Month: September 2020

小泉城 (大和国) – Wikipedia

小泉城(こいずみじょう)は、奈良県大和郡山市小泉町(大和国添下郡)にあった日本の城(平城)。別名、片桐城、小泉陣屋とも呼ばれている。小泉陣屋時代は小泉藩の藩庁でもあった。 小泉氏はもともと興福寺衆徒で1443年(嘉吉3年)に小泉重弘が大乗院門跡経覚と共に筒井氏と戦った。重弘はその後戦死するも、1455年(康正元年)に畠山弥三郎側についていた筒井氏が没落すると、古市氏、豊田氏、秋篠氏、尾崎氏、鷹山奥氏の国人らが勢力を拡大し、小泉氏と共に4年間興福寺衆徒についた。その後長い間筒井氏と対立していく。 1459年(長禄3年)、『大条院寺社雑事記』によると筒井順永軍が「小泉館」を攻めて小泉重栄、小泉今力丸等多くが切腹し、小泉館を破却するため奈良中の郷民に動員されたとされている。また『大条院寺社雑事記』には「館」と記載されているが、『日本城郭大系』によると「筒井城の場合と同様、城郭化していたものと思われる」と解説している。1475年(文明7年)にも落城し、またしても奈良の郷民に動員し破却させ筒井城の柱にしたと伝わっている。 筒井氏と小泉氏は反目していたが、天文年間には小泉秀元は筒井順昭の姪を娶って、筒井氏の重臣と活躍し、軍功によって1万4千石が与えられた。その後小泉氏は史料には記載されないようになる。『城と陣屋』によると筒井定次が伊賀国に移封すると小泉秀元とその一族は共に従ったとある。 その後豊臣秀長が大和国を治めるが、その家臣であった羽田長門がこの小泉の地に4万石で入った。この時に現在もあるナギナタ池、お庭池を含む外堀を造ったものと言われ、小泉氏の館跡を拡大したと思われている。 1601年(慶長6年)、豊臣秀吉に仕えていた片桐且元の弟片桐貞隆が小泉城を含め1万5千石で大名の列に加わった。その後『茨木市史』によると「片桐氏の茨木入城の時期については関ヶ原合戦後と考えた方がよい」とあり、関ヶ原の戦い後に片桐且元、片桐貞隆兄弟の本拠地としていた龍田城や小泉城から、大坂城の近くにある茨木城に移って豊臣氏を補佐していた。 そして大坂の陣が終わると、今度は徳川家康より片桐且元は4万8千石、片桐貞隆は1万6400石に加増され、片桐貞隆は1623年(元和9年)に小泉城に戻ってきた。ここより小泉陣屋として新たにスタートし、陣内にいた農民を街道筋に屋敷替えを命じ再び大きく改修した。 茶人として有名な石州流の元祖、片桐貞昌は小泉藩第2代藩主である。貞昌は弟の貞晴に3千石分知し、小泉藩は1万3千石となった。3代藩主貞房の時、庶兄の片桐信隆に1千石を分知したため、1万2千石となった。さらに収公され1万1千石となった。片桐氏は初代貞隆から12代貞篤まで代々と小泉の地を離れることなく明治維新を迎えている。廃城は廃城令によって取り壊されたと思われている。 小泉藩歴代藩主[編集] 歴代藩主の御墓は京都の大徳寺にある。 小泉城は大和小泉駅の西北約600mの台地上の先端部に建っていた。台地の東側は湿田で、更にその東側には富雄川が流れている天然の要害の地にあった。主郭部分は小泉城の西側にあり、150mの長辺で内堀に囲まれており、この内堀は1673年(延宝元年)に銀4貫目で完成したと『旧記』には記されている。この頃になると小泉城はほぼ完成され、外堀、薙刀池、お庭池に取り巻かれ、その中に家中の屋敷があり、内堀の内側には藩主の居館があった。 小泉城石碑への入り口(主郭跡:他より一段高い台地にある) 片桐城の石碑(小泉城の別名) 小泉城は小泉陣屋とも呼ばれているが、『ふるさと大和郡山歴史事典』では「城郭としての構えを十分に備えた大規模なもの」として、城下町は富雄川沿いの南北の並びに整然と出来上がっており、調練場も城外につくられた。これらは『小泉城復元地図』に記されており、今日の地割にそのまま残っている。 南側に部分的に残っている土壁(この奥が主郭になる) 大手道は金輪院前にある鈎の手から西へ登る道が当時の大手道であった。門は3ヵ所設けられており、北、西北、南にあり、そのうちの1つは小泉神社の表門として残っている。この門は冠木門、高麗門と呼ばれるもので、この門が移築前と変化していないのであれば、その扉は透門形式で、外から見られやすい弱点がある。『ふるさと大和郡山歴史事典』では「内部を桝型形式もしくは通路を屈折させて遮断していたものと思われる」と記載しており、透門をカバーしていたのではないかと解説している。 城跡へのアクセス[編集] 電車でのアクセス 車でのアクセス 参考文献[編集]

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ポピーブロスSr. – Wikipedia

ポピーブロスSr.(ポピーブロスシニア)は、任天堂のゲームソフト『星のカービィ』シリーズに登場する架空のキャラクターである。ピエロのような格好をし、爆弾で攻撃してくる。ポピーブロスJr. の親分的存在。攻略本等、正式な場ではポピーブラザーズSr.と表記されている。 漫画版である『星のカービィ デデデでプププなものがたり』では、デデデ大王の一番の部下として登場。はじめのうちは、デデデ大王と一緒にカービィに悪戯をするが、その後はデデデ大王と共に敵ではなくカービィの友達という設定になっている。連載の途中で、「NEWポピー」としてデザインが一度変更されている。 星のカービィ 一面の中ボスとして登場。爆弾を投げて攻撃してくる。ジャンプ攻撃もしてくる。エクストラモードだと、爆弾を投げてくるほかに、高速で体当たりをしてくる。 星のカービィ 夢の泉の物語・星のカービィ 夢の泉デラックス 中ボスとしてところどころに登場。中ボスの中でも、最初に出てくる。爆弾を投げて攻撃してくる。また、ジャンプ攻撃もしてくる。2体同時に出てくることもある。コピーできる能力は、クラッシュ。 カービィのピンボール ステージのボスとして登場。爆弾攻撃をフリッパーに受けると、フリッパーが一定時間操作できなくなる。途中で2体に分裂する。 カービィのブロックボール ステージ4のボスとして登場。爆弾を下方向にのみ投げつけ、スターブロックをこわす。また、パッドに当たるとパッド縮小化する。 星のカービィ スーパーデラックス・星のカービィ ウルトラスーパーデラックス 中ボスとしてところどころに登場。爆弾・体当たりで攻撃する。一度にたくさんの爆弾を投げてくることがある。2体同時に現れることもある。倒すとボムをコピーできる。この作品では爆発物による爆風は敵味方問わずダメージを受けるため、地形によっては自らの投げた爆弾の爆風に巻き込まれて自滅することもある。 なお、中ボスでは弱い部類に入っていたMr.フロスティが『ウルトラスーパーデラックス』では攻撃性が増していたのに対し、同じ部類に入るポピーブロスSr.は特に何の変更点も無く、リメイク前と同じ強さのままになっている。 Kirby’s

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マッコーリー島 – Wikipedia

この項目では、オーストラリアの島について説明しています。他の島については「マッコーリー」をご覧ください。 座標: 南緯54度35分41秒 東経158度53分44秒 / 南緯54.59472度 東経158.89556度 / -54.59472; 158.89556 マッコーリー島、マッコリー島(マッコーリーとう、Macquarie island)はオーストラリア領の無人島で、タスマニア州に属する。1997年、ユネスコの世界遺産(自然遺産)に登録された[1]。 マッコーリー島はタスマニア島の南東約1400km、オークランド諸島の南西約630kmに位置し、本土のオーストラリア大陸及びタスマニア島よりも、ニュージーランドに近く位置する。全長約34km、幅は最大5kmという細長い島である。狂う50度の暴風にさらされているため木が生えず、島には草原が広がっている。 プレートの動きによって作られた細長い島で、地殻のマントルの噴気孔が直接海面にまで達し、人を寄せ付けない絶海の孤島である。 一方でペンギンの大規模繁殖地であり、島内では数種類のペンギンを抱える。またアザラシも数種抱える。これらのペンギンやアザラシは20世紀初頭までに乱獲が行われ、その数が激減したが近年の保護活動によりある程度回復した。 現在では一般人の観光目的での立ち入りは固く禁じられている。 非常に雨が多く、世界の気象台統計データによると年間の降雨日が約307日と世界で最も多かった。※0.1mm~1.0mm以上の降雨があった日を1日として集計したもの(調査年:1961年~1990年) インド・オーストラリアプレートと太平洋プレートの境界に当たり、島の東側は水深約5,000mの深海まで急激に落ち込んでいる。地震も多く、2004年にはM8.1の地震が発生した。 登録基準[編集] この世界遺産は世界遺産登録基準のうち、以下の条件を満たし、登録された(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。

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ロドルフ・テプフェール – Wikipedia

ジュネーブにあるロドルフ・テプフェールの胸像 ロドルフ・テプフェール(Rodolphe Töpffer[1]、1799年1月31日 – 1846年6月8日)は、スイスの教師、作家、政治家、画家、漫画家であり、風刺画家である。テプフェールはまた、最初の近代的な意味でのコマ割り漫画家であったと見なされている。 人物・経歴[編集] ロドルフ・テプフェールは、ジュネーヴのサン=ピエール大聖堂近くのフランス証券取引所の本拠地として知られる家屋で、ヴォルフガンク・アダム・テプフェール(1766年5月20日~1847年8月10日)の息子として生まれた。ロドルフの父アダムは職業画家であり、時には風刺画を手掛けていた。アダム・テプフェールの主要な業績は、1804年から1807年の間に、フランス第一帝政期における皇后ジョセフィーヌの絵画教師を務めたことである。 1819年から1820年にかけて、ロドルフはフランスのパリで教育の機会を求めた。そして帰郷したジュネーブで、ロドルフは学校教師の職についた。1823年までには、ロドルフは彼自身の男子寄宿学校を設立するに至った。1832年に、ロドルフはジュネーヴ大学(当時はジュネーブ・アカデミー)で文学の教授に就任し、教育者として活躍した。 本職でのそれなりの成功のかたわら、ロドルフは余暇を利用して打ち込んだ活動からも名声を得た。当時のロマン主義運動の影響を受けたと見なされる地元の風景画を、ロドルフは多数描いた。また、学生とともにアルプスを旅して歩き、多くの紀行文を著作として発表している。ロドルフは短編小説の作家でもあり、時には風刺画の執筆によって学生たちを楽しませていた。これらの作品はジュネーヴで出版されていたが、グザヴィエ・ド・メーストルの紹介によりフランスでも出版されることとなった。 ロドルフの最後の二つの活動は、絵と文によるコマ割り形式の長編の読み物という形で結び付くことになった。これらの読み物の内の最初の作品が、1827年に執筆された『ヴィユ・ボワ氏物語』(Histoire de M. Vieux Bois、「抜け作氏の物語」の意味[2])である。ただし、この作品は1837年まで出版されなかった。『ヴィユ・ボワ氏物語』の1827年版は、各ページごとに4~6コマの上部に文を添えたイラストから構成される、30ページの作品であった。 ロドルフの出版された作品は、転写紙にペンで描いた石版印刷によって制作され、ロドルフ自身はこの手法を「オートグラフィー」と呼んでいた。この工程により、当時の印刷絵画のために一般的に用いられていた銅版画やエッチングや木版画などよりも、素早く簡単に自由な描線を用いることが出来た。また、版の反転を気にすることなく執筆できた。 Histoire de Monsieur Cryptogame(『クリプトガム氏物語』自筆稿、1845年) テプフェールによるコマ割り漫画は、当初は出版を意図されたものではなかった。ロドルフは知人たちを楽しませるために、余暇を費やして漫画の執筆を続けた。それらの読者の内でもっとも特筆に価するのが、1831年にロドルフにそれらの作品群を出版するように勧めたヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテであった。それをきっかけにして出版の機運が高まり、7本の作品が出版されてヨーロッパ各地で人気を集めることになったが、ゲーテは生きてそれらの出版を見ることはなかった。

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救いを求める女たち (アイスキュロス) – Wikipedia

『救いを求める女たち』[1](すくいをもとめるおんなたち、希: Ἱκέτιδες, Hiketides, ヒケティデス、羅: Supplices)は、アイスキュロスによるギリシア悲劇。『嘆願する女たち』[2]等とも。 神話にあるダナオスとその50人の娘の伝説を扱った作品である。続く2作 『エジプト人』(アイギュプティオイ) 『ダナオスの娘たち』(ダナイデス) を加えた三部作(ダナイデス三部作)に、サテュロス劇『アミューモーネー』を加えた計四作で構成されていたが、今日では本作以外は散逸している[3]。正確な上演年は不明であるが、この作品と同時上演された『ダナオスの娘たち』によってソポクレスを破ったとの記録があるので、古くともソポクレスが登場した紀元前468年以後の後期作品であると推測される。中でも紀元前463年が有力と考えられる[4]。 作中に占める合唱隊の役割が他の作品に比べて大きく、アリストテレスによって悲劇の起源とされるディテュランボスの影響を未だ濃く残している作品だと言える。このため、かつては上記の年代よりもさらに古くに書かれたものだと考えられていた。 登場人物[編集] ダナオスの娘たち 合唱隊を構成する ダナオス アルゴスの王女イーオーの遠孫 ペラズゴス アルゴスの領主 アイギュプトスの息子たち ダナオスの娘たちの従兄弟 伝令 アイギュプトスの使者 あらすじ[編集] エジプト王アイギュプトスの息子たちとの結婚を嫌って逃げてきたダナオスとその娘たちは、先祖の故地であるアルゴスへ逃げてきた。娘たちとダナオスは伝統に従って保護を求めるが、ペラスゴスはこれによってアイギュプトスとの争いを招くことを恐れて受け入れるべきか否かを悩む。結局、民会の決議に委ねることに相成った結論は、一致して受け入れに賛成する。そこにエジプトからアイギュプトスの息子とその軍隊が来襲、伝令を使わして娘たちを奪おうとするが、今やアルゴスの市民となった娘たちの窮地は王であるペラズゴスによって救われる。最後に娘たちが、この僥倖を授け給もうたアプロディテと諸々の神への感謝と今後もご加護の多からんことを祈り歌いながら、幕が下りる。 日本語訳[編集] 『アイスキュロス

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ホイマ – Wikipedia

ホイマ(英語:Hoima)はウガンダの西部地域北部のホイマ県の県都。 ブニョロのオムカマ(英語版)宮殿が有る。 2014年の人口は約10.1万人だった。 ホイマは首都カンパラから225km北西に位置する。[3][4] 経済活動[編集] 2000年~2009年の間で、25億~35億バレルの石油がアルバート湖と湖岸のホイマ県・ブリサ県で採掘された。[5]ウガンダ石油精製所(英語版)がホイマ県ブセルカ副郡カバーレ村に計画されている。 これはホイマから約40km西に離れている。[6]ウガンダ・ケニア原油パイプライン(英語版)によって、原油をインド洋のラム港に運ぶ計画も有る。[7] その結果、ホイマは経済活動の中心地になった。[8][9] 経済の発展によって、ホイマは市に昇格した。[10] 近年地価が上昇し、不動産需要が高まっている。[11]2016年3月、原油パイプラインの終点がケニアからタンザニアに変更された。 投資額の上昇と、ソマリアの紛争のリスクが理由である。 [12] 重要施設[編集] ^ Waiswa, Baz (2013年3月25日). “Uganda: Hoima Town,

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ホッピコプター – Wikipedia

ホッピコプターまたはホッピヘリコプター(英語: Hoppi-Copter)は、1940年代にホレース・T・ペンテコステによって設立されたHoppi-Copters Inc.によって開発された機能的なバックパック・ヘリコプター[1]。オリジナルのホッピコプターは、電動バックパックに取り付けられたポール上の2つの逆回転ローターで構成されている[2]。飛行は可能であったが、制御が非常に困難であった[3]。 その後、ホッピコプターのプロトタイプには、パイロットが座った状態のバージョンが含まれ、逆回転ローターを保持してテールローターを不要にしたものの、事実上、より従来型の設計のミニチュアワンマンヘリコプターであった[1]。英国供給省は、102モデルと104モデルに関心を持っていたが[4]商業的に採用されたものはなかった[3]。 バリアント[編集] ペンテコステ HX-1 ホッピコプター(ホッピコプター100) オリジナルのバックパックバージョン。 ホッピコプター101 シートと着陸装置を装備し、さらに開発が必要であることが証明された[5]。 ホッピコプター102 フレーム付き、パイロット用シート付き。 ホッピコプター103 102と同等で、より強力なエンジンとわずかに大きいローター直径で軽量化されている。 ホッピコプター104 103のように、ローターの直径はさらに大きくなる[4]。 ホッピコプター ホタル 仕様(ホッピコプター102)[編集]

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神戸掖済会病院 – Wikipedia

神戸掖済会病院 情報 正式名称 公益社団法人日本海員掖済会 神戸掖済会病院 英語名称 Kobe Ekisaikai Hospital 前身 神戸海員病院 標榜診療科 内科・消化器内科・呼吸器内科・腎臓内科・糖尿病内科・循環器内科・リウマチ科・小児科・外科・消化器外科・血管外科・乳腺外科・肛門外科 外科(化学療法)・整形外科・脳神経外科・皮膚科・泌尿器科・産婦人科・眼科・耳鼻いんこう科・放射線科・リハビリテーション科・麻酔科・救急科・病理診断科 許可病床数 325床一般病床:325床 開設者 公益社団法人日本海員掖済会 管理者 藤 久和(院長)

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アルメリカス・ド・クルシー (第18代キングセール男爵) – Wikipedia

第18代キングセール男爵アルメリカス・ド・クルシー(英語: Almericus de Courcy, 18th Baron Kingsale、1665年5月 – 1720年2月9日)は、アイルランド貴族。 第16代キングセール男爵ジョン・ド・クルシーとエレン・リー(Ellen Reagh、チャールズ・マッカーシー・リーの娘)の次男として、1665年5月に生まれた[1][2]。1669年に兄パトリックが死去すると、キングセール男爵の爵位を継承した[1]。カトリックとして育てられたが、1675年12月14日にオックスフォード大学クライスト・チャーチに送られ、そこに入学した[1]。しかし、クライスト・チャーチ首席司祭(英語版)のジョン・フェル(英語版)はキングセール男爵が「テニスコートに夢中で、博識でもなく書物から学ぶ苦労もしなかったのに名誉な称号[注釈 1]だけで十分と自負している」(1677年/1678年)と酷評し、初代オーモンド公爵ジェームズ・バトラーもキングセール男爵を「喜んで家に迎い入れるが、彼を教皇との関係[注釈 2]から引き離すことは難しい」が、「旅に出るにも財産が少なすぎる」(1681年2月19日)などと評した[1]。 キングセール男爵は国王チャールズ2世から300ポンドの年金を与えられ、次期国王のジェームズ2世も年金を維持した[1]。ジェームズ2世が1689年5月7日に招集したアイルランド議会に出席した後、1690年に騎兵部隊を率いるようになり、その後は初代ルーカン伯爵パトリック・サーズフィールド(英語版)の騎兵部隊の中佐になった[1]。これにより1691年に無法者(outlaw)に宣言されたが、翌年5月に取り消され、同年10月25日と1710年5月20日にアイルランド貴族院に登院した[1]。また、1698年1月26日にはイングランドへの入国許可が下りた[1]。 1720年2月9日に死去、14日にウェストミンスター寺院に埋葬された[1]。叔父マイルズ(Miles)の息子ジェラルドが爵位を継承した[1][2]。 1698年3月2日、アン・ドリング(Anne Dring、1724年4月27日没、ロバート・ドリングの娘)と結婚した[1]。 ^ a title

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仰げば尊し 〜from さくら学院 2014〜 – Wikipedia

「仰げば尊し 〜from さくら学院 2014〜」(あおげばとうとし)は、 さくら学院の2枚目のDVDシングル。文部省唱歌「仰げば尊し」のカバー曲として、2015年3月04日にユニバーサルJよりリリースされた。TYPE A、TYPE Bの2形態で発売。 さくら学院2014年度の卒業生、菊地最愛、水野由結、田口華、野津友那乃に向けて製作された卒業ソング。文部省唱歌の「仰げば尊し」をロック調にアレンジカバー。 文部省唱歌「仰げば尊し」について、卒業にふさわしい素晴らしいメロディが現在の小中学校で廃れていることに驚きを感じたさくら学院校長の倉本美津留が、古語で書かれているので意味が分からなく、気持ちが入らないないため不採用となっていることを知り、古語で書かれた歌詞の意味を理解して歌うことに意義があると考え、あえて2014年度の卒業ソングに選曲したもの。さくら学院のイベントのひとつとして行われている公開授業「歌の考古学」で改めてわかった、知らない歌のことを調べるワクワク、その体験を経て歌うことの意義、その素晴らしさ―― その構造から考えると、わからない歌詞の意味を調べて、その意味をちゃんと解釈し歌う歌として、「仰げば尊し」は恰好の材料であるとの思いから。[3] 実際に、倉本校長により「歌の考古学 ~仰げば尊し~」として授業が行われ、その模様が「仰げば尊し 〜from さくら学院 2014〜(TYPE A)」に収録されている。また、授業の中で「仰げば尊し」の意訳が生徒たちにより考案され、意訳が添えられたミュージックビデオが動画サイトGYAO!にて期間限定で公開された。[4] サウンドプロデュースは、RIZE、Dragon Ashなどのベーシストとて活躍するKenKen。倉本校長は、「親の世代の音楽をしっかりリスペクトしながら現代の音楽を進化させ続けるミュージシャン。まさに歌の考古学精神を持って生まれた人物。この楽曲をお願いするにもっともふさわしい音楽家だと思いました。」と語っている。[3] ミュージックビデオ[編集] 南広志プロデュース。ディレクションは、第13回水戸短編映像祭でグラプリを獲得した映像クリエーターの荒船泰廣。“宇宙からやって来た不思議な来訪者が「仰げば尊し」の心を生徒に伝える”というストーリーを宇宙人とのふれあいを通して描くSF仕立てのハートフルな作品となっており、サウンドプロデュースを手がけたKenKenも映像内に登場している。[5]

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