山ノ上碑 – Wikipedia

山ノ上碑[1][2](やまのうえのひ/やまのうえひ、山上碑[3][4])は、群馬県高崎市山名町にある古碑。国の特別史跡に指定されている(指定名称は「山上碑及び古墳」)[4]

金井沢碑・多胡碑とともに「上野三碑」[5]と総称される。本項では、山ノ上碑に隣接する山ノ上古墳(山上古墳)についても記載する。

「辛已歳」は天武天皇10年(681年)建碑と考えられており、上野三碑の中では最古である。

高さ120cm・幅50cm・厚さ50cm[6]の輝石安山岩に4行53文字が薬研彫りで刻まれている。書体は古い隷書体の特徴が見られる。

山ノ上碑は墓誌であり、隣接する山ノ上古墳(下記参照)の墓誌であると考えられている。その内容から、放光寺の僧侶・長利(ちょうり)が母の黒売刀自(くろめとじ)のために墓を建てたことがわかり、墓誌としても日本最古の例である。「放光寺」は佐野の地にあると考えられてきたが、最近の発掘調査により、前橋市の山王廃寺跡にあった寺院の可能性が高くなった[7]

刻まれている文のほとんどが、長利母子の系譜を述べており、古系譜の史料としても貴重である。

また、山ノ上碑に刻まれている「佐野三家」は金井沢碑の「三家」(ミヤケ、屯倉)であると考えられてきたが、周辺の発掘調査により、史料上知られていないミヤケの存在が確実視されてきたため、「佐野三家」と「三家」は同一でないという可能性も出てきた。

1921年(大正10年)3月3日に「山上碑及び古墳」の名称で国の史跡に指定され、1954年(昭和29年)には国の特別史跡に指定されている。

山ノ上碑の碑文は以下の通り[8]

辛巳歳集月三日記
佐野三家定賜健守命孫黒売刀自此
新川巨児斯多々弥足尼孫大児臣娶生児
長利僧母為記定文也 放光寺僧

読み下し[編集]

辛巳歳集月三日に記す。佐野三家(さののみやけ)を定め賜える健守命(たけもりのみこと)の孫の黒売刀自(くろめとじ)、此れ新川臣(にいかわのおみ)の児の斯多々弥足尼(したたみのすくね)の孫の大児臣(おおごのおみ)に娶(とつ)ぎて生める児の長利僧(ちょうりのほうし)が、母の為に記し定むる文也。放光寺僧[8]

現代語訳[編集]

辛巳年十10月3日に記す。佐野屯倉をお定めになった健守命の子孫の黒売刀自。これが、新川臣の子の斯多々弥足尼の子孫である大児臣に嫁いで生まれた子である。(わたくし)長利僧が母(黒売刀自)の為に記し定めた文である。放光寺の僧[8]

長利の先祖である健守命は、欽明天皇の時代に屯倉を設置した「始祖王」の伝説化した姿であると推察されている[9]

また、佐野屯倉は片岡郡(多胡郡)と群馬郡の2つに跨って存在しており、農業経営だけでなく倉賀野津を用いて水運も行っていたと考えられる[10]

山ノ上古墳[編集]

山ノ上古墳(やまのうえこふん、山上古墳)は、山ノ上碑の東側にある直径15m程の典型的な山寄せの円墳。埴輪・葺石は確認されておらず、古墳としては終末期古墳に属するものとみられる。

主体部は凝灰岩の切石積み横穴式石室で、南に開口している。全長7.4m、玄室長2.68m、幅1.75m、高さ1.66m。

前述の通り、山ノ上碑は本古墳の墓誌と考えられるが、石室の形態などから古墳の築造時期は石碑の建てられた681年より数十年古い年代が想定されている。そのため現在では山ノ上古墳は黒売刀自の父の墓として造られ、その後、黒売刀自が追葬されたものと考えられている[11]

また、本古墳の西約200mの斜面には、同規模、同年代の山ノ上西古墳が確認されている。埋葬施設は南南東に開口する切石を用いた横穴式石室だが、崩壊し、埋没している。

参考画像[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

座標: 北緯36度16分37.5秒 東経139度1分40.0秒 / 北緯36.277083度 東経139.027778度 / 36.277083; 139.027778