Month: March 2019

バコン – Wikipedia

バコン(Bakong、クメール語: ប្រាសាទបាគង)は、カンボジアにおける現代のシェムリアップに近いアンコールにおいて、クメール王朝の統治者によって構築された砂岩の山岳型寺院(英: temple mountain)である[1]。9世紀末の十数年間、今日、ロリュオス(英語版)と呼ばれている地域に位置した古代の都ハリハラーラヤ(英語版)において[1]、王インドラヴァルマン1世(英語版)(在位877-889年[2])の国家寺院としての役割を果たした[3]。 西暦802年、アンコール朝の初代の王ジャヤーヴァルマン2世(英語版)が、カンボジアの主権を宣言した。曲折の後、ジャヤーヴァルマン2世はハリハラーラヤ(英語版)において彼の都城(首都)を制定した[4][5]。数十年後、王の後継者は、アンコールにおける砂岩の最初の山岳型寺院として[6]、バコン寺院を段階的に構築した[7]。石碑(分類 K.826)の碑文は、881年、王インドラヴァルマン1世がシヴァ神に寺院を捧げ、その中心に宗教的象徴であるリンガとして[8]、その名前を王 (Indravarman) 自身と、シヴァ神 (“Iśvara”) を表す接尾辞 “-esvara” の組み合わせであるインドレシュヴァラ神 (Sri Indresvara) を奉献したと述べている[9][10]。ジョルジュ・セデスによると、デヴァラージャ(英語版)(devarāja、神王)崇拝は、王権の正当性として神による王政という構想より成立したとするが、後の著者は、それは必ずしも統治者自体の物理的な人物の崇拝を伴わないと述べている[11][12]。 バコンは、わずか数年間、アンコールの国家寺院としての地位を享受したが、12世紀中頃[13]ないし13世紀の後の造築は、それが放棄されなかったことを証明している。9世紀末にかけて、インドラヴァルマンの息子かつ後継者のヤショーヴァルマン1世は、ハリハラーラヤから、現在アンコールとして知られるシェムリアップの北部地域に都城を移し、ここで彼はバケンと呼ばれる新しい山岳型寺院を中心に新都ヤショーダラプラ(英語版)を建てた[14]。 バコンの寺域は、東西900メートル、南北700メートルであり[2]、2つの環濠と、東から西へ向かう主軸に区切られた3つの同心の周壁(英: enclosure)より構成される。外周壁は、壁も塔門(ゴープラム)もなくなっており、その境界は今日、外側の濠が部分的に見られるのみである。国道6号 (NH6) から現行の接続する道路は、第2周壁の端につながる。内濠が区域を画し、その内側の縁に、東西350メートル、南北320メートルのラテライトの周壁[15]の跡と4つの十字形の塔門、それに広い土手道が交差して、その両脇にはナーガの欄干(英:

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生体認証 – Wikipedia

生体認証(せいたいにんしょう)とは、バイオメトリック(biometric)認証あるいはバイオメトリクス(biometrics)認証とも呼ばれ、人間の身体的特徴(生体器官)や行動的特徴(癖)の情報を用いて行う個人認証の技術やプロセスである[注 1]。 この節の加筆が望まれています。 生体認証では、通常「テンプレート」と呼ばれる情報を事前に採取登録し、認証時にセンサで取得した情報と比較することで認証を行う。単に画像の比較によって認証とする方式から、生体反応を検出する方式まで様々なレベルがある。 暗証番号、パスワードや物による認証では、忘却や紛失によって本人でも認証できなくなったり、漏洩や盗難、総当り等の攻撃によって他人が認証される虞れがある。生体情報の場合はそれらの危険性が低いと一般には考えられている事から、手軽な認証手段(キー入力や物の携帯が不要)、あるいは本人以外の第三者が(本人と共謀した場合でも)認証されることを防止できる手段として、建物などの入口、キャッシュカードやパスポート(入出国時)などの認証手段に採用されている。 しかし、広く一般に使用されるためには、怪我・病気・先天性欠損などによって生体認証ができない人々への対応も必要になる。また、経年変化によって認証ができなくなったり、複製によって破られたりする可能性がある。生体情報はパスワードのように任意に更新することができないため、一度複製により突破されてしまうと、同一の認証基盤ではもはや安全性を回復できなくなる、致命的な問題を持っている。現時点では実際に生体情報の複製や偽装に対する安全性が疑問視されている製品もある(後述のセキュリティの項を参照)。 指紋を用いたノートパソコンのユーザ認証 現在、利用件数が多いものには指紋、瞳の中の虹彩が挙げられる。金融機関がATMに採用したことで、指、手のひら、手の甲などの血管の形を読み取る静脈認証も利用件数が増えつつある。また、携帯電話(スマートフォン)にも採用されている。他にも、声紋、顔形、筆跡などによる認証が実用化されている。 認証の際には専用の読み取り機を用いて生体情報を機械に読み取らせることで、本人確認を行う。生体認証単独で用いられるだけでなく、カードやパスワードや暗証番号と組み合わせることも多い。 電算機(コンピュータ)などの利用時、あるいは電子制御された出入口に、あらかじめ登録された本人を確認する目的でなされる。 パーソナルコンピュータのログイン時に、専用デバイスを用いて指紋認証を行う。 携帯電話やスマートフォンを使用する際に、携帯電話の一部分に指を押し当てたり、虹彩認識を行って、ロック解除や決済の認証をするものがある。簡易な顔認証、音声認証は標準装備されているものがある。 銀行のATMで暗証番号と共に指ないし手のひらの静脈の形を読み取って本人確認を行う。 国や企業で、個人情報や極秘情報を取り扱う部屋に入るために網膜認証を利用している。 奈良市では、環境局において、勤務中の中抜けや勤務時間の不正申告などを防止するため、出退勤時のチェックに静脈認証を導入することを決めている。これに対し、職員の間からは「犯罪者扱いだ」などの反発の声もある[1]。 日本赤十字では、献血者の本人確認のため、指静脈認証を(2014年5月14日、北海道から順次)採用している[2]。 日本の法務省では、指紋と顔を用いた出入国管理システム「J-BIS」を日本の空港に導入している。 「インド固有識別番号庁」(UIDAI)は2010年、国民一人一人の指紋や虹彩による生体認証と組み合わせた12桁のアドハー(Aadhaar)番号の付与を開始した(国民総背番号制を参照)。全人口の9割以上をカバーしており、出生届など身分を証明する書類が不備な貧困層も社会保障など行政サービスを利用でき、不正防止や手続き効率化の効果を上げている[3]。 生体認証に利用される生体情報[編集] 生体認証への利用に適した生体情報の条件としては、「すべての人が持つ特徴」であること、「同じ特徴を持つ他人がいない」こと、「時間によって特徴が変化しないこと」が挙げられる。

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天罰発言事件 – Wikipedia

この項目では、1945年の帝国議会演説に関する事件について説明しています。東日本大震災に関する政治家の発言については「石原慎太郎」をご覧ください。 天罰発言事件(てんばつはつげんじけん)[1]、または天佑天罰事件(てんゆうてんばつじけん)[2][注 1][3]、天罰天佑事件(てんばつてんゆうじけん)[4]とは、1945年(昭和20年)6月9日に日本の帝国議会で鈴木貫太郎総理大臣によってなされた演説に不適切な語句が含まれるとして、後日の議会で議員より質問がなされ、それに対する鈴木の答弁をめぐって会議が紛糾した事件。 問題となった発言[編集] 1945年6月9日、第87回帝国議会が招集された。その目的は義勇兵役法と戦時緊急措置法の採択である[5]。議会の招集を推進した内閣書記官長の迫水久常によると、鈴木や海軍大臣の米内光政は当初開催に反対であったという[5]。迫水は、法治国家として今後新たな立法が必要となる一方、交通通信手段に対する戦争の影響で議会を開けなくなることが予想されるため、開会可能な状況で臨時議会を招集し、広範な立法権を政府に委任させるべきと考えた[5]。すでに国家総動員法で行政府に広範な立法委任が認められ、さらに大日本帝国憲法第31条においては天皇による非常大権の規定も存在したが、迫水は「法律によって議会の委任を受けるほうが、民主的である」と考えたと記している[5]。 この日午前10時30分より開かれた貴族院本会議および11時9分から開かれた衆議院本会議で、鈴木は発言を求め、戦争継続を訴える演説をおこなった[6]。その中で、鈴木は「米英の非道」に言及した文脈で以下のように発言した(原文のカタカナをひらがなとし、一部漢字をカナ表記に変更。引用部分全体では貴族院と衆議院で助詞等の細部に違いがあるが、太字の部分はまったく同一である。以下の引用は貴族院での発言)。 今次の世界大戦の様相を見まするのに、交戦諸国はそれぞれその戦争理由を巧みに強調しておりますけれども、畢竟するに人間の弱点として誠に劣等なる感情である嫉妬と憎悪とに出づるものに他ならないと思うのであります。私はかつて大正七年、練習艦隊司令官として米国西岸に航海いたしました折に、「サンフランシスコ」におきましてその歓迎会の席上、日米戦争観につきまして一場の演説をいたしたことがあります。その要旨は、日本人は決して好戦国民にあらず、世界中最も平和を愛する国民なることを歴史の事実を挙げて説明し、日米戦争の理由なきこと、もし戦えば必ず終局なき長期戦に陥り、誠に愚なる結果を招来すべきことを説きまして、太平洋は名の如く平和の洋にして日米交易のために天の与えたる恩恵である、もしこれを軍隊搬送のために用うるが如きことあらば、必ずや両国ともに天罰を受くべしと警告したのであります。しかるにその後二十余年にして米国はこの真意を諒得せず、不幸にも両国相戦わざるを得ざるに至りましたことは、誠に遺憾とするところであります。しかも今日我に対し無条件降伏を揚言しておるやに聞いておりますが、かくの如きはまさにわが国体を破壊し、わが民族を滅亡に導かんとするものであります。これに対し我々の取るべき途は唯一つ、あくまでも戦い抜くことであります。帝国の自存自営を全うすることであります。 — 鈴木貫太郎、『官報』号外1945年6月9日 サンフランシスコ訪問に関する話題は、迫水が演説原稿を起草するに先立ち、鈴木に「何か特別に仰せになりたいことはないか」と尋ねた際、鈴木が「別段、特にないが」と返答しつつ語ったエピソードであった[7][8]。迫水はこれを、鈴木が「終戦への意図の片鱗を示す一つの機会と考えて」いると解して、演説原稿の中に取り入れた[7]。6月7日の閣議で原稿を提出するとこの箇所に対して議論が起き、下村宏(国務大臣・情報局総裁)・左近司政三(国務大臣)・太田耕造(文部大臣)・秋永月三(内閣綜合計画局長官)と迫水の5人で改訂を協議することとなった[7]。その結果、「必ずや(日米)両国ともに天罰を受くべし」という文言を「天譴必ずや至るべし」と変更することでアメリカのみが天罰を受けていると解せる形への修正が決まる[7]。しかし、翌8日以降に演説原稿は元の内容に戻され、そのまま本会議で用いられた[注 2]。 会議録には両院とも、演説中に不規則発言があったという記録はなく、鈴木が「我らは速やかに戦勢を挽回し、誓って聖慮を安んじ奉るとともに、これら勇士(引用者注:将兵や英霊)に酬(むく)いんことを期するものであります。以上私の信念を披瀝しまして、諸君のご協力を冀(こいねが)う次第であります」という言葉で演説を締めくくると拍手が起きたと記されている。本会議ではこのあと、阿南惟幾陸軍大臣と米内光政海軍大臣による戦況報告に続き「陸海軍に対する感謝決議案」の採択(全会一致)、政府提出の戦時特別法案(両院で対象は異なる)の説明と、議案を審議する特別委員の選出をおこなった。貴族院では質疑や答弁はなかった。一方、衆議院では鈴木・米内・阿南の演説や議案への質疑がおこなわれ、太田正孝・森田重次郎・濱田尚友が質問に立ち、このうち濱田は鈴木が演説において世界の中で昭和天皇ほど世界平和と人類福祉を希求している者はいないとした点を、「神聖な」天皇を他の国の指導者と比較しているように見えると問題視する発言をしたが、「天罰」については言及していない[12]。迫水の戦後の回想では、ある議員は迫水に「総理の真意は判った。しっかりやってくれ」と涙ぐみながら話し、護国同志会所属のある議員は「総理はけしからぬことをいった。内閣をつぶしてやるぞ」と語ったという[7]。迫水は、護国同志会は「軍との連絡が多い立場に立っていた」と記している[5]。 議員からの質問と鈴木の答弁[編集] 会議録によると、鈴木の演説から2日後の6月11日に開かれた衆議院戦時緊急措置法案(政府提出)委員会において、質問に立った小山亮が「質問に入ります前に極めて重大なことだと考えておりますので、真面目に厳粛な気持ちでお尋ね申し上げたいことが一つあります」と前置きして鈴木の発言を取り上げ、天皇の詔勅には常に「天佑を保有し」「皇祖皇宗の神霊上にあり」といった発言があり、天佑神助を受けると確信して戦争に臨んでいる国民は「どんなことがあっても天罰を受けようなどという考えは毛頭持っておらないだろうと思う」と述べ、戦争を仕掛けた国が天罰を受けるというのを間違えたのではないか、この発言を残すのでは国民に悪い影響を与えるから打ち消すだけのご釈明を一つ願いたい、と鈴木に求めた[13][注 3]。鈴木は答弁に立ったが、後述のように後から発言を取り消したため、会議録は線が引かれているのみである[注 4]。答弁に対して会議録には「『不敬だ』『御詔勅ではないか』『委員長委員長』と呼び、その他発言する者多く聴取することあたわず」とあり、議場が騒然としたことが記録されている[13][注 5]。小山は「ただいまの総理大臣の御言葉は、そのまま聞き逃すことはできない」とし、不穏な言辞を一般国民が口にしたら刑罰を受けかねないのに、総理大臣が演説に引用してそれを問題ないと釈明するのでは国務を任せられない、国体を明徴にするため、総理の国家に対する信念を伺いたいと述べた。委員長の三好英之が質問や答弁を「相当重大なること」として、「責任ある答弁を政府に求める」ために休憩を宣言、約6時間後に再開した[13]。休憩となって国会内の控室に戻った閣僚の多くは「不敬」呼ばわりされたことで意気消沈していたが、鈴木だけは泰然とした態度をしていたという[16][17]。迫水はこの休憩中に護国同志会をはじめとする議会内各派との交渉や閣内の意見整合を図り、鈴木が発言を取り消して改めて答弁する方向での合意を得た上で再開できたと記している[18]。 休憩後、鈴木は「こと皇室に関することでありまして、非常に大切なことでありますが、言葉が足りませなんだために、大変誤解を生じましたことは、まことに恐懼いたしております」と述べて、答弁につき「全部これを取り消し」、改めて「小山の言うように戦争挑発者(米国)が天罰を受けるという意味だ」「詔勅の『天佑を保有し』という言葉は通常の『天佑神助』と異なる崇高深遠なものだというのが真意で、天罰と並べて使われるようなものではない」と釈明し、そこで再び約30分の休憩となった[13]。 再開した委員会で小山は改めて当日の自分と鈴木の発言をたどり、最初の自分の質問に対する答弁がなされない上、自分は「天佑」と「天罰」を並べて使っていないのに「並べて使ったからこういう答弁をしなければならない」と受け取れるような曖昧な答弁をするのは何事かと食い下がった[13]。小山は鈴木が取り消した発言を再度取り上げ、国体に疑念を抱かせるような発言を取り消しで済むのは問題だと述べたが、委員長の三好から「取り消した発言に議論を重ねるのは議事進行上考慮願いたい」と要求を明確にするように諭されると、「天罰と天佑を並べたと自分がどこで言ったか、という質問への答弁」だと返答した[13]。政府側が答弁しないと三好が伝えると、小山は、立法の一部を政府に委ねるような法案を出そうとしているときに国体問題すら満足に答弁できない内閣では委任できないと述べ、勝ったと言いながら敗勢濃厚になっているようなごまかしを国民は求めていない、答弁できない内閣に質問はしないとして議場を退席した[13]。 小山が所属していた護国同志会は、鈴木の演説や答弁を非難する声明書を出し、その中で「(鈴木の)不忠不義を追及し、もってかくの如き敗戦醜陋の徒を掃滅し、一億国民あげて必勝の一路を驀進せんことを期す」と記した[16][19]。 閣僚内では、議会召集に最初から反対していた和平派の米内海相は内閣を反逆者扱いされたことに怒り、議会の閉会を主張した上、議会への反発から辞意を表明した[20]。迫水によると、米内は護国同志会の罵倒のほかにも議会が法案への修正要求などによって内閣の動揺を誘っているのだから打ち切るべきだと主張し、会期延長による法案成立で閣議がまとまると「皆さん、そんならそうしなさい。私は私は私で善処する。しかし、皆さんには迷惑はかけません」と断言したことで、他の閣僚は辞意と受け止めたという[21]。大日本帝国憲法では首相に閣僚の任免権はなく、海軍大臣が辞職して後任を海軍が指定しなければ総辞職せざるを得なくなる(軍部大臣現役武官制を参照)。このため、阿南惟幾陸軍大臣や鈴木が米内を説得して翻意させ、内閣総辞職は免れた[22]。迫水の回想では阿南のほかに閣内の海軍出身者(左近司政三や豊田貞次郎、八角三郎ら)が説得に当たったが、阿南の慰留が「特に有効に作用した」という[21]。

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荒尾干潟 – Wikipedia

荒尾干潟(あらおひがた)は、熊本県荒尾市にあるラムサール条約登録地の干潟である。 有明海の中央部東側には、最大幅3.2km、長さ9.1km、面積約1656haと、日本全体の干潟面積の40%に及ぶ国内有数の干潟が広がっている。この広大な干潟の一部である荒尾干潟は、流入する大きな河川がなく、潮流によって土砂や貝殻が運ばれて堆積し、また、低潮線付近では砂が堆積し洲を形成する。比較的砂や貝殻が多く、有明海の他の干潟と比較し、泥は少なく、沿岸を普通に歩くことが出来、ぬかるむ事は少ない。ゴカイ類、貝類、小型の甲殻類が棲息している。シギ・チドリ類やクロツラヘラサギを始めとする多くの渡り鳥の中継地、越冬地として知られている。様々な生物が暮らす場であり、古くからノリの養殖やアサリ漁が盛んに営まれてきた。 かつての沿岸部は砂浜の広がった荒尾第二海水浴場があり、海水浴客のため南荒尾駅が新設され、ラジオで海水浴情報が毎日放送されるほどであったが、高度成長期の水質悪化により、海水浴場は廃止された[1]。しかし現在、水質は徐々に向上しつつある。 干潟のある荒尾海岸沿いにはおよそ2.6kmにわたって松並木が続いている。また、毎年夏には荒尾市主催のマジャク釣り大会も開催されている。 環境省に国指定鳥獣保護区特別保護地区に指定され、2012年7月、絶滅危惧種クロツラヘラサギの個体数の0.1%以上を支える湿地、ズグロカモメの個体数の1%以上を定期的に支える湿地などが登録条件を満たしたとして、ラムサール条約に登録された[2]。 荒尾干潟の生物[編集] 鳥類[編集] 渡り鳥の有数の飛来地として知られている。シギ・チドリ類は、秋から春にかけて飛来し、中継地・越冬地として荒尾干潟に滞在する。秋季にはシロチドリ、キアシシギ、ダイゼン、トウネン、ソリハシシギ、メダイチドリなど、冬季にはハマシギ、シロチドリなど、春季にはオオソリハシシギ、キアシシギ、ダイゼンなどが多く見られる。シロチドリは荒尾市に唯一繁殖する鳥であることから市の鳥に選ばれている。 2008年に環境省が実施したモニタリングサイト1000シギ・チドリ類調査(春期)では、荒尾干潟のある荒尾海岸で6492羽ものシギ・チドリ類の飛来が観察され、これは全国2位の羽数であった[3]。 そのほか、環境省のレッドリストで絶滅危惧ⅠB類に指定されているクロツラヘラサギや、同じくⅡ類のツクシガモ、ズグロカモメなど、多くの希少な渡り性水鳥とっても、大切な越冬地となっている。 底生動物[編集] 河川の運ぶ土砂には有機物が豊富に含まれており、干出と水没が繰り返される中で激しく攪拌され、絶えず巻き上げられて海水と混ざる。豊富な有機物を含んだ海水は海草や無数のプランクトンを養い、そしてゴカイ類や二枚貝などの底生生物がそれらを捕食し、さらにシギ・チドリ類などがその底生生物を捕食し、豊かな干潟は維持されている。また、底生生物の活動により水質は浄化されている。 干潟保全の取組み[編集] 民間の取組[編集] 近年、水質の悪化による赤潮などの発生や、資源の減少などで漁獲量が減少しているため、漁業組合が中心となって干潟の耕作や砂を撒くなどの再生事業を行っている。 荒尾市の取組[編集] 荒尾市では、荒尾干潟がラムサール条約に登録された7月3日を記念し、この日を「荒尾干潟の日」と制定。市では、「荒尾干潟の日」を中心に、干潟の重要性の普及啓発や環境保全活動等に取り組んでいる。 熊本県の取組[編集] 熊本県は、「くまもと・みんなの川と海づくりデー」を制定し、毎年8月に有明海・八代海再生に向けた県民運動の一環として、県や市町村などが主催し、住民や漁協、企業などと協働して川や海を一斉清掃する活動を行っている。 交通アクセス[編集]

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工藤高景 – Wikipedia

工藤 高景(くどう たかかげ)は、鎌倉時代後期の武士。北条氏得宗家被官である御内人。 父母は不明とされていた[1]が、近年の研究では奥州工藤氏の一族・工藤貞祐の子とする説が提示されている[5]。 諱の「高」の字は北条高時より偏諱を受けたものとされ[7]、高時が得宗家当主であった期間(応長元年(1311年)- 元弘3年/正慶2年(1333年))に元服を行ったものとみられる。『御的日記』の元亨元年(1321年)条にある「工藤左衛門次郎高景」が史料における初見とみられ[8]、この頃には元服を済ませているものと思われる。 元亨元年(1321年)『御的日記』にある「工藤左衛門次郎高景」。 – 史料における初見。 元亨2年(1322年)『御的日記』にある「工藤左衛門次郎高景」。 元亨3年(1323年)『北条貞時十三年忌供養記』にある「工藤二郎左衛門尉」。 正中元年(1324年)9月24日 『武家年代記』:正中の変を受けて、日野資朝と日野俊基の捕縛をすべく「諏方三郎兵衛」とともに東使として上洛した「工藤右衛門二郎」 。 嘉暦3年(1328年)『御的日記』にある「工藤次郎左衛門高景」。 元徳3/元弘元年(1331年)7月 『太平記』巻第2:元弘の乱で再び捕らえられた日野俊基の処刑の際(1332年6月3日)に斬首の奉行を務め、俊基の家人・後藤助光と会うことを許可している「工藤二郎左衛門尉」。 元弘2/正慶元年(1332年)1月 『太平記』巻第4:東使として二階堂信濃入道行珍とともに上洛した「工藤二郎左衛門尉」(※史実ではないとされる[8])。 元弘2/正慶元年(1332年)9月20日

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ユーリ・メッセン・ジャシン – Wikipedia

ユーリ・メッセン・ジャシン (写真 Erling Mandelmann 1981) ユーリ・メッセン・ジャシン(Youri Messen-Jaschin、1941年1月27日 – )は、ラトビア系の美術家で、スイスのアローザに生まれる。彼の作品はしばしば油絵とグワッシュの組み合わせである。彼の得意な色彩は強い赤、黄色、緑、青である。彼はボディペインティングも作成し、作品をナイトクラブなどで出展した。 1958年から1962年まで、パリにおいて、彼はパリ国立高等美術学校で(ロベール・カミ(フランス語版)教授に師事)とソルボンヌの社会科学分野(ピエール・フランカステル教授、芸術史)の高等研究実習院で美術を専攻した。 1962年から1965年まで、彼はローザンヌ州立美術学校へ進み、彫刻家で画家であるアーネスト・ピツォティと共同制作した。1964年、彼のキネティック・ガラスとアクリル彫刻のローザンヌでの出展。ジュネーブの現代彫刻センターで2年間働き、その後チューリッヒで働き、画家フリードリッヒ・クーンと共に顔の円形を描くことに経験を積み絵画的遠近法を拡張した。1968年から1970年まで、ヨーテボリの設計工芸大学(Högskolanför Design och Konsthantverk, HDK)に於いて代理として勤務し、織物のキネチックオブジェの研究を制作した。1967年、展覧会で彼はヘズス・ラファエル・ソト(Jesús-Rafael Soto)、カルロス・クルース・ディエス(Carlos Cruz-Diez)、フーリオ・ルパルク(Julio Le Parc)と出会う。これらの芸術家と話しているうちに、彼は光学美術にすっかり魅了されているとに気がつき、彼の研究をすべてキネチック美術に傾注することに決意した。ゲーテボルグに長期間滞在することにより、動きと幾何学的形状に関して彼の思考は絶えず進化し、それらを彼の織物と油絵に一体化するに至った。彼の光学的美術に関する研究はスカンディナビアのこの地方で大きな影響を及ぼした。 1968年に、ユーリはスイス近代彫刻美術で第一位の賞を受賞した。同年、かれはスウェーデン政府の奨学金を受けた。1970年代は彼はハンブルクに滞在し、北ドイツの芸術家と共に継続的創作に従事し、異なった不朽の業績となったプロジェクトで共同作製した。1970年に、彼はドイツの黒い森の近くのアイシュテッテンでのグールドのためのキネチック彫刻を創作した。

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複線索道 – Wikipedia

複線索道(英: Bicable gondola lift、独: 2S-Bahn、仏: Téléphérique 2S)とは、搬器の重量を支える支索と、移動に使用する曳索が別れている方式の索道である。 鉄道における複線とは意味合いが異なり、上り用と下り用に索条が分離されていることを指すものではない。 システムの概要[編集] 支柱上の複線索道の搬器(韓国・統営ケーブルカー) 駅の乗降場での搬器(韓国・統営ケーブルカー) 複線索道は、交走式と循環式の要素を併せ持つ。2つの索条は曳索と支索があり、支索は一方の駅に重りによって固定され、もう一方の駅において重り、または油圧装置によって一定の張力に保たれる[1]。 索道の支柱では、支索はグリースを塗った受索装置のサスペンション溝に置かれ、重量と温度変化による伸縮に対応出来るよう、前後に移動可能になっている。曳索は単線のゴンドラリフトと同様に継ぎ目が無いように結索(wikidata)され、常に同じ方向に向かって移動する。曳索は支柱の受索装置を通過する。支柱は種類に応じて、受索装置がどの部分に取り付けられても、搬器が通過できる構造になっている。 搬器は通常、支索上で4つのローラーで構成され、通常はそのうちの1つ、または2つが曳索に接続されている。 駅では、搬器は曳索から切り離され(放索)、場内レールに移動し、タイヤ減速機によって減速させられる。そして駅への進入後は単線索道と同様に自動で扉が開き、駅の乗降区間を通過する。乗降区間の配置は、設置場所ごとに異なる。乗降場を通過後は扉を閉めた後に再加速し、反対方向に搬送ケーブルに駆動され、結合点で曳索を握索する。握索地点では、曳索を摩耗させないためには、握索ができるだけスムーズに行われることが重要となるため、一定の速度で駅の場内レール上を走行出来るようになっている。ただ曳支索の摩耗は他の箇所や、さまざまな速度で運行されているときにも発生するため、最新のシステムでの加減速は機械制御でなく、電子制御で実施して更に摩耗を抑制できるようになっている。 単線索道に対する最も重要な利点は、支柱間の間隔距離を長くとれる点である。このように見ると、複線索道は交走式ロープウェーの長スパンと循環式ゴンドラリフトの高い輸送能力という両方の利点を兼ね備えており、複線索道はより大型の搬器と高速性を持たせての稼働が可能となっている。 ヴァールマンスバーガー・システム(スイスのアローザ・ヘルンリー・ゴンドラリフト、1963年-1987年) 貨物輸送に使用された第一世代の貨物索道(英語版)は、ロープの製造技術がまだ未熟で耐久性能が不足していたため、ほとんどがその欠点を補える複線索道で建設されることとなった。この方式は、アドルフ・ブライヘルトが1872年から導入し、ドイツのシステムとして知られるようになった複線貨物索道が原型とされている。オーストリアでは、ゲオルグ・ヴァールマンスバーガーによってアドルフ・ブライヘルトの貨物索道はさらに改良された。ゲオルグ・ヴァールマンスバーガーの開発したヴァールマンスバーガー・システム(ドイツ語版)では、1950年代以降に様々な場所が採用された。だが、ロープの性能が向上するにつれて単線索道の方が安価となり、複線索道は一時減少傾向となる。だが、複線索道が持つ高い輸送能力を求める需要増加により、近年再び採用され始めている[2]。 ^ “複線自動循環式普通索道”.

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FCヴァッカー・インスブルック – Wikipedia

FCヴァッカー・インスブルック 原語表記 Fußballclub Wacker Innsbruck クラブカラー 黒・緑 創設年 2002年 所属リーグ オーストリア・ブンデスリーガ2部 所属ディビジョン 2部 ホームタウン チロル州インスブルック ホームスタジアム ティヴォリ・シュターディオン 収容人数 17,400 代表者

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古賀林幸 – Wikipedia

古賀林 幸(こがばやし さち、1952年 – 2018年12月27日)は、日本の翻訳家。 津田塾大学英文科卒。ボストン大学大学院修士課程修了。中央公論社、米国大使館広報局などを経て恵泉女学園大学特任教授[1]。 ロバート・ショーンバーグ『ジェニーン ITT王国を築いた男 挑戦の経営』角間隆共訳 徳間書店 1987 カーター・ラトクリフ『アンディ・ウォーホル モダン・マスターズ・シリーズ』日向あき子共訳 美術出版社 1989 フレイダ・フェルドマン,イヨルグ・シェルマン編『アンディ・ウォーホル全版画 カタログ・レゾネ 日本語版』美術出版社 1990 ミチコ・カクタニ『仕事場の芸術家たち』中央公論社

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