大森・今村論争 – Wikipedia

before-content-x4

大森・今村論争(おおもり・いまむらろんそう)とは、1923年の関東大地震(関東大震災)に先立つ約20年の間に、地震学者である大森房吉と今村明恒との間で起こった、関東で発生する大地震の予測を巡る大論争である[1]

after-content-x4

今村明恒は、震災予防調査会のまとめた過去の地震の記録から、関東地方では周期的に大地震が起こるものと予想し、1905年に、今後50年以内に東京での大地震が発生することを警告し、震災対策を迫る記事「市街地に於る地震の生命及財産に對する損害を輕減する簡法」を雑誌『太陽』に寄稿した[2]。その上で、東京全域は大地震とそれによる火災に徹底的に備えなければならないと主張した。

以下は、今村が実際に述べた内容の一部抜粋である[1]

明治24年10月28日の濃尾の激震は、我邦における地震学の進歩に再度の機会を与えたるものと称すべし。この天災に際して国民が新たに経験したる震火の惨害の状況は、深く脳裏に刻せられ、斯のごとき惨禍に対して、人命と財産との保護を念うの情切なり。
東京に於いて数百ないし数千の死者を出したる特別の大震は、慶安2年、元禄16年及び安政2年に起こりたるものの3回にて、103年となる今、安政2年を去ること今明治38年には正に50年なるを以て、今後50年の間には再び斯の如き破壊力が暴を逞くするの時期に到着するものと覚悟せざるべからず。

しかし、今村のこの説には明確な科学的根拠が存在しないとされ、さらにこの記事が新聞にセンセーショナルに取り上げられて社会問題になってしまったため、上司であった大森房吉らから「世情を動揺させる浮説」として強く攻撃・批難され、「ホラ吹きの今村」と中傷された[3][4][5]。大森は、震災対策の必要性等には理解を示していたが、それにより社会的混乱を起こすことを恐れたため、今村の論文を「根拠のない説」として退ける立場をとったのである [5]

以下は、今村の説を否定した大森が、1906年に論文「東京と大地震の浮説」において実際に述べた内容である[1]

本年は丙午の年となれば、火事多かるべきとの俗説ありしところに、今後約50年の内に、東京に大地震起りて、20万人の死傷者を生ずべしとの浮説、一たび現れしより、頗る人心を動揺せしめ、東京が今にも丸潰れになる程の災害を蒙るべきことは、学理に争う可からざる事実なり、などとの噂広まり、世人の迷惑せること少なからざるが、元来不完全なる統計に依れる調査を基として、間違無く将来の出来事の事実を予知し得べきにも非ず。東京激震の如きも、結局地震の起これる平均年数より生ぜるものならば、学理上の価値は無きものと知るべきなり。

ところが、1923年に関東大地震が発生すると、今村の警告は現実のものとなった。大森は後に、自らの過ちを認めて国民に謝罪し、震災予防調査会の幹事などを今村に譲った。その後今村は、関東大地震を予知した研究者として「地震の神様」と讃えられるようになった[5]

外部リンク[編集]

after-content-x4