Month: September 2020

我如古楽一郎 – Wikipedia

我如古 楽一郎(がねこ らくいちろう、1872年3月13日(尚泰25年2月5日) – 1941年(昭和16年)7月18日[1])は、沖縄県出身の医師、政治家。衆議院議員。後に島添に改姓[2]。 東風平間切東風平(現島尻郡八重瀬町字東風平)で、我如古四朗太、カマド夫妻の長男として生まれる[1][3]。1885年、沖縄県医院附属沖縄医学講習所が開設され、講習生として入所[1][4]。1889年、沖縄県医院附属沖縄医学講習所が沖縄県病院附属医生教習所と改称され、同所を1890年に卒業[1][5]。1891年、沖縄県病院に勤務となる[6]。 1894年、帝国大学医科大学教授・三浦守治に随行し八重山のマラリア調査を行う[1][6]。1897年、県病院を退職して開業し、兼城、東風平間切の村医となる[1][7]。1901年、謝花昇が発病して主治医となり、その治療費と死後の遺児教育費募金に奔走した[1][8]。 1907年、沖縄実業銀行が設立し取締役に就任[9]。1908年、無限責任東風平信用販売購買組合が設立し組合長となる[9]。1909年、沖縄県初の県会議員選挙に出馬して当選[1][10]。1913年、設立発起人となった沖縄県産業組合が設立し、1914年には解散していた沖縄県医師会が再設立され理事に就任した[11]。 1917年4月の第13回衆議院議員総選挙で沖縄県から無所属で出馬して当選し、衆議院議員を一期務めた[1][12]。この間、「沖縄県特別自治制撤廃に関する建議案」の提出、甘蔗作に対する質問演説、「沖縄県における〔マラリア〕予防撲滅に関する建議書案」の提出などを行った[13]。1919年5月14日、衆議院議員選挙法違反被告事件おいて大審院で上告棄却となり議員を退職した[14]。 その他、沖縄県産業銀行頭取、産業組合中央会沖縄支会副会長、報徳川排水改修工事組合長などを務めた[15] ^ a b c d e f g h i

Continue reading

吉川亜州香 – Wikipedia

この存命人物の記事には検証可能な出典が不足しています。信頼できる情報源の提供に協力をお願いします。存命人物に関する出典の無い、もしくは不完全な情報に基づいた論争の材料、特に潜在的に中傷・誹謗・名誉毀損あるいは有害となるものはすぐに除去する必要があります。出典検索?: “吉川亜州香” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2016年7月) この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “吉川亜州香” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2017年11月) 本来の表記は「 川

Continue reading

KADOKAWA Game Linkage – Wikipedia

株式会社KADOKAWA Game LinkageKADOKAWA Game Linkage Inc. 種類 株式会社 略称 KGL 本社所在地 日本〒112-0014東京都文京区関口一丁目20番10号 設立 2017年7月3日 業種 情報・通信業 法人番号 4010001184688 事業内容 出版、映像配信・制作、ネットワーク・エンターテイメント・サービス及びコンテンツの企画・開発・運営、イベント企画・運営、ゲームマーケティング、eスポーツマネジメント等

Continue reading

北村春吉 – Wikipedia

北村(旧姓:藤井) 春吉 名前 カタカナ キタムラ ハルキチ ラテン文字 KITAMURA Harukichi 基本情報 生年月日 1897年3月1日 大日本帝国、滋賀県野洲郡 没年月日 (1996-12-19) 1996年12月19日(99歳没)[1] 日本、大阪府藤井寺市 選手情報 ポジション FW

Continue reading

宇多天皇 – Wikipedia

宇多天皇(うだてんのう、867年6月10日〈貞観9年5月5日〉- 931年9月3日〈承平元年7月19日〉[1])は、日本の第59代天皇(在位:887年9月17日〈仁和3年8月26日〉- 897年8月4日〈寛平9年7月3日〉)。 諱は定省(さだみ)。 後の佐々木氏などに代表される宇多源氏の祖先にあたる天皇である(詳細は皇子女の欄参照)。 宇多天皇自筆周易抄 部分 臣籍から皇位へ[編集] 光孝天皇の第七皇子であり、母は皇太后班子女王(桓武天皇の皇子仲野親王の娘)であった。父帝光孝は、先代陽成天皇の大叔父にあたり、陽成が不祥事によって退位させられたために即位に至ったことから、自身の後は陽成の同母弟貞保親王など嫡流に皇位が戻ることを考え、元慶8年(884年)6月に26人の皇子皇女に源姓を賜い臣籍降下させた。定省王もその一人であり、源定省(みなもと の さだみ)と称した。定省が陽成に王侍従として仕えていた時、殿上の間の御椅子の前で在原業平と相撲をとり二人の体が椅子にぶつかって手すりが折れた逸話が残っている[2]。 光孝は皇太子を立てることのないまま、即位から3年後の仁和3年(887年)に重態に陥った。関白藤原基経は、天皇の内意が貞保親王ではなく源定省にあるとした。貞保は皇統の嫡流に近く、また基経にとっても甥ではあったが、その母藤原高子は基経とは同母兄妹ながら不仲という事情もあったため忌避された。一方、基経自身は特に定省を気に入っていたわけではない[3] ものの、定省は基経の仲の良い異母妹藤原淑子の猶子であり、天皇に近侍する尚侍(ないしのかみ)として後宮に強い影響力を持つ淑子が熱心に推したこともあり、朝議は決した。同母兄の源是忠を差し置いて弟の定省が皇位を継ぐことには差し障りもあったため、基経以下の群臣の上表による推薦を天皇が受け入れて皇太子に立てる形が取られた[4]。定省は8月25日に皇族に復帰して親王宣下を受け、翌26日に立太子したが、その日のうちに光孝が崩じたため践祚し、11月17日に即位した。 阿衡事件[編集] 宇多は即位後間もない11月21日に、基経に再び関白としての役割を果たすよう勅書を送った。しかしこの手続きの際に左大弁橘広相の起草した「宜しく阿衡の任をもって卿の任とせよ」の文言に基経が立腹し、政務を拒んで自邸に引き籠もってしまう。翌年6月になって宇多はついに折れ、勅書を取り消した上に広相を解官せざるを得なかった。寛平3年(891年)1月に基経が死去するに及んで、宇多はようやく親政を開始することができた。なお宇多が勅願寺として仁和寺を建立したのは、この阿衡事件の最中の仁和4年のことである。 寛平の治[編集] 宇多天皇は基経の嫡子時平を参議にする一方で、源能有など源氏や菅原道真、藤原保則といった藤原北家嫡流から離れた人物も抜擢した[5]。この期間には遣唐使の停止、諸国への問民苦使の派遣、昇殿制の開始、日本三代実録・類聚国史の編纂、官庁の統廃合などが行われた。また文化面でも寛平御時菊合や寛平御時后宮歌合などを行い、これらが多くの歌人を生み出す契機となった。 譲位[編集] 宇多は寛平9年7月3日(897年8月4日)に突然皇太子敦仁親王を元服させ、即日譲位し、太上天皇となる。この宇多の突然の譲位は、かつては仏道に専心するためと考えるのが主流だったが、近年では藤原氏からの政治的自由を確保するためこれを行った、あるいは前の皇統に連なる皇族から皇位継承の要求が出る前に実子に譲位して己の皇統の正統性を示したなどとも考られている(後述の『大鏡』にある陽成上皇の言がその暗示と考えられている)。譲位にあたって書かれた『寛平御遺誡』には右大臣源能有の死に強い衝撃を受けたことが書かれており、これを譲位と結びつける見方もある。 新たに即位した醍醐には自らの同母妹為子内親王を正妃に立て、藤原北家嫡流が外戚となることを防ごうとした。また譲位直前の除目で菅原道真を権大納言に任じ、大納言で太政官最上席だった時平の次席としたうえで、時平と道真の双方に内覧を命じ、朝政を二人で牽引するよう命じた[6]。しかしこの人事は権門の公家には不評で、公卿が職務を拒むという事件に発展した。道真は宇多に願ってかかる公卿らに出仕を命じてもらい、ようやく新政がスタートした。 昌泰の変[編集]

Continue reading

宗禅寺横穴墓群 – Wikipedia

宗禅寺横穴墓群(そうぜんじよこあなぼぐん)は、宮城県仙台市太白区根岸町にある横穴墓群である。宗禅寺横穴群とも呼ばれる。7世紀後半から8世紀後半に、広瀬川の右岸(南西岸)に作られた。総数は不明だが、発見された穴は15ある。 広瀬川右岸で丘陵から平地に変わる一帯には、愛宕山横穴墓群、大年寺山横穴墓群などがあり、宗禅寺横穴墓群とともに向山横穴墓群をなす。宗禅寺横穴墓群は、大年寺山の尾根の先を広瀬川がかすめる位置、宗禅寺の墓地にある。現在は山裾と広瀬川の河原の間に川から比高10メートルほどの平らな段丘があるが、古代には大年寺山の尾根がもう少し伸びて小さな谷をなしていた。 その谷の傾斜を横から掘りこんで墓としたのが、宗禅寺横穴墓群である。東西に並ぶようにして知られる限り横穴墓は15基確認されている。後に谷は土砂で埋もれ、2、3メートルほどの崖として残り、横穴も岸から離れた一部を除いて地面の下になった。発掘調査は埋没谷の深部まで掘り下げずに終えたので、下のほうにまだ知られていない横穴が存在する可能性がある[1]。 遺跡の南東には724年まで陸奥国の国府があったとされる郡山遺跡があり、時期的に横穴墓の使用期間と重なる。広瀬川の対岸、東方には古墳時代から続く集落である南小泉遺跡がある。これらが横穴墓の利用者の居住地の候補である。 横穴墓の概要[編集] 発掘担当者によって、15の横穴墓は西から東へ、山に近いほうから川に近いほうへ、1号墳から15号墳と番号を振られた。1953年(昭和28年)に見つかった穴が15号墳である。どの墓も崖面に対して直角にまっすぐ入り、崖がのびる方向に従い、西の端では南を、東の端では東南を向く。7、8、9号墳を除けばほぼ同じ高さにそろう。 横穴の奥に玄室があり、断面形状は方形・長方形・台形で、床の1辺は1.4メートルから2.75メートルにおさまる。玄室の上はアーチ状であったり家の屋根の形であったりする。入り口(玄門)は、そこに至るトンネル(羨道)より幅を狭く作る。13号墳だけは、幅0.8メートルで、玄室・玄門・羨道の区別がないタイプである。11号墳と12号墳は玄室が接触して数十センチの穴が通じていた。1号墳、2号墳、3号墳も玄室が横でつながっていたが、これはピッケルのような工具で穴を開けたらしく、後世の改変と考えられる。 7つの横穴では、約10センチメートルほど高くした台床が作られた。そのうち15号墳だけは高さが約50センチメートルで、顕著な壇をなした。台床がない穴は8である。岩には水が滲み出る自然の割れ目が走っていたため、横穴の中にはこれにあわせて排水用の溝を設けたものがある。台床の上で、5号墳から1体分、9号墳から3体分にあたると推測される人骨が見つかった。泥質化が著しく、見つかったのは頭蓋骨など大きな骨が少数で、状態はよくなかった。5号墳のものは熟年男性、9号墳のものは熟年男性2人と壮年女性1人と推定された。 遺物としては、7つの横穴から須恵器13点、土師器8点、鉄製刀子1点が見つかった。須恵器・土師器の発見場所は、玄室内、玄門閉塞部の外、穴の外の前庭部の3箇所である。それぞれ、遺体とともに副葬したもの、葬儀の後に供献したもの、追葬のために準備して置いたものに対応すると考えられる。刀子は約15.6センチで、木の柄がついており、5号墳の台床の上、つまり人骨と同じ場所にあった。 その後の歴史[編集] 横穴の利用が絶えて久しくなった中世に、この低い崖から少し北に離れて宗禅寺が開山した。遺跡がある崖は宗禅寺の所有地となり、崖上と崖下が両方とも寺の墓地になった[2]。4号墳では、近世以後に作られた墓穴の床が横穴の天井に接近して作られ、崩れて30センチほどの穴が発掘調査時に開いていた[1]。 穴の存在は寺にも近所の人にも知られており、浮浪者が住みついたこともあった。時代が不明だがおそらく居住者が拡張のために3つの横穴を内部で連結した。昭和の初めに、安全のためなどの理由で、付近の住民が地表に出てくる穴の入り口を土で埋めて閉塞した[2]。 1953年、宮沢橋架け替えに伴い広瀬川に沿う道路を造る工事の際、削った崖の中から横穴が一つ見つかった[2]。1970年代に、もう一段岸から離れたところに広瀬河畔通りを通すことになり、宗禅寺の墓地の移転が必要になった。横穴があった崖が移転先に含まれることとなり、仙台市教育委員会と仙台市建設局土木部が1975年(昭和50年)1月13日から2月15日にかけて約300m2の発掘調査を実施した。既知のものと併せて14の横穴を確認、調査した。調査後、整地のために一部が破壊され、大部分が土中に埋められた。遺跡は現在は宗禅寺の墓地の下にあり、横穴の存在をうかがわせるものは何もない。 ^ a b 『仙台市根岸町宗禅寺横穴群発掘調査報告書』8頁。 ^ a b

Continue reading

新橋 (花街) – Wikipedia

この項目では、花街(花柳界)としての新橋について説明しています。その他の用途については「新橋」をご覧ください。 花街としての新橋(しんばし)は、現在の東京都中央区銀座における花街である。「芸の新橋」と呼ばれ、日本各地の花柳界からも一目置かれている[1]。 略歴・概要[編集] 始まりは1857年(安政4年)、現在の銀座八丁目付近に三味線の師匠が開業した料理茶屋が始まりだといわれる。当時、新橋の芸者(芸妓)能楽太夫の名にちなみ「金春芸者」(こんばるげいしゃ)と呼ばれていた。「金春新道」沿いに粋な家屋が明治初年まで立ち並んでいた[2]。 新橋界隈は各藩の大名屋敷から距離的に都合の良い場所にあったため、公儀の役人や他藩の客人との接待・外交の場として利用され、座興として芸事を教えていた女師匠が座敷に招かれて芸を披露していた。その中のひとりの常磐津文字和佐が、当時老中だった太田資始に、自分たちが芸事を披露すると同時に客人たちへの酌や給仕をすることを許可してもらえるように願い出て認められたことから、新橋芸者のスタイルが確立された[3]。武士達は、しばしば贔屓の芸者に料亭選びの段階から宴会の裁量を任せたため、お客を連れてくる芸者は敬意の対象となった。 明治に入り、江戸期からの花街柳橋とともに「柳新二橋」と称し、人気の花街となった。明治期に新政府高官が新橋をひいきにしたのは、東京の花柳界では新橋は新興であり、伊藤博文、板垣退助らが同地に集った[4]。当時の名妓には板垣に落籍された小清(こせい)などがいる。 大正期になると芸者の技芸の向上に取り組んだ[5]。1925年(大正14年)に新橋演舞場の杮落とし公演として『東をどり』を初演、中村喜春、まり千代などといった名妓を輩出した。 昭和中期には最盛期を迎え、芸者約400名を擁していた。高度経済成長期、石油ショック以後には料亭、芸者数が減り、2007年(平成19年)現在、料亭12軒、芸者70名である[6]。同年は「新橋芸者発祥150周年」が祝われた[5]。 現在の港区新橋には「新橋南地」[7](別名、「烏森」)という花街があった。元は本項「新橋」と一緒であったが、その後に分離し、現存しない[8]。 おもな料亭[編集] 現存するおもな「新橋」の料亭の一覧である[9]。 青柳 – 銀座八丁目18番7号 金田中 – 銀座七丁目18番17号 吉川 – 銀座八丁目16番6号

Continue reading

菱脳 – Wikipedia

菱脳(りょうのう)、英: Hindbrain)とは、脳の一部の発生学上の呼称。第四脳室の底にある菱形のへこみをかこむ部分をいう。菱形脳[1]。 脊椎動物の中枢神経系の一部を発達上に基づき分類した呼称で、延髄、橋、小脳に分化します。 ともに重要な身体プロセスをサポートしている [2]。 ロンベンセファロン 後脳は、 ロンボメアと呼ばれるさまざまな数の横方向の腫脹に細分することができます。 ヒト胚では、 尾側から吻側まで8つのロンボメアが区別できます。Rh8-Rh1。 吻側では、 地峡は中脳との境界を画定します。 尾側菱脳は一般に神経管閉鎖の開始部位と考えられてきた。 [3] 脳の発生の過程でできる脳胞の最も後方のふくらみであり、脊椎動物の脳の発生において、最初に現れてくる三つの膨大部(脳胞)の中で、最も後ろの後脳胞。のちに菱脳の前部からは小脳と橋(きよう)、後部からは延髄が分化してくる。菱脳の内腔は第四脳室と呼ばれる。えらに関係する神経が出入りして菱形(ひしがた)に膨らんでいるために菱脳と呼ばれる。哺乳類以外の菱脳の腹側表面には、哺乳類にみられる大脳皮質と関係した橋の基底部、錐体などは認められない。各機能区域は生活様式と関連して変異を示す[4]。 Rhombomeres Rh3-Rh1は後脳を形成 。 後脳は橋と小脳で構成され、以下を含む Rhombomeres

Continue reading

ラプタ – Wikipedia

ラプタ(古代ギリシア語: Ράπτα、英: Rhapta)は、紀元1世紀以降に繁栄した東南アフリカの交易地。正確な位置は判明していないが、いくつかの場所に比定されている。 『エリュトゥラー海案内記』第16節に、「メヌーティアス島(英語版)から]岸沿いの南へ二日の航程の後にアザニアー(英語版)の最後の取引地があり、ラプタと呼ばれ」ている、と書かれている[1]。 クラウディオス・プトレマイオスが『ゲオグラフィア』の中で引用するテュロスのマリノスによれば、インドとの交易に携わっていたディオゲネスという商人が、インドへ向かういつもの航路から北風で流され、アフリカ沿岸を25日間南方に航海してラプタの岬の少し北にあたる場所にたどり着いた(その場所はナイル川の水源をなす湖沼地帯である。)という[注釈 1]。ラプタは同名の川(ラプトス)がインド洋に流れ込む場所にあり、メヌーティアス島の対岸にあった。ディオゲネスはさらに、ラプタ川の源流は月の山脈の近く、ナイル川の源流があるといわれる湿地帯の近くにあるとも報告した。 一方で、現在のイエメンに相当する幸福のアラビアからアザニアやラプタへの航海に従事する商人らによると、ラプトン岬の近くにインド洋に流れ込むラプトス川と海から少し離れたところにラプタとがあるという[注釈 2]。つまり、ラプタが内陸の邑であるという。商人らはこの地をバルバリア(蛮地)という固有名詞で呼び習わし、そこには象が非常に多いとした[注釈 3]。プトレマイオスはラプタの位置をメヌゥティアス島[注釈 4]より緯度が5°30’北の場所にあると推定した。中務 (1986)によるとΡάπταは「編んだ舟」の意であり、Ράπταという地名は現地の住人が編んだ舟を用いていたことからつけられたとされるが、他に現地音に基づいてつけられたとする説もあるという。 6世紀のコスマス・インディコプレウステースもラプタに言及している。 『エリュトゥラー海案内記』関連図(推定を含む) 村川堅太郎は、バガモヨからキルワあたりの間のどこかに比定される、としている[3]。 G・W・B・ハンティングフォードは、候補を5つ挙げている。 ハンティングフォードは最初の2つを、ザンジバル島やペンバ島に近すぎるとして退けている(彼は両島をメヌーティアス島に比定し、同島がラプタの北方にあるとする『エリュトゥラー海案内記』の記述に従っている)。また、ムササニには川がないので、キスユかルフィジ川デルタのどちらかだろうと結論している。しかし、J・イネス・ミラーはペンバ島でローマ帝国のコインが発見されていることや、ルヴ川の源流がキリマンジャロ山やメルー山に近い(ディオゲネスの報告内容に近い)こと、またセム語系の文字で書かれた古碑文がパンガニ河口付近で発見されていることを挙げて、ペンバ島がラプタではないかと指摘している。 en:Felix A. Chami教授が、マフィア島や同島から近いアフリカ本土のルフィジ川河口で大規模な対ローマ交易が行われていたことを示す紀元1~数世紀ごろの考古学的証拠を発見している。 この節の加筆が望まれています。

Continue reading