Month: March 2020

己卯士禍 – Wikipedia

己卯士禍(きぼうしか、キミョサファ)は、李氏朝鮮中期の1519年(中宗14)に、士林派のリーダー的存在であった趙光祖(チョ・グァンジョ)を中心とする急進的な若手官僚の多くが、保守的な勲旧派の中宗への上疏によって失脚させられた事件。発生した年の干支をとって「己卯士禍」と呼ばれ、この時犠牲となった儒臣たちは、のちに「己卯名賢」と呼ばれるようになった。 事件の背景[編集] 1506年に、異母兄・燕山君の暴政に対する政変(中宗反正、중종반정、別名:朴元宗の乱)によって国王となった中宗は、即位の当初は反正の功臣勢力によって押さえこまれて、政治の主導権を発揮できずにいたが、1510年(中宗5)に反正の第一功労者であった勲旧派の朴元宗が死去してからは、功臣勢力を牽制するために、燕山君時代の士禍をくぐり抜けた地方出身の若手士林派を登用して、自らも父成宗にならって、新旧勢力の均衡の上に立った理想政治を目指すようになった。 そんなときに、中宗の前に現われたのが趙光祖であった。趙光祖は、1510年に進士に及第して成均館に入り、その豊かな学識と厳格で清廉な人柄で、若くして尊敬を集めていた。中宗は趙光祖の評判を聞いて引見し、ひと目で魅了された。中宗の厚い信任をえた趙光祖は、短期間に司憲府の大司憲にまで登用され、1515年(中宗10)から1519年(中宗14)までの4年間に、勲臣派や保守勢力の反対を押し切りながら、彼の信望者とともに「道学政治」を理想とする数々の急進的な改革を実践していった。 事件の経過[編集] 趙光祖は中宗の信任をもとに、1517年(中宗12)の「昭格署(道教の祭祀を行なう部署)の廃止」や「郷約の普及」をはじめ、保守勢力に対する本格的な改革を断行し、1519年(中宗14)には「賢良科(科挙によらない人材の推薦制度)」を実施して、勲旧派の強い抵抗を招くことになった。 事件の直接の原因となったのは、「偽勲削除事件」と呼ばれるもので、この年の秋、趙光祖らは「反正功臣の人数が多すぎるので、そのうち76名の資格を剥奪すべきだ」と国王に訴え出た。偽勲問題を通して、改革の対象が勲旧派の核心部分に及ぶようになると、危機感を覚えた南袞・沈貞・洪景舟らの勲旧派は、中宗の心理を読み取りながら、趙光祖一派の朋党政治の害をくり返し上疏し、また後宮を利用して、宮中の桑の葉に「走肖為王」(趙光祖が王になろうとしている)といった工作をして、中宗の心を趙光祖から引きはなすことに努めた。実際、中宗自身も経筵の席で趙光祖が長々と「道学政治」の理想を語り、中宗に君主としての聖人統治の実践を求めるなど、その妥協のない政治姿勢を疎ましく思うようになっていた。 1519年11月、国王に直訴するため趙光祖らが座り込みを始めると、勲臣派の讒言により中宗は趙光祖一派を断罪する決意を固めて、趙光祖・金浄・金湜・金絿らの投獄を命じた。事件が発覚すると、成均館の儒生ら1千人が光化門前に集まって、趙光祖らの無実を訴えたが、かえって事件をのっぴきならない状況にして、士林派への処分を早めることになった。 主導権を掌握した勲旧派は、趙光祖を綾城(のちの綾州)に流刑に処した後、穏健派の反対を押し切って、1ヵ月後に趙光祖を賜死した。死に臨んだ趙光祖は、いささかの疑念もなく王への忠誠心と憂国の情を辞世の詩に残した。38歳であった。事件に連座して、多くの士林派が流刑や免職となり、中宗の時代を通じて、その政治行動を厳しく規制された。 事件の影響[編集] 「己卯士禍」は、文字通り、士林派の思想と政治的実践それ自体が問われた士禍であって、士林派に対する影響も広範かつ深刻なものがあった。 改革失敗の原因は、いくつか考えられるが、当時の政治体制がまだ十分に成熟しておらず、郷約の実施の際に見られるように、上からの改革を受け入れる土壌が地方にまだ備わっていなかったこと、趙光祖の政治思想そのものが経学一辺倒の窮屈なもので、十分深められたものでなかったこと、中宗自身の君主としての政治的能力が、前代の世宗や成宗には遠く及ばなかったことなどがあげられよう。 趙光祖の急進的な改革は、支援者であった中宗の離反と「己卯士禍」による士林派への弾圧によって挫折したが、彼の理想主義的な道学政治の主張は後代に大きな教訓と影響を与え、次世代のふたりの巨儒(李滉と李珥)によって、性理学の学問としての進化発展が見られた。 特に、宣祖の時代になって、士林派が政治の中枢を掌握するようになるとともに、趙光祖の思想とその実践は高く評価され、師・金宏弼(朝鮮語版)とともに、朝鮮性理学の正統な継承者として尊敬され、祀られるようになった。

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ハーティトラスト – Wikipedia

ハーティトラスト・デジタルライブラリ (英語: HathiTrust Digital Library、略称: ハーティトラスト) とは、アメリカ合衆国を中心とした世界各国の大学等の図書館が所管する書籍や報道資料をデジタル・アーカイブする電子図書館である。2008年発足当初の収蔵書籍数は200万冊 (パブリックドメインに帰す書籍全体の約16%に相当) だったが、10年後の2018年10月時点では1億6700万冊まで拡大し、参加図書館数も世界140を超えている[4]。 ハーティトラストは2008年1月から立ち上げ準備に着手し、幹事のミシガン大学図書館長 Paul Courant、インディアナ大学図書館を中心に[5]同年10月に米国の中西部を中心としたビッグ10大学連盟(英語版) (旧The Committee on Institutional Cooperation) に加盟する12の大学[註 1]、シカゴ大学、およびカリフォルニア大学傘下の11の図書館によって正式に共同設立された[6]。「Hathi」はヒンディー語/ウルドゥー語でゾウを意味し、優れた記憶力で有名な動物である。 デジタル化された著作物は、Google

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船橋市図書館 – Wikipedia

船橋市図書館(ふなばししとしょかん)は、千葉県船橋市の市立図書館(公共図書館)の総称。 船橋市内では、4つの市立図書館と15室の公民館・市民センターなどの図書室、2館の公民館の図書コーナー、2館の公民館の図書貸出返却窓口がオンラインで結ばれ(2021年11月時点)、蔵書の取り寄せ・貸し出し・返却を融通し合っている[2]。他に、1台の移動図書館がある。 市立図書館 中央図書館 – 蔵書数 25万5525冊[1] 西図書館 – 蔵書数 27万7967冊(2011年10月1日現在で約3万7500冊を配架)[1] 東図書館 – 蔵書数 25万8747冊(他に移動図書館9万943冊)[1] 北図書館 – 蔵書数 28万7206冊[1] 蔵書数はいずれも2011年3月末時点。雑誌は含まれていない。

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川崎鶴見臨港バス鶴見営業所 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “川崎鶴見臨港バス鶴見営業所” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2020年9月) 川崎鶴見臨港バス鶴見営業所(かわさきつるみりんこうバスつるみえいぎょうしょ)は、神奈川県横浜市鶴見区駒岡1丁目28-9に所在する川崎鶴見臨港バスの営業所である。営業所を表す記号はT。最寄り停留所は駒岡車庫で、臨港バスの路線以外では横浜市営バスが停車するが、東急バスは停車しない。 川崎鶴見臨港バスの前身となった鶴見臨港鐵道(現在のJR鶴見線を運行していた戦時買収私鉄)のバス部門を源流とする、同社最古の長い歴史を持つ営業所である。鶴見駅西口を中心に、横浜市鶴見区北部や港北区北東部の路線を担当する。 臨港バスで唯一川崎駅に乗り入れる路線がない営業所だが、正月三が日の川崎駅 – 川崎大師直行バスには鶴見営業所の車両も応援に駆り出される。羽田空港への空港連絡バスの運行を担当していた。 鶴見駅近くの鶴見線高架下に本山車庫(鶴見営業所分室)があり、最寄りバス停留所は「本山前」である。鶴見線が鶴見臨港鐵道だった時代に鶴見本山駅があった場所で、バス事業開始時にはここが初代の鶴見営業所であった。鶴見本山駅は鶴見駅と国道駅の間にあり、1942年に廃止されたが遺構は残っている。1970年に駒岡に鶴見営業所を開設し、本山車庫は鶴見営業所分室とされた。また、営業所だけではバスを全て格納することができないため、現在の鶴見営業所と環状2号線を挟んだ反対側に鶴見営業所第三車庫がある。本山車庫・第三車庫は車両留置のみで配置はない。本山車庫は主に特定車を留置している。 川崎鶴見臨港バスの営業所では唯一、所属車両の登録番号が横浜ナンバーである(他営業所の車両は全て川崎ナンバー)。神奈川県で川崎ナンバーが導入される前は全車が横浜ナンバーであったが、1980年の川崎ナンバー導入後は、川崎市内の営業所の車両は順次川崎ナンバーへ変更された。 1924年(大正13年)7月25日 – 鶴見臨港鐵道が会社設立[1][2]。 1931年(昭和6年)

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名鉄小牧線 – Wikipedia

この項目では、現在の小牧線(旧・大曽根線)について説明しています。岩倉と小牧を結んでいた初代小牧線については「名鉄岩倉支線」をご覧ください。 小牧線(こまきせん)は、愛知県名古屋市北区の上飯田駅から愛知県犬山市の犬山駅までを結ぶ名古屋鉄道(名鉄)の鉄道路線である。 名古屋市北区から春日井市、小牧市を経由して犬山市とを結ぶ路線である。上飯田駅 – 小牧駅間は複線区間であるが、小牧駅 – 犬山駅間は単線区間であり、名古屋市内へ向かう地下鉄乗り入れ路線にもかかわらずローカル線という性格が強い。他方で、地下区間が上飯田駅 – 味鋺駅間と小牧駅周辺の2か所、高架区間が4か所存在する都市型の路線形態となっており、間内駅 – 小牧原駅間では間内駅が地上駅、小牧口駅が掘割駅、小牧駅が地下駅、小牧原駅が高架駅と続いている。 2003年以前は、名古屋市中心部へ行くには上飯田駅で降車してから市バスに乗り換える必要があったが、上飯田線への直通運転を開始したことで、平安通駅で名古屋市営地下鉄名城線に直接連絡するようになった。 運賃計算区分はB(運賃計算に用いる距離は営業キロの1.15倍)。すべての駅でmanacaなどの交通系ICカード全国相互利用サービス対応カードが使用できる。上飯田駅 – 味鋺駅間は新線区間となるが、加算運賃は設定されていない。 上飯田線および小牧線を通過し(犬山駅を越えて)各務原線・広見線方面(犬山線犬山遊園駅・新鵜沼駅および江南駅方面を含む)との間の連絡乗車券は発売されていない。一旦犬山駅までの乗車券を購入した上で着駅にて精算することになる。manaca・TOICAなどのICカードを使用した場合は実際の乗車経路に関わらず最短経路で計算される。 名鉄の路線であるため名古屋市の敬老パスでの無料乗車はできないが、2018年10月1日より名古屋市内の区間に当たる上飯田駅 – 味鋺駅のチャージ利用に限り後日払い戻す形で事実上無料で乗車できるようになっている[2]。 途中の駅は小牧駅のみ有人となっている。

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Disney Time – Wikipedia

Disney Time(ディズニータイム)は、2000年10月5日から2012年9月28日までテレビ東京系列で放送されたディズニーの番組。副音声による二ヵ国語放送(モノラル二重音声)を実施。 基本的には前半はディズニー制作のテレビ作品を放送し、後半は司会者による東京ディズニーリゾートの取材・最新情報を放送する。 『サンデーディズニー』の後継番組として、2000年10月5日『Disney Time』木曜版が放送開始。 『Disney Time』金曜版の放送開始は2001年4月6日からだが、1995年4月から当番組まで同時間帯でディズニー関連番組を連続放送していた。 2010年9月30日をもって木曜日の放送が終了し、同年10月1日以降は毎週金曜日のみの放送となる。木曜日の後番組はローカルセールス枠となり、テレビ東京は『たまごっち!』の再放送となった。 2011年3月18日から同年5月6日まで、同年3月11日午後に発生した東日本大震災により東京ディズニーリゾートでのロケコーナーを休止[1]。「ミッキーマウスクラブハウス」が時間延長になる。ロケコーナーは同年5月13日より放送再開。 2012年9月28日の放送分をもって終了し、1995年4月から放送されたテレビ東京のディズニー関連番組が17年間の歴史に幕を閉じた。その後も木・金ともにアニメ枠を放送したが、2015年4月1日から開始した情報番組『チャージ730!』放送により枠自体も廃止となった。 放送局・放送時間[編集] 木曜07:30 – 08:00(2000年10月5日 – 2010年9月30日) 金曜07:30 – 08:00(2001年04月6日 –

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垂水公正 – Wikipedia

垂水 公正(たるみず きみまさ、1930年3月[1] – 2009年2月21日[2])は日本の官僚。 宮崎県出身[2]。 修道中学校(現修道中学校・修道高等学校)[要出典]、第七高等学校、東京大学法学部を卒業[3]。1953年に大蔵省入省、財務参事官室配属[4]。 1958年外務省在英国日本国大使館外交官補、1960年外務省在英国日本国大使館三等書記官、1962年為替局投資第一課長補佐、1965年理財局資金課長補佐、1969年理財局総務課長補佐[5]、1970年外務省在ニューヨーク日本国総領事館領事、1973年主計局調査課長、1975年国際金融局外資課長、1976年関税局企画課長、1977年関税局総務課長などを歴任[6]。 関税局企画課長、同総務課長時代は、東京ラウンドの日本代表団として貿易交渉に携わった[7]。 東京税関長、関税局担当審議官、1981年駐米日本大使館公使、1983年関税局長などを経て、1989年にアジア開発銀行総裁(第5代)へ就任。1993年まで務めた。 退任後、日本フォスター・プラン協会理事長を務める[8]。この理事長職は無給であったという[8]。 2006年、瑞宝中綬章を受章。 虚血性心不全のため[2]、2009年2月21日死去[2][8][9]。78歳没。 ^ 「日本官界名鑑」1980年版 日本官界情報社 ^ a b c

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永野亮比己 – Wikipedia

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アレクサンドル・フェクリソフ – Wikipedia

アレクサンドル・セミョーノヴィッチ・フェクリソフ(露: Александр Семенович Феклисов, 1914年3月9日 – 2007年10月26日)は、ソ連KGBに所属していた職業的諜報員。大佐。ロシア連邦英雄。ジュリアス・ローゼンバーグやクラウス・フックスを採用したことで知られている。 モスクワの鉄道転轍手の家庭に生まれる。7年制学校卒業後、工場学校で学び、工場で働く。1939年、モスクワ通信大学無線学部を卒業。 大学卒業後、特別任務学校の教育に送られ、1940年に卒業した。卒業後、内務人民委員部(NKVD)国家保安総局第5(外国)課アメリカ班に配属される。断続的な仕事の後、副課長のM.プルドニコフは、フェクリソフを無線手としてニューヨークに派遣することを決定した。 1941年2月、日本経由でニューヨークに着任し、1946年まで、アメリカニューヨークのソ連領事館に対外諜報部の科学技術情報担当者として勤務していた。当時の上司はアナトリー・ヤコヴレフ。仕事の中には、アメリカ共産党に共感する者や補助する秘密組織からスパイ活動に従事するエージェント候補を採用することも含まれていた。 ジュリアス・ローゼンバーグはフェクリソフに採用された新人の中の一人だった。1943年から1946年までの間に、フェクリソフはローゼンバーグと少なくとも50回におよぶ打ち合わせの報告を行っている。フェクリソフによると、ローゼンバーグは電子工学に関する最高機密を提供したり、産業スパイのネットワーク構築を助けたりしたが、機密の内容である原子爆弾については「彼は何も理解していなかった」と語っている。また、ジュリアスの妻であり夫と共に死刑になったエセル・グリーングラス・ローゼンバーグについては、彼女のソ連のエージェント育成者に直接会ったことは無いと述べ、「この件と関係は無い」「全くもって潔白だ」と語っている。 フェクリソフは、他にもジョエル・バーやアルフレッド・サランなどソ連の原爆スパイネットワークの担当をしていた。 1946年8月、フェクリソフはソ連に戻り、中央機構で働いた。1947年、科学技術諜報担当副支局長としてロンドンに派遣された。ロンドン滞在期間、フックスとの接触を維持し、水爆に関する情報を入手した。フックスの逮捕後、1950年4月にモスクワに戻り、副課長に任命された。 1953年~1955年、ソ連国家保安省(MGB)諜報担当副主任顧問としてチェコスロバキアで働き、チェコスロバキア内務省内の諜報機関の創設を助力した。1956年~1960年、ソ連国家保安委員会第1総局アメリカ課長。 1960年8月には、駐ワシントン支局長として再びアメリカに戻っている。1962年のキューバ危機の際には、アメリカがキューバに武力侵攻しない代わりにソ連がキューバのミサイルや基地を解体するという、危機回避の基礎となった案の提案を行っている。 ソ連帰国後、赤旗大学で働く。1974年、退役。 パーソナル[編集] 1996年、ロシア連邦英雄の称号が授与された。その外、労働赤旗勲章2個、赤星勲章2個、名誉記章勲章を受章。 歴史科学準博士。ロシア対外情報庁名誉職員。 1994年、米英での仕事を叙述した回想録「海の向こうと島国で」(ロシア語:

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魚住英里奈 – Wikipedia

魚住 英里奈(うおずみ えりな、1997年7月4日 – )は、熊本県出身のシンガーソングライター[2]。 EP・シングル[編集] # 発売日 タイトル 収録曲 販売形態 備考 2018年9月10日 水の中。 全4曲 水の中 バラード きえる 夏と冬のあいだ CD-R

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