Month: November 2019

ジョゼフ・モニエ – Wikipedia

ジョゼフ・モニエ[1](Joseph Monier. 1823年11月8日-1906年3月13日)は、鉄筋コンクリートを考案したことで知られるフランスの庭師[2][3]。 鉄筋コンクリートはさまざまな人物によって徐々に確立されていった技術であり、誰か一人に「発明」を帰することはできないが、その考案者の一人として必ず名前があがる人物である[4]。 モニエの若いころのことは詳しく伝わっていない。モニエは1823年に南フランスにあるニーム近郊のサンカンタンラポテュリ(Saint-Quentin-la-Poterie)で生まれた[4][注 1]。モニエは10代でパリに出て庭園師として働きはじめた[4]。 鉄とコンクリートの組み合わせの考案[編集] 金網を入れた植木鉢の考案[編集] 当時の園芸用の植木鉢類は、もっぱら伝統的な陶器(粘土を焼いたもの)で作られたものが普及していた。これに新しい変わり種としてコンクリート製の植木鉢も出回るようになっていて、目新しさからそれなりに人気があった[4]。 しかしコンクリート製植木鉢は不便だった。分厚いコンクリート製の鉢は重すぎて容易には動かせず、堅い割にはよく壊れた[4]。 モニエは薄くて丈夫な植木鉢を求め、コンクリートの鉢の改良に取り組んだ。 そして1849年に、金網にセメントを流し、補強したコンクリート鉢をつくるという発想に到達した[4][5]。モニエははじめ、凍結しても割れない水道管の材料を探しているうちに、コンクリートに金網で補強することに行き着いたと言う[6]。 それよりも以前から、鉄骨をコンクリートで被膜する工法が知られていたが、これは建築物の耐火性を高める目的で行われており、強度を高める目的で鉄とコンクリートを組み合わせたのはモニエの植木鉢が最初だと考えられている[4]。 パリ万博への出展[編集] モニエは1867年のパリ万国博覧会に金網入りの植木鉢を出品した[7]。7月16日にはシュロを植えるための「鉄で強化した園芸用の桶」で最初の特許を取得した[8][5][9]。これによってモニエの手法は世間に広く知られることになった[4]。 モニエは鉄網入りのセメント材の用途を次々と考案し、さまざまな特許を取得していった。「管と鉢」(1868年)[4]、「建物の外装用の羽目」(1869年)[4]、「橋」(1873年)[4]、枕木(1877年)[5]、「梁」(1878年)などである。1875年には、モニエの設計によって、シャズレ城 (Château de Chazelet) に世界初の鉄筋コンクリート製の橋が架けられた[4][10]。モニエはほかにもさまざまなものに鉄筋コンクリートを使用する奇抜なアイデアを出し、「鉄筋コンクリート製の棺」まで考案した[6]。1880年には鉄筋コンクリートの耐震家屋を試作するに至っている[5]。

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ペンは剣よりも強し – Wikipedia

「ペンは剣よりも強し」の言葉を残したエドワード・ブルワー=リットン。しかしいまの用法はリットンの意図したところではない[1]。 ペンは剣よりも強し(英: The pen is mightier than the sword 羅: Calamus Gladio Fortior)は、「独立した報道機関などの思考・言論・著述・情報の伝達は、直接的な暴力よりも人々に影響力がある」ということを換喩した格言である。 『リシュリューあるいは謀略』の初版本の表紙。 先行して似たような考えは様々な形態で表現されてきたが、文章としては英国の作家エドワード・ブルワー=リットンが1839年に発表した歴史劇『リシュリューあるいは謀略(Richelieu; Or the Conspiracy)』[2][3]で作り出された[補足 1]。題材を17世紀フランス王国の宰相リシュリューにとってはいるものの、史実をある程度脚色したことをブルワー=リットンは前書きで断っている。 「日付やディテールについては(……)勝手気ままというわけではないが、多少自由にいじらせてもらった」[2]

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こしだミカ – Wikipedia

こしだみか こしだミカ 生誕 日本大阪府大阪市 職業 絵本・造形作家 著名な実績 2017年「プラティスラヴァ世界絵本原画展(BIB)」に「でんきのビリビリ」(そうえん社)入選、2009年「プラティスラヴァ世界絵本原画展(BIB)」に「ほなまた」(農文協)入選 代表作 『アリのさんぼ』(架空社)『ほな また』(農文協)『くもの もいち』『いたちのてがみ』(福音館書店)など。 公式サイト http://damica.net/ こしだミカ(1962年[1]-)は日本の絵本作家、造形作家である。著書『アリのさんぼ』(架空社)『ほなまた』(農文協)『くものもいち』『いたちのてがみ』、共著に『ナマコ天国』(偕成社)がある。 大阪市出身。 20歳の頃から絵を描き始める。就職先は絵以外の仕事を選んだものの務まらず[1]、30代の頃に図書館で懐かしい絵本に出会ったことをきっかけに、絵本作家を志す。 絵本の学校には通わず、図書館や絵本の読める場所を利用し、独学で絵本を学ぶ。 2001年、千駄ヶ谷にあるギャラリー・エフにて初個展を開催する。 個展での出会いをきっかけに2005年には初の絵本『アリのさんぽ』を出版する。 著書[編集] 『ひげじまん』(2019年、小学館)ISBN 9784097267447

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Mr.FULLSWINGの登場人物 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “Mr.FULLSWINGの登場人物” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2009年10月) Mr.FULLSWINGの登場人物(ミスターフルスイングのとうじょうじんぶつ)は、『週刊少年ジャンプ』(集英社)に連載されていた鈴木信也の漫画『Mr.FULLSWING』に登場する架空の人物及び学校の一覧である。 なお、声はドラマCD[1] におけるキャストである。 埼玉県立十二支高校[編集] 作中における主な舞台となる十二支校野球部を擁する公立高校。20年前、村中紀洋率いる野球部が夏の甲子園3年連続優勝という輝かしい実績を遺したにもかかわらず、現在は弱小校に成り下がっている。 選手[編集] 猿野天国(さるの あまくに) 声 – 関智一

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グランドマスター – Wikipedia

グランドマスターは、国際チェス連盟 (FIDE) により付与されるチェスのタイトル(称号)で、「世界チャンピオン」を別にすれば、チェス選手の最高位のタイトルである。 終身有効なタイトルで、GMと略される(国際マスターはIM、FIDEマスターはFMと略される)。IGM(International Grandmaster)という表現も古い文献ではよく見受けられる。 GM・IM・FMともに男女とも取得できるタイトルであり、1978年にノナ・ガプリンダシヴィリがGMのタイトルを取得して以来多くの女性選手が取得し、2000年ごろからは上位10名の女子選手のほとんどがGMのタイトルを保持している。女性のみ取得できるWGM(女子GM)というタイトルもあるが、こちらはIMとFMの中間程度の実力で取得できる。 この他、実戦競技以外には、チェス・プロブレムの作者(作局GM)や解者(解答GM)にFIDEが与えるGMの称号、国際通信チェス連盟による通信チェスGMの称号もある。 グランドマスターのタイトルの始まり(1914年)[編集] 当時のロシア皇帝ニコライ2世が、賞金の一部を寄付した1914年のサンクトペテルブルク大会で、決勝へ進出者した5人(エマーヌエール・ラスカー、ホセ・ラウル・カパブランカ、アレクサンドル・アレヒン、ジークベルト・タラッシュ、フランク・マーシャル)に与えた称号が原型である。この大会ではラスカーが優勝し、カパブランカが2位となった。ラスカーは当時の世界チャンピオンで、カパブランカとアレヒンは後の世界チャンピオンとなった。タラッシュとマーシャルは世界チャンピオンの挑戦者であった。 非公式なタイトル(1914~1950年)[編集] 1914年以降、「グランドマスター」の言葉は、世界クラスのチェス選手を指すのにしばしば非公式に使われた。FIDEが1924年に組織されてからも、FIDEはGMについての明確な基準を設けなかった。 1927年、ソ連のチェス協会が「ソ連邦グランドマスター」というタイトルを創設した。当時国際大会に出ることのなかった国内の選手に対して付与した。1929年にソ連のチャンピオンとなったヴェルリンスキーに与えられた後1931年に廃止された。しかし、1935年にボトヴィニクにタイトルを与えることで復活し、彼が初の「公式」ソ連邦GMということになった。ヴェルリンスキーのタイトルは復活されなかった。 FIDE公式タイトル(1950年~)[編集] FIDEは1950年に27人の選手に対してGMのタイトルを付与した。27人は以下の通りである。  当時のトッププレーヤー: ミハイル・ボトヴィニク、ボレスラフスキー、ボンダレフスキー、ブロンスタイン、マックス・エーワ、ファイン、フロール、パウリ・ケレス、コトフ、アンドール・リリエンタール、ナイドルフ、サミュエル・ハーマン・レシェフスキー、ワシリー・スミスロフ、ストールベリ、サボー・ラースロー  当時生存していた過去のトッププレーヤー: バーンシュタイン、デュラス、グリュンフェルト、コスティッチ、レヴェンフィシュ、マロツィ、ミーゼス、ラゴジン、ルビンシュタイン、ゼーミッシュ、タルタコワ、ヴィドマール 1950年以前に活躍した選手を入れることで、1914年のGMからの継続性を持たせた。1914年から1950年の間に亡くなった有力選手たちは含まれなかった(シュレヒター、レティ、ニムゾヴィッチ等)。 1950年以降は、FIDEのルールに則ってGMのタイトルが付与されることとなった。

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サカリ・オラモ – Wikipedia

この存命人物の記事には検証可能な出典が不足しています。信頼できる情報源の提供に協力をお願いします。存命人物に関する出典の無い、もしくは不完全な情報に基づいた論争の材料、特に潜在的に中傷・誹謗・名誉毀損あるいは有害となるものはすぐに除去する必要があります。出典検索?: “サカリ・オラモ” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2014年7月) サカリ・オラモSakari Oramo 出生名 Sakari Markus Oramo 生誕 (1965-10-26) 1965年10月26日(56歳) 出身地  フィンランドウーシマー州

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池田誠剛 – Wikipedia

池田 誠剛(いけだ せいごう、1960年12月16日 – )は、埼玉県浦和市(現:さいたま市)出身の元サッカー選手、サッカー指導者。元サッカー選手の池田伸康の兄にあたる。 早稲田大学を経て、古河電気工業に入部。現役時代は故障がちで、十字靭帯損傷が原因となって現役を引退した。引退後は指導者となりジェフ市原や浦和レッズなどでキャリアを重ねた[1]。 2014年12月、ロアッソ熊本のコンディショニングアドバイザーに就任した[2]。 2016年、早稲田大学での同期[3]・城福浩が指揮を執るFC東京のフィジカルコーチに就く。併行開催されるAFCチャンピオンズリーグとリーグ戦を戦い抜くための体力作りを担ったが[4]、効果的なトレーニングを行えなかったために、体力の落ちた試合終盤に失点する試合が続いた[5]。同年7月、城福の解任と共に退任[6]。 2017年7月、FC今治のトップチームフィジカルコーチに就任した[7]。 2018年、城福が監督に就いたサンフレッチェ広島のフィジカルコーチに就任。2021年12月18日、退任が発表された[8]。 2022年、韓国Kリーグ1部に所属する蔚山現代FCに招聘された[9]。 所属クラブ[編集] 個人成績[編集] 国内大会個人成績 年度 クラブ 背番号 リーグ リーグ戦 リーグ杯

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フロント・ネックチャンスリー – Wikipedia

フロント・ネックチャンスリー(Front Neck-Chancery)は、レスリングやプロレスで用いられる首関節技の一種である。別名:フロント・ネックロック(Front Neck Lock)。柔道川石メソッドでの別名:縦挫(たてひしぎ)[1]。 フロントチョークと同様の体勢、向かい合った状態の相手を前屈みにさせて相手の頭部を自身の腋の下に抱え込み、首を絞めるのではなく、相手を抱える腕の手首で相手の頬骨をこするようにして相手の頭を自身の腹で90度回転させて自身の腹部を前方へと突き出すように体を反らせて相手の首を曲げて頸椎を極める。ネックロックの派生技。チョーク技が禁止されているキャッチ・アズ・キャッチ・キャンの技術として発展。総合格闘技の試合などではフロントチョークを仕掛けたが、結果的にフロント・ネックロックになるケースもある。なお、この技は別名「フロント・ネックチャンスリー」とも呼ぶがフロントチョークをフロント・ネックチャンスリーと呼ばない。 逆挫[編集] 逆挫(ぎゃくひしぎ)はクローズド・ガード・ポジションからのフロント・ネックチャンスリー[2]。 抑挫[編集] 抑挫(おさえひしぎ)は自らの横帯を掴んでのフロント・ネックチャンスリー。書籍『Ma méthode de judo』では縦四方固などからのものが紹介されている[3]。 抑胴挫[編集] 抑胴挫(おさえどうひしぎ)はクローズド・ガード・ポジションから自らの横帯を掴んでの抑挫[4][5]。 見た目が酷似している技に以下のものがあり、実際によく混同される。 フロントチョーク フロント・ネックチャンスリーが頸椎へのダメージを狙う首関節技であるのに対して、こちらは相手の頭上側から首を固め、気管もしくは頚動脈を圧迫する裸絞。 フロント・ヘッドロック フロント・ネックチャンスリーの体勢から頭部に片腕を回して抱え込み腋や上腕に力を入れて相手の頭蓋骨を締め上げるダメージを与える。スタンディングや中腰できめる場合が多い。ヘッドロックの派生技。 フロント・フェイスロック

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ココチュ (寧王) – Wikipedia

ココチュ(Kököčü, モンゴル語: Хөхчү, 中国語: 闊闊出, ? – 皇慶2年1月16日(1313年2月11日))は、モンゴル帝国の皇族で、第5代皇帝クビライ・カーンの庶子。『元史』などの漢文史料では寧王闊闊出、ペルシア語史料ではكوكچو Kūkuchūと記される。 『集史』によると、ココチュの母親はモンゴル帝国建国の功臣であるボロクルの娘フシュチン(هوشیجینHūshījīn)であったという。フシュチンはクビライの妃(ハトゥン)たちの中では比較的身分が低く、フシュチンより生まれたココチュとアヤチはクビライの諸子の中でも扱いの低い存在であった。 至元12年(1275年)、ココチュは異母兄でありモンゴリアを統轄する北平王ノムガンの指揮下に入り、中央アジアを支配するカイドゥとの戦いに従軍した。ノムガンはカイドゥ軍を打倒するためにアルマリクへと急襲をかけたが、ソゲドゥの息子トク・テムルとモンケの息子シリギが叛乱を起こしノムガン・ココチュ兄弟とアントンを捕縛してしまった。ノムガン・ココチュはシリギらによってジョチ・ウルスのモンケ・テムルの下へ送られ、長く監禁状態に置かれることとなった[1]。 至元21年(1284年)、クビライの下に帰還したココチュは第五ランクの寧遠王に封ぜられた。これはクビライの嫡子やフゲチ・アウルクチに比べるとランクの低い王号であったが、王号を与えられなかった同母兄のアヤチなどの庶子に比べれば好待遇であった。 大徳2年(1298年)冬、カイドゥ配下のドゥアは密かにモンゴリアに出兵しココチュ軍に攻撃を仕掛けたところ、宴会を開いて酩酊していたココチュ軍は応戦できず、唯一奮戦したコルクズ駙馬は捕らえられてしまった。カーンの処罰を恐れたココチュは数度の召喚にも応えずカーンの下に戻らなかったため、テムル・カーンはアジキを送ることでようやく参内させたという[2]。 このココチュの怠慢からくる失態を契機として、モンゴリアにおける対カイドゥ戦線の司令官にカイシャン(後の第七代モンゴル皇帝)が起用された[3]。これは当時実権を握っていたブルガン・ハトゥンによる次代カーンの有力な候補者の「厄介払い」という側面もあったが、カイシャンはカイドゥとの戦いで力闘奮闘することによって有力将軍・王侯の支持を得ることに成功した。 テムル・カーンが死去した際、ブルガン・ハトゥンは安西王アナンダを擁立しようと企んだものの、ブルガンの専横に反感を抱く官僚によってテムルの兄ダルマバラの遺児(カイシャン・アユルバルワダ)を擁立しようとする運動が起こった。ココチュはアユルバルワダに協力してブルガン・ハトゥンに対するクーデターを成功させたが、アユルバルワダとは別にカイシャンがモンゴリアにおいて諸王の支持を得てカーンに即位するため南下しようとしていた。 そこでココチュとヤクドゥはアユルバルワダに対しカイシャンに遠慮することなくカーン位に即くべきだと進言したが、アユルバルワダはこの意見を退けカイシャンにカーン位を譲ることとなった[4]。カーンに即位したカイシャンは従来限られた人物にしか与えられなかった最高ランクの「一字王号」を頻発し、ココチュもまた「寧遠王」から最高ランクの「寧王」に封ぜられた[5]。 至大3年(1310年)、ココチュはカイシャンに対して反逆を企んでいたことが発覚し、獄に下された。ココチュは処刑を免れたものの、ココチュの妻オルジェイは死を賜ることとなった[6]。カイシャンが死去し、アユルバルワダが即位した後もしばらくココチュは存命であったが[7]、皇慶2年(1313年)に入ってココチュは亡くなった[8]。 ^ 杉山2004,300頁 ^ 松田1982,2-3頁

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司法 – Wikipedia

司法(しほう、英: Judiciary)とは、立法および行政と並ぶ国家作用の一つである。実質的意義においては法を適用し宣言することにより、具体的な訴訟について裁定することをいうが、形式的意義においては司法府に属する作用の総称である。この国家作用を行う権能を司法権といい、三権分立についての行政権・立法権と対比される。 司法の概念[編集] 実質的意義の司法[編集] 国家作用が作用自体の性質という点に着目して立法・行政・司法に三分類されるときに、これらはそれぞれ実質的意義の立法、実質的意義の行政、実質的意義の司法と概念づけられる[1]。 司法とは実質的意義においては「具体的な争訟について、法を適用し、宣言することにより、これを裁定する国家作用」と定義される。これは近代以降の各国・各時代に通じる司法と司法権の共通項を示したものと言える。司法と司法権は、近代の権力分立制とともに生成してきた。そして、権力分立制の形態と内容が各国・各時代において異なるように、司法と司法権の形態と内容も各国・各時代において異なる。 国家作用が行政・立法・司法に分離独立するに至った歴史的経緯が各国により異なることもあり、司法という言葉で呼ばれる国家作用の内容は、各国・時代により当然異なる。特に行政と司法との理論的な区別の可能性については疑義も出されており、権限が与えられている官署の区別に対応しているに過ぎない(裁判所の職務が司法)との指摘もされている。 この点が典型的に現れるのは、行政事件の裁判に関する扱いである。 フランスやドイツなど、大陸法系の国々では、司法とは「民事事件・刑事事件の裁判作用」を指し、行政事件の裁判を含まない。この意味での司法権は、法治主義や権力分立制の確立により行政権から切り離され、独立した裁判所の権能とされるようになった。行政事件については、通常の裁判所とは別に行政裁判所が設けられ、そこで審理・裁判された。この行政裁判所は、行政権の一部を担うとされる。現在でもフランスでは、国務院(コンセイユ・デタ)と呼ばれる機関が最上級審の行政裁判所としての権能を有しており、国務院は行政機関とされる。また、大日本帝国憲法における体制も、行政事件の管轄は行政裁判所にあるとされた。 他方、英米法(コモン・ロー)系の国々では、行政事件の裁判も司法に含まれると解され、行政事件の裁判作用は通常の裁判所の権能に属する。日本国憲法における「司法」「司法権」は、英米法系の制度に倣い、行政事件も通常の裁判所が裁判する(日本国憲法第76条1項、2項)。 極論すれば、各国で司法又はそれと同視し得る言葉により把握される国家作用について最大公約数的な定義をするとなると、「いわゆる裁判所と呼ばれる機関が有している国家作用の中核部分」というあまり意味のない定義で満足せざるを得ない。そこで、多少の齟齬を取り捨てて、より内容のある定義として示されるのが頭書の「司法とは、具体的な争訟について、法を適用し、宣言することにより、これを裁定する国家作用」という一文である。 形式的意義の司法[編集] 司法は形式的意義においては司法府に属する一切の作用を意味する。 国家作用は作用自体の性質という点から、実質的意義の立法、実質的意義の司法、実質的意義の行政とそれぞれ概念づけられるが、現実の個々の国家作用がいずれの機関に配当されるかは憲法の体制・個別の法律により異なる[1]。そこで、現実に配当されている機関という点に着目して国家作用を分類したものが形式的作用である[1]。 例えば日本国憲法における最高裁判所の規則制定権(日本国憲法第77条)は実質的には立法作用であるが、司法権の独立の観点から最高裁判所の権能とされており形式的意義の司法に含まれることになる[2]。 日本の司法[編集] 大日本帝国憲法における司法[編集] 大日本帝国憲法において、司法権とは、民事事件・刑事事件の裁判作用を行う権能を指した。行政事件は、通常の裁判所とは別系統の行政裁判所の所管であった。このほか、軍人・軍属などの刑事事件を裁判する軍法会議や、皇族の民事事件を裁判する皇室裁判所などの特別裁判所も設置された。 日本国憲法における司法[編集] 司法権の帰属[編集]

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