Month: January 2019

青山延寿 – Wikipedia

青山 延寿(あおやま のぶとし、1820年(文政3年) – 1906年(明治39年)11月)は水戸藩士で儒学者[1]・史学者。藩校である弘道館の教授頭取代理[1]、彰考館権総裁代役を務めた[1]。字は季卿[1]、通称は量四郎[1]、鉄槍[1]・鉄槍斎と号した。婦人運動家・山川菊栄の外祖父。 1820年(文政3年)、水戸藩士・青山延于の四男(末子)として水戸城下田見小路(現在の水戸市北見町)に生まれる[2]。長じて父に従い江戸に滞在し、古賀侗庵のもとで学んだ。その後水戸弘道館に出仕し、1843年(天保14年)には訓導となった。1846年(弘化3年)には安政の大獄で永蟄居となった主君・徳川斉昭の雪冤を訴えるため紀州侯に上書を提出することを計画し、これが露見したため免職となった。しかし5年後の1853年(嘉永6年)、弘道館に復職し、1866年(慶応2年)には教授頭取代理および彰考館権総裁に昇進した。 1868年(明治元年)、王政復古により藩を追われ会津戦争に参戦していた藩内諸生党が、会津落城にともない突如水戸を急襲し弘道館を占拠した(弘道館戦争)。この際、病身にもかかわらず官軍支持の藩内主流派が立てこもる水戸城に向かおうとした延寿は、徒歩に難渋して立ち往生し、敵対する諸生党に囲まれたが、からくも助命された。しかし維新後、武田金次郎(耕雲斎の遺孫)が朝廷の威光を背景に藩政を独占し、諸生党に対する報復を開始すると、敵と刃を交えなかった延寿は密通を疑われることとなり、1869年(明治2年)、藩から蟄居処分を下された。このさい職を奪われ邸宅も没収されたため、家族とともに生活に困窮した。 廃藩置県により放免となった延寿は東京に転居し、以後東京府庁地誌課、新政府の修史局などに勤務した。1879年(明治12年)に官職を辞したのちは、旅行や著述にいそしむ晩年を送り、死の直前には水戸近くの河原子海岸に転居した。1906年(明治39年)死去。享年87。 年譜[編集] 1820年(文政3年):水戸城下に出生。 1838年(天保9年)〜1839年(天保10年):江戸に滞在。 1841年(天保12年):弘道館に出仕。 1843年(天保14年):弘道館訓導。 1846年(弘化3年):主君・斉昭の雪冤運動が露見し免職。 1853年(嘉永6年):弘道館に復職。 1866年(慶応2年):弘道館教授頭取代理および彰考館権総裁。 1869年(明治2年):蟄居処分を受ける。 1871年(明治4年):廃藩置県により放免。 1872年(明治5年):東京に転居。 1879年(明治12年):官職を辞する。

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エルジュビェタ・アダミャク – Wikipedia

エルジュビェタ・アダミャク(波: Elżbieta Adamiak、1955年9月5日 – )はポーランドのウッチで生まれた歌手。 1955年9月5日、ポーランドのウッチで生まれる。幼少期からピアノを習い、高校時代からギターを弾きはじめた。 ウッチ大学で社会学を学び、後にヤギェウォ大学で学ぶが、3年生のときに休学して歌に専念する。1974年にウッチの「Yapa」と呼ばれる学生歌謡祭で舞台デビュー。大学を転校してクラクフに移り住んだ後も、学生の歌と文化の流れに強く関わっていた。やがてクラクフの学生歌謡祭や、オルシュティン城の歌謡イベント「Śpiewajmy Poezję」、シフィノウイシチェで行われる歌謡祭「FAMA」などに参加して注目されるようになる。特に詩人イッジ・ハラシモーヴィチの詩に対する表現力に高評価を受けた。 1978年、歌手としてデビュー。1980年に発表されたファーストアルバムでは、サンバやボサノヴァなど、ブラジル音楽からの影響が色濃い曲を歌っている[1]。 歌謡祭への参加や国内でのコンサート活動のほか、当時西ドイツだったミュンスター(1977年)や、ニシュ(ユーゴスラビア、1980年)、プラハ、ブダペスト(1983年)など、東西を問わずポーランド国外での演奏活動も頻繁に行った。1993年にはオーストラリアツアー(パース、キャンベラ、アデレード、ニューカッスル、シドニー、ホバート、メルボルン)を行った。また、アメリカ(シカゴ、ニューヨーク、1995年)、パリ(1996年)、ザールブリュッケン(1997年)、カールスルーエ(2000年)、イゼルローン、ケルン、ヴッパータール(2001年)を訪れている。 詩人で歌手、作家としても活躍するAndrzej Poniedzielskiと1980年に結婚。翌年2人の子供をもうけた。 1995年からウッチにキャバレー「Przechowalnia」を構え、夫婦で運営している。 ディスコグラフィー[編集] アルバム[編集] 1980年: Elżbieta Adamiak, Muza (SX

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ルイズ・アベマ – Wikipedia

「ジャンヌ・サマリーの肖像」(1879年作、パリ、カルナヴァレ美術館蔵) ルイズ・アベマ(Louise Abbéma, 1853年10月30日 – 1927年7月29日)は、フランスの画家、彫刻家。エタンプで生まれ、パリで亡くなった。社交界の人々を描いた肖像画で知られる。 ルイズ・アベマは、アンリエット=アンヌ=ゾフィー・ダストワン(Henriette-Anne-Sophie d’Astoin (1826-1905))と、エミル=レオン・アベマ子爵(Emile-Léon Abbéma (1826-1915))の娘である。アベマ子爵は、パリ=オルレアン鉄道会社の社長であり、エタンプ駅の駅長もしていた。 ルイズ・アベマは、シャルル・シャプラン、ジャン=ジャック・エネ、そしてカロリュス=デュランに師事した。18歳のときに描いたサラ・ベルナールの肖像画により名声を博す。サラはルイズの恋人であったが、そのことは1875年に世間に知られるようになった[1][2]。サラ・ベルナールは、1878年に自分一人で大理石からルイズ・アベマの胸像を彫り上げた(パリのオルセー美術館蔵)[3]。 70歳を越えて亡くなる前年の1926年まで定期的にフランス芸術サロンに出品し、1881年には佳作も受賞した。1893年にシカゴで開催された万国博覧会には、フランス芸術家女性代表団に属して出席した。なお、同代表団は万博で「女性の建物(Woman’s Building)」と呼ばれる会場の中で再編成されている[4]。 1906年にはレジオンドヌール勲章を受けた。また、ルイズ・アベマは、芸術絵画の副業として、René Maizeroy(ルネ・マイゼロワ?/メズロイ?)が発行する『ラ・メール』誌に素描イラストを寄稿していた。 20世紀の初め頃はマドレーヌ・ルメールのサロンに足繁く通い、そこでロベール・ド・モンテスキューと知り合う。しかし彼はこの出会いを皮肉たっぷりに描写する詩「アビム(Abîme)」にしてしまった[5]。 ルイズ・アベマは、1883年から1908年の間、パリのラフィット通り47番地にアトリエを持っていた。 1927年に74歳で亡くなった。墓所はモンパルナス。 公共の美術館等に所蔵されている作品[編集]

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競馬同人誌連合会杯 – Wikipedia

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丸山礼 – Wikipedia

丸山礼(まるやまれい) 生年月日 (1997-04-01) 1997年4月1日(25歳)[1] 出身地 北海道北見市 血液型 AB型 言語 日本語 最終学歴 北見藤女子高等学校卒業[2] 出身 ワタナベコメディスクール22期(特待生) 芸風 一人コント、物真似 事務所 ワタナベエンターテインメント 活動時期 2015年

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Co-sleeping – Wikipedia

コ・スリーピング(co-sleeping)は、1部屋に1人で寝る独り寝に対して、複数の家族成員が1部屋に寝ることを指している。即ち夫婦、親子、きょうだい、祖父母や親族などが同室に寝る場合である。コスリーピングの語は米国の人類学者らが日本で行った家族の就寝形態調査のなかで特に親子同室寝の型として使用される。日本の研究者によって合寝、混寝、共寝、添い寝などと様々に訳された[1]。 コ・スリーピングの用語法には、三通りある。 第1は、比較文化的な文脈で使われる場合で、「就寝形態」と同義に使われて、就寝形態研究をコ・スリーピング研究と称する場合である。この場合は独り寝も含まれる。 第2は、夫婦、親子、きょうだいあるいは祖父母など複数の家族成員が同室に寝る「共寝」の意味で、二者間の距離から同室隣接寝と同室分離寝の2種が区別できる。 第3は、共寝のうちの「隣接寝」(bed-sharing)のみを指す場合で、一般には「添い寝」と言われる。 日本の家族のライフサイクルを就寝形態の変化から調査した人類学者のW.コーディルらは、「日本の家族は他に空き部屋があるのにかたまって親子同室に寝るコスリーピングの習慣があり、日本人は、幼い時は両親と児童・少年期はきょうだいと共寝をし、独りで寝ることは、青年期と伴侶と死別した老年期のみである」と指摘した(1966年)。彼らはさらに「コ・スリーピングの習慣は、家族成員間の情緒パターン(emotional patterns)に関連し、同時に文化間の相違を反映すると思われる」と述べ、日本の家族には欧米のような夫婦関係中心ではなく親子一体性という文化的な規範があると論じた[2]。 「川の字で寝る」という言葉があるように、共寝は日本古来の習慣である。明治維新以来西欧文化を取り入れて近代化を進めてきた日本は、衣食住にわたって伝統的な習慣を数多く失ってきたが、家族の共寝だけは、欧米先進国に追随することなく維持されて今日に至っている。子どもの自立心が育ちにくいとか夫婦関係が阻害されるといった欠点があるにもかかわらず、乳幼児期の親子の共寝は、現在も9割以上の親たちに支持されている[3][4]。 また、世界の就寝形態について、これまでの医学的、人類学的調査や文献調査などの結果は、南米やアジア地域では、乳幼児のコ・スリーピングが一般的であることを示している。一方、北米、欧州、オーストラリアなどの地域では、乳幼児の独り寝が常識である。ただし、これらの地域でも少数民族の間でサブカルチャーとしてコ・スリーピングが行われる例はある[5][6][3][7][8]。 就寝形態の比較文化的研究[9][6][7]からは、それぞれの社会の道徳的価値や文化規範の違いが浮き彫りになるが、同一文化内での研究には2通りある。1つは、コ・スリーピングが一般的でない北米のような場合、共寝の悪影響を証明しようとする小児医学的、児童心理学的研究である[5][10]。2つは、コ・スリーピングが一般的な日本の場合、共寝をする若年家族の実態をより詳細に「誰が誰とどのような位置関係で寝るか?」まで調査して、家族成員間の空間的距離の違いから、それぞれの家族の情緒的人間関係の違いを探るという、家族の内部構造の1つである情緒構造を解明しようとする教育社会学的研究である[3][4]。 ^ 森岡清美、1973『家族周期論』培風館、215−244頁。 ^ (2,6) ^ a b c 篠田有子、2004『家族の構造と心―就寝形態論』世織書房。 ^

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ジャボンテ・グリーン – Wikipedia

ジャボンテ・グリーンJavonte Green トリエステ時代のグリーン (2018年) シカゴ・ブルズ  No.24 ポジション SG/SF シュート 右手 基本情報 生年月日 (1993-07-23) 1993年7月23日(28歳) 国籍 アメリカ合衆国 モンテネグロ 出身地 バージニア州ピーターズバーグ 身長

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アニーよ銃をとれ (映画) – Wikipedia

『アニーよ銃をとれ』(アニーよじゅうをとれ、Annie get your gun)は、1950年に公開されたアメリカ合衆国のテクニカラーのミュージカル・コメディ映画作品。射撃手アニー・オークレイの人生を大まかに基にしている。1946年のミュージカル「アニーよ銃をとれ」をベースに、アーヴィング・バーリン作詞作曲、シドニィ・シェルダン脚本、ジョージ・シドニー監督でメトロ・ゴールドウィン・メイヤーがリリースした。当初主演のジュディ・ガーランドが撮影1ヶ月で監督と衝突、度重なる遅刻や欠席で降板となるなど製作やキャスティングで問題があったにも関わらず、アカデミー賞において美術賞、撮影賞、編集賞の3部門でノミネートされ、アカデミー作曲賞を受賞した。主演のベティ・ハットンはゴールデングローブ賞において主演女優賞にノミネートされた。 使用楽曲[編集] “Colonel Buffalo Bill” — チャーリー、ドリー、アンサンブル “Doin’ What Comes Natur’lly” — アニー、姉妹たち “The Girl That I

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田野井一雄 – Wikipedia

日本の政治家 田野井 一雄 たのい かずお 生年月日 (1940-10-12) 1940年10月12日(81歳) 出生地 日本 神奈川県横浜市 出身校 明治大学 所属政党 自由民主党 第37代横浜市会議長 在任期間 1999年5月13日 – 2001年5月31日

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ウィリー・ディクソン – Wikipedia

ウィリー・ディクソン[1](Willie Dixon、本名:William James Dixon、1915年7月1日 – 1992年1月29日)は、アメリカ合衆国ミシシッピ州ヴィックスバーグ生まれのソングライター、音楽プロデューサー、ベーシスト、歌手。ブルースの有名曲を多数作曲した。 プロ・ボクサーとして、1937年にイリノイ州のゴールデン・グローブズ・ヘビー級チャンピオンになった。[2]。その後、シカゴに移住。音楽活動を本格化させる。 1940年代後半、ザ・ビッグ・スリー・トリオのベーシストとして活動。1951年にザ・ビッグ・スリー・トリオが解散した後、チェス・レコードのスタジオ・ワークに関わる。 1954年、ウィリーが作詞・作曲した「フーチー・クーチー・マン」が、マディ・ウォーターズの歌で大ヒット。以後、ソングライター、音楽プロデューサー、ベーシストとして手腕を振るう。ジョニー・ウィンターのメジャー・デビュー作『ジョニー・ウィンター』にも、ベーシストとしてゲスト参加した。 1980年代の初頭にシカゴから南カリフォルニアへ移住。1984年にブルースの振興とブルース・アーティストの支援を目的にブルース・ヘヴン・ファウンデーションを設立。ディクソンの死後の1993年、彼の遺族が旧チェス・レコードの建物を買い取り、ファウンデーションの本部とした。 1989年には、自伝『I Am The Blues: The Willie Dixon Story』を出版した。 1992年1月29日、心不全のためカリフォルニア州バーバンクのセントジョセフ医療センターにて死去した。76歳没。 裏方の印象が強いが、自己名義のアルバムも複数発表している。特に1981年にレコーディングされた「It

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