久保利明による新手(後述)など、新しい定跡の開発が進む。2011年頃にはプロの世界でも再び流行が見られている[1]

石田流本組[編集]

図1-A 石田流本組
(理想形の部分図)
△持駒 なし
▲持駒 なし
図1-B 石田流本組
(居飛車穴熊対策型の例)[2]

飛車を7六(後手ならば3四)に、桂馬をその後ろのマスに配置する構えを言う。角行は基本的に端が定位置であり、銀将は逆に中央へ配置することが多い(図1-A)。振り飛車の理想形といわれ、四間飛車やひねり飛車などからの変化においてもこの形が現れることがままある[3]

この構えは、特に香落ち戦で理想形とされている。これは飛車が△3四にあることにより香車のない1筋と下手の飛車先である2筋を守ると共に、左桂(△2一)の動きが自由になるためと言われる[要出典]。居飛車穴熊対策としての石田流本組はいくつかの戦い方があり[4]、有力な戦法としては左の金将を▲7八に置いて広く構え(図1-B)、手薄になった7筋を攻めるというものがある[5][6][7]

早石田戦法[編集]

振り飛車側がスムーズに石田流に組むには、△8五歩の前に▲7八飛-▲7五歩と指しておき居飛車の飛車先を浮き飛車で受ける形を間に合わせておけばよい。しかし居飛車が早めに飛車先を決めてきた場合、振り飛車は▲7七角と上がるしかない。これを不満とみれば、▲7六歩△3四歩のあとに角道を止めず▲7五歩を突く手もある(図2-A)。

図2-Aから△8四歩なら▲7八飛と飛車を振る(図2-B)。ここで△8八角成▲同銀△4五角には▲7六角(図2-C)でよい(△2七角成ならば▲4三角成で先手が有利となる)。この手順を避けるため図2-Bから△6二銀や△4二玉と穏やかに指してくれば、振り飛車も▲6六歩と角道を止めて石田流本組に組むことができる。これで居飛車が不利というわけではないのだが、居飛車が石田流本組に組まれるのを嫌えば図2-Bの次に△8五歩と飛車先を伸ばしてくる手もあり(図2-D)、ここから乱戦となる。これを早石田戦法(はやいしだせんぽう)という。

玉を囲わずに敵陣を攻める早石田はハメ手と言われ、攻撃力が高かったため、アマチュア間で指された。しかし早くに防御方法が定跡手順化され、早石田側が不利という結論が出たため、プロの間では指されることはなく、木村義雄十四世名人に至っては石田流崩し必勝法を唱えるほどであった[* 1][8]

新・早石田[編集]

別名を早石田鈴木流急戦などともいう。鈴木大介は、▲7六歩△3四歩▲7五歩△8四歩▲7八飛△8五歩(図2-D)の後にいきなり▲7四歩(図4-A)と突く手はあるとして、実戦で指す[9]

この7手目▲7四歩は江戸期の定跡で悪手とされ、第30期名人戦でも出現したが仕掛けた升田が敗北しており、成立しない仕掛けとされていたものである。しかし、石田流の勝率が悪いことを嘆いていた鈴木が、棋士仲間と石田流の研究をしていたときに鈴木が再度研究し直したところ、仕掛けとして有効であることが判明したものである。▲7四歩以下は、△同歩▲同飛△8八角成▲同銀△6五角(図4-B)▲5六角△7四角▲同角△6二金▲5五角(図4-C)という進行が一例。従来は△6五角(図4-B)で先手失敗とされていた。鈴木はこの新戦法開発により升田幸三賞を受賞している。

また鈴木に影響を受けた久保利明は、▲4八玉△6二銀から▲7四歩と仕掛ける久保流急戦を考案。この局面で後手△7二金に対して指した新手▲7五飛で、同じく升田幸三賞を受賞した[10](駒組みは久保利明の記事を参照)。

升田式石田流[編集]

図3 升田式石田流

升田幸三実力制第4代名人が考案した駒組みである。また、その戦法を升田式早石田(ますだしきはやいしだ)と呼ばれている。奇襲戦法の花形として、現在でも初心者向けの将棋書籍では棒銀と並んで非常によく取り上げられている。

鮮烈な登場[編集]

当時ハメ手だった早石田を改良したもので、その登場は将棋界に大きな衝撃を与えた。ハメ手として軽んじられていた戦法を1971年4月の第30期名人戦七番勝負第2局の大舞台で使うというだけでも衝撃的であったが、振り飛車であるにもかかわらず角道を止めず、当時はタブーとされていた角交換を行ってしまうという驚くべき手法であったからである。そして升田はこの戦法を用いて常勝不敗の大山康晴名人(当時)に勝利。駒組みの分かりやすさもあってアマチュアで大流行し、先手後手ともに升田式石田流となる相升田式という珍将棋まで登場したとされている[要出典]

その次の局(第30期名人戦七番勝負第3局)で後手番の升田幸三が使ったことによって先手のみの定跡だった早石田が後手でも使えることが判明した。この第30期名人戦はフルセットの末、大山康晴が防衛したが、その7局のうち5局が升田式石田流であった。

衰退と復活[編集]

一時期は必勝の戦法とまでいわれていたが、この名人戦での第6・7局で大山康晴の見せた対応策によって手堅く受けられると打開が難しいなどの点から[11]、プロの間では一時期衰退した[* 2]。創始者の升田幸三は升田式石田流や類似戦法のひねり飛車を好んで指し続けたが、体調不良により引退し、升田引退後は升田式石田流はプロの間ではあまり指されなくなっていった。

しかしアマチュア戦では根強い人気を誇り、アマ強豪の立石勝巳のように升田式石田流を元として立石流四間飛車を開発する者まで現れた。プロ棋士の間でも若手を中心に研究が行われ、鈴木大介・久保利明・豊川孝弘らが升田式に注目。升田式石田流では今まで▲7七桂型が普通と思われていたが、▲7七銀型も有力と見られるようになってきた。

なお、早石田は先手・後手で大きな違いが現れる。急戦のため、一手の違いが大きく影響するからである。後手の早石田は先手と比べてリスクが高かったが、3・4・3戦法(飛車を最初から三間に振らずに、四間に途中下車する)の出現で息を吹き返した。3・4・3戦法の骨子は、後手番であえて手損をすることで先手に形を決めさせ、天敵である棒金にさせないようにした戦法である。その意味では後手番一手損角換わりとも通ずるところがある。

注釈[編集]

  1. ^ ただし、ハメ手が決まったように見えてもその実、形勢は微妙なものである。
  2. ^ 勝又 (2003、1995年のものの文庫版, p.95)によれば、最近一万数千局の将棋で、先手が4局、後手が20局。

出典[編集]

  1. ^ 久保 (2011, p.3)
  2. ^ 小倉 (2006, p.74)
  3. ^ §26.石田流本組”. 関西将棋会館. 2010年2月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年9月6日閲覧。
  4. ^ 小倉 (2006)
  5. ^ 久保 (2011, p.130-135)
  6. ^ 鈴木 (2011, p.41-50)
  7. ^ 小倉 (2006, p.70-121)
  8. ^ 久保 (2011, pp.63-69)
  9. ^ 久保 (2011, pp.73-86)
  10. ^ 久保 (2011, pp.87-102)
  11. ^ 勝又 (2003, pp.94-95, p.97)

参考文献[編集]

関連項目[編集]