Month: January 2019

木曽電気 – Wikipedia

木曽電気株式会社(きそでんき かぶしきかいしゃ)は、大正から昭和戦前期にかけて存在した日本の電力会社である。岐阜県東濃地方で営業した小規模事業者の一つ。 現在の中津川市北部にあたる恵那郡坂下町にて1913年(大正2年)に設立。翌年に開業し、恵那郡北部と東に接する長野県西筑摩郡(現・木曽郡)南部にまたがる範囲で供給にあたった。1938年(昭和13年)、東濃・木曽地方の事業統合に伴い中部合同電気へと事業を譲渡して解散した。 起業の経緯[編集] 岐阜県の東部、現在の中津川市域においては、1906年(明治39年)4月まず恵那郡中津町に中津川電力社(後の中津電気)が開業して電気事業の歴史が始まった[4]。同社は1915年時点でも供給区域を中津町に限っており、周辺の恵那郡落合村・苗木町などへ供給を拡大するのはその後のことである[4]。 中津電気の事業拡大が遅れる中、恵那郡北部において1908年(明治41年)小県正櫟らの発起により「恵北電気」が計画された[5]。川上村に水力発電所を建設し周辺町村へと配電するという計画である[5]。隣接する付知町においても、1911年(明治44年)3月になって「付知電気」の出願があった[6]。また恵那郡の東隣にあたる長野県西筑摩郡吾妻村(現・木曽郡南木曽町)では前村長の林亀寿郎らによる「木曽電気」の計画があり、木曽川支流蘭川の水利権出願が1910年(明治43年)12月になされていた[7]。 1911年9月、木曽電気発起人に対して蘭川水利権が許可された[7]。また9月4日付で蘭川の発電所を電源に西筑摩郡吾妻村・読書村と恵那郡坂下町に供給するという電気事業経営許可も下りた[8]。23日、水利権許可を受けて木曽電気発起人と恵北電気発起人は将来的な合同を契約、恵北電気発起人が出願中の川上川水利権が許可されない場合は蘭川発電所を先に着工する旨を取り決めた[5]。次いで翌1912年(明治45年)5月、付知電気発起人が恵北電気に合流[5]。さらに同年10月恵北電気発起人も木曽電気に合流してこの地域の電気事業計画は木曽電気へと一本化された[5]。 そして1913年(大正2年)10月16日、資本金10万円をもって木曽電気株式会社の設立に至った[2][6]。会社の所在地は岐阜県恵那郡坂下町坂下[2](現・中津川市坂下)。発起人の中から林亀寿郎が社長に、小県正櫟が専務取締役に選出された[5]。 設立後の動き[編集] 木曽電気は長野県側の蘭川発電所ではなく岐阜県側の川上川発電所の建設を優先した[5]。開業は設立半年後の1914年(大正3年)4月20日付[9]。まず岐阜県側の川上村・坂下町・福岡村・付知町の4町村で供給を開始した[5]。続いて長野県側への拡張に移り、1916年(大正5年)5月28日より田立村、6月3日よりその東の吾妻村・読書村への供給をそれぞれ開始した[7]。その後も1920年(大正9年)西筑摩郡山口村、1925年(大正14年)神坂村の順に配電を開始しており[10]、供給区域は岐阜・長野両県にまたがる計9町村となった。 先に完成した川上川発電所の余力で長野県側も供給できたため、蘭川発電所については1915年(大正4年)3月水利権を一旦返納した[7]。その後木曽電気は1918年(大正7年)9月に水利権を再申請する[11]。この申請は木曽川本流に水利権を持つ名古屋電灯(のち大同電力へ移行)や東京の友田合資会社との競願となるが、地元吾妻村が木曽電気の出願を支持した結果、1922年(大正11年)8月木曽電気に許可された[11]。なお出願中の1920年7月23日付で50万円の増資を決議し[12]、資本金を60万円としている[6]。そして1925年10月に蘭川発電所は運転を開始した[13]。以後発電所建設はなく、増資も1度もない。 1937年(昭和12年)になると、逓信省は小規模電気事業の整理統合を方針化して主要事業者に対し隣接小規模事業の統合を勧奨しはじめた[14]。これを機に全国的に事業統合が活発化していくが[14]、岐阜県東濃地方から長野県木曽地方にかけての地域においては東邦電力の主導によって新会社中部合同電気を核に事業統合が推進されることとなった[15]。中部合同電気の統合対象は木曽電気を含む7事業であり[15]、木曽電気では1937年8月20日付で同社との間に電気供給事業譲渡に関する契約を締結[1]。次いで10月30日開催の株主総会にて譲渡契約の承認を得るとともに、譲渡実行と同時に会社を解散する旨を決議した[1]。そして翌1938年(昭和13年)8月1日付で事業の引継ぎを完了して中部合同電気が開業すると[15]、同日付で木曽電気は解散した[3]。最後の決算にあたる1938年3月末時点における供給成績は、電灯取付数1万6321灯(うち休灯2772灯)・電力供給契約130.17馬力(97.1キロワット)・電熱その他供給契約28.0キロワット・大口電力供給契約880キロワットであった[1]。 供給区域[編集] 逓信省の資料によると、中部合同電気統合直前、1937年(昭和12年)12月末時点における供給区域は以下の9町村であった[16]。 ただし上記町村にあっても木曽電気による配電が及ばない地区があった。例えば福岡村では北部の田瀬地区から下野地区・福岡地区の順に配電されていったが、最南部の高山地区では電気利用組合(産業組合の一種)が自家用水力発電所を新設したことで1923年(大正12年)に点灯した[17]。同様の組合は福岡地区の新田集落にもあり、また他にも自家発電で点灯した集落があった[17]。さらに自家発電すら存在しない未点灯集落もあったが、こうした集落が電力会社による配電に移行するのは太平洋戦争後(中部配電時代)のことである[17]。自家発電で点灯する集落は他に付知町にもあった[6]。 川上川発電所[編集] 1914年の木曽電気開業時に建設された発電所は川上川発電所(かわうえがわはつでんしょ)という。所在地は岐阜県恵那郡川上村(現・中津川市川上)字奥屋[9][18]。 木曽川支流川上川(かわうえがわ)にある既設用水路を一部拡張して建設された水力発電所である[5]。発電所出力は一貫して100キロワット[19]。主要設備は、エッシャーウイス製フランシス水車・シーメンス製三相交流発電機(容量150キロボルトアンペア・周波数60ヘルツ)各1台であった[9][20]。 木曽電気解散後は中部合同電気を経て中部配電に引き継がれ、さらに1951年(昭和26年)からは中部電力川上川発電所となるが、1961年(昭和36年)9月に廃止されており現存しない[19]。 蘭川発電所[編集]

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月の兎はヴァーチュアルの夢をみる – Wikipedia

『月の兎はヴァーチュアルの夢をみる』 月ノ美兎 の スタジオ・アルバム リリース 2021年8月11日 ジャンル J-POP 時間 43分50秒 レーベル SACRA MUSIC チャート最高順位 週間9位(オリコン)[1] ティザー動画 月ノ美兎 1stアルバム「月の兎はヴァーチュアルの夢をみる」クロスフェード – YouTube

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オオルリ – Wikipedia

オオルリ(大瑠璃、学名Cyanoptila cyanomelana)は、スズメ目ヒタキ科オオルリ属に分類される鳥類の一種。 日本へは夏鳥として渡来・繁殖し、冬季は東南アジアで越冬する。高い木の上で朗らかにさえずる。姿も囀りも美しい。 全長が約16 cm[3][4][5]、翼開長が約27 cm[4][6]。雄の背中は尾も含め光沢のある青で、尾の基部には左右に白斑がある。喉、顔は黒で腹は白い。雌は頭から尾にかけて背面が茶褐色で、喉と腹は白い。胸と脇が褐色。 また、雄が美しい色彩になるには2 – 3年を要すると考えられ、若鳥時代の雄の羽色は雌の羽色と似た茶褐色で、背面の一部と風切羽及び尾羽に青色が表れているだけである。雌はキビタキの雌やコサメビタキなどに似ている[5][6]。 コルリ、ルリビタキなど共に、「青い鳥」御三家の一つである[4]。 鳴き声[編集] 地鳴きはクッ、クッ。さえずりは、美しい声でゆっくりとピリーリー、ポィヒーリー、ピールリ、ピールリ、ジィ、ジィと鳴く。雌もさえずることがある[4]。 日本三鳴鳥のひとつである(他はウグイスとコマドリ)[3][4]。 旧北区。中国東北部、ウスリー、朝鮮半島や日本で繁殖し、インドシナ半島から大スンダ列島、フィリピンなどに渡って越冬する。 日本には夏鳥として4月下旬ごろに渡来し、南西諸島を除く北海道から九州までの全国各地で繁殖する。10月ごろまで見られる。 低山帯から亜高山帯にかけての山地や丘陵に生息し、とくに渓流沿いのよく茂った森林に多く、飛翔している昆虫を捕食する。クモ類なども捕食する[3]。渓流沿いの岩壁や土壁のくぼみなどにコケを用いて巣をつくる[4]。なわばりを持ち、林の中の湖のほとりや、牧場と林の境などでも見られる。繁殖期に雄は木の梢で豊富な声量でさえずる[5]。渡りの時期には市街地の公園でも観察される。 種の保全状況評価[編集] 国際自然保護連合(IUCN)により、レッドリストの軽度懸念(LC)の指定を受けている[1]。 日本では以下の都道府県でレッドリストの指定を受けている[7]。かつては美しい姿や鳴き声を楽しむ為に昔から飼い鳥として人気があり、キビタキ、コマドリ、ミヤマホオジロと並ぶ和鳥四品のひとつであった[8]。現在は鳥獣保護法により愛玩飼育は規制されているが、未だに毎年違法な飼育が相次いでいる[8]。 豊橋総合動植物公園がオオルリの繁殖賞(自然、人工:1991年、2003年)を受賞した。

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玉風福太郎 – Wikipedia

玉風 福太郎(たまかぜ ふくたろう、本名:本多 福太郎(ほんだ ふくたろう)、1928年7月28日 – )は、昭和時代の大相撲力士。身長180cm、体重87kg。最高位は東十両4枚目。若松部屋に所属した。群馬県吾妻郡中之条町出身。得意手は左四つ、投げ。 1948年10月場所で初土俵。新序で好成績を残すと、序ノ口、序二段と連続して優勝するなど勢いは止まらず、初土俵から5場所で幕下に昇進した。幕下でも好成績を残し、1952年1月場所に十両に昇進。この場所は6勝9敗と負け越し、1場所で幕下に陥落するが、1953年1月場所に十両に復帰すると、十両に定着する。3月場所では10勝5敗の好成績を挙げ、優勝争いを演じたが惜しくも次点に終わる。その後は一進一退の状態が続いていたが、 1955年1月場所では久々に好調な土俵を披露し、再び10勝5敗の好成績をあげ優勝を争うもまたしても次点に終わった。翌3月場所は自己最高位となる東十両4枚目まで番付を上げるが、4勝11敗と大きく負け越し、入幕はならなかった。 1957年1月場所は東十両20枚目で3勝12敗の大負け。翌3月場所で幕下に陥落。 1957年9月場所限りで廃業。廃業後は運送業に従事した。 主な成績[編集] 通算成績:238勝221敗2休 勝率.519 十両成績:125勝145敗 勝率.463 現役在位:33場所 十両在位:18場所 各段優勝 序二段優勝:1回(1949年5月場所)

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ビョーク – Wikipedia

この存命人物の記事には検証可能な出典が不足しています。信頼できる情報源の提供に協力をお願いします。存命人物に関する出典の無い、もしくは不完全な情報に基づいた論争の材料、特に潜在的に中傷・誹謗・名誉毀損あるいは有害となるものはすぐに除去する必要があります。出典検索?: “ビョーク” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2013年2月) ビョーク・グズムンズドッティル (Björk Guðmundsdóttir [ˈpjœr̥k ˈkvʏðmʏntsˌtoʊhtɪr] ( 音声ファイル))、1965年11月21日 – )は、アイスランドの歌手、シンガーソングライター、音楽プロデューサー、作詞家、作曲家、編曲家、女優。 アイスランドのレイキャヴィークで生まれた女性歌手で、ビョークとして知られている。ソロで精力的に活動する以前は、オルタナティヴ・ロックバンド「ザ・シュガーキューブス」のメイン・ボーカルとして活動していた。 彼女は様々なジャンルの音楽に影響を受けた革新的な音楽を生み出すことで知られ、グラミー賞に12回、アカデミー賞に1回ノミネートされるなど多数の賞を獲得している。 彼女のレコード・レーベル

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ラグビーリーグナインズ – Wikipedia

ラグビーリーグナインズ(英: Rugby league nines、あるいは単にナインズ)は、各チーム9人の選手でプレーされるラグビーリーグフットボールの変種である。この競技は13人制のラグビーリーグと実質的に同じであり、規則(英語版)にいくらかの差異があり、試合時間がより短かい。ナインズは、試合時間が短く、大会を1日または単一の週末で完了することができるため、大抵はフェスティバルでプレーされる。類似したラグビーリーグセブンズ(7人制ラグビーリーグ)よりも人気が高くなってきており、ラグビーユニオンセブンズ(7人制ラグビーユニオン)との差別化のために多くの大会がナインズを採用している。 競技規則[編集] ナインズの競技規則は標準のラグビーリーグ競技規則と同じであるが、以下の例外がある。 各チームは最大15人の選手のスカッドが許され、フィールド上には同時に9人を越える選手が出てはならない。指名された4人の控え選手については無制限の交代が可能である。 試合は15分で、前後半はそれぞれ7分半である。ハーフタイムのインターバルはないが、エンドを変更するために最大1分が許されている。各ハーフはプレースキックで始まる。 スクラムは5人以下のフォワードから成り、フロントローは最大3人、セカンドローは最大2人である。ボールがスクラム内にある時は、各チーム4人以下がバックスとして行動するものとする。ボールはセカンドローの足の後方から出なければならない。 トライ成功後のコンバージョンはドロップキックの形式で行う。得点した側のチームはトライラインの後方に撤退しなくてもよいが、コンバージョンの試みに干渉してはならない。 点が入った後、得点された側のチームがハーフウェイラインの中央からタップリスタートで試合を再開する。 チームにペナルティーが与えられた時、反則が起こった場所の10メートル前方からタップでプレーを開始しなければならない。 選手による不正行為が起きた場合、審判は当該選手を5分間の出場停止とすることができる。主要なナインズの大会であるカーネギー・フラッドライト・ナインズ(英語版)では、これは2分間に短縮されている[1]。 NRLオークランド・ナインズ[編集] 正規のナショナルラグビーリーグの試合と異なる主な規則変更は以下である。 前後半9分、ハーフタイム2分 フィールド上に各チーム9人で6人の無制限の交代選手 スクラムは二重のノックオン後にのみ作られ、攻撃側がどちら側からボールをフィードするかを選択する。 ビデオ審判はない。1名のオンフィールド審判がいる。 同点の場合、予選ラウンドでは5分間のゴールデントライ方式の延長戦、決勝ラウンドでは制限時間無しのゴールデントライ方式の延長戦が行われる。

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山本真夢 – Wikipedia

山本 真夢(やまもと まゆ、1991年11月26日 – )は、日本の女優、タレントである。旧芸名は山本 真由(読み同じ)[1]。愛称はまゆお、まゆちゃん。 東京都八王子市出身。グラビア甲子園2014ファイナリスト[2]。 中学2年生より劇団東俳に所属[1]。2006年『14才の母』のクラスメイト役でデビュー。 Claudiaに所属したのち、一時芸能活動を休止していたが、2013年9月よりアミティープロモーションに所属し活動再開[1]。この際、芸名を真由から真夢に変更している。2015年12月、株式会社ココジャパンへ移籍[3]。その後、2018年から2021年まで株式会社アンセムに所属していた。2022年2月1日付で、かねてから親交のあった舞台女優・植野祐美が主催する企画団体「Daisy times produce」に加入したことをTwitterにて報告[4]。 現在は主に舞台女優・モデルとして活動するほか、プロデュースやキャスティングの仕事などもしている。 身長154cm、靴のサイズは22.5cm。 趣味は、カラオケ、ヨガ、アニメ、お酒。 特技は、アルトサックス、目覚まし無しで起きる、ものまね、おえかき。 好きなことは、眼鏡、帽子や小物集め。愛犬と遊ぶこと。 好きなキャラクターは、グーフィー。 愛犬家で4匹の犬を飼っていた。2020年からは愛犬のそっちゃんと暮らしている。 体調管理の為、毎朝ランニングを行っている。 芸能界に入ろうと思ったきっかけは、人見知りを克服するためで[1]、苦手だった演技が現在では好きなことに変わった。

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山里町 (名古屋市) – Wikipedia

山里町(やまざとちょう)は、愛知県名古屋市昭和区の地名。丁目の設定はない[2]。住居表示未実施[6]。 名古屋市昭和区東部に位置する。東は山手通、北は八雲町に接する。 地名の由来[編集] 耕地整理実施の際に命名されたが、当時の当地の様子を端的に表した町名であるという。 沿革[編集] 世帯数と人口[編集] 2019年(平成31年)1月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[3]。 人口の変遷[編集] 国勢調査による人口の推移 1950年(昭和25年) 273人 1955年(昭和30年) 584人 1960年(昭和35年) 805人 1965年(昭和40年) 1,035人 1970年(昭和45年) 1,078人 1975年(昭和50年)

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シピィ – Wikipedia

シピィ (英表記:SIPY)は、福井県越前市新町にあるロイヤル総合開発が運営するショッピングセンターである。この項目では1988年から2011年まで存在した武生商業開発によるシピィ (英表記:cipy)についても記述する。 1988年に武生商業開発により開店した「cipy」が前身である。cipyについては歴史#cipyにて記述する。 2012年(平成24年)5月23日、現在の事業主体であるロイヤル総合開発により再開業[8][9]。再オープンに向けて、10億円以上の費用をかけて改装を行い、内外装を一新[8]。北陸地方初出店になるラ・ムー(大黒天物産)が核テナントとして入った[8][9]。 再開店時点で、44テナントが出店[9]。以前の施設に出店していた店舗の内、24店舗が再度出店[9]。テナント数も従来の66テナントから減らし[9]、通路や休憩施設を増やした[8]。 シピィ周辺には、18店舗からなる、「シピィタウン」が配され[10]、ホームセンターやスーパー銭湯、飲食店などが出店している[10]。 再開業初年度の売り上げを80億円、来場者数は150万人を見込んでいた[9]。 2012年(平成24年)9月28日には[11][12]1階の正面玄関北側に[11]ラーメンや丼などの飲食店2店が出店する[11][12]約460m2のフードコートが開設されると共に[11]、2階には総合衣料店[11][12]や子供服[11]・婦人服店[12]、玩具や[12]輸入雑貨[11]などの5店が追加で開店して全体では専門店52店舗となって[11]ほぼ全館を使用する形となり[12]、本格的に開業することになった[11][12]。 また、この本格開業に合わせて隣接するスーパー銭湯も「越前御老公の湯」として同日再開業している[11]。 cipy[編集] 開業から最盛期[編集] 武生市(当時)の経済界有力者が出資して1980年(昭和55年)に設立した武生商業開発が[13]、ユニーの運営するアピタ武生店を核店舗として[4]専門店55店を入居させた地元主導型のショッピングセンター1988年(昭和63年)3月に開業したのが始まりである[3]。 開業翌年の1989年(平成元年)から近隣へ飲食店や紳士服店などの誘致を進めて地区全体を商業地域化するタウン化構想を推進し、1999年(平成11年)に店舗面積を約1.5倍に増床する改装を行い、2001年(平成13年)に武生商業開発の直営でスーパー銭湯「アクアシピィ」を開業するなど拡張を続け、2002年に入居する専門店が70店となった[13]。 当施設を所有・管理していた武生商業開発は最盛期の2004年(平成16年)3月期に売上高約12億円を上げていた[13]。 売上低迷から経営破綻[編集] その後は他のショッピングセンターとの競合などの影響を受けて賃料などテナント収入が減少し、2009年(平成21年)3月期に売上高約8.79億円に落ち込んで6600万円の純損失となった[13]。 そのため、開業時の建設費から増床や改装などの設備投資によって積み上がった負債の返済が重荷となって経営難に陥ったため、2009年(平成21年)春に投資会社の虎ノ門商業開発合同会社(本社・東京)に全株式が売却されて設立時からの社長だった三田村紘二ホクコン会長ら全役員が辞任し、武生商業開発の経営権が虎ノ門商業開発合同会社へ移行する形となった[13]。 新たな経営陣が福井銀行や福邦銀行など4行に返済猶予などを要請して交渉していたが、交渉が難航して福井銀行からの申立てに基いて2009年(平成21年)9月に福井地方裁判所が土地・建物の一部やテナントからの賃料などを差し押さえた[13]。 差し押さえの責任をとって就任したばかりの社長が退任して交代したが、新たな資金調達を模索したが見付からず、「事業継続するための手続き」と主張して同月28日に武生商業開発は約54.3億円の負債を抱えて東京地方裁判所に1回目の民事再生法の適用を申請して事実上破綻した[13]。

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有島生馬記念館 – Wikipedia

有島生馬記念館(ありしまいくまきねんかん)は、長野県長野市信州新町上条にある博物館。有島生馬の鎌倉の家(通称「松の屋敷」)を長野市信州新町上条に移築して、1982年10月に記念館として開館したもの。 1890年(明治23年)にイタリア人貿易商ヴィヴァンティが鎌倉の稲村ヶ崎に建てた後、廃屋同然になっていたコロニアルスタイルの邸宅を、新渡戸稲造の別荘(現 聖路加看護大学アリスの家)を静養で訪れていた生馬が気に入り、1921年(大正10年)に購入、手を入れて妻子とともに暮らした。 生馬没後は娘の暁子の勤め先であった上智大学が研修保養施設として所有し、暁子が住んでいたが、1980年(昭和55年)に取り壊しが決まったため、生馬の疎開先であった信州新町に無償で提供された[1]。信州新町は1943年(昭和18年)に完成した水内ダムのダム湖に生馬が「琅鶴湖」と命名するなど関係が深い。 町内外からの寄付を募り、1982年(昭和57年)10月に記念館が開館した。記念館は琅鶴湖のほとりに建つ。 併設施設[編集] 信州新町美術館・ミュゼ蔵[編集] 信州新町化石博物館[編集] 地元出身の考古学者、西沢勇によって、地域で発掘された化石を収蔵・展示し地域の自然を紹介する。各種ワークショップも行う[2]。博物館前の実物大ディプロドクス像が圧巻。新町博士ロボがホタテガイと共に発掘の説明をする。 利用案内[編集] 入館料:大人500円、高校生300円、小中学生200円 団体割引(20名以上):大人400円、高校生240円、小中学生160円 信州新町美術館・有島生馬記念館・信州新町化石博物館の3施設共通。入館者入口は美術館にある。 開館時間:9:00 – 16:30(入館は16:00まで) 開館時間(ミュゼ蔵):9:00 – 17:00(入館は16:30まで) 休館日:毎週月曜日(月曜日が祝休日の場合はその翌日)、祝休日の翌日

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