青山延寿 – Wikipedia
青山 延寿(あおやま のぶとし、1820年(文政3年) – 1906年(明治39年)11月)は水戸藩士で儒学者[1]・史学者。藩校である弘道館の教授頭取代理[1]、彰考館権総裁代役を務めた[1]。字は季卿[1]、通称は量四郎[1]、鉄槍[1]・鉄槍斎と号した。婦人運動家・山川菊栄の外祖父。 1820年(文政3年)、水戸藩士・青山延于の四男(末子)として水戸城下田見小路(現在の水戸市北見町)に生まれる[2]。長じて父に従い江戸に滞在し、古賀侗庵のもとで学んだ。その後水戸弘道館に出仕し、1843年(天保14年)には訓導となった。1846年(弘化3年)には安政の大獄で永蟄居となった主君・徳川斉昭の雪冤を訴えるため紀州侯に上書を提出することを計画し、これが露見したため免職となった。しかし5年後の1853年(嘉永6年)、弘道館に復職し、1866年(慶応2年)には教授頭取代理および彰考館権総裁に昇進した。 1868年(明治元年)、王政復古により藩を追われ会津戦争に参戦していた藩内諸生党が、会津落城にともない突如水戸を急襲し弘道館を占拠した(弘道館戦争)。この際、病身にもかかわらず官軍支持の藩内主流派が立てこもる水戸城に向かおうとした延寿は、徒歩に難渋して立ち往生し、敵対する諸生党に囲まれたが、からくも助命された。しかし維新後、武田金次郎(耕雲斎の遺孫)が朝廷の威光を背景に藩政を独占し、諸生党に対する報復を開始すると、敵と刃を交えなかった延寿は密通を疑われることとなり、1869年(明治2年)、藩から蟄居処分を下された。このさい職を奪われ邸宅も没収されたため、家族とともに生活に困窮した。 廃藩置県により放免となった延寿は東京に転居し、以後東京府庁地誌課、新政府の修史局などに勤務した。1879年(明治12年)に官職を辞したのちは、旅行や著述にいそしむ晩年を送り、死の直前には水戸近くの河原子海岸に転居した。1906年(明治39年)死去。享年87。 年譜[編集] 1820年(文政3年):水戸城下に出生。 1838年(天保9年)〜1839年(天保10年):江戸に滞在。 1841年(天保12年):弘道館に出仕。 1843年(天保14年):弘道館訓導。 1846年(弘化3年):主君・斉昭の雪冤運動が露見し免職。 1853年(嘉永6年):弘道館に復職。 1866年(慶応2年):弘道館教授頭取代理および彰考館権総裁。 1869年(明治2年):蟄居処分を受ける。 1871年(明治4年):廃藩置県により放免。 1872年(明治5年):東京に転居。 1879年(明治12年):官職を辞する。
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