Month: April 2021

プロポリス – Wikipedia

プロポリスで隙間が埋められた巣箱 巣に付着したプロポリス プロポリス(propolis)は、ミツバチが木の芽や樹液、あるいはその他の植物源から集めた樹脂製混合物である[1]。蜂ヤニともいう[2][3]。プロポリスという名前は、もともとギリシャ語で、「プロ(pro)」は「前」とか「守る(防御)」という意味を持ち、「ポリス(polis)」は「都市」という意味を持っている[4]。この2つの語が合わさったプロポリスは、「都市(巣)を守る」という意味がある[5]。 プロポリスは巣の隙間を埋める封止剤として使われている。およそ6 mm以下の小さな隙間のために使われ、より大きな空間は通常蜜蝋で埋められる。色はどの植物から取られたかに依存するが、最も一般的には暗褐色である。プロポリスは室温以上で粘着性がある。低温では硬く、非常に壊れやすくなる。 何世紀にもわたって、養蜂家らは、ハチは巣を雨や冷たい冬の風といった要素から守るためにプロポリスで巣の隙間を埋めていると推測していた[6]。しかしながら、20世紀の研究によって、ハチは通気性が上がる世界のほとんどの温帯地域の冬季に生き延びるだけでなく、繁栄もしていることが明らかにされた。 現在はプロポリスには以下のような目的があると考えられている[7]。 巣の構造強度の補強 振動の軽減 入口を塞ぐことによる巣の防御力の向上 巣への病気や寄生者の侵入の阻止、真菌や微生物の成長の阻害[8] 巣内での腐敗の防止。ハチは通常廃棄物を巣の外に捨てる。しかし、例えば小さなトカゲやネズミが巣内に侵入し、巣内で死んだとすると、運んで外へ捨てることは不可能である。このような場合、ハチは死骸をプロポリス内に閉じ込めることで、ミイラ化させ、無臭、無害とすることを試みる。 植物は、自らが傷つけられると、傷口を守るために樹脂を分泌し、また、新芽や蕾を病原性の微生物から守るため、それらへ抗菌作用をもった物質を送っている。ミツバチはこの抗菌作用を活用し、プロポリスを巣に塗ることで、温かく、湿度が高い巣の中でも細菌の繁殖を抑えて、巣を清潔に保つことができるようにしている[9]。植物由来の物質をミツバチが採集したものがプロポリスであるが、採集後ミツバチが新たに何らかの物質を加えている可能性も考えられている[2]。 プロポリスを集める性質を持つのは、木の洞などの中に営巣する閉鎖空間営巣性のミツバチのうち、セイヨウミツバチのみである。亜種のニホンミツバチを含むトウヨウミツバチなどはこれを集めない。同じ蜂産品であるローヤルゼリーや蜂蜜などに比べて採取量は少なく、人為的には合成ができない。 成分・性質[編集] 黒褐色のプロポリス プロポリスは、ミツバチが集めてくる植物を原料として作られるため、起源となる植物によって、黒褐色、暗緑色、赤褐色のものなど様々な種類がある。近年の研究により、産地や起源植物によって特有成分が大きく異なることが明らかになっている。 一般にプロポリスは樹脂・バルサム(55%)、ワックス(30%)、油性物質(10%)、花粉(5%)で構成される。成分は、微量のものを含めるとおよそ300ないし400にのぼるといわれている[10]。 起源植物の多くがポプラであるヨーロッパ産や中国産のプロポリスには、主な成分としてフラボノイドが含まれている[1]。一方、キク科バッカリス属のアレクリン・ド・カンポ(Baccharis dracunculifolia)を起源とするブラジル産プロポリスには、主にアルテピリンCをはじめとする桂皮酸誘導体、フラボノイドが含まれている。ブラジル産プロポリスは、中国産と比べ、アルテピリンC(桂皮酸誘導体)量は約7500倍、バッカリン(桂皮酸誘導体)量は約2500倍、6‐メトキシケンフェライド(フラボノイド)量は約25倍であるという分析結果も報告されている[11]。

Continue reading

NHK受信料 – Wikipedia

NHK受信料(エヌエイチケイ じゅしんりょう)とは、日本放送協会(NHK)と受信契約している人が同協会に支払う料金[1]。 日本の受信料制度の歴史[編集] 聴取無線電話私設許可書 戦前のラジオ放送聴取料[編集] 日本で放送が始まった頃は社団法人日本放送協会(当時)によるラジオ放送であり、聴取料が存在した。 当時、ラジオ放送は「聴取無線電話」と称していた。まずラジオが聴ける設備を設置した場合、大日本帝国政府管轄の逓信局から「聴取無線電話私設許可書」という許可書(免許)を得る必要があり[注釈 1]、それに基づき、日本放送協会に聴取料を払うという仕組みだった。当時は「聴取料は当面1円(月額1円)」だった。聴取料の導入理由は、放送を電話のような「公益性の高い事業」にすることで、民間企業による放送局設立を排除し、ラジオ放送を速やかに普及させるためであった。なお、海外向けラジオ放送については当初より聴取料の設定はなかった。 第二次世界大戦前までは、無線電信法という当時の法律によって、電報や電話などの公衆電信や放送の運用・番組内容について規定し、放送事業を大日本帝国政府の一元的管理統制の下に置くと共に、ラジオ放送を社団法人日本放送協会に独占させ、管理統制していた。 戦後の電波三法とNHK受信料制度の誕生[編集] 戦後も聴取料の徴収は続けられ、1948年(昭和23年)7月1日には月額30円に改定されている[2]。連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)により、放送制度の民主化が進められ、1950年(昭和25年)放送法などの電波三法を制定。これにより、民間企業による放送事業参入が認められるようになったと同時に、日本放送協会は社団法人から特殊法人に変わり、放送事業を行っていく。 この際、日本国政府・企業などの圧力に屈さないよう、いかなる組織に依存する体制をもなくす必要があるとのことで放送の視聴者よりその料金を徴収する「受信料制度」が誕生した。 1962年、受信料は「ラ・テ両用」と「ラジオのみ」の2種に分けられた[3]。 1967年7月28日にラジオ受信料の廃止が決まり、翌1968年4月1日の施行[4]により、ラジオ受信料は撤廃された[3]。受信料は(当時は高価であった)カラーテレビを対象とした「カラー契約」と、白黒テレビを目的とした「普通契約」とに分割された。ラジオの受信料が廃止された当時のテレビ普及率は96.4%(うちカラーテレビは5.4%)であった。 その後、BS放送の開始に伴い、「衛星カラー契約」「衛星普通契約」が開始される。2007年(平成19年)9月には、「普通契約」「衛星普通契約」は廃止、「カラー契約」「衛星カラー契約」の料金に一本化され、名称変更し現行の受信料契約種別となった。 これにより、 「地上波のみ」の受信を対象した「地上契約」 「地上波・衛星波両方」の受信を対象とした「衛星契約」 地形などにより地上波が全く受信できない地域など、「衛星波のみ」の受信を対象とした「特別契約」 の3種類となった。なお、旧普通契約の新規取り扱いは廃止され、旧普通契約者は白黒受信機を設置しているという申請書を提出した者に限り経過措置として旧普通契約時の料金が適用され、2013年3月31日に経過措置は終了となった[5]

Continue reading

丸文字 – Wikipedia

この項目では、書体について説明しています。丸で囲んだ文字については「囲み文字」をご覧ください。 丸文字(まるもじ)は手書き文字のうち、角を丸くした書体である。「ルンルン文字」「ネコ字」「まんが字(マンガ字)」「丸字」「ブリッ子文字(ぶりっ子文字)」とも呼ばれる。 ウィキペディアの概要が丸文字で書かれている 一般的には手書き文字の書体とされ、丸ゴシック体とは異なる。 仮名漢字交じりの日本語の文章は、文字の特徴から角ばった箇所が目に付きやすく、文字や文章の印象が硬くなることを回避するために、1970年代から1980年代に女子小中高生の間で広く用いられていた。 当時の丸文字に特有の特徴として、平仮名の「へ」の右半分に「〃」を重ねた文字を、宛先の名前の後に書く、というものがある(“**さんへ”における記述法)。 丸文字の流行が去った現在でも、男女世代を問わず丸文字に似た字を書く人も多いが、これは単なる癖字の一種と捉えられている。丸文字調の手書き文字フォントも出ており、代表的なものとしては、平仮名のみでありながら1980年代半ばに流行した「ルリール体」がある。また、2000年以降に登場した「みかちゃん」、様々な手書きの特徴を抽出してシリーズ化した「みんなのフォント」、女性の手書き文字風フォント「[あくび印]」は丸文字の特徴を多く受け継いでいる。 山根一眞が2年近い取材を経て1986年2月に著した『変体少女文字の研究 文字の向うに少女が見える』(講談社)の調査結果では、丸文字(同書でいう変体少女文字)は1974年までには誕生しており、1978年に急増したとされる。同書では少女らが書く丸文字の普及の一因として、70年代前半に創刊した『an・an』や『non-no』といった女性向けファッション誌で使われていた書体「ナール」(1972年発表)を挙げている。ナールは文字の先端が丸く処理されふっくらとした字体をもつ写真植字である。 1986年に写研が「文字文化への愛着を広げよう」として、「マル字五十音コンテスト」を開催した。1位の賞金は10万円、応募期間は同年の4月から5月。結果、全国から2500点を超える応募があり、7月23日から29日まで東京の銀座伊東屋9階のギャラリーで入賞作品の展示が行なわれた。1位は当時高校3年生の女性の作品で、11月に新書体「イクール」(書体名は入賞者の名前から取られた)として写研から発売された。2位と3位の作品も1987年4月にそれぞれ「エツール」「ヨシール」として発売されている。なお山根一眞によれば「変体少女文字」は横書きで速く書くのに適した文字であり、「イクール」は丁寧にデザインされた「かわいい文字」にすぎないと述べている[1]。また「イクール」と同時期に、おニャン子クラブのメンバーだった永田ルリ子による手書き文字「ルリール」が写研から発売されている[2]。 この丸文字の有料書体化は、同じく写真植字メーカーのモリサワが1987年5月に「わらべ」を発表し、また富士通がワープロ用の丸文字書体ソフトをパーソナル用機種(1986年11月)、ビジネス用機種(1987年5月)向けにそれぞれリリースするなど、小さな動きを見せた。 1987年6月に写研は「第2回マル字五十音コンテスト」を開催。応募者数は2253人。1位は当時19歳の女性。8月20日から東京・有楽町の交通会館で入賞作品の展示が開かれた。1位の作品は「ノリール」として書体化された。 1990年5月23日付『朝日新聞』朝刊に掲載された記事「“丸文字”はやめて」「“公用文字”ではない」は、小学校の教師の書く文字が丸文字だったことで、それを子供が真似ることを危惧した内容であったが、読者からの反響の大きさにより6月20日に再び取り上げられ、「角張った文字の癖が問題とされず、なぜ丸文字だけが問題視されるのか」などの反論を合わせて掲載した。 1991年11月に発売された『広辞苑』第4版には語「丸文字」が新しく追加された。 パルコ出版から出ていた流行調査雑誌『アクロス』1993年7月号に掲載された、女性投稿誌のはがきや街頭インタビューをもとにした調査では、丸文字が姿を消しつつあり、「トメのしっかりしたカクカクした文字」である「長体ヘタウマ文字」が増加しているとリポートされている。この現象は1960年代生まれ(新人類世代)を中心とした80年代のぶりっ子文化が終わり、90年代の自然・日常を重視する1970年代後半生まれ(真性団塊ジュニア世代)以降の「脱・女の子」的な文化が主流になったのが原因ではないかとされる[3]。『AERA』1997年6月30日号では「女子高生に広まる、変なとんがり文字 「丸文字」の時代は終わった」と題して、丸文字の流行が終わり、長体ヘタウマ文字に加え、「タギング文字」という新種も広がりつつあるとしている。 参考文献[編集] 出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2015年3月) 『朝日新聞』1986年2月4日夕刊 『朝日新聞』1986年7月16日朝刊

Continue reading

松吉伝 – Wikipedia

『松吉伝』(まつきちでん)は、みなもと太郎の漫画。「風雲児たち外外伝」の枕題が付与されている。 作者であるみなもと太郎が、自らの母方祖父である漆原松吉(うるしばら まつきち、1879年 – 1967年)の生涯を題材に執筆した、いわゆるファミリーヒストリータイプの歴史漫画である。とはいえ、作者は本作の内容は全て伝聞取材によるものであり、ゆえに傍証する資料はほとんど現存しえないことを公言している。そのため本作は作者の周囲の人々に取材した内容(証言)を元に構成した極めてフィクションに近似した、それ同様の物語であることを自らアナウンスしている。また改めて内容の正確を期すために再取材を試みても、もはや関係者が高齢および鬼籍入りとなっているために、それがほぼ不可能であることも語られている。 少年画報社の隔月刊歴史漫画雑誌『斬鬼』(連載当初時は『ヤングキングSPECIAL増刊 斬鬼』であり、同社『ヤングキング』の不定期増刊扱い。2003年12月号より歴史漫画専門の隔月刊誌として独立)に2003年から連載されていた作品で、同誌廃刊の翌年10月号(最終号)まで継続された。しかし雑誌の廃刊により同社の他雑誌に拾い上げられることもなく打ち切りとなる。そのため、2008年12月のコミックマーケット75において、作者の同人誌発行サークル「みにゃもと」により連載第1話から第6話までをまとめた同人誌として発刊され、続く2009年12月のコミックマーケット77にてその続編となる連載第7話から9話、そして話を締めくくるための補遺としての描き下ろし番外編を収録した第2巻を発刊することで、本作は完結となった。その後、2014年に復刊ドットコムによって、同人誌版2巻を合本した商用単行本が発刊された。 なお、上述の通り本作のタイトルには『風雲児たち外外伝』の副題があるが、これは本作の前に『斬鬼』で連載していた『挑戦者たち』が『風雲児たち外伝』というスタンスで執筆されていたためである。本作は、後継連載の立場から「風雲児たち外伝」の「さらに外伝」というスタンスをとっており、「外外伝」とはそのことを示す。 あらすじ[編集] みなもと太郎(浦源太郎)の母方の祖父である松吉は、子どもの目から見てもただならぬ人物だった。松吉は時に、子どもの目から見ても変わった形の包丁と鉈を愛用しており、それらを用いて近所で釣ってきた魚やウナギを玄人さながらに捌いたり、どこからか木材を集めて幼い孫のためにブランコを手作りしたりと、何でもできる人物だった。そんな祖父が愛用していた包丁と鉈が実は、もともと一振の日本刀(軍刀)であったと気付くのは、源太郎が中学生になってからのことである。母曰く祖父は「剣術だって柔術だって乗馬術だって師範級。できない事は何もない」人物であったという。祖父の謎は源太郎の幼心に深く刻まれた。そんな祖父・松吉が亡くなったのは源太郎が漫画家「みなもと太郎」としてデビューする直前である、20歳になった頃。家族で祖父の遺品を整理する中、みなもとはその中に甘粕正彦の写真を見つける。写真の横には祖父が冥土へと赴いた甘粕に宛てたであろう文章が記されていた。そのことを母に問うたみなもと。だが母は、なんでもないようにサラリと「甘粕は死ぬまで松吉の親友であった人」だったのだと言い放つ。ここから、みなもとの祖父・松吉の生涯を追う物語が幕を開ける。 登場人物[編集] 漆原松吉(うるしばら まつきち) 本作の主人公。作者・みなもと太郎の祖父。1879年、栃木県塩谷郡の喜連川のあたり(現在の栃木県さくら市喜連川周辺)に半呵打ち(親分も子分も持たずに定住して家を構えた博徒)の三男として生まれる。赤貧の中、唯一の娯楽を勉学とし、3~4歳ごろで小学校へと遊びに行っては読書に励み、満10歳で地元小学校(作内では現在の矢板市立矢板小学校とされている。一方でみなもとによる、松吉が教鞭を執っていたのは矢板市立泉小学校だという発言もある[1])の代用教員の資格[2]をとり、小学校の校長に見込まれてさらなる勉学に励み、校長や兄弟の援助もあって(旧制)作新学院中学[3]に進学し、語学に専念する。しかし経済的な理由による実父の意向で大学進学の道を断たれ、親戚筋の金物屋に丁稚奉公に出るが、後にそれを辞して上京し近衛試験を受けて合格。そのまま軍属として訓練を終えた後に中学時代に培った語学力を見込まれて明石元二郎配下となり、以降は「極秘任務」のために世界中を転々としたと言われる。日露戦争終結後に結婚し憲兵[4]となり甘粕正彦の上司[5]となるも、大正後期に軍を除隊して警察署長に転身し日本統治下の朝鮮半島に派遣される[6]。のちに警察署長を辞して実業家に転身し、甘粕に請われて満州国建国にも何らかの形で関与したとも言われるが、その真偽は明らかになっていない。 戦後においては、実業の世界から去って娘夫婦と同居し、孫である源太郎を可愛がる優しい祖父だった。だが時に怒ると恐ろしく、源太郎が悪戯をした際には真顔で(慣用表現ではなく)実際に孫の腕に高温の灸をすえ、新東宝映画『大虐殺』を見た際には哭くが如くに一日中機嫌を悪くしたという。田中正造を終生において尊敬していたことが、のちに語られた。 みなもと太郎 / 浦源太郎(うら げんたろう) 漆原松吉の孫(娘の子)で、本作の案内人。自著『風雲児たち』でも見せる独特の語り口で松吉の生涯を追い語るが、松吉の生涯について残存する資料も少ないために苦慮する場面も多い。

Continue reading

青森県立柏木農業高等学校 – Wikipedia

青森県立柏木農業高等学校(あおもりけんりつ かしわぎのうぎょうこうとうがっこう, 英: Aomori Prefectural Kashiwagi Agricultural High School)は、青森県平川市荒田上駒田に所在する公立の農業高等学校。 歴史 1926年(大正15年)創立の「柏木町農学校」を前身とする。数回の改称を経て1948年(昭和23年)の学制改革により新制の農業高等学校となった。かつては定時制課程も設置されていたが1980年(昭和55年)に廃止され、現在では全日制課程4学科の構成となっている。 設置課程・学科 全日制課程 4学科 生物生産科 環境工学科 食品科学科 生活科学科 校訓 「誠実・勤勉・公正」

Continue reading

茅ヶ崎ゴルフ倶楽部 – Wikipedia

茅ヶ崎ゴルフ倶楽部(ちがさきゴルフくらぶ)は、 神奈川県茅ヶ崎市菱沼海岸にあるゴルフ場である。 茅ヶ崎ゴルフ倶楽部の前身は横須賀の「小原台ゴルフ場」である[1]。神奈川県横須賀の小原台地域に米軍施設を含む纏まった土地があった[1]。1948年(昭和23年)、米軍から小原台地域の接収を解除する、観光開発してはどうかとの通告があった[1]。1949年(昭和24年)3月、横須賀市長の指示により安達建設の手で「小原台ゴルフ場」の造成工事が着工された[1]。 小原台ゴルフ場のアウトコースが完成した時とき問題が発生した、横須賀市が離脱し、地元農民が反対し、朝鮮動乱が勃発、講和条約、日米安保条約発効などが相次いだ[1]。その上、保安庁(現・防衛庁)から保安大学(現・防衛大学校)の建設用地として接収するとの通告を受けた[1]。1954年(昭和29年)、小原台ゴルフ場は撤退され、代替用地として茅ヶ崎菱沼海岸の県有地が借地提供された[1]。 茅ヶ崎のコース建設用地は、9ホールの広さの土地で、砂防林内にあった[1]。コース設計は、シーサイドコースである「古賀ゴルフ・クラブ」のコース増設と改造設計に成果を上げた上田治への依頼された[1]。 上田は、海浜の砂地の造成や芝貼りなど、古賀ゴルフ・クラブの工事で、丸毛信勝の助言を受けながら成果を上げていた[1]。1956年(昭和31年)9月、造成工事が着工され、翌1957年(昭和32年)コースが完成、1957年(昭和32年)11月17日、9ホールのゴルフ場が開場された[1]。 〒253-0037 神奈川県茅ヶ崎市菱沼海岸9-38 コース情報[編集] 開場日 – 1957年11月17日 設計者 – 上田 治 面積 – 240,000m2(約7.2万坪) コースタイプ

Continue reading

東急デハ3450形電車 – Wikipedia

東急デハ3450形電車(とうきゅうデハ3450がたでんしゃ)、およびデハ3500形電車(デハ3500がたでんしゃ)、デハ3650形電車(デハ3650がたでんしゃ)はかつて東京急行電鉄で使用されていた通勤形電車で、東急3000系電車の一員である。いずれも日立製作所製のMMC系主制御器・HS267系主電動機を装備していた。 3000系の中でも特に長期にわたって使用されており、1981年のデハ3800形譲渡以降、1989年の運用離脱まで、3000系の電動車は本項の3形式に集約されていた。 デハ3450形[編集] モハ510(デハ3450)復元保存車両 デハ3486 1985年2月 荏原中延駅 概要[編集] 元は目黒蒲田電鉄および東京横浜電鉄のモハ510形で、旧車両番号は510 – 565であった。ただし末尾3は「惨事」に通じるとの理由で欠番。 1931年より1936年にかけて川崎車輛(44両)および日本車輌製造(6両)にて計50両が製造されたが、丸妻の川崎製に対し日車製は三面折妻構成で、台車も異なり末期の改装後もすぐ見分けがついた。戦前の私鉄高速電車としては、単一形式の最多量産記録である。大東急成立後、デハ3450形 (3450 – 3499) へと改称されている。 初期の10両は、パンタグラフ2台搭載を考慮して、非パンタ側にもパンタ台が存在した。登場時はパンタグラフの信頼性がまだ不十分であり、故障が多発した場合は予備パンタ台にもパンタグラフを搭載し、運用継続を可能とすることが理由とされている。 また、初年度に導入された車両のパンタグラフは、川造BC-乙形および三菱P-900-A形とされた。その後採用された東洋電機製造製のパンタグラフに比べ大形なものである。同類のパンタグラフは阪和電気鉄道、吉野鉄道で採用されているが、後継モデルが存在しない特殊な製品である。 本形式に採用された日立HS267系主電動機はその後登場した戦前型各形式に採用され、部品標準化に大いに寄与した。長寿命で知られる本形式だが、モーターの互換性はその一因であろう。端子電圧750V時の定格出力94kWは、当時の関東私鉄電車用としては平均的でさして高出力ではないが、回転数が1,000rpmと吊り掛け駆動方式の電動機としては比較的高く、これが小型化にも寄与している。 変遷[編集]

Continue reading

仮面ライダーBLACK – Wikipedia

『仮面ライダーBLACK』(かめんライダーブラック)は、1987年10月4日から1988年10月9日まで、TBS系列で毎週日曜10:00 – 10:30(JST)に全51話が放送された、毎日放送・東映制作の特撮テレビドラマ、および作中で主人公が変身するヒーローの名称。 あらすじ 大学生・南光太郎(みなみ こうたろう)は19歳の誕生日を迎えた日、親友の秋月信彦とともに暗黒結社ゴルゴムによって拉致される。そして、次期創世王候補にせんとする三神官から体内にキングストーン「太陽の石」を埋め込まれ、世紀王ブラックサンに生体改造された。 息子たちから人としての記憶だけは消させまいと乱入した秋月総一郎の手引きによって、脳改造を受ける寸前に、ゴルゴムが世紀王のために用意していたバイク型生命体・バトルホッパーを駆って逃亡した光太郎だったが、三神官に捕われて攻撃を受ける。その衝撃の中、光太郎の体は異形のバッタ男からブラックサンの姿となる。 その後、総一郎の死を経て、光太郎は仮面ライダーBLACKを名乗り、信彦の救出とゴルゴム壊滅のために戦いを開始する。 概要 『仮面ライダースーパー1』以来、6年ぶりのテレビシリーズの新作。 企画の経緯 仮面ライダーシリーズの原作者である石ノ森章太郎と東映プロデューサーの平山亨は、『10号誕生!仮面ライダー全員集合!!』終了から2年経った1986年3月に新たな仮面ライダーシリーズを立ち上げるべく『キミは仮面ライダーをみたか?!』という企画書を制作した[1]。この企画は「原点回帰」をコンセプトに仮面ライダー1号の世界観を最新技術でリフレッシュするというもので、石ノ森の描きおろしイラストがふんだんに用いられるなど力の入れられたものであったが、当時はリアルロボットアニメが勢いづいている時期であり、関係各方面からは好意的な反応は受けられず実現に至らなかった[1]。その後、この企画は平山からメタルヒーローシリーズを手がけていたプロデューサーの吉川進の手に渡り、本作品の原案となった[1][注釈 1]。 平山亨から交替したプロデューサーの吉川進の指揮下で旧作から世界観と設定の一新が行われ[注釈 2]、過酷な運命を背負った主人公の苦悩と希望を中心に据えた物語づくりを目指して制作された。石ノ森章太郎は、原点に立ち返るつもりで「仮面ライダー0号」をイメージしたと語っている。ここで言う「原点」とは「初代」の『仮面ライダー』ではなく、原作者の石ノ森作品である[5]。スタッフの多くは宇宙刑事シリーズから共通している。ただし、脚本の鷺山京子、監督の小西通雄や撮影の松村文雄など、一部は過去のライダーシリーズに参加経験のあるスタッフも起用されていた。 本作品は小学館が出版権(雑誌連載などをほぼ独占的に行う権利)を確保している。そのため、これまでのシリーズのグラフ記事では他社の追従を許さない立場にあった講談社の児童グラフ誌『テレビマガジン』には、本作品の情報や漫画は掲載されなかった。 吉川によれば、スタッフらは仮面ライダーの特徴として「主人公は悪の組織から脱出してきた」「改造人間」「バイクに乗る」「バッタがモチーフ」「正義のヒーロー」という5要素を取り上げた上で、これらを当時最新の技術でリメイクするのか、あるいはすべてを否定するのかを検討したという。結果として、本作品ではリメイク案が採用された。 特徴 過去のライダーと異なり、マフラーや手袋・ブーツのようなスーツを思わせる造形を省いた外骨格的(生物的)なデザイン、モチーフ動物の特徴をよりリアルに表現した怪人、戦闘員のいない敵組織など様々な新機軸が盛り込まれた[注釈 3]。怪人のネーミングが「○○怪人」とシンプルなものに統一されている点も原点回帰の一環であり、仮面ライダーの体色が黒である点も、放送前の特番で「バッタの血液は黒」だと引用し、黒い仮面ライダーの姿に原点に戻るという意向を託した。

Continue reading

アンソニー・デスクラファニー – Wikipedia

この記事の項目名には以下のような表記揺れがあります。 アンソニー・ディスラファーニ アンソニー・ジェームズ・デスクラファニー(Anthony James DeSclafani,[注釈 1]1990年4月18日 – )は、アメリカ合衆国ニュージャージー州モンマス郡フリーホールド(英語版)出身のプロ野球選手(投手)。右投右打。MLBのサンフランシスコ・ジャイアンツ所属。愛称はディスコ[1]。 プロ入り前[ソースを編集] 2008年のMLBドラフト22巡目(全体682位)でボストン・レッドソックスから指名されたが、フロリダ大学へ進学した。 プロ入りとブルージェイズ傘下時代[ソースを編集] 2011年のMLBドラフト6巡目(全体199位)でトロント・ブルージェイズから指名され、プロ入り。 2012年、傘下のA級ランシング・ラグナッツでプロデビュー。28試合(先発21試合)に登板して11勝3敗、防御率3.37、92奪三振を記録した[2]。 マーリンズ時代[ソースを編集] 2012年11月19日にエミリオ・ボニファシオ、ジョン・バック、マーク・バーリー、ジョシュ・ジョンソン、ホセ・レイエスとの大型トレードで、ヘンダーソン・アルバレス、アデイニー・エチェバリア、ジェイク・マリスニック、ジェフ・マシス、ジャスティン・ニコリーノと共にマイアミ・マーリンズへ移籍した[3]。 2013年はまず傘下のA+級ジュピター・ハンマーヘッズでプレーし、12試合に先発登板して4勝2敗、防御率1.67、53奪三振を記録した[2]。6月にAA級ジャクソンビル・サンズへ昇格。13試合に先発登板して5勝4敗、防御率3.36、62奪三振を記録した[2]。 2014年はAA級ジャクソンビルで開幕を迎え、8試合に先発登板した[2]。5月14日にマーリンズとメジャー契約を結んでアクティブ・ロースター入りし[4]、同日のロサンゼルス・ドジャース戦で先発起用されてメジャーデビュー。6回を7安打2失点7奪三振と好投し、MLB初勝利を挙げた[5]。しかし2度目の登板となった5月20日のフィラデルフィア・フィリーズ戦では、5.1回を6安打5失点と打ち込まれ、MLB初黒星を喫し、5月21日にAAA級ニューオーリンズ・ゼファーズへ降格。7月20日に再昇格し、3試合に登板したが、13イニングで13失点、防御率9.00と結果を残せず、25日に再び降格した[6]。8月8日に再昇格[7]。昇格後はリリーフとして2試合に登板したが、8月15日に降格[8]。登録枠が拡大された9月2日に再昇格した。9月11日に行われたミルウォーキー・ブルワーズ戦で、乱闘騒ぎ[9]直後の6回裏無死の場面で、カルロス・ゴメスに左肘へ死球を与えたため、報復死球とみなされ一発退場となった。9月12日にMLB機構が3試合の出場停止処分を発表した[10]。この年はMLBでは13試合(先発5試合)に登板して2勝2敗、防御率6.27、26奪三振を記録した[2]。 レッズ時代[ソースを編集] 2014年12月11日にマット・レイトスとのトレードで、チャド・ウォーラックと共にシンシナティ・レッズへ移籍した[11]。 2015年は、メジャー2年目ながら先発ローテーションに定着し、チームの先発陣で唯一、規定投球回に達した[12]。9勝13敗と負け越したが、防御率4.05、WHIP1.35、55四球、151奪三振という平均レベルのピッチングを見せた[2]。

Continue reading