Month: December 2018

共和国防衛隊 (シリア) – Wikipedia

共和国防衛隊(アラビア語: الحرس الجمهوري‎ al-Ḥaras al-Jamhūriyy、英語: Republican Guard)は、シリアの軍事・治安組織。共和国護衛隊または大統領警護隊とも呼ばれる。イラク共和国防衛隊と異なり国名は冠しない。 1976年に大統領警護と体制維持および首都ダマスカス防衛のために編成された。隣国イラクにおいてもバアス党政権下に大統領警護を目的としてイラク共和国防衛隊が編成されたが当該部隊は軍から分離した指揮命令系統であった。一方でシリアの共和国防衛隊は軍の指揮命令系統に含まれ、当該部隊の指揮権はシリア軍参謀本部の所轄である(大統領直轄との説もある)。装備の供与や訓練そして規模の面で一般部隊に勝り、シリア軍地上戦力の最精鋭部隊にして、現大統領バッシャール・アル=アサドおよび与党バアス党政権の最大の権力基盤。当該部隊に所属する将兵は職業軍人であり、主にバアス党の党籍保有者が構成しているとされる(シリア・バアス党の中核支持層は、アラウィー派・キリスト教徒・ドゥルーズ派・イスマーイール派の他、スンニ派世俗層の一部である)。 シリア軍の地上戦力は大量の戦車を有するが(内戦以前には4000両以上を保有していた)、その膨大な戦車保有台数に比して、陸軍の大部を占める一般部隊の即応性・機動性は基本的に低劣であり、固定射撃など火力に依存する。しかし、共和国防衛隊をはじめとする精鋭部隊(他に第4機甲師団、特殊戦力師団など)は例外的に高い即応性と機動性を有するほか、優秀な歩戦協同能力を持つ。 チュニジアに端を発した市民による抗議行動が、2011年にシリア国内でも発生した際、共和国防衛隊は第101・第102歩兵連隊、第104・第105・第106機械化旅団および第100砲兵連隊によって構成されており、大部分はダマスカス周辺に駐屯していた。 そして、2012年にかけて反体制武装勢力との戦闘が激化するなか、共和国防衛隊や第4師団および特殊戦力師団などの精鋭部隊は、政府の忠誠を維持し軍の中核として反体制武装勢力の攻勢を拒止する役割を担った(但し、当該部隊内においても反体制派への対応を巡り、方針対立による混乱が生じた。しかし、その後、収拾し現在に至る、後述)。 その一方で徴兵を基盤とする一般部隊では、兵の離脱と命令への不服従が広範にわたって発生し、シリア政府は、一般部隊の動揺に対応するため、共和国防衛隊および第4師団や特殊戦力師団などを小部隊(旅団および連隊の基幹である大隊)へと分割したうえで、それらを一般部隊と併せて配置する方策をとった。このことは一般部隊における兵の離脱や不服従発生の防止に一定の効果を持ったが、共和国防衛隊をはじめとする精鋭部隊隷下の旅団および連隊は、シリア国内各地に分散配置されることになった。 このため政府軍が攻勢を発動するおりには、旅団や連隊規模で一体となって運用される場合もあるが、所属の各大隊が長期にわたって別々の前線に派遣されることは通例化しており、配属されている旅団および連隊とは、独立して活動する大隊も多いとされる。他方、細分化された所属部隊の統合運用を促進するための努力もなされている。 また、共和国防衛隊の規模は内戦を通じて拡充され、隷下部隊の増設および編入が行われている。通常、シリア陸軍における師団定員はその種類によって、5000人弱から15000人強程度の規模に分かれる(例えば同じく精鋭部隊に数えられる第4機甲師団の内戦以前の定員は14000人、1個特殊戦力師団は4500人であった)。共和国防衛隊は、内戦以前から規模の面において他師団より勝っていたとはいえ、第4師団と比較した場合数個大隊分上回る程度に過ぎなかったが、内戦勃発後の部隊増設および編入により、その規模は第4師団を含む他の師団を圧倒的に上回るものとなっている(現在の全隷下部隊が定員を充足した場合、共和国防衛隊は内戦以前と比較して倍以上の規模となる)。 元来、共和国防衛隊の編成単位は師団であるが、隷下部隊の増設および編入により、現在の規模は内戦以前のシリア陸軍における1個軍団に匹敵する。また隷下部隊の一部を統合運用する目的で1個師団が配置されている。この他、第25師団についても共和国防衛隊の隷下に編入されたとされる説がある。[3]各旅団・連隊の定員は、機械化旅団が3500人、歩兵旅団および機甲旅団が2500人、歩兵連隊ならびに砲兵連隊と特殊戦力連隊は1500人からなる。旅団および連隊は大隊を基幹に編成され、大隊の定員は500人である。共和国防衛隊はシリア陸軍の他の師団と同様、旅団および連隊を基幹とする編成である。通例、旅団は少将によって、連隊は准将によって、大隊は大佐によって指揮を受ける。 共和国防衛隊(師団) 第101連隊(警護部隊)[4] 第102連隊(同上)[4] 第103旅団(コマンド部隊、内戦勃発後に新編[5]) 第104旅団(部隊名として空挺を称するものの、実態は機械化旅団)[4]

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機能性胃腸症 – Wikipedia

機能性胃腸症(きのうせいいちょうしょう、non-ulcer dyspepsia:NUD)または機能性ディスペプシア(en:functional dyspepsia, FD)、機能性胃腸障害(Functional gastrointestinal disorder:FGID)とは、内視鏡検査などでもがんや潰瘍といった器質的疾患が見られないにもかかわらず、胃の痛みや胃もたれ、食後の膨満感、不快感などを覚える疾患である[1][2][3]。ディスペプシアの語源はBad(Dys) digestion(peptein)を意味するギリシャ語であるとされるが、広く様々な腹部症状に対して使用されてきた曖昧な用語で、解釈は時代ともに変遷している[4]。 当初はこの名称が用いられずに、慢性胃炎、神経性胃炎、胃けいれん、胃アトニ―、胃下垂といった診断名を付けられることが多かった。胃の粘膜などに器質的疾患がないにもかかわらず「炎」という名称を使用することがふさわしくないとの判断からこうした症状をひとくくりにして「機能性胃腸症」と呼ばれるようになった。通常、胃痛は潰瘍など粘膜の炎症により引き起こされるため、炎症を治療すれば痛みは消失し、胃のもたれは食べ過ぎなどによる食物の停滞により生ずるために時間の経過や、あるいは食べる量の減少によって解決されるが、機能性胃腸症の場合は胃の運動機能障害により、胃痛やもたれが引き起こされている。このため抜本的な治療法がない[5]。かつては機能性胃腸症は保険適応とはなっていなかったため、慢性胃炎という病名で治療・投薬が行われていたが[6]、2013年に日本の保険診療名として初めて承認され、さらに2014年には日本消化器病学会がFDに関する診療ガイドラインを作成し、一般に公表した[7]。 ストレス、過労などが大きく関与しているといわれ現代病の代表的な例に挙げられる[5]。また、Haug TTは、FD患者の34%に、器質的疾患である十二指腸潰瘍患者の15%に精神疾患の合併があり、FD患者の合併の方が有意に高いと報告している[8]。内視鏡検査で明らかな器質的疾患が認められないにもかかわらず、胃もたれ、胃痛、胸やけなど心窩部の不快症状を訴える場合、臨床的には「慢性胃炎」(臨床的“胃炎”)と診断される。欧米ではFD(Functional Dyspepsia)と診断されるが、日本では2013年までは保険診療病名とはなっていなかったため、慢性胃炎の診断名で治療されていたが、FDは症状により定義される疾患であり、両者は同一のものではない(ガイドラインCQ1-3)上に、慢性胃炎を治療してもディスペプシア症状が残る場合がある[7]。慢性胃炎にはFDのほか、胃内視鏡検査により粘膜傷害や血管透見所見が認められるケースと、さらに内視鏡的に「慢性胃炎」(内視鏡的胃炎)があり、慢性胃炎はその総称となっている。このため、臨床的に診断や治療は複雑である[4]。 一般に器質的疾患である逆流性食道炎は、しばしばディスペプシア症状を呈する。プロトンポンプ阻害薬(PPI)で粘膜障害が治癒してもディスペプシア症状が残る多い。このようなケースでは、逆流性食道炎とFDを併発していると考えられ、日本消化器病学会では保険診療上も2つの病名の併記は可能としている[7]。 有病率[編集] 健康診断受診者の約11〜17%、上腹部症状による医療機関受診者の約44〜53%が機能性ディスペプシアと診断される[4][3]ほど 上腹部消化器の病気の中ではごくありふれたものでもある。 診断基準[編集] 国際的には、1999年にRome II分類が、2006年にRome III分類が提唱され使用されている。日本国内では、Rome III分類を元にして2014年に日本の実態に合わせたガイドラインが策定された[4]。

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別府市美術館 – Wikipedia

別府市美術館(べっぷしびじゅつかん)は、大分県別府市大字別府字野口原にある公立美術館である。 明治時代から昭和初期にかけて活躍した安井曽太郎、梅原龍三郎、福田平八郎、小磯良平、朝倉文夫の作品や、大分県出身の冨永一郎、宇治山哲平、片多徳郎、江藤哲らの作品を常時展示する[1][2]ほか、企画展示室、市民向けのギャラリーを備える。また、ロビーには美術館設立に寄与した実業家佐藤慶太郎の胸像や、別府を描いた風景画が展示されている[3]。 福岡県出身の実業家佐藤慶太郎の寄付を元に1950年(昭和25年)に設立された[1]九州で初めての公立美術館である[4]。 その後、1984年(昭和59年)にかつてホテルだった建物を利用して上人ヶ浜町で開館。しかし、老朽化が進み、2016年(平成28年)4月の熊本地震によって給水設備に不具合が生じ冷暖房が使えない状態になったことなどから、同年7月1日から休館。休館中は、野口ふれあい交流センター(旧別府市立野口小学校)を代替施設とし、企画展などが開催された[5][6]。 別府市は、大分県から野口原の旧大分県立社会教育総合センター(旧大分県ニューライフプラザ)の払い下げを受け[7]、2017年(平成29年)10月12日に別府市美術館を移転。新美術館は鉄筋コンクリート構造2階建ての施設で、上人ヶ浜町の旧美術館の2倍以上となる約3,300m2の延床面積を有する。なお、別府市では将来的に別府市美術館と別府市立図書館とを一体整備する方針で、基本構想の策定が行われている[3][8]。 基礎データ[編集] 観覧料[9] 一般・大学生・高校生 – 100円 小・中学生 – 50円 小学生未満・70歳以上 – 無料 開館時間[9] 10:00 – 17:00(入館は16:30まで)

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ウッドストック (バーモント州) – Wikipedia

ウッドストック(英: Woodstock)は、アメリカ合衆国バーモント州ウィンザー郡の町であり、同郡のシャイアータウン[3](郡庁所在地)[4]である。人口は2010年国勢調査で3,048 人だった[5]。町内にはウッドストック、サウスウッドストック、タフツビルの各ビレッジがある。 トム山からの眺め、1913年 1761年7月10日、ニューハンプシャー払下げの1つとして、ウッドストックとなる領域はニューハンプシャー植民地総督ベニング・ウェントワースが認証し、デイビッド・ペイジなど62人に払い下げられた。ブレナム宮殿とその所有者第4代マールバラ公爵ジョージ・スペンサーへの敬意として、イングランドのオックスフォードシャーにあるウッドストックにちなんで名付けられた。町への最初の入植は、1768年のジェイムズ・サンダーソンとその家族だった[6]。1776年、ジョーブ・ホイジントンがオウタークィチー川南支流の傍に製粉所を建設し、さらに製材所が続いた[7]。町は1837年に法人化された[8]。 アメリカ独立戦争のために開拓が進まなかったが、1783年に一旦戦争が終わると急速に発展した。1807年にはここでバーモント州議会が開催され、州都の位置づけになったが、翌年には州都がモントピリアに移された。オウタークィチー川の滝が工場を操業させる水力を提供した。工場では大鎌や斧、梳綿機械、毛織物を生産した。機械工場や銃器工場もあった。その他、家具、木製品、窓枠やブラインドも生産した。荷馬車、馬のハーネス、鞍、荷物トランク、革製品が生産された。1859年時点で人口は3,041人になっていた[7]。1875年9月29日、ウッドストック鉄道がホワイト川ジャンクションまで開通し、貨物や乗客を運んだ。1892年にはウッドストック・インがオープンした[9]。 産業革命によって町は繁栄した。現在の町の経済は大部分が観光業で推進されている。国勢調査に拠れば、州内の町で一人当たりの収入は第20位、非住民が所有する家屋が高い比率を示している。町の中央広場はグリーンと呼ばれ、修復が進んだジョージア調、連邦様式、ギリシャ復古調の建物が並んでいる。グリーンに隣接する地区の不動産価格は州内でも高い方である。ボストンやニューヨークなどの都市から来るセカンドハウスの裕福な所有者が季節によって在住し、町の経済力や生活を活性化させており、それと同時にバーモント州民にとっては近づきがたいものにさせている。 町は無料Wi-Fiインターネット接続サービスrを提供しており、町のほぼ全域をカバーしているので、「ワイアレス・ウッドストック」と呼ばれている[10]。 レイアウトとデザイン[編集] カナダ人の著作家で建築家ウィトールド・リブチンスキーは、その著書『シティライフ: 新世界の都市の期待』で、この町のレイアウトを幅広く分析し、それを決めた非公式の非文書化規則を考察した。次のように言っている。 全体的レイアウトは地形によって決められているように見える。狭く、平坦なバレーが一方でオウタークィチー川で、他方は小さなクリークの作る曲線で縁どられている。グリーンは川とクリークの間の狭い半島に、長手方向に置かれ、多くの地点で川岸に下がっていく後庭が作られている。 ウッドストックの建設者は重要な建物に重要な場所が必要であることを気付いていた。聖公会教会がグリーンの頭にあり、メソジスト教会がその下、会衆派教会がプレザント通りがエルム通りに突き当たる光景に巧妙に近い所にある。誇りの場所であるグリーンは、片方を民家が占め、他方に郡庁舎やイーグルホテルがある。店舗、銀行、郵便局など事業所が隣接する2本の通り沿いにあるが、グリーンには接していない。これが一種の微妙な都市デザインであるが、それがデザインであり、既存のマスタープランからは得られないが、建物自体の中から得られるデザインである。大まかな枠構造が決められ、個々の建設者が思いつくものを採用した。パリ人の計画が慎重に組み合わされた交響楽に似ているならば、ニューイングランドの町は、…大変拘束されたジャズのようであり、…ジャズと同様にアドリブを含み、ジャズにおけるように、結果が偶然であったり、規則がないことを意味してはいない。[11] リブチンスキーはさらに非公式の規則の幾らかを分析している。例えば企業の場合の建物は側道に接近して立っており、住居の場合は10ないし15フィート (3 – 4.5 m) 離してある。区画は概して細長く、通りに面した長さをほぼ等しくしている。商業ビルは並んで立ち、公共機能のある重要な建物、例えば図書館や裁判所が拘束の無い建て方をしている。リブチンスキーは、ウッドストックには地域割りが無く、「異なる機能をもつ建物が同じ通りに立ち、今日も残っている」のであり、食肉処理場やガス工場など特別の例外がある、と指摘している[11]。 ロックフェラー家が現在のウッドストックに全体的な性格に大きな影響を与えてきた。彼らは19世紀の建築と田園的雰囲気を残すことに貢献してきた。町の中心点にウッドストック・インを建設した。ローレンスとメアリー・フレンチのロックフェラー夫妻は電力線を地中に埋めさせた。山の稜線の景観を保護するために、景観稜線地区を創設する条例を採択した。この条例は2007年にも更新された[12]。

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秋田県立少年自然の家 – Wikipedia

秋田県立少年自然の家(あきたけんりつ しょうねんしぜんのいえ)とは、秋田県内3箇所にある社会教育施設(少年自然の家)。 秋田県立の少年自然の家は、「大館少年自然の家」が大館市に、「保呂羽山少年自然の家」が横手市に、「岩城少年自然の家」が由利本荘市に設置されている[1]。 設置目的[編集] 当施設の設置目的は、「秋田県立少年自然の家条例」(昭和49年3月30日条例第27号)の第1条に以下のように記されている[1]。 自然の中で宿泊その他の活動を集団で行うことにより、心身ともに健全な少年を育成するとともに、県民の生涯学習の振興に資するため、少年自然の家を設置する。 施設一覧[編集] 大館少年自然の家[編集] 秋田県立大館少年自然の家(あきたけんりつ おおだてしょうねんしぜんのいえ)は、秋田県大館市東字岩神沢の岩神ふれあいの森内にある社会教育施設(少年自然の家)。愛称はわんぱーく大館。1974年開業[2]。 大館市の鳳凰山の山麓に位置する。キャンプ、カヌー、登山などの野外活動や創作活動ができる他、宿泊が可能である[3]。 基本情報 住所:017-0023 秋田県大館市東字岩神沢31番地 アクセス E7 秋田自動車道・大館南バイパス 大館南ICから車で約10分。 E7 秋田自動車道

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ファミリー (洗剤) – Wikipedia

この記事には複数の問題があります。改善やノートページでの議論にご協力ください。 出典がまったく示されていないか不十分です。内容に関する文献や情報源が必要です。(2016年4月) 広告・宣伝活動的であり、中立的な観点で書き直す必要があります。(2014年8月)出典検索?: “ファミリー” 洗剤 – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL ファミリー(Family)は、花王から発売されている台所用洗剤。1965年発売。 なお、本項ではファミリーキュキュット(Family Cucute)として発売されていたキュキュット(Cucute)についても記述する。 目次 1 商品概要・歴史 2 ラインナップ 2.1

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カジミェシュ3世 (ポーランド王) – Wikipedia

「カジミェシュ3世」はこの項目へ転送されています。同名のポーランドの領主貴族については「カジミェシュ」をご覧ください。 カジミェシュ3世ヴィエルキ(Kazimierz III Wielki、1310年4月30日 – 1370年11月5日[1])は、ポーランド王(在位:1333年 – 1370年)。カシミール3世とも表記される。大王(Wielki)の異称で呼ばれる。ヴワディスワフ1世(短身王)の三男で、母はヴィエルコポルスカ公ボレスワフ(敬虔公)の娘ヤドヴィガ。 現在ポーランドで発行されている50ズウォティ紙幣の、表面側の肖像に採用されている。 1333年、父の死により王位を継ぐ。この頃のポーランドは分裂状態から統一され、内部は比較的安定していたが、今度は神聖ローマ帝国やドイツ騎士団、さらにはボヘミアなどからの外圧を受けるようになる。 これに対して、カジミェシュ3世は武力ではなく外交による解決で臨んだ。まず、1335年にボヘミアと交渉し、大金の支払いと引き換えに和睦した。次いで1343年にローマ教皇クレメンス6世の仲介の下にドイツ騎士団と交渉し、クヤーヴィとドブジンを獲得する一方、グダンスク、ポモージェを割譲することで和解した。そして神聖ローマ皇帝カール4世に対しては、一時的に戦争状態にもつれ込んだものの、シレジアの帰属など国境問題を解決することで和睦に持ち込んだのである。後に孫娘のエリーザベトがカール4世の4番目の妃になっている。 その後、カジミェシュ3世は東方に進出し、ハールィチ・ヴォルィーニ戦争を起こしてウクライナ領であったハールィチ公国、ルブフを1340年から1352年にかけて支配下に収め、ポーランド王国の領土を倍増させた。1366年にはヴォルィーニ、ポドリアも併合している。 カジミェシュ3世の功績は外交や軍事だけでなく、内政においても大きな成功を収めている。長年にわたりポーランドは、貴族の権力が大きかったため国王の権力が弱体化し、国内が分裂状態に陥ることが多かった。カジミェシュ3世はこれを防止するため、司法制度を整備して貴族による権力濫用を押さえ込んだのである。法学を発展させる一端としては、ドイツ法を広く普及させた。また、政治的・経済的な弱者である農民を手厚く保護してその生活改善に努めた。さらに西ヨーロッパで迫害されたユダヤ人を保護し、国外からの移民による植民も積極的に奨励するなどして、ポーランドは商業的にも大きく発展することとなったのである。1347年にはポーランド王国の基本法を制定し、1364年には首都クラクフに天文学や法学の研究を主とする、国内初の大学・ヤギェウォ大学を設立させるなど、このカジミェシュ3世の時代にポーランドは大国に発展することとなったのである。 王位継承権争いについては、父の代からボヘミア王ヨハンからの王位請求が続いていた。しかし1335年、ヨハンならびにハンガリー王カーロイ・ローベルトとハンガリー領ヴィシェグラードにて会談し、多額の補償金をあてがうことにより、ヨハンに王位請求権を破棄させた。 1370年、カジミェシュ3世は狩猟中に落馬して死去した。カジミェシュ3世には男子がなく、後継者には甥でハンガリー国王のラヨシュ1世が第一候補として挙がった。カジミェシュ3世はラヨシュの後継を認めた上で、自身の女系の孫であるスウプスク侯カジミエシュに後の特権的地位を遺そうとするも、ポーランド王国の再統合を無に帰しかねないとして彼の死後は司教や貴族から認められず、王位とドブジン地方を除く王国の全領土がラヨシュ1世に相続された。 カジミェシュ3世は軍事・外交・内政のいずれにおいても大きな成功を収めたため、「カジミェシュ大王」とも称され、また弱小農民を手厚く保護するなどの善政を敷いた経緯から「カジミェシュ農民王」と称されることもある。カジミェシュ3世の時代、ポーランド国王の王権は安定し、国家は整備されて大国に成長したのである。史書においては、カジミェシュ3世のことを、「木造のポーランドに現れて、煉瓦のポーランドを残して去った」と賞賛している。 結婚と子女[編集] 1325年、カジミェシュ3世はリトアニア大公ゲディミナスの娘アルドナと最初の結婚をし、間に2人の娘をもうけた。アルドナは1339年5月26日に亡くなった。 1341年9月29日、カジミェシュ3世はヘッセン方伯ハインリヒ2世の娘アーデルハイトと再婚したが、新妻を気に入らず結婚後すぐに別居した。アーデルハイトは1356年に実家のヘッセンに戻った。 アーデルハイトとの結婚を解消したがっていたカジミェシュ3世は、王妃のいる身でボヘミア人の愛妾クリスティナと重婚した。クリスティナはプラハの豪商ミクラーシュ・ロキチャーニの未亡人であり、彼女自身の出自は不明である。クリスティナは夫の死の翌年にプラハ宮廷に女官として入っていた。カジミェシュは彼女をプラハから連れ出し、ティニェツのベネディクト会修道院の院長を説得して、2人の結婚式を行わせた。この結婚は秘密結婚だったが、すぐに巷間に知れわたることになった。アーデルハイトは重婚状態にあるのを嫌い、夫の許しも得ずにヘッセンの実家へ戻った。カジミェシュはアーデルハイトの肩を持つ教皇インノケンティウス6世の警告を無視してクリスティナとの同棲を続けた。この結婚生活は1363年ないし1364年まで続き、その後2人は離別した。夫妻の間に子供はなかった。

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馬屋上・野谷地区乗合タクシー – Wikipedia

馬屋上・野谷地区乗合タクシー(まやかみ・のだにちくのりあいタクシー)は、岡山市北区にて運行されている予約制乗合タクシー。愛称はあいタク[1][2]。 岡山市北区の馬屋上・野谷地区では、地域住民の買い物や通院等の日常生活に必要な移動手段を確保することを目的として、馬屋上・野谷の生活交通を考える会がエスアールティー岡山営業所(現:岡山空港営業所)に委託する形で運行開始した[3]。 運賃は区間により異なっている。 馬屋上・野谷地区(リサーチパーク入口(馬屋上地区・桃丘地区)・工業技術センター(桃丘地区)・国立病院(横井地区)を含む)のみの場合は1回利用大人500円、子供250円、6歳未満は無料。 横井地区(国立病院を除く)にまたがって利用する場合、1人で利用する場合は1回利用大人1,000円、子供500円、6歳未満は無料、2人以上で利用する場合は1回利用大人500円、子供250円、6歳未満は無料。 指定されたバス停(以下の4カ所に限る)で路線バス・空港リムジンバスとの乗り継ぎの場合は1回利用大人100円、子供50円、6歳未満は無料。 高齢者・障害者は障害者手帳(身体障害者手帳・療育手帳・精神障害者保健福祉手帳)等・「おかやま愛カード」(運転経歴証明書)の提示で100円割引(ただし、指定されたバス停で路線バスとの乗り継ぎの場合を除く)。 平日のみ運行。土曜日・日曜日・祝日は運休。 運行は、エスアールティー岡山空港営業所に委託されている。 予約制を採用しており、午前の便は乗車前日の17:00までに、午後の便は乗車当日の1時間前までにエスアールティー岡山空港営業所まで電話予約が必要。 8人乗り、5人乗りを使用している。 岡山桃太郎空港 – 馬屋上・野谷地区 – リサーチパーク入口 – 工業技術センター – 国立病院

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森田福市 – Wikipedia

森田 福市(もりた ふくいち、1890年(明治23年)6月15日[1] – 1945年(昭和20年)8月6日[2][3])は、日本の政治家、実業家、土木建築請負業[4]、広島県多額納税者[4][5]。広島市会議員、広島県会議員、衆議院議員[6]、貴族院議員[7]。森田工業、広島水産、東亜鉱業汽船、東亜貿易、日栄木材、鶴海耐火煉瓦各社長[6][8]。広島商工会議所会頭[6][8]。 広島県神石郡牧村(現神石高原町牧)で、豪農・森田善太郎、カン夫妻の長男として生まれる[1]。牧尋常小学校を経て神石尋常高等小学校を卒業後、家業の農業に従事[9]。福山中学中退[8]。勉学して商売人となる夢を捨てがたく、福山の私立商業学校 3年に編入[10]。さらに東京に出て学ぶため家出し、中等学校卒業資格認定試験を受けて日本大学法科に入学し学んだ[11]。『翼賛選挙大観』には、森田の学歴は「日大修」とある[7]。 帰郷して岡山県笠岡の土木建築請負業・山下忠次郎商店に勤める[12]。山下忠次郎商店が本店を岡山に移転し合資会社に改組する際に求められて出資者の一人となり無限責任社員となる[13]。1912年(大正元年)8月、山下商店門司支店の新設に伴い支店長に抜擢された[14]。1914年(大正3年)3月、吉川セメントの経営を任され、当初は不況下で困難な経営を余儀なくされるも、1915年(大正4年)頃から好況となり経営を拡大させたが、1917年(大正6年)6月にセメント会社の全株式を売却して巨額の資金を入手した[15]。 1917年、広島市大手町五丁目(現中区大手町二丁目)に事務所を構え、土木建築請負業「森田組」を創業し、事業部を設けて建築材料、石炭、コークスなどの卸販売事業も手掛けた[16]。1918年(大正7年)7月、初の大型工事として岡山専売支局米子出張所工場新築工事を落札したが、米騒動による物価の高騰、山陰地方の大水害、工事現場での出火などによる大損失を蒙るも、1920年(大正9年)6月に竣工して大蔵省に引き渡した[17]。このことが森田の信用を得ることにつながり、その後、大型工事を受注して事業を拡大した[18]。 1921年(大正10年)6月、広島市会議員に当選し立憲政友会に入党[19]。1922年(大正11年)分家する[6][20]。1923年(大正12年)広島県会議員に当選し副議長に選出された[21]。1925年(大正14年)9月29日、貴族院多額納税者議員に任じられ[22][23]、その後、県会議員を辞職し、政友会広島県支部長に就任した[24]。貴族院では交友倶楽部に入会し[23]、新人ながら綿密な準備を行った鋭い質問を政府に対して行った[25]。 1929年(昭和4年)11月8日、広島商工会議所第8代会頭に就任[26]。1930年(昭和5年)5月、一行18名で第26回列国議会同盟会議(ロンドン)、第16回万国議員商事会議(ブラッセル)出席などのため欧米に半年間の外遊に出発した[2][27]。 1932年(昭和7年)2月、第18回衆議院議員総選挙に広島県第3区から出馬して当選し[2][28]、それに伴い同年2月25日に貴族院議員を辞職した[29]。次の第19回総選挙では、政友会への政府の干渉で苦戦し落選[30]。1937年(昭和12年)4月の第20回総選挙では再選された[2][31]。政界では望月圭介、大野伴睦、鳩山一郎、肥田琢司らと親交を結んだ[32]。1939年(昭和14年)9月、阿部内閣で当初は厚生政務次官に内定していたものの、森田が土木建築業を経営していたため小原直内務大臣兼厚生大臣が難色を示し、司法政務次官に就任した[33]。 1942年(昭和17年)4月の第21回総選挙では翼賛政治体制協議会の非推薦候補として立候補して当選した[34]。その後、興亜議員同盟に参加[35]。東條内閣の倒閣運動に加わり、和平に向けての動きを支援した[36]。1945年8月8日に開催予定の中国地区代議士会議の世話役を務めるため、8月4日に広島市に戻っていたが、8月6日の原爆投下により、爆心から至近距離に位置する会社事務所の近くで被爆死した[37]。享年55。 広島への原爆投下によって、森田の他に現職の広島県選出代議士では古田喜三太、および元・島根県選出代議士で当時兵役に就いていた田中勝之助の計3名が被爆死しており、没後の9月4日、第88回帝国議会衆議院本会議はこの3名に弔辞を贈呈した[38]。 『商工資産信用録 第34回 鳥取県ほか』によると、森田工業の森田福市(調査年月・1933年2月)は「正身身代・G、信用程度・Aa、職業・土木建築請負」である[39]。趣味は政治[8]。住所は広島市西地方町[6][20]。 家族・親族[編集] 森田家 父・善太郎[20](農業)

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