Month: March 2019

千葉県第4区 (中選挙区) – Wikipedia

千葉県第4区(ちばけんだい4く)は、かつて存在した衆議院の選挙区。1975年の公職選挙法改正により新設された選挙区で、それまでは1区の一部だった。 1992年(平成4年)の公職選挙法改正当時の区域は以下のとおりである(定数5)[1]。この区域は、現在の小選挙区では5区・6区・7区・8区の全域と、13区の一部となっており、小選挙区の4区とは関係が無い。 1986年(昭和61年)の公職選挙法改正当時の区域は以下のとおりである(定数4)[2]。 市川市 松戸市 野田市 柏市 流山市 我孫子市 鎌ヶ谷市 浦安市 東葛飾郡 1975年(昭和50年)の公職選挙法改正当時の区域は以下のとおりである(定数3)[3]。 市川市 松戸市 野田市 柏市 流山市 我孫子市 鎌ケ谷市

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ジャンパー (衣服) – Wikipedia

ジャンパー(英: jumper)は、ゆったりとした活動的な上着全般、遊び着、仕事着、作業着、運動着、防寒着などを指して用いられる[1]。ジャンバーは本来誤読であるが日本語における訛りとしてしばしば使われる。 作業着タイプのジャンパーの裾にたるみを入れて絞ったもの、およびジャンパーの中でもファッション性の高いものを指してブルゾン(仏: blouson)と呼ぶ[2][1][3]。 日本語のジャンパーに相当する英語は、ジャケット(英: jacket)またはジップアップジャケット(英: zip-up jacket)、スポーツ用はウィンドブレーカー(英: windbreaker)である[4]。 アメリカ英語でjumperはジャンパースカート、イギリス英語ではセーターとカーディガンを指す[5]。 元々は主に運転手、水夫などの職種の者が着用した上着丈のジャケットやシャツの呼称[2]、またはエスキモーが着用したフード付き毛皮ジャケット[2]、または胴体部分とスカート部分が一体化した上着であるジャンパースカートを指す単語である[2]。 現代では丈は腰程度までの上着で前をファスナーやボタンで留めるもの、またはプルオーバータイプ、袖なしのもの、および短い袖のついた胴着をもジャンパーに含まれる[3]。 17世紀頃に存在したカートルという衣服が部位ごとにジャケット、ボディス、チュニックなどといった別衣類として分かれ、そのうちジャケットを特に指してジュープ(英語版)と呼称していたものがジャンプに変化し、更にジャンパーの呼称に変化したと考えられている[2]。また、別の資料によれば19世紀半ば頃の作業着から発展したとの説もある[6]。 1920年代には婦人服の上に羽織るブラウスの形でジャンパーの呼称を持つものが流行した[2]。 ^ a b ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典. “ジャンパー

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名古屋市教育会 – Wikipedia

名古屋市教育会(なごやしきょういくかい)は、「本市教育の改良を図る」目的で1881年に設立された任意団体[1]。 市独自の組織で、国公立の幼稚園や小学校、中学校、高等学校、特別支援学校の保護者や教職員から、教育会の「年会費」名目で1口100円で5口以上の協力を求めている[2]。 戦前においては、地図の編纂[3][4][5]、図書館の運営なども行っており、名古屋市の地域性に依った伝統のある団体である。 1881年(明治14年) – 名古屋区内の教育に関することを取り扱う会として名古屋区教育会が設立される。 1888年(明治21年)5月 – 名古屋市の監督下から離れた私立の教育会としての名古屋市教育協会と改組される。 1899年(明治32年) – 名古屋市長をはじめ、市会議員・学務委員・県教育関係者有志により、中京教育会の設立が図られるが、不成立に終わる。また、市教育関係者により、これとは別に金城教育会が成立する。 1900年(明治33年)5月 – 小学校長会において、市助役が官民合同による教育会を提言する。 1900年(明治33年)7月25日 – 南伊勢町143番戸において、名古屋市教育会が創立される。 1902年(明治35年) –

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Bloom Energy Japan – Wikipedia

Bloom Energy Japan株式会社(英: Bloom Energy Japan Ltd.)は、K. R. Sridharが設立した米国のBloom Energy CorporationとソフトバンクグループのSBパワーマネジメントの折半出資子会社。燃料電池Bloom Energy Serverから発電される電力を販売している。親会社の一つソフトバンク孫正義社長は「システムを買う必要はない。システムにかかるコストや変動するガス料金のリスクはわれわれが吸収して25円で提供することをコミットする」と紹介している。[2] Bloomエナジーサーバー[編集] 都市ガスや天然ガスやバイオガスを燃料とするSOFCであり、定格発電効率(LHV)は60%を超えるが排熱を更なる化学反応に利用するため他で加温利用できないモノジェネレーション型である。[3] 発電効率では日本で普及しつつある家庭用燃料電池コジェネ型エネファームのLHV約40%に対して高効率。[4](ただしエネファームは排熱を加温利用できるため総合LHVは約90%となる上、業務用と家庭用の差異があるため一概に優劣はない。)従来の燃料電池に用いられてきたPEFCでは触媒としてプラチナが必須であり高コストであった。触媒に酸化ジルコニウムを用いる事ができる[5] SOFCの実用化は1980年代後半よりウェスティングハウス・エレクトリック等により研究が行われ期待されていたが、800度の高温維持による構成材料コスト増や耐久性低下問題に阻まれてきた。しかしエナジーサーバーはブレイクスルーにより課題を克服し大幅なコストダウンを可能にしたとされる。[6][7] PEFC型やSOFC型国産製エネファーム2011年モデル(0.7kW・270万円)と2010年に発表されたES-5000エナジーサーバー(100kW・1台70万〜80万ドル『80円換算で5600万円〜約6400万円』)のkW単価を比べると国産製386万円/kWに対してエナジーサーバー56〜64万円/kWと価格面で優位に立つ。2012年の時点でBloom Energy Corporationは「家庭用として1kW程度のシステムを3000米ドル(24万円)以下の価格で今後5〜10年の間に提供したい」と意欲を見せている。[8]

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コレオプター – Wikipedia

コレオプター(coleopter)は胴体がダクテッドファンの内部に備えられる垂直離着陸機の形式。一般的に大きな樽のような形状が後部に延長され、小型の操縦席がそこから前にある。コレオプターは一般的にテイルシッターでもある。語彙は1950年代にフランスで最初に開発されたC450 コレオプテールで甲虫を意味するcoléoptèreに由来する。 最初にコレオプターの概念の設計を明確に使用した航空機は第二次世界戦中に開発された。1944年からドイツ空軍は常に航空基地を爆撃に晒され続けており大規模な作戦に対処する事は困難だった。そこで滑走路の不要などこからでも離着陸が可能な垂直離着陸迎撃機の導入が提案され多くの提案はこのようなシステムだった。ハインケルはハインケル・ヴェスペやハインケル・ラーチェの一連の設計の一環として調査した。ヴェスペはベンツ製の2000馬力のターボプロップエンジンを搭載する予定だったが、実現せず、ラーチェは代わりに2基のダイムラー・ベンツ DB 605レシプロエンジンを搭載する予定だったが、実現しなかった。 第二次世界大戦後、VTOLの研究はヘリコプターが中心になった。しかし、単純な回転翼の限界が明らかになり、他の解決策が模索され、多くはジェットエンジンを直接垂直の推力に使用する方法に切り替えられた。スネクマは1950年代にAtar Volantシリーズの一環として一連の開発を行った。さらに改良された設計のためスネクマとノール・アビアシオンは環状翼を備えたC.450 Coléoptèreを開発した。Coléoptèreは first flew on 6 May 1959年5月6日に初飛行したが7月25日に墜落して更新されなかった。試験した時点ではエンジンの角運動量に関連する複数の深刻な問題で操縦は困難だった。 アメリカではヒラー・ヘリコプターでCharles Zimmermanによってダクテッドファンを備えた複数のプラットホームが設計された。幾つかの初期の成功後、陸軍は機体の大きさと重量を増やすように要求したところ、安定性の問題が新たに生じた。これらは修正するためには一般的により大きさと出力を必要としたが設計は不十分だった。代わりにヒラーは海軍に完全なコレオプターの設計の概念を製造を持ち掛けた。これはスネクマの設計に酷似するヒラー VXT-8として実現したがジェットエンジンの代わりにプロペラを備えた。しかし、UH-1のようなレシプロエンジン式よりも著しく性能が向上したタービン式のヘリコプターが導入されたために海軍は予想された性能が幾分優れていたにもかかわらずVXT-8への関心を失い、実物大模型のみが完成した。 コンベア社はAdvanced Aerial Fire

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平成16年台風第18号 – Wikipedia

平成16年台風第18号(へいせい16ねん たいふう だい18ごう、アジア名:ソングダー[2])は、2004年8月に発生し、日本に大きな被害を与えた台風である。後に激甚災害に指定された。 2004年8月28日9時に、マーシャル諸島近海で発生した台風18号は、当初は中国大陸に進むと予想されていたが、太平洋高気圧の衰退により日本の南海上を北西へ進み、9月5日に大型で非常に強い勢力で沖縄本島の北部を通過。沖縄県名護市では最低海面気圧924.4hPaを記録した。6日には1991年の台風19号に匹敵する勢力となって九州地方北部に上陸する進路が濃厚となり、マスコミも大きく報道した。その後、東シナ海を北上して北東に進路を変え、7日9時半頃に強い勢力で長崎県長崎市付近に上陸し九州地方北部を横断した。7日午後には山陰沖に達し、速度を速めながら日本海を北東に進んだ。そして8日朝には、暴風域を伴ったまま北海道の西海上を北上し、同日9時に温帯低気圧に変わった。温帯低気圧になった後もなお、発達しながら暴風域を拡大し、宗谷海峡に達した[3]。 この台風の進路は、平成3年台風第19号と酷似しており、北海道に再発達して近づき、大きな被害を出した点は1954年の洞爺丸台風との類似が指摘される。しかもこの台風は「風台風」であったという点も、前述の洞爺丸台風等との共通点である[4][5]。 広島県広島市で60.2m/s、北海道札幌市で50.2m/sなど、沖縄地方や九州地方、中国地方や北海道などでは、これまでの記録を更新する最大瞬間風速50m/s以上の猛烈な風を記録した。また、九州地方の一部では900mmを越える大雨となった。さらに、瀬戸内海沿岸、西日本から北日本にかけての日本海側沿岸などで高潮が発生している[3]。 この台風により、各地で建物の損壊や倒木被害が発生し、転倒や飛散物の落下により多数の負傷者が出た。また、西日本では船舶の乗揚げ事故が相次いだ[3]。 気圧の経過[編集] ※時間はすべて日本標準時(JST)。 8月28日 09:00 998hPa (発生) 8月29日 09:00 980hPa 8月30日 09:00 975hPa 8月31日

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アウミール・モライス・アンドラーデ – Wikipedia

この名前は、ポルトガル語圏の人名慣習に従っています。第一姓(母方の姓)はモライス、第二姓(父方の姓)はアンドラーデです。 アウミール・モライス・アンドラーデ(Almir Morais Andrade, 1973年5月11日 – )は、ブラジル・ミナスジェライス州ラヴラス出身の元プロサッカー選手。現役時代のポジションはポジションはミッドフィールダー。 ボールキープ力と相手をマークする運動量が特徴のミッドフィールダー。 1998年夏に再訪日し、大塚FCヴォルティス徳島に復帰。長い脚を活かしたドリブルと[5]左足からの長短自在のパスで攻撃を掌握する絶対的な存在として活躍し[6]、同年の東京ガスFC戦では磯山和司の決勝点をアシストした。この試合の好プレーぶりが評価され、翌1999年にFC東京(東京ガスから改称)へ移籍。ボランチでゲームメイクを任されたが、ボール捌きに秀でた一方で、守備ではボールを追い掛け回してバランスを崩すことがあったため[6]、トップ下へとポジションを移すこともあった。 2000年からはコンサドーレ札幌へ期限付き移籍。チーム事情から攻撃面での仕事を求められたり、適任者が不在の場合にサイドのポジションを与えられたりと「中盤のなんでも屋」としての起用が多かった。チーム内で信用できるブラジル人選手に多くパスを出し、近くに日本人選手しかパスの選択肢がない場合には自分でドリブルでボールを持ち続けてしまうため「糸の切れた凧」との異名もつけられた。 JFLやJ2で”発展途上”の状態にあったチームではレギュラーとしてチームを支え「昇格請負人」ともなったが[5]、J1に昇格すると監督やフロントから力不足と判断される事が多く、トップカテゴリーであるJ1での試合出場は少なかった。敬虔なクリスチャンで[5]、静かで真面目な性格はファンから親しまれた。 2001年8月に札幌から突如解雇されたため[7] ブラジルへ帰国した[8]。 現役を引退した後は、U-19南ミナスカップ(Taça Sul Mineira de Futebol Sub 19)の創設や[9]、同郷のアレモン、カサッパらと共にラヴラス市立大学(ポルトガル語版)(UFLA)

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友近・礼二の妄想トレイン – Wikipedia

回 放送日 放送内容 ゲスト 28 1月4日 新春2時間SP!山陽山陰をめぐる出雲初詣の旅 石原良純、YOU 29 1月18日 特別編・あの観光列車に試乗&車両チェックに密着 伊藤壮吾、南田裕介 30 2月1日 お座トロ展望列車で行く福島・会津グルメ旅 秋吉久美子、土屋礼央 31 2月8日 北海道・道南いさりび鉄道で行く津軽海峡冬景色の旅 香西かおり、徳永ゆうき

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オーランド・プライド – Wikipedia

オーランド・プライド (英語 : Orlando Pride) は、アメリカ・ フロリダ州オーランドをホームタウンとする女子のプロサッカーチーム。2016年にアメリカ女子サッカーの最高峰であるNWSLに新規参入した。[1][2] MLSに所属するオーランド・シティSCの系列チーム。 [3] 2016年4月23日に行われたホーム開幕戦でNWSL記録となる23,403人の観客を集めた。 NWSLの2015年のシーズン終了後、オーランド・シティSCのオーナーグループがNWSLに新チームを創設して参入するのではないかという噂が出ていた[4]。その後、2015年10月20日にレイク・エオラ・パークでチーム創設の記者会見が開かれ、オーナーであるフィル・ローリンスがチーム名とチームロゴ、チームカラーを発表した[5]。初代監督には元サッカーオーストラリア女子代表、サッカーアメリカ女子代表監督のトム・サーマンニが就任した[6]。 2015年10月26日、オーランド・プライドはクラブの歴史における最初の獲得選手を発表した。プライドはポートランド・ソーンズFCとのトレードで、アメリカ代表のFWアレックス・モーガンとサッカーカナダ女子代表のカイリン・カイルを、2015年NWSL拡張ドラフトと2016年NWSL学生ドラフトの1巡目指名権、2016年と2017年の外国人枠との交換で獲得した。またFCカンザス・シティとのトレードでサラ・ハーゲンと2016年NWSLドラフト2巡目指名権を、2017年学生ドラフト2巡目指名権との交換で獲得した[7]。 チーム名、チームロゴ、チームカラー[編集] 2015年10月20日、オーランド・プライドの創設者であり代表であるフィル・ローリンスによってチーム名が発表された。彼はチーム名について「ライオンズ・ファミリーとの確固たる結びつきを意味するとともに(「ライオン」はオーランド・プライドの所属するクラブ:オーランド・シティSCの象徴である)、私たち皆がオーランド市に感じていることを表している」と述べた[5]。チームカラーは紫と水色。チームロゴはレイク・エオラ・パークにある有名な噴水のイラストがあしらわれている[8][9]。 スタジアム[編集] オーランド・プライドは2016シーズンは男子チームのオーランド・シティSCと同様にキャンピング-ワールドスタジアムをホームスタジアムとして使用している。また、2016年に建設予定のサッカー専用スタジアム「オーランド・シティ・スタジアム」が男子チームと同様に新ホームスタジアムの候補になっている。[10] キャンピング-ワールドスタジアム(以前のオーランドスタジアム)は、オーランド・ダウンタウンに所在する屋外スポーツスタジアム。 スタジアムの収容人数は60,219人。 スタジアムの競技台表面はサッカーの国際試合で使用するのに十分な大き差を備え、 1994年のFIFAワールドカップで使用された。 1996年のオリンピックでも、男子、女子両方のサッカーの試合が行われた。[11] 最初のチーム名簿[編集] 2016年5月28日現在

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源氏長者 – Wikipedia

源氏長者(げんじのちょうじゃ)は、源氏一族全体の氏長者の事を指す。原則として源氏のなかでもっとも官位が高い者が源氏長者となる(現任上首)。源氏のなかでの祭祀、召集、裁判、氏爵の推挙などの諸権利を持つ。一般的には、奨学院・淳和院の両別当を兼任するといわれているが、自身も源氏長者だった北畠親房の『職原鈔』によれば、奨学院別当のみでも要件を満たし、その場合、次席が淳和院別当となると解説している。 源氏長者は、当初は嵯峨源氏から出ていた。初代は左大臣・源信とされているが、淳和院への別当設置と奨学院そのものの設置はともに元慶5年(881年)のことであり、当時の嵯峨源氏及び源氏全体の筆頭公卿であった源融またはその子の源昇が両院別当と源氏長者を兼ねた最初の人物であったと推定されている。もっとも、奨学院自体は皇別氏族全体の施設でありその別当は源氏長者のそれとは異なり、平氏や在原氏などを含めた全体の長者であった可能性もある。つまり源氏長者と奨学院別当及び淳和院別当の同一性は必ずしも保持されていなかった可能性もあることになる(なお、『姉言記』(文治4年6月30日(1188年7月25日)条)には源通親の話として過去に源氏を外祖父に持つ者が院別当(両院もしくは奨学院)に補された例があり、代表例として藤原扶幹や藤原行成らを挙げている。彼らが源氏長者を兼ねていた可能性もあるが明証は無い)。更に当初の源氏長者は嵯峨源氏の公卿に限定されており(『西宮記』巻13)、嵯峨源氏最後の公卿である源等までは同氏が独占していた(ただし、途中に藤原扶幹の院別当兼務期を挟む)。その後、嵯峨源氏を外祖父とする重明親王及び源高明(醍醐源氏)が源氏長者に任じられた。以後は源高明に代表される醍醐源氏と源雅信に代表される宇多源氏がかわるがわる補任された。 やがて村上源氏の源師房(関白藤原頼通養子)が源氏長者となり、以後は村上源氏のなかでも師房子孫の嫡流とされた源雅定の子孫に継承され、久我・堀川・土御門・中院の四家から選ばれることとなった(例外として、源通親の没後に弟の唐橋通資・雅親親子が任じられた例や亀山天皇の時代に久我通光の子・中院雅忠(中院家とは別家)が任じられた例、四家に適任者がいないという理由で後醍醐天皇の時に中院家の分家である北畠家の北畠親房が、同じく光明天皇の時に久我家の分家である六条家の六条有光が任命されている)。正応元年(1288年)に久我通基が初めて源氏長者宣下を受ける(宣下手続の始まり)。南北朝時代に入ると、北畠親房や六条有光の任命に危機感を抱いた久我長通は村上源氏の嫡流として久我家が源氏長者としての正統性を有することを訴える政治工作を図った。そして、正平一統とその後の後光厳天皇擁立が源氏長者の地位にも影響を与えることになる。久我長通・通相父子は最初のうちは南朝に従う姿勢を見せていたが、後光厳天皇践祚後は一貫して北朝側にあった。これに対して中院通冬と六条有光は北朝方に帰参する時期を逸して、中院・六条両家は北朝・室町幕府から冷遇されることになる。また、堀川・土御門両家は同じ時期に当主の早世が続き、北朝への忠節を示す機会に恵まれなかった。その結果、室町時代に堀川・土御門・六条の諸家は断絶し、中院家は長期の衰退を余儀なくされる。それにより、朝廷(北朝)への“不忠”を唯一免れた久我家の当主による現任上首の独占、ひいては源氏長者独占が確立した。 武家源氏で源氏長者となったのは、清和源氏の足利義満が最初であり、足利将軍家と徳川家康に始まる徳川将軍家(清和源氏の新田氏の流れを汲むと自称)は武家のまま源氏長者になっている。ただし、義満以後、源氏長者に就任した足利将軍は義持・義教・義政・義稙の計4名、長者の宣旨を受けなかった事実上の長者(淳和奨学両院別当のみ務めた。ただし、宣旨を受けたとする説もある)義尚を含めても5名であり、実態としては清和源氏足利家と村上源氏久我家が交替で務めており(在任は前者の方が長い)、他の源氏系公家の就任を排除することになった。戦国時代に入ると再び村上源氏久我家から源氏長者が任ぜられている。この背景としては足利将軍の地位が不安定となり、官位の昇進が停滞したことや公家社会との関係の希薄化によって足利家の源氏長者への関心が低下したことがあったとみられている。徳川家康以降は、源氏長者は徳川家が独占した。ただし、岡野友彦は、幕末維新の混乱期に一時久我建通が源氏長者となったのではないかと推測している。 律令制度が崩壊した後の「源氏長者」は源氏のなかの最高権威に過ぎなかったが、徳川家康はその権威に着目し、藤原姓を源姓に改め征夷大将軍と源氏長者を一身に兼ねることにより日本国王に相当する権威を手に入れて公家と武家の掌握に利用した、という足利義満=日本国王論に依拠した説がある(岡野友彦)が、通説とはなっていない。 参考文献[編集] 竪月基 「鎌倉・南北朝期の源氏長者」『日本歴史』第610号、平成11年(1999年)3月。 岡野友彦 『中世久我家と久我家領荘園』 続群書類従完成会、平成14年(2002年)10月。 ISBN 978-4-7971-0738-8 第一編第一章「源氏長者の淵源について 」初出:『國史学』第149号、平成11年(1999年)3月。 第一編第二章「中世前期の「久我家文書」と久我家の歴史」(改題:「中世前期の久我家と源氏長者」)初出:『國學院大學図書館紀要』第1号、平成元年(1989年)3月。 岡野友彦 『源氏と日本国王』 講談社〈講談社現代新書〉、平成15年(2003年)11月。ISBN 978-4-06-149690-3 松永和浩 「源氏長者独占体制の成立過程」『室町期公武関係と南北朝内乱』 吉川弘文館、平成25年(2013年)2月。

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