内閣総理大臣 – Wikipedia
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内閣総理大臣(ないかくそうりだいじん、英: Prime Minister[1])は、日本の内閣の首長たる国務大臣[2]。文民である国会議員が就任し、その地位及び権限は日本国憲法や内閣法などに規定されている[3]。
現任は、第101代岸田文雄(在任: 2021年〈令和3年〉11月10日 – )。歴代の内閣総理大臣は内閣総理大臣の一覧を参照。
概要
内閣総理大臣は、行政権の属する内閣の首長で(憲法第66条1項)[4]、三権の長の一人であり、その他の国務大臣を任免し(憲法第68条)、内閣を代表して国会に議案を提出し、一般の国務および外交関係を報告し、行政各部を指揮監督する(憲法第72条)[4]。
議院内閣制により、国会議員の中から国会の議決(内閣総理大臣指名選挙/首班指名)により指名され(憲法第67条)、これに基づいて天皇は形式的な国事行為として内閣総理大臣を任命する(憲法第6条)[4]。
さらに、内閣総理大臣は、文民でなければならず(憲法第66条2項)、自衛隊の最高指揮監督権を有する(自衛隊法)。内閣府ほか複数の行政組織の長ないし主任の大臣でもあり、これらの機関は内閣総理大臣が直接所管する[4]。
また、現行の日本国憲法においては、日本の元首について明記された条文は存在せず、日本の元首が誰であるかについては憲法学説上の議論があるが[5]、学説の大多数は、条約の締結権や外交使節の任免権のほか一般に外交関係を処理する権限を有する内閣あるいは行政権の首長として内閣を代表する内閣総理大臣を元首と位置付けている。なお、国際慣行上は天皇が元首として遇される[5][6]。
呼称
略称
内閣制度の発足当時から、内閣総理大臣の略称として、一般に「総理大臣」がよく用いられるが、このほかにも、「総理」や「首相」との略称、通称も用いられる[4]。異称として「宰相」が用いられることもある[7]。
英語表記
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公式の英語表記は「Prime Minister」である。この英訳は内閣制度の導入前より「太政大臣」の英訳として非公式に用いられていた。もっとも、「内閣総理大臣」の英訳としては当初からこの語であったわけではなく、かつては「Minister President of State」(「国の大臣主席)」の意味)というドイツ風の訳語も用いられた[注釈 2]。
地位
内閣の首長
内閣総理大臣も内閣の構成員であるが、日本国憲法では内閣総理大臣を内閣の「首長」と位置付けている。内閣総理大臣は他の国務大臣の上位にあって内閣を統率し、外に対して内閣を代表する。さらに行政各部を指揮監督する権限を有する[9]。
憲法上、衆議院解散を決定する権限は内閣に属すると解釈されているが、実質的には、内閣の首長たる内閣総理大臣が権限を持つ[10]。したがって、内閣総理大臣は閣議を開き、「今般、衆議院を解散することに決したので、国務大臣の諸君の賛成を賜りたい」と全閣僚に対して衆議院解散を諮り、内閣の総意を得た上で、衆議院解散を行うための閣議書に、全ての国務大臣の署名を集めなければならない。しかし、憲法68条2項は「内閣総理大臣は、任意に国務大臣を罷免することができる」と定めており、内閣総理大臣は時期や理由を問わず何らの制約なく自由な裁量によって国務大臣を罷免することができる[11]。したがって、衆議院解散を行うための閣議書への署名を国務大臣が拒否する場合、内閣総理大臣は当該大臣を罷免して自身が兼任するか他の大臣に兼任させることで閣議決定を行うことができる[注釈 3]。
仮に全閣僚が解散に反対したとしても、内閣総理大臣はすべての大臣を罷免・兼務してでも解散を閣議決定できる(一人内閣)。したがって、内閣総理大臣が解散を行うことを決定した場合、これを阻止する手立ては一切存在しない。解散は憲法7条3号に基づく天皇の国事行為として行われているが、憲法4条1項で天皇は国政に関する権能を有しないと規定されているため、解散権は内閣に属しており、事実上、内閣の首長たる内閣総理大臣が解散権を握っている。したがって、七条解散は、内閣総理大臣が国民に信を問う必要があると判断した際に解散するものとされ、内閣には自由裁量に基づく解散決定権があると解釈されている[12]。ほとんどの解散は憲法7条3号を援用して、内閣の発議のもとに行われている。内閣がいつこれを発議するかは、内閣総理大臣の意思次第である[10]。このため、解散権は「内閣総理大臣の専権事項」「首相の伝家の宝刀」とされている[12]。
主任の大臣
内閣総理大臣は以下の機関を所管し、内閣法にいう主任の大臣を務める。
元首の地位とその議論
大日本帝国憲法とは違い、現行の日本国憲法には日本の元首に関する規定がない。このことから日本の元首については学説上の様々な議論が存在する。
元首には内治、外交を通じて国を代表し、行政権を掌握している国家機関、あるいは実質的な国家統治の大権を持たなくても国家におけるヘッドの地位にあるもの等、様々な定義がある。誰が元首の資格を持つかは各国法の定める問題であるが、通常、君主国では君主、共和国では大統領がこれに当たる。旧憲法は明文で天皇を元首としていた。現行憲法下では、誰を元首と見るか学説上争いがあり、天皇とする説、内閣総理大臣とする説、存在しないとする説などがあり、結局は元首の定義いかんに帰する問題と考えられる。
長野和夫によれば、国民主権下では、国家を代表する資格をもつ国家機関の長で、国内的にも統治権行使の権限をもつ首相が元首であるべきとの意見が学者の間では強い。芦部信喜によれば、元首の要件で特に重要なのは、外国に対して国家を代表する権能であるとしている。しかし天皇は外交関係では、形式的・儀礼的行為しか憲法で認められていない。したがって、日本の元首は条約締結や外交使節任免および外交関係処理の権限をもち、国家機関として対外代表資格を有する内閣または内閣総理大臣とするのが多数説である[15]。さらに、天皇と内閣総理大臣が元首の役割を分担しているとの見解もある[17]。
一方で、元首は対外的に国家を儀礼的に代表する権限をもつだけで十分として、国の象徴の地位にある者は元首的性格をもつとみる学説があり、この場合には天皇が元首とみなされる。国際慣行上は天皇が元首として遇される[5][6]。1973年(昭和48年)4月17日の第71回国会衆議院内閣委員会において外務大臣大平正芳は「内閣総理大臣を日本国の元首としてお迎えするというような国はないと私は思います」と答弁している[18]。
権限
日本国憲法およびその他の法令が規定する内閣総理大臣のおもな権限は次の通りである。
憲法・内閣法等
- 衆議院の解散権は内閣総理大臣の専権事項とされ臨時代理は解散権を持たない[注釈 4][19]。
- 国務大臣の任免権は内閣総理大臣の専権事項とされ臨時代理は任免権を持たない[20][21]。
- 在任中の国務大臣に対する訴追に同意すること(憲法75条)。
- 内閣を代表して議案を国会に提出すること(憲法72条)。
- 内閣を代表して一般国務および外交関係について、国会に報告すること(憲法72条)。
- 内閣を代表して行政各部を指揮監督すること(憲法72条)。
- 法律および政令への連署をすること(憲法74条、権限であると同時に義務でもある。いわゆる拒否権はない)。
- 閣議を主宰すること(内閣法4条2項)。
- 閣議において、内閣の重要政策に関する基本的な方針その他の案件を発議すること(内閣法4条2項)。
- 内閣総理大臣および主任の国務大臣の代理を指定すること(内閣法9条、10条)。
- 行政各部の処分または命令を中止せしめ、内閣の処置を待つこと(内閣法8条、「中止権」)。
- 皇室会議の議長として、これを招集すること(皇室典範29条、33条)。
- 裁判所による行政処分等の停止に対して異議を申し述べること(行政事件訴訟法27条)。
- 告訴をすることができる者が天皇、皇后、太皇太后、皇太后または皇嗣であるとき、これらの者に代わって告訴を行うこと(刑法232条2項)。
警察法・自衛隊法等
- 大規模な災害または騒乱などの緊急事態に際して緊急事態の布告を発し(警察法71条)、一時的に警察を統制すること(72条)。
- 内閣を代表し、自衛隊の最高指揮監督権を有する(自衛隊法7条)。
- 武力攻撃事態に際して、自衛隊に出動を命ずること(自衛隊法76条、「防衛出動」)。
- 間接侵略またはその他の緊急事態に際して、一般の警察力をもっては治安維持が不可能な場合に、自衛隊に出動を命ずること(自衛隊法78条、「命令による治安出動」)。
- 防衛出動または治安出動による自衛隊に対する出動命令があった場合において、特別の必要があると認めるときは、海上保安庁をその統制下に入れること(自衛隊法80条)。
- 武力攻撃事態などに際して内閣に設置される「武力攻撃事態対策本部」の対策本部長として、関係する行政機関、地方自治体、指定公共機関が実施する対処措置に関する総合調整を行うこと(武力攻撃事態平和確保法14条)。
- 武力攻撃から国民の生命、身体または財産を保護するため緊急の必要があると認める場合に、警報を発令すること(国民保護法44条)。
- 非常災害が発生し、かつ、当該災害が国の経済および公共の福祉に重大な影響を及ぼすべき異常かつ激甚なものである場合において、閣議にかけて、災害緊急事態の布告を発すること(災害対策基本法105条)。
- 防衛大臣に対する海賊対処行動の承認と国会への報告(海賊行為の処罰及び海賊行為への対処に関する法律7条)。
- 気象庁長官から地震予知情報の報告を受けた場合において、地震防災応急対策を実施する緊急の必要があると認めるときは、閣議にかけて、地震災害に関する警戒宣言を発すること(大規模地震対策特別措置法9条)。
- 新型インフルエンザなどが国内で発生し、その全国的かつ急速な蔓延により国民生活および国民経済に甚大な影響を及ぼし、またはそのおそれがあるものとして政令で定める要件に該当する事態が発生したと認めるときは、新型インフルエンザ等緊急事態宣言を発すること、ならびにその旨および当該事項を国会に報告すること(新型インフルエンザ等対策特別措置法32条)。
その他の法律
このほか、内閣府およびその外局(金融庁、消費者庁など)や内閣に置かれる本部などの主任の大臣として、審議会委員等の任免権や各種許認可権を有する。特に、内閣府の外局のひとつである金融庁に関連する許認可権が多い(銀行法や貸金業法、金融商品取引法など)。
1991年までは、機関委任事務に従わない都道府県知事について、司法手続きを経て罷免する権限を有していた(地方自治法旧第146条)。2001年には、閣議における内閣総理大臣の発議権が法制化(内閣法第4条の改正)され、各省に対する指揮監督権が強化された。
就任・退任
指名と任命
指名
内閣総理大臣は、日本の国会議員の中から国会の議決(内閣総理大臣指名選挙。首班指名とも呼ばれる)でこれを指名する(憲法67条1項)。指名の資格要件は国会議員であることと文民であることである。
指名選挙は衆議院と参議院の両院で行われ、両院の指名が食い違った場合は両院協議会が開催されるが、両院協議会で成案が得られない場合は衆議院による指名が国会議決となる(衆議院の優越)。過去に両院協議会が開かれた例はあるが、成案が得られた例はない。また、実例はないが、衆議院の指名後10日を経ても参議院が指名を行わない場合は衆議院による指名が国会の議決となる(同上)。
ゆえに、事実上、衆議院の多数勢力の意向の通りに、首班指名がなされる仕組みとなっている。
要件
- 国会議員
- 内閣総理大臣は、国会議員の中から指名する(憲法67条1項)。
- 日本国憲法では議院内閣制を採用しており、内閣は衆議院の信任を常に確保する必要がある。したがって、内閣総理大臣は衆議院において最大勢力を占める政党の党首、または連立を組む政党の党首のいずれかが任ぜられている。首班指名時における内閣総理大臣の要件は「国会議員」とのみ規定されているため、衆議院・参議院いずれの議員でもよいが、日本国憲法の施行後に就任した内閣総理大臣は全て衆議院議員から選出されている。法律上、明記はされていないが、国会議員であることは選任要件であると同時に在職要件でもあるとされる[22]。ただし衆議院解散や議員任期満了に伴って衆議院議員を失職しても、衆議院議員総選挙後の国会召集まで職に留まる。現職の内閣総理大臣が衆議院議員選挙で落選した例はない[注釈 5]。内閣総理大臣は、仮に現職のまま衆院選で落選した場合でも選挙後の最初の国会の召集時に総辞職するまでは内閣総理大臣の職に留まることとなる。
- 文民
- 内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない(憲法66条2項)[注釈 6][注釈 7]。
- 旧軍の将校や兵の経験者が内閣総理大臣や国務大臣を務めた例はあり、また自衛隊出身者が内閣総理大臣となった例はないものの、国務大臣を幹部自衛官退職者が務めた例はある。
任命
指名の結果は、ただちに衆議院議長が職務執行内閣を経由して天皇に奏上する[23]。先例では別途、衆議院議長が皇居で指名の経過を天皇に直接報告する。天皇は、国会の指名に基づいて、内閣総理大臣を任命する(憲法6条1項)。
内閣総理大臣の任命は天皇の国事行為の一つであり、すでに内閣総辞職した内閣が、憲法71条に基づく職務執行内閣として、これに「助言と承認」を与える。
内閣総理大臣任命式(親任式)には天皇、衆参両院議長、現任の総理(職務執行内閣)または国務大臣(職務執行内閣)、総理大臣就任予定者(新総理)が参列する。天皇が口頭で新総理を任命した後に、総理が交代する場合は前総理が新総理に官記を手渡す。総理が再任される場合は職務執行内閣の国務大臣が官記を手渡す[24]。
任期
日本国憲法において、内閣総理大臣の任期について直接的に規定した条文はない。
憲法では衆議院議員総選挙の後に初めて国会の召集があったときは、内閣は総辞職をしなければならないとされているため、このことから内閣総理大臣の1回の任期は次の衆議院議員総選挙の後に初めて国会の召集が行われるときまでとなり、最長でも4年を超えないことになる[注釈 8](憲法70条)。公職選挙法第57条が規定する繰延投票が行われた場合であっても憲法の規定による日数制限には影響しないので、これによる影響は想定できない。基本的に繰延投票は、特定の投票所における繰延に対する規定[注釈 9]であるからである。
衆議院議員総選挙で投票が遅れることによって国会の召集の時期が遅れることがあれば、もちろん、この規定は新たに召集された国会において再選されることを禁じるものではなく、制度上は国会議員として首班指名を受け続ける限り内閣総理大臣を続けることができる。
ただ、通常、内閣総理大臣は与党党首の地位を前提として与党議員からの信任を得ているが、その政党の内規で党首職に再選制限が設けられている場合、その年限が事実上の任期の上限となることがある。
退任と代理
退任
- 「衆議院で内閣不信任決議が可決、又は内閣信任決議を否決した場合、10日以内に衆議院を解散[注釈 10]しないとき」(憲法69条)、また、「内閣総理大臣が欠けたとき」あるいは「衆議院議員総選挙の後に初めて国会の召集があった時」(憲法70条)は内閣総辞職をしなければならない。
- 以上は義務であり、これ以外でも任意に首相退任(内閣総辞職)ができる。首相が欠けるか退任した際には、内閣はただちにその旨を両議院に通知しなければならない[25]。
また「内閣総理大臣に事故のあるとき」「内閣総理大臣が欠けたとき」は、あらかじめ指定する国務大臣が、内閣総理大臣臨時代理として職務を行う(内閣法第9条)。詳細は後述する。
なお日本国憲法下の事例においては、内閣総理大臣を退任すると同時に自党の党首職も辞任するか任期満了を迎え退任する事例がほとんどととなっている[注釈 11]。
職務執行内閣
- 内閣総辞職後、新首相が任命されるまでの間は総辞職前の内閣が引き続き職務を執行する(憲法71条)ため、内閣総辞職後の首相も引き続き職務を執行する。
- よって同様に、首相臨時代理に率いられる内閣が総辞職した場合も、首相臨時代理が、新首相が任命されるまで引き続き職務を執行する。したがって、正確には内閣総理大臣の退任日は、総辞職をした日(内閣総辞職を閣議決定した日)ではなく、新内閣総理大臣が任命された日である。
職務代行・補佐職
臨時代理
内閣総理大臣の職務代行として内閣総理大臣臨時代理が存在する。これは常に置かれる職ではなく、総理大臣に事故あるとき予め指定された5名の国務大臣が、順位通りに就任する。臨時代理就任順位第1位にあるものが内閣官房長官以外の国務大臣であるとき、俗に副総理と呼ばれる。
内閣総辞職に至るまで無期限に臨時代理が置かれた例としては、第2次大平内閣の伊東正義が、首相死去後に事前指名に基づいて臨時代理に就任し、ただちに内閣総辞職した例、また石橋内閣の岸信介と小渕内閣の青木幹雄が、入院中の首相から指名された直後に臨時代理に就任し、内閣総辞職を行った例がある。首相の外遊中に限って臨時代理が職務を代行した例は多くある。
補佐職
内閣総理大臣の補佐職として内閣総理大臣補佐官がある。組織上は内閣官房に属するが、職務上は内閣官房長官ではなく内閣総理大臣に直属する。この他内閣特別顧問、内閣官房参与、内閣総理大臣秘書官が存在し、内閣総理大臣の職務執行・政権運営を支える。
歴史
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明治維新後
明治維新以降、当初は五箇条の御誓文に示された「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ」の方針に則り、旧来通りの太政官制度が行われてきた。しかし、奈良時代から続くこの政体は古色蒼然としていて新時代にはそぐわないものであったばかりか、制度面においても、天皇を輔弼するのは太政大臣・左大臣・右大臣であり、これによって「指揮」される参議と各省の卿には輔弼責任がなく、また太政大臣が極度に多忙なかたわら左右大臣の職責は不明瞭という、迂遠かつ非効率なものであった。
1880年(明治13年)ごろから参議伊藤博文はこの「太政官制」の改革を提唱し始めたが、保守派の右大臣岩倉具視が反発した。当時の伊藤博文には重鎮たる岩倉具視に対抗するだけの政治力がなかった。そのため、伊藤博文はいったんこの提案を取り下げて1882年(明治15年)3月から伊東巳代治、西園寺公望らとともに渡欧し、ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、イギリスなどで憲法を含む立憲体制の調査にあたったが、このときから「文明諸国と同等の政府」の骨格が具体的に構築されていく。そして、岩倉具視の死後に帰国した伊藤博文はドイツで研究した立憲体制に則した政治体制構想の実施を進めようとした。
これに対して、岩倉具視と同じく保守派の太政大臣三條實美らは、右大臣に伊藤博文をあてるという人事改革案で応酬した。しかし伊藤博文はこれを丁重に断り、代わって黒田清隆を推したが、今度は酒乱の気がある黒田清隆に保守派が尻込み、結局この「改革合戦」は引き分けに終わった。その後も伊藤博文等はこれに怯まず「内閣」制度を提案し、「君主立憲政体なれば、君位君権は立法の上に居らざる可からずと云の意なり。故に、憲法を立て立法行政の両権を並立せしめ恰も人体にして意想と行為あるが如くならしめざる可からずと云」という伊藤博文の語録にあるように、憲法とセットにして近代的内閣制度を突きつけられては、保守派も反対の名目がなく、伊藤博文の意向が通る形となった。
太政官達69号と内閣職権
1885年(明治18年)12月22日に、「太政官達第六十九号」が発せられ、「太政官制」「太政大臣」に代わって「内閣」と「内閣総理大臣」が設置され、ここに内閣制度が始まった。「内閣」の組織には宮内大臣は含まれないことが明記され、「宮中(宮廷)」と「府中(政府)」の別が明定され、行政責任を各省大臣が個別に負う体制の基礎が生まれた。このとき同時に制定された内閣職権においては、「内閣総理大臣」には「各大臣ノ首班トシテ機務ヲ奏宣シ旨ヲ承テ大政ノ方向ヲ指示シ行政各部ヲ統督ス」(二條)と、最初は強力な権限を与えられていた。
内閣官制
1889年(明治22年)に大日本帝国憲法が発布されるが、同法においては「内閣」や「内閣総理大臣」について直接の規定は明記されず、同第55条において「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス」と明記されたのみであった。また、同時に「内閣職権」を改正する形で制定された「内閣官制」において「内閣総理大臣ハ各大臣ノ首班トシテ機務ヲ奏宣シ旨ヲ承ケテ行政各部ノ統一ヲ保持ス」(2条)と、その権限は弱められた。
権限としては、「内閣総理大臣」は「同輩中の首席大臣」として天皇を輔弼する存在とされ、「内閣」は各大臣の協議と意思統一のための組織体と位置づけられた。内閣総理大臣は各部総督権を有して大政の方向を指示するために機務奏請権(天皇に裁可を求める奏請権と天皇の裁可を宣下する権限)と国務大臣の奏薦権(天皇に任命を奏請する権限)を有したものの、いったん閣内に意見の不一致が起こると、内閣総理大臣は各大臣の罷免権がなく大臣を罷免することはできず、説得や辞任を促すことくらいで、これが失敗すれば内閣総辞職するしかなかったのである。事例として東條内閣の総辞職原因は、国務大臣の岸信介が辞職を拒否したことによるものであり、また第2次近衛内閣は、外務大臣の松岡洋右を更迭するために総辞職という手段を使わざるを得なかった。また、明治の一時期と昭和初期から終戦まで規定されていた軍部大臣現役武官制によって、組閣は軍による制約を受けた。特に陸軍は内閣が自らの意向に沿わない場合には、陸軍大臣を辞任させたうえで後任を推薦せず、これによって第2次西園寺内閣・米内内閣が崩壊し、宇垣一成が組閣を阻止された。
地位としては、皇室儀制令においての宮中席次は大勲位についでの地位にあり、枢密院議長よりも格上とされ、儀礼上では府中の最高位と位置づけられていた。
任免については、内閣総理大臣は、各国務大臣同様に天皇により任命され(大命降下)、その選出方法については法令によって規定されなかった。明治初期から昭和初期までは元老による推薦に基づいて任命されていたが、そのうち大正末期から昭和初期にかけては、大正デモクラシーによる政党政治が基本となり、衆議院での第一党の党首が推薦され、任命されていた(憲政の常道)。その後、「最後の元老」西園寺公望の老衰にともない、昭和初期から終戦までは「重臣会議」の奏薦によって任命されている。
日本国憲法と内閣法
1946年(昭和21年)11月3日に日本国憲法が公布され、第66条に「内閣は、法律の定めるところにより、その首長たる内閣総理大臣及びその他の国務大臣でこれを組織する」と初めて憲法に明記された。これにともない、翌1947年(昭和22年)1月16日に施行された内閣法では、「内閣総理大臣は、閣議にかけて決定した方針に基いて、行政各部を指揮監督する」(6条)など、その権限が強化された。
日本国憲法下の内閣総理大臣は、閣内に意見の不一致が起こった場合は、罷免して自らの意見を通すことができる。また何らかの理由で大臣が突然辞職しても、内閣総理大臣はその後任を任意に任命することができる。この顕著な例が衆議院解散権である。憲法上、衆議院の解散は内閣の助言と承認により天皇が行うことになっているが(7条3号)、これはつまり「解散権は内閣に属す」ということで「閣議決定なしには解散はできない」ということであるが、一般に「解散権は内閣総理大臣の専権事項」と解釈されているのは、解散に反対して閣議書への署名を拒否する大臣がいたとしても、内閣総理大臣はその大臣を罷免したうえで、自らが兼務して閣議書へ署名することができるからである[注釈 12]。仮に全閣僚が反対したとしても、内閣総理大臣はすべての大臣を罷免・兼務してでも解散を閣議決定できる(一人内閣)。したがって、内閣総理大臣が解散を行うと決めた場合、これを阻止する手立ては法令上はないのである。このように、大臣に対する任意の罷免権の効果はきわめて大きい。
逸話
三條實美の処遇
内閣制度移行に際し、誰もの関心は誰が初代総理大臣になるかであった。衆目の一致するところは、太政大臣として名目上ながらも政府のトップに立っていた三條實美と、大久保利通の死後、事実上の宰相として明治政府を切り盛りし内閣制度を作り上げた伊藤博文だった。しかし三條は藤原北家閑院流の嫡流で、清華家のひとつである三條家の生まれという高貴な身分、公爵である。一方、伊藤といえば貧農の出であり、武士になったのも維新の直前という低い身分の出身で、お手盛りで伯爵になってはいるもののその差は歴然としていた。太政大臣に替わる初代内閣総理大臣を決める宮中での会議では誰もが口をつぐむ中で、伊藤の盟友だった井上馨が「これからの総理は赤電報(外国電報)が読めなくてはだめだ」と口火を切り、これに山縣有朋が「そうすると伊藤君より他にはいないではないか」と賛成、これには三條を支持する保守派の参議も返す言葉がなく、あっさりこれで決まってしまった。初代総理を決めた最大の要因は伊藤の「英語力」だったのである。
伊藤の内閣総理大臣就任にともない、三條は内大臣として宮中に回り、天皇の側近として明治天皇を「常侍輔弼」することになった。しかしそもそも内大臣は三條処遇のために創られた名誉職で、実際は彼を二階へ上げてはしごを外したようなものだった。これに対して、かつて三條に仕えていたことがある尾崎三良(元老院議官)は三條に対して強く抗議すべきであると進言したが、三條は「国家将来のためのことであり、私自身の問題ではない」として、逆に尾崎に対しそうした軽挙を戒めている[26]。しかし明治天皇もさすがにこの処遇を気の毒に思ったのか、1889年(明治22年)10月25日に第2代内閣総理大臣の黒田清隆が条約改正をめぐる政局混乱の責任を取って内閣総辞職した際、天皇は黒田の辞表をのみ受理してほかはすべて却下し、三條に内閣総理大臣を兼任させた。これは「臨時兼任」ではなく、単に「兼任」であり、しかも天皇が次の山縣有朋に組閣の大命を下したのはそれから2か月も経ってからのことだったため、この期間はひとつの別個の内閣が存在したものとみなしてこれを「三條暫定内閣」と呼んでいる。それでも三條實美は歴代の内閣総理大臣としては数えないことになっている(なお、明治天皇本人にも「西園寺公望の首相就任時に『公家から初めて首相が出た』と喜んでいた」という逸話がある)。
選挙
現職の内閣総理大臣が選挙で落選した例はない。ただし、当選できなかった例として、大平正芳は1980年の衆院選で立候補したものの開票前に死去したものがある[注釈 13]。中選挙区制時代、歴代の現職内閣総理大臣は1位当選することがほとんどであったが、唯一中曽根康弘のみ1983年と1986年の2回の衆院選で2位当選になっている(1位は福田赳夫)。
内閣総理大臣経験者が国政選挙で落選した例として、片山哲(1949年・1963年)と石橋湛山(1963年)と海部俊樹(2009年)の例がある。また、菅直人(2012年・2014年)は小選挙区で落選し、比例復活当選をしている。細川護熙は、政界引退後、2014年の東京都知事選挙に立候補したが落選した。
年齢
内閣総理大臣は国会議員から選出されなければならない。法理論上、衆議院議員の被選挙権を得る25歳から就任することができる。法的には、衆参いずれの議院に属するかを問わず、国会議員であれば誰でも指名される可能性はあるが、政治経験などが重視されることが多く、1年生議員が就任する確率はきわめて稀である(細川護煕が1993年に衆議院当選1回で首相に就任しているが、就任以前に参議院議員・熊本県知事の経験があった。また吉田茂は1948年に衆議院当選1回で首相に就任しているが、この就任以前に貴族院議員や外務大臣・首相の経験があった)。
日本の歴代首相の中で最年少記録を保持しているのは、1885年の初代伊藤博文(当時44歳)で現在も破られていない。歴代最年長就任記録は1945年の鈴木貫太郎(当時77歳)で、最年長在任記録は大隈重信(当時78歳)である。戦後最年少としては、2006年の安倍晋三(当時52歳)である。戦後最年長就任記録は幣原喜重郎の73歳だが、新憲法の範囲では石橋湛山の72歳3か月である。戦後最年長在任記録は吉田茂の76歳3か月である。
教育・学歴
学歴の規定は特には無い。
初期の内閣総理大臣たちは若いころはそれぞれ、江戸時代(幕末期)の教育法で教育を受け育ったわけだが、近代教育での学歴を持つ最初の内閣総理大臣はフランスのソルボンヌ大学に留学した西園寺公望である。
歴代の総理らの一覧表を単純に分類・集計すると、一応は、旧制だった時代の東京帝国大学「出身者」が多い、ということにはなる。新制となってからの東京大学の出身者は、工学部計数工学科を卒業した鳩山由紀夫のみである。また新制の国公立大学出身の内閣総理大臣としても鳩山が初めてである(なお、学歴で一番重要とされるのは最終学歴であり、鳩山由紀夫の最終学歴はむしろ、スタンフォード大学大学院工学部博士課程修了である)。私立大学で2名以上の首相を輩出しているのは早稲田大学、慶応義塾大学、明治大学など(特に早稲田大学には早稲田大学雄弁会という「政治家の登竜門のひとつ」とも見なされることのある弁論サークルがあり、1956年~2000年で5人が内閣総理大臣に就任した実績がある)。
田中角栄は(微妙な位置づけだった状態の)専門学校で学んだ経歴の持ち主であり「学制上での最終学歴」は高等小学校卒業であり[注釈 14]、それをあえて自身のアピールポイントにしていたこともある。なお、宇野宗佑は旧制神戸商業大学(現・神戸大学)に進学したが、2か月後に学徒出陣となり、戦後のシベリア抑留を経て復学せずそのまま中退したため、平成で唯一学士の学位を持たない内閣総理大臣となった。
退任後
内閣総理大臣を退任した後も、本人が望めば1人程度のセキュリティポリス(SP)が元首相本人の警護を行うことが慣例となっている[27]が、基本的にSPによる警護を拒否することのできない現職首相とは異なり、元首相本人の意向によりSPによる警護を終了することも可能である[28]。
大日本帝国憲法下においては、退任した元首相は元老となったり重臣として重臣会議に参加した場合、内閣総理大臣の選任(天皇への奏薦)に携わることができた。
日本国憲法下において、内閣総理大臣を一度退任した人物がその後国務大臣や政党要職に就任した事例は少ないが、再度内閣総理大臣に就任した吉田茂と安倍晋三のほかにも、宮澤喜一(小渕内閣~森内閣での大蔵大臣→財務大臣)・橋本龍太郎(森内閣での沖縄及び北方対策担当大臣など)・麻生太郎(第2次安倍内閣~菅義偉内閣での財務大臣など)の3名は首相退任後に他の総理大臣の下で閣僚として入閣している。また、海部俊樹(新進党党首)・羽田孜(民主党幹事長)[注釈 15]・野田佳彦(民進党幹事長)の3名は内閣総理大臣退任後に野党第一党の要職を歴任している[注釈 16]。
このほか、表向きに要職へは就かないものの、田中角栄(闇将軍とも言われた)や竹下登、安倍晋三のように大派閥を擁し首相退任後も政界に大きな影響力を残す人物もいる。
栄典
内閣総理大臣経験者に対する栄典については、在任期間に応じ、位階は従一位、正二位または従二位、勲等勲章は大勲位菊花章頸飾、大勲位菊花大綬章または桐花大綬章(旧・勲一等旭日桐花大綬章)のいずれかに叙される(在任1年9か月の小渕恵三は大勲位菊花大綬章に叙されている)。ただし、辞退・不祥事などにより見送られることがある(例:田中角栄…不祥事、宮澤喜一…辞退)。
格言
- 内閣改造をするほど総理の権力は下がり、解散をするほど上がる
- 佐藤栄作の言葉。
- 内閣改造をしようとすると、他派閥の肘鉄や大臣病など多くの国会議員が総理に群がるために対応が難しくなって総理の権力が下がる。一方で衆議院解散をすると多くの衆議院議員が自分の党の公認を得ようと総理に求め地元選挙区に帰り衆院選で当選して政治生命を保とうとし、衆院選で勝利し民意を得て首班指名で再選されれば政権基盤が増すため総理の権力が上がる。
- 歌手一年総理二年の使い捨て
- 竹下登の言葉。
- 総理は就任時は最初のうちは新しさからチヤホヤされるが、そのうちに賞味期限が切れると社会から批判されるようになり、任期2年くらいで総理を交代させられることを揶揄した言葉。なお、この言葉は三角大福時代に竹下が中堅代議士だったころから使っている。
- 総理の敵は正面だけじゃなく後ろにもいれば横にもいるし上にもいるし斜めからも内部にもいる
- 小泉純一郎の言葉。
- 総理は日本でもっとも注目される最高権力者といっても、国会内で対決姿勢の原則を示す野党だけでなく、マスコミや外国や業界団体が自分に批判的になることもあり、本来同じ目的を持つはずの与党内にも他派や反執行部が批判的になるため、どこに敵がいてどこから狙われるか用心しなければならないことを指した言葉。
- 総理の権力の最大の源泉は解散権と人事権
- 小泉純一郎の言葉。
- 閣僚や党幹部を含めた人事と衆議院の解散権は、総理の強大なる権力の源泉であることを指摘した言葉。
- 特に郵政解散においては、抵抗する島村宜伸農相を罷免。さらに「抵抗勢力」とされた候補に刺客候補を続々に送り込むなど、小選挙区制によって総理(総裁)が持つ権力の強大さを印象づけた。
- どす黒いまでの孤独に耐えきれるだけの体力、精神力がいる
- 麻生太郎の言葉。
- 自らの責任で仕事をやり、最終判断を下すのは自分しかいないことを指摘した言葉。
幻の総理
内閣総理大臣に就任が有力視された大物政治家でありながら、早世などの理由で就任に至らなかった人物を「幻の総理」と呼ぶことがある。福田和也『総理の値打ち』(文春文庫)や御厨貴編『歴代首相物語』(新書館)など歴代首相総覧の類では定番の項目となっているほか、浅川博忠『自民党・ナンバー2の研究』(講談社文庫)や小林吉弥『総理になれなかった男たち』(経済界)など「幻の総理」を特集した書籍も出版されている。さまざまな人物が名前を挙げられるが、福田・御厨・浅川・小林がすべて挙げている人物として緒方竹虎と河野一郎、戦前も扱った福田・御厨がともに挙げている人物に井上馨・後藤新平・宇垣一成がいる。このほか、「辞退さえしなければ首相になれた」人物、すなわち戦前の徳川家達や戦後の伊東正義のように次期首相として推挙されながら辞退した人物も存在する。
記録
在職記録
記録の名称 | 記録保持者氏名 | 記録の内容 |
---|---|---|
最長在職期間記録 | 安倍晋三 | 3188日(約8年9か月)
|
最長連続在職期間記録 | 安倍晋三 | 2822日(約7年9か月)
|
最長単一在職期間記録 | 桂太郎 | 1681日(約4年7か月)
|
最短在職期間記録 | 東久邇宮稔彦王 | 54日(約2か月)
|
最短単一在職期間記録 | 岸田文雄 | 38日(約1か月)
|
最年長在任記録 | 大隈重信 | 約78歳6か月 (1916年(大正5年)10月9日の退任時) |
最年少就任および在任記録 | 伊藤博文 | 約44歳2か月 (1885年(明治18年)12月22日の就任時) |
最年長就任記録 | 鈴木貫太郎 | 約77歳2か月 (1945年(昭和20年)4月7日の就任時) |
最多回数任命記録 | 吉田茂 | 5回
|
氏名の一覧・在職日数と略歴
在職日数順位 | 氏名 | 在職日数 | 在職期間 | 内閣任命回数 | 歴代数 | 死亡年 | 元号[注 1] | 軍歴 | 暗殺 | 裁判歴 | 退陣理由[注釈 17] |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
4 | いとう/伊藤博文 | 2720 | 1885年 – 1888年、1892年 – 1896年、1898年、1900年 – 1901年 | 4 | 01,05,07,10 | 1909年 | 明治 | 伊藤博文暗殺事件 | |||
37 | くろた/黒田清隆 | 544 | 1888年 – 1889年 | 1 | 02 | 1900年 | 明治 | 陸軍中将 | 外国人司法官任用問題 | ||
11 | やまかた/山縣有朋 | 1210 | 1889年 – 1891年、1898年 – 1900年 | 2 | 03,09 | 1922年 | 明治 | 陸軍中将(第一次)、陸軍大将(第二次) | |||
16 | まつかた/松方正義 | 943 | 1891年 – 1892年、1896年 – 1898年 | 2 | 04,06 | 1924年 | 明治 | ||||
13 | おおくま/大隈重信 | 1040 | 1898年、1914年 – 1916年 | 2 | 08,17 | 1922年 | 明治、大正 | ||||
2 | かつら/桂太郎 | 2886 | 1901年 – 1906年、1908年 – 1911年、1912年 – 1913年 | 3 | 11,13,15 | 1913年 | 明治、大正 | 陸軍大将(第一次、第二次)、退役陸軍大将(第三次) | |||
9 | さいおんし/西園寺公望 | 1400 | 1906年 – 1908年、1911年 – 1912年 | 2 | 12,14 | 1940年 | 明治、大正 | ||||
36 | やまもと/山本権兵衛 | 549 | 1913年 – 1914年、1923年 – 1924年 | 2 | 16,22 | 1933年 | 大正 | 退役海軍大将 | シーメンス事件(16) | ||
25 | てらうち/寺内正毅 | 721 | 1916年 – 1918年 | 1 | 18 | 1919年 | 大正 | 元帥陸軍大将 | |||
12 | はら/原敬 | 1133 | 1918年 – 1921年 | 1 | 19 | 1921年 | 大正 | 原敬暗殺事件 | |||
53 | たかはし/高橋是清 | 212 | 1921年 – 1922年 | 1 | 20 | 1936年 | 大正 | 二・二六事件 | |||
40 | かとう ともさふろう/加藤友三郎 | 439 | 1922年 – 1923年 | 1 | 21 | 1923年 | 大正 | 海軍大将 | 在任中病死 | ||
56 | きようら/清浦奎吾 | 157 | 1924年 | 1 | 23 | 1942年 | 大正 | ||||
32 | かとう たかあき/加藤高明 | 597 | 1924年 – 1926年 | 1 | 24 | 1926年 | 大正 | 在任中病死 | |||
27 | わかつき/若槻禮次郎 | 690 | 1926年 – 1927年、1931年 | 2 | 25,28 | 1949年 | 大正、昭和 | ||||
21 | たなか きいち/田中義一 | 805 | 1927年 – 1929年 | 1 | 26 | 1929年 | 昭和 | 退役陸軍大将 | |||
28 | はまくち/濱口雄幸 | 652 | 1929年 – 1931年 | 1 | 27 | 1931年 | 昭和 | 濱口首相遭難事件(未遂) | 病気により辞任 | ||
57 | いぬかい/犬養毅 | 156 | 1931年 – 1932年 | 1 | 29 | 1932年 | 昭和 | 五・一五事件 | |||
22 | さいとう/斎藤実 | 774 | 1932年 – 1934年 | 1 | 30 | 1936年 | 昭和 | 退役海軍大将 | 二・二六事件 | ||
31 | おかた/岡田啓介 | 611 | 1934年 – 1936年 | 1 | 31 | 1952年 | 昭和 | 退役海軍大将 | 二・二六事件(未遂) | ||
45 | ひろた/広田弘毅 | 331 | 1936年 – 1937年 | 1 | 32 | 1948年 | 昭和 | 極東国際軍事裁判 | |||
60 | はやし/林銑十郎 | 123 | 1937年 | 1 | 33 | 1943年 | 昭和 | 予備役陸軍大将 | |||
14 | このえ/近衛文麿 | 1035 | 1937年 – 1939年、1940年 – 1941年 | 3 | 34,38,39 | 1945年 | 昭和 | 極東国際軍事裁判 | |||
50 | ひらぬま/平沼騏一郎 | 238 | 1939年 | 1 | 35 | 1952年 | 昭和 | 極東国際軍事裁判 | |||
58 | あへ のふゆき/阿部信行 | 140 | 1939年 – 1940年 | 1 | 36 | 1953年 | 昭和 | 予備役陸軍大将 | |||
54 | よない/米内光政 | 189 | 1940年 | 1 | 37 | 1948年 | 昭和 | 予備役海軍大将 | |||
15 | とうしよう/東條英機 | 1009 | 1941年 – 1944年 | 1 | 40 | 1948年 | 昭和 | 陸軍大将 | 極東国際軍事裁判 | ||
49 | こいそ/小磯國昭 | 260 | 1944年 – 1945年 | 1 | 41 | 1950年 | 昭和 | 予備役陸軍大将 | 極東国際軍事裁判 | ||
59 | すすき かんたろう/鈴木貫太郎 | 133 | 1945年1/1945年 | 1 | 42 | 1948年 | 昭和 | 退役海軍大将 | 二・二六事件(重傷) | ||
64 | ひかしくに/東久邇宮稔彦王 | 54 | 1945年2/1945年 | 1 | 43 | 1990年 | 昭和 | 陸軍大将 | |||
51 | してはら/幣原喜重郎 | 226 | 1945年3/1945年 – 1946年 | 1 | 44 | 1951年 | 昭和 | ||||
5 | よした/吉田茂 | 2616 | 1946年 – 1947年、1948年 – 1954年 | 5 | 45,48,49,50,51 | 1967年 | 昭和 | ||||
46 | かたやま/片山哲 | 292 | 1947年 – 1948年 | 1 | 46 | 1978年 | 昭和 | ||||
52 | あした/芦田均 | 220 | 1948年 | 1 | 47 | 1959年 | 昭和 | 昭和電工事件 | |||
24 | はとやま いちろう/鳩山一郎 | 745 | 1954年 – 1956年 | 3 | 52,53,54 | 1959年 | 昭和 | ||||
62 | いしはし/石橋湛山 | 65 | 1956年 – 1957年 | 1 | 55 | 1973年 | 昭和 | 病気により退陣 | |||
10 | きし/岸信介 | 1241 | 1957年 – 1960年 | 2 | 56,57 | 1987年 | 昭和 | 極東国際軍事裁判(釈放) | |||
8 | いけた/池田勇人 | 1575 | 1960年 – 1964年 | 3 | 58,59,60 | 1965年 | 昭和 | 病気により退陣(60) | |||
3 | さとう/佐藤栄作 | 2798 | 1964年 – 1972年 | 3 | 61,62,63 | 1975年 | 昭和 | 造船疑獄(免訴) | |||
18 | たなか かくえい/田中角栄 | 886 | 1972年 – 1974年 | 2 | 64,65 | 1993年 | 昭和 | 炭鉱国管疑獄 ロッキード事件 |
|||
23 | みき/三木武夫 | 747 | 1974年 – 1976年 | 1 | 66 | 1988年 | 昭和 | ||||
26 | ふくた たけお/福田赳夫 | 714 | 1976年 – 1978年 | 1 | 67 | 1995年 | 昭和 | 昭和電工事件 | |||
35 | おおひら/大平正芳 | 554 | 1978年 – 1980年 | 2 | 68,69 | 1980年 | 昭和 | 在任中病死(69) | |||
19 | すすき せんこう/鈴木善幸 | 864 | 1980年 – 1982年 | 1 | 70 | 2004年 | 昭和 | ||||
7 | なかそね/中曽根康弘 | 1806 | 1982年 – 1987年 | 3 | 71,72,73 | 2019年 | 昭和 | ||||
33 | たけした/竹下登 | 576 | 1987年 – 1989年 | 1 | 74 | 2000年 | 昭和、平成 | ||||
61 | うの/宇野宗佑 | 69 | 1989年 | 1 | 75 | 1998年 | 平成 | ||||
20 | かいふ/海部俊樹 | 818 | 1989年 – 1991年 | 2 | 76,77 | 2022年 | 平成 | ||||
29 | みやさわ/宮澤喜一 | 644 | 1991年 – 1993年 | 1 | 78 | 2007年 | 平成 | ||||
48 | ほそかわ/細川護熙 | 263 | 1993年 – 1994年 | 1 | 79 | 平成 | |||||
63 | はた/羽田孜 | 64 | 1994年 | 1 | 80 | 2017年 | 平成 | ||||
34 | むらやま/村山富市 | 561 | 1994年 – 1996年 | 1 | 81 | 平成 | |||||
17 | はしもと/橋本龍太郎 | 932 | 1996年 – 1998年 | 2 | 82,83 | 2006年 | 平成 | ||||
30 | おふち/小渕恵三 | 616 | 1998年 – 2000年 | 1 | 84 | 2000年 | 平成 | 病気により退任 | |||
41 | もり/森喜朗 | 387 | 2000年 – 2001年 | 2 | 85,86 | 平成 | |||||
6 | こいすみ/小泉純一郎 | 1980 | 2001年 – 2006年 | 3 | 87,88,89 | 平成 | |||||
1 | あへ しんそう/安倍晋三 | 3188 | 2006年 – 2007年、2012年 – 2020年 | 4 | 90,96,97,98 | 平成、令和 | 病気により退陣(90,98) | ||||
43 | ふくた やすお/福田康夫 | 365 | 2007年 – 2008年 | 1 | 91 | 平成 | |||||
44 | あそう/麻生太郎 | 358 | 2008年 – 2009年 | 1 | 92 | 平成 | |||||
47 | はとやま ゆきお/鳩山由紀夫 | 266 | 2009年 – 2010年 | 1 | 93 | 平成 | |||||
39 | かん/菅直人 | 452 | 2010年 – 2011年 | 1 | 94 | 平成 | |||||
38 | のた/野田佳彦 | 482 | 2011年 – 2012年 | 1 | 95 | 平成 | |||||
42 | すか/菅義偉 | 384 | 2020年 – 2021年 | 1 | 99 | 令和 | |||||
55 | きした/岸田文雄 (現職) | 203 | 2021年 – 在任中 | 2 | 100,101 | 令和 |
病気
記録 | 氏名 | 事柄 |
---|---|---|
病気により在任中死去した内閣総理大臣 | 加藤友三郎 | 加藤友三郎は大腸癌を患っていた。青山の自邸で死去。 |
加藤高明 | 加藤高明は心臓麻痺による急性心不全。かねてより慢性腎臓炎と心臓疾患があったが、議会で突然病状が悪化し6日後に死去。 | |
大平正芳 | 大平は心筋梗塞による急性心不全。選挙運動中に過労と不整脈で倒れ虎の門病院に入院。12日後心筋梗塞を起こし死去。 | |
病気により執務不能となり退任、ほどなく死去した内閣総理大臣 | 小渕恵三 | 脳梗塞。首相官邸で発症、順天堂大学医学部附属順天堂医院に緊急入院するが昏睡状態となり退任。意識が戻らないまま約1か月半後に死去。 |
病気により退陣した内閣総理大臣 | 石橋湛山 | 石橋は脳梗塞。ただし当時の公式発表は「風邪をこじらせ肺炎を起こした上、脳梗塞の兆候がある事も判明」だった。「1か月静養が必要」との診断を受けて即日退陣を表明。その後病状は回復し余生を全うした。 |
池田勇人 | 池田は喉頭癌。治療のため国立がんセンターに入院したが、約1か月半後に退陣を表明。9か月後に東京大学医学部附属病院で病部摘出手術を受けたが、術後まもなく肺炎により死去。 | |
安倍晋三 | 安倍(第1次内閣)は胃腸機能の低下による衰弱。元から持病(潰瘍性大腸炎)を抱えていたが、参議院選挙の惨敗や、相次ぐ閣僚の不祥事への批判による重圧、首相としての過労が祟った。辞意表明の後、慶應義塾大学病院に緊急入院したが、首相臨時代理は置かなかった。自民党の後継総裁が選出された後、辞任に至る経緯について会見を行い退陣。後年、2012年自由民主党総裁選挙と第46回衆議院議員総選挙を経て自民党総裁および内閣総理大臣に再就任するも、2020年8月に潰瘍性大腸炎の再発が判明し、退陣を表明した。 |
暗殺
記録 | 氏名 | 事柄 |
---|---|---|
在任中に暗殺された内閣総理大臣 | 原敬 | 原は東京駅の構内で大塚駅職員中岡艮一に胸を刺される。刃渡り五寸の短刀が肺と心臓を貫通し即死(原敬暗殺事件)。 |
濱口雄幸 (死去時は元内閣総理大臣) |
濱口は東京駅のホームで右翼団体に所属する佐郷屋留雄に狙撃される。銃弾1発が骨盤まで達する重傷だったが、4か月後に病躯を押して登院、しかしこれで症状が悪化し、1か月後に内閣総辞職、その4か月後に死去(濱口首相遭難事件)。 | |
犬養毅 | 犬養は首相官邸に乱入した武装青年将校に銃撃される。左頬と右こめかみに銃弾2発を被弾、出血多量で約5時間後に絶命(五・一五事件)。 | |
暗殺された元内閣総理大臣 | 伊藤博文 | 伊藤は満州ハルビン駅の構内で韓国の民族主義運動家安重根に狙撃される。銃弾3発を被弾し約30分後に絶命。当時伊藤は枢密院議長。 |
高橋是清 | 高橋は赤坂の自邸に乱入した武装青年将校により銃撃される。銃弾3発を被弾した上、軍刀で刺し抜かれ即死。当時高橋は大蔵大臣(二・二六事件)。 | |
斎藤実 | 斎藤は四谷の自邸に乱入した武装青年将校により銃撃される。機関銃弾を40数発浴び即死。当時齋藤は内大臣(二・二六事件)。 | |
存命にもかかわらず新聞に死亡記事が出た内閣総理大臣 | 岡田啓介 | 首相官邸に乱入した武装青年将校により岡田と容貌がよく似ていた義弟で秘書の松尾伝蔵が銃撃される。松尾を岡田と誤認した青年将校が総理死亡を発表(二・二六事件)。 |
極東軍事裁判関連
記録 | 氏名 | 事柄 |
---|---|---|
自殺した 元内閣総理大臣 |
近衛文麿 | 連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) よりA級戦犯としての逮捕命令が出たことを受けて、出頭期限日の未明に自邸で青酸カリを服毒し自殺。 |
自殺を図るが未遂におわった 元内閣総理大臣 |
東條英機 | 連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) よりA級戦犯としての逮捕命令が出たことを受けて、自邸で拳銃で自らの心臓を撃つが急所を外して失敗。 |
死刑となった 元内閣総理大臣 |
東條英機 | 極東国際軍事裁判で絞首刑判決、処刑。 |
広田弘毅 | ||
終身刑となった 元内閣総理大臣 |
小磯國昭 | 極東国際軍事裁判で終身禁固刑判決、のち獄中で病死。 |
平沼騏一郎 | 極東国際軍事裁判で終身禁固刑判決、のち病気仮釈放直後に病死。 | |
逮捕収監されたことがある 内閣総理大臣 |
岸信介 | 連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) よりA級戦犯としての逮捕命令が出て収監されるが、不起訴となり釈放。 |
刑事裁判関連
記録 | 氏名 | 事柄 |
---|---|---|
逮捕、起訴された元内閣総理大臣 | 芦田均 | 芦田は昭電疑獄で逮捕され起訴された。公判で無罪が確定。 |
田中角栄 | 田中はロッキード事件で逮捕され起訴された。公判では一審と二審で有罪判決、上告審の審理途中で被告死去により公訴棄却。 | |
公判で有罪判決を受けた元内閣総理大臣 | 田中角栄 | |
かつて逮捕、起訴されたことがある内閣総理大臣 | 田中角栄 | 田中は法務政務次官時代に炭鉱国管疑獄で逮捕され起訴された。公判で無罪が確定。 |
福田赳夫 | 福田は大蔵省主計局長時代に昭電疑獄で逮捕され起訴された。公判で無罪が確定。 | |
かつて逮捕許諾請求が出され起訴されたことがある内閣総理大臣 | 佐藤栄作 | 自由党幹事長時代に造船疑獄で東京地検が逮捕許諾請求を出したが、法相が指揮権を発動して逮捕を見送らせた。その後、在宅起訴されるが、国連加盟恩赦で免訴となった。 |
職歴
立法
記録 | 氏名 | 事柄 |
---|---|---|
かつて貴族院議長だった内閣総理大臣 | 伊藤博文 | 1890年(明治23年)10月24日 – 1891年(明治24年)7月21日 |
近衛文麿 | 1933年(昭和8年)6月9日 – 1937年(昭和12年)6月7日 | |
後に貴族院議長になった元内閣総理大臣 | 伊藤博文 | 1890年(明治23年)10月24日 – 1891年(明治24年)7月21日 一期目の内閣総理大臣を辞した後に貴族院議長となり、その後また内閣総理大臣に任じられている。 |
後に衆議院議長になった元内閣総理大臣 | 幣原喜重郎 | 1949年(昭和24年)2月11日 – 1951年(昭和26年)3月10日 |
行政
枢密院
記録 | 氏名 | 事柄 |
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枢密院議長の経歴を持つ内閣総理大臣 | 伊藤博文 | 初代首相を退任後初代枢密院議長に就任、その後再び組閣。 |
山縣有朋 | 第一次内閣を退任後枢密院議長に就任、その後再び組閣。 | |
西園寺公望 | 枢密院議長に就任後に首相に就任。 | |
清浦奎吾 | 枢密院議長在任時に大命が降下し首相に就任。 | |
平沼騏一郎 | 枢密院議長在任時に大命が降下し首相に就任。 | |
近衛文麿 | 第一次内閣を退任後枢密院議長に就任、議長在任時に大命が降下し首相に就任。 | |
鈴木貫太郎 | 枢密院議長在任時に大命が降下し首相に就任。 |
司法
記録 | 氏名 | 事柄 |
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かつて大審院長だった内閣総理大臣 | 平沼騏一郎 | 1921年(大正10年)10月5日 – 1923年(大正12年)9月6日 |
陸海軍
記録 | 氏名 | 事柄 |
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陸軍の将官の経歴を持つ内閣総理大臣 | 黒田清隆 | 就任時は陸軍中将。 |
山縣有朋 | 第一次内閣で就任時は陸軍中将、 第二次内閣で就任時は陸軍大将。 |
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桂太郎 | 第一次内閣・第二次内閣で就任時は陸軍大将、 第三次内閣で就任時は退役陸軍大将。 |
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寺内正毅 | 就任時は元帥陸軍大将。 | |
田中義一 | 就任時は退役陸軍大将。 | |
林銑十郎 | 就任時は予備役陸軍大将。 | |
阿部信行 | 就任時は予備役陸軍大将。 | |
東條英機 | 就任と同時に陸軍中将から陸軍大将に進級。 | |
小磯國昭 | 就任時は予備役陸軍大将。 | |
東久邇宮稔彦王 | 就任時は陸軍大将。 | |
海軍の将官の経歴を持つ内閣総理大臣 | 山本権兵衛 | 第一次内閣で就任時は海軍大将、 第二次内閣で就任時は退役海軍大将。 |
加藤友三郎 | 就任時は海軍大将、 退任(在任中死去)時に元帥海軍大将(死後追贈)。 |
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斎藤実 | 就任時は退役海軍大将。 | |
岡田啓介 | 就任時は退役海軍大将。 | |
米内光政 | 就任と同時に予備役海軍大将に編入。 | |
鈴木貫太郎 | 就任時は退役海軍大将。 |
宮中
記録 | 氏名 | 事柄 |
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かつて内大臣だった内閣総理大臣 | 桂太郎 | 1912年(大正元年)8月21日 – 同年12月21日 二期目の内閣総理大臣を辞した後に内大臣となり、その後また内閣総理大臣に任じられている。 |
かつて宮内大臣だった内閣総理大臣 | 伊藤博文 | 1885年(明治18年)12月22日 – 1887年9月16日 「宮中・府中(行政府)」の分離により、宮内省は内閣に属さないことと定められたが、伊藤自身は内閣総理大臣と宮内大臣を兼務した。 |
かつて侍従長だった内閣総理大臣 | 桂太郎 | 1912年(大正元年)8月13日 – 同年12月21日 桂は内大臣と侍従長を兼務していた。 |
鈴木貫太郎 | 1929年(昭和4年)1月22日 – 1936年(昭和11年)11月20日 |
学歴
記録 | 氏名 | 事柄 |
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初の学士号を持つ内閣総理大臣 | 加藤高明 | 加藤は東京大学法学部を卒業し法学士号を取得。加藤が卒業した東京大学は、現在の東京大学の前身に当たる大学である。加藤の卒業した(旧)東京大学は、その後、帝国大学、東京帝国大学を経て、現在の(新制)東京大学となった。 なお、学士号を持つ内閣総理大臣は、加藤以外にも多数いる。 |
初の修士号を持つ内閣総理大臣 | 小渕恵三 | 小渕は早稲田大学大学院政治学研究科を修了し政治学修士号を取得。 なお、修士号を持つ内閣総理大臣は小渕以外には誰もおらず、現在でも唯一の例である。 |
初の博士号を持つ内閣総理大臣 | 平沼騏一郎 | 平沼は文部大臣より法学博士号を取得。1887年に公布された学位令に基づき、法学博士号は文部大臣から授与されていた。その後、1920年の改正学位令の施行により、法学博士号は大学から授与されることになった。現在では、1991年の改正学校教育法の施行により、法学博士の後継である博士(法学)が大学から授与されている。 なお、博士号を持つ内閣総理大臣は、平沼以外にも、東京帝国大学より法学博士号を取得した芦田均と、スタンフォード大学よりDoctor of Philosophy号を取得した鳩山由紀夫の2名がいる。 |
初の学位を持つ内閣総理大臣 | 加藤高明 | 加藤は東京大学法学部を卒業し法学士の学位を取得。1887年に学位令が公布される前は、法学士も学位の一つとされていた。学位令の施行により、法学士は学位ではなくなったため、それ以降は称号として授与された。1991年の改正学校教育法の施行により、法学士の後継である学士(法学)が学位の一つとなった。 なお、学位を持つ内閣総理大臣は、上記の加藤、平沼騏一郎、芦田均、小渕恵三、鳩山由紀夫の5名である。 |
初の新制大学を卒業した内閣総理大臣 | 海部俊樹 | 海部の後には旧制大学出身の内閣総理大臣が再び登場している(宮澤喜一)。 |
出自
親族
記録 | 続柄 | 氏名 | 事柄 |
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一親等内に元内閣総理大臣がいる内閣総理大臣 | 父と子 | 福田赳夫と福田康夫 | 康夫は赳夫の長男。 |
岳父と娘婿 | 鈴木善幸と麻生太郎 | 麻生の妻は鈴木の三女。 | |
二親等内に元内閣総理大臣がいる内閣総理大臣 | 兄と弟 | 岸信介と佐藤栄作 | 岸は兄、佐藤は弟。 |
祖父と孫 | 近衛文麿と細川護熙 | 細川の母は近衛の二女。 | |
岸信介と安倍晋三 | 安倍の母は岸の長女。 | ||
吉田茂と麻生太郎 | 麻生の母は吉田の三女。 | ||
鳩山一郎と鳩山由紀夫 | 由紀夫の父は一郎の長男。 | ||
配偶者が兄弟姉妹
※民法上の親族には該当しないが、あえて記載する |
加藤高明と幣原喜重郎 | 加藤の妻は三菱商会創業者の岩崎弥太郎の長女。幣原の妻は岩崎の四女。 |
再就任
記録 | 氏名 | 事柄 |
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一度退任した後に別の人物を挟んで再就任した回数が最も多い内閣総理大臣 | 伊藤博文 | 3回
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一度退任して再就任するまでの空白期間が最も長い内閣総理大臣 | 大隈重信 | 約15年5か月(歴代最長)
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安倍晋三 | 約5年3か月(戦後最長)
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一度退任して再就任するまでの空白期間が最も短い内閣総理大臣 | 桂太郎 | 約1年4か月(479日、歴代最短)
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吉田茂 | 約1年5か月(510日、戦後最短)
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一度退任して再就任するまでの間に挟んだ総理の数が最も多い内閣総理大臣 | 大隈重信 | 5人(8代)
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山本権兵衛 | 5人(5代)
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安倍晋三 | 5人(5代)
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交代
記録 | 氏名 | 事柄 |
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7年連続で内閣総理大臣交代 | 小泉純一郎→安倍晋三(第1次)(2006年) 安倍晋三(第1次)→福田康夫(2007年) 福田康夫→麻生太郎(2008年) 麻生太郎→鳩山由紀夫(2009年) 鳩山由紀夫→菅直人(2010年) 菅直人→野田佳彦(2011年) 野田佳彦→安倍晋三(第2次)(2012年) |
国外では過去には第四共和政時代のフランスで1946年から1959年までの14年連続で首相交代(延べ24人に及ぶ)があった。 |
5年間で8回の内閣総理大臣交代 | 東條英機→小磯國昭(1944年) 小磯國昭→鈴木貫太郎(1945年) 鈴木貫太郎→東久邇宮稔彦王(1945年) 東久邇宮稔彦王→幣原喜重郎(1945年) 幣原喜重郎→吉田茂(第1次)(1946年) 吉田茂(第1次)→片山哲(1947年) 片山哲→芦田均(1948年) 芦田均→吉田茂(第2次)(1948年) |
内閣総理大臣の交代の頻度では上記の記録を上回って最多となる。特に1945年は年間で4人の首相が在任しており(年間で3回の首相交代)、こちらも最多記録となっている。 |
その他
記録 | 氏名 | 事柄 |
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ノーベル賞を受賞した内閣総理大臣経験者 | 佐藤栄作 | 非核三原則の提唱が評価され1974年(昭和49年)のノーベル平和賞を受賞。 |
オリンピックに選手として出場経験のある内閣総理大臣経験者 | 麻生太郎 | モントリオールオリンピック(1976年(昭和51年))にクレー射撃の代表として出場(結果は41位)。 |
日本銀行券の肖像画に用いられた元内閣総理大臣 | 伊藤博文 | 伊藤はC千円券(1963年(昭和38年) – 1984年(昭和59年)発行)の肖像。 |
高橋是清 | 高橋はB五拾円券(1951年(昭和26年) – 1958年(昭和33年)発行)の肖像。高橋は史上唯一の日銀総裁経験者の首相でもある。 | |
外国政府高官を経験した内閣総理大臣経験者 | 岸信介 | 1936年(昭和11年)から1939年(昭和14年)にかけて満州国で総務庁次長などの要職を歴任(満洲国には国籍法がなく、日本人は日本国籍を持ったまま満洲国の官職に就任できた)。 |
最高齢の内閣総理大臣経験者 | 東久邇宮稔彦王 | 1887年(明治20年)12月3日 – 1990年(平成2年)1月20日。存命期間102歳48日。 |
現行憲法下で最高齢の内閣総理大臣経験者 | 中曽根康弘 | 1918年(大正7年)5月27日 – 2019年(令和元年)11月29日。 |
100歳以上の内閣総理大臣経験者 | 東久邇宮稔彦王 | 内閣総理大臣経験者では最高齢。 |
中曽根康弘 | 現行憲法下の内閣総理大臣経験者では最高齢。 |
出身党派別人数
(内閣総理大臣の氏名の後の年は就任した年)
- このほか、貴族院議員の首相には貴族院の院内会派に所属していた議員もいた(近衛文麿の火曜会など)。
歴代内閣総理大臣一覧
脚注
注釈
- ^ 日本国憲法に直接の規定はないが、日本国憲法第70条に「(省略)衆議院議員総選挙の後に初めて国会の召集があつたときは、内閣は、総辞職をしなければならない」とあり、事実上、内閣総理大臣の任期は衆議院議員の任期である1期4年を超えることはない。ただし、通常、内閣総理大臣は与党党首の地位を兼務して与党議員からの信任を得ているため、その政党の内規で党首職に再選制限が設けられている場合、その年限が事実上の任期の上限となることがある。
- ^ 例えば、伊東巳代治による大日本帝国憲法の英訳[8]。
- ^ 実例としては2005年(平成17年)の『郵政解散』の際に小泉純一郎内閣総理大臣が、署名を拒否した島村宜伸農林水産大臣を罷免した例がある。
- ^ 衆議院の解散権が内閣総理大臣の専権事項とされていることについては、『内閣の首長』を参照。
- ^ ただし、大平正芳は、1980年の衆院選で立候補したものの開票前に死去した。事の顛末は第2次大平内閣も参照されたい。
- ^ 政府見解(後述)によれば、憲法66条2項の「文民」とは、次に掲げる者以外の者をいう。
一 旧陸海軍の職業軍人の経歴を有する者であって、軍国主義的思想に深く染まっていると考えられるもの
二 自衛官の職に在る者 - ^ 1973年(昭和48年)12月19日(72回国会)の衆議院建設委員会において、大村襄治政府委員(内閣官房副長官)は「政府といたしましては、憲法第六十六条第二項の文民につきましては、「旧陸海軍の職業軍人の経歴を有する者であって、軍国主義的思想に深く染まっていると考えられるもの」、それから「自衛官の職に在る者」、この二つを判断の基準にいたしているわけでございます。」と答弁している。
- ^ なお、投票日が任期満了の日以後になり、更に特別国会の召集が憲法の定める最大限度まで遅れた場合首相の在任期間が4年を超えることも制度上はあり得なくはない。
- ^ 「天災その他避けることのできない事故により、投票所において、投票を行うことができないとき、又は更に投票を行う必要があるときは、都道府県の選挙管理委員会(市町村の議会の議員又は長の選挙については、市町村の選挙管理委員会)は、更に期日を定めて投票を行わせなければならない。」との規定である。
- ^ 衆議院を解散すれば内閣総辞職をしなくてもいいが、衆議院議員総選挙が行われ、その後に初めて国会の召集があった時には結局、総辞職をすることになる。衆議院議員総選挙によって首相支持勢力が衆議院議席の過半数を獲得したならば、内閣総理大臣指名選挙で再指名されることにより引き続き内閣総理大臣の職にとどまることができるが、首相支持勢力が過半数を割り内閣総理大臣指名選挙で再指名されない場合は内閣総理大臣を続けることができない。
- ^ 芦田均、細川護熙、羽田孜、村山富市の4名に関しては首相辞任後もしばらく出身党(およびその後継政党)の党首職に留まったものの、いずれも首相辞任から1年未満の短期間で退任している。日本国憲法下において首相辞任後も一定期間党首職を務めた唯一の例は片山哲で、首相辞任後も日本社会党委員長に1年10か月ほど留まった(なお、自民党総裁に関する特殊事例は自由民主党総裁#総理・総裁分離論も参照のこと)。
- ^ 2016年時点では、2005年の郵政解散の際に小泉純一郎首相が島村宜伸農水相を罷免したのが唯一の例。
- ^ なお、このとき内閣総理大臣臨時代理であった伊東正義内閣官房長官は1位で当選している。また、大平の立候補していた旧香川2区には、娘婿の森田一が補充立候補し、これも1位で当選している。
- ^ 後に中央工学校を卒業しているが、当時の中央工学校は学制上の学校ではなかった。
- ^ 羽田はこの他にも太陽党党首・民政党党首も歴任している。
- ^ 内閣総理大臣を退任した者が総裁を除く自由民主党執行部(いわゆる党四役)に就任した事例は2021年現在ないが、谷垣禎一は自民党総裁を退任した後に自民党幹事長に就任している。
- ^ 退陣理由 の()内の数字は歴代数を示す。
- ^ なお、陸軍次官当時、陸軍大臣宇垣一成の病気療養に伴い陸軍大臣代行を務めた。この時は班列として閣員に列しているが、班列は正式な国務大臣ではない。
- ^ 最も若い任命時点の年号を示す。
出典
関連項目
歴史
発足・組織・形態
国会
施設・設備
その他
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