Month: May 2021

言語社会研究科 – Wikipedia

言語社会研究科(げんごしゃかいけんきゅうか)とは、大学院の研究科の一つであり、現在は一橋大学には学部として無く、一橋大学院にのみ設置されている教養学研究科。以前は大阪外国語大学の大学院にも設置されていた。略称は言社もしくは言社研。 一橋大学大学院言語社会研究科[編集] 概要[編集] 同研究科は1996年に教養部の改組にあわせて設立された人文系の学際的・領域横断的な研究科であり、また学部を持たない独立研究科でもある。構成教員は、旧教養部に所属していた外国語思想・文学研究者たちに、言語社会学を中心とした社会学者を加えたスタッフにより構成されている。日本語教育・日本語学・国文学・中国文学・韓国文学などの一部の分野においては東京学芸大学や国立国語研究所から連携教授が招聘されて、同研究科での論文指導に当たっている。 沿革[編集] 1996年 – 言語社会研究科設置。 2005年 – 一橋大学留学センター、国立国語研究所の協力により、第2部門「日本語教育学位取得プログラム」発足。 研究[編集] 本来、一橋大学は、旧制大学である東京商科大学を前身としており、その研究の中心は社会科学であり、とりわけ経済学と商学であった。しかし、そうは言うものの、東京商科大学時代から、経済系にとどまらず、法学・社会学・政治学を射程に入れた社会科学の総合化が目標でもあった。とりわけ、経済学も含め多くの社会科学は哲学から派生したものであるから、ひたすら経済経営系に耽溺することはなかった。事実、第二次世界大戦後に一橋大学が設置される際には文学部の設置が検討されたこともあった。 このような趨勢を受けて、1951年に法学社会学部が分離し、法学部と社会学部となった。社会学部には、哲学・歴史学・言語学などを扱う講座があり、人文科学的な対象も社会学の枠組みで捉える動きがあった。 しかし、今日の社会は、ひたすら社会科学の分析で語れる問題群だけでは語られえない深遠な問題が極めて多い。そこには、法制度や市場分析だけでは把握できない、人間の生が息づく世界がある。世界観を西洋発祥の社会科学に固定せず、むしろそれを相対化して、思想・言語・文化・歴史・地域性などに光を当てる、というのが言語社会研究科の目的である。 つまり、人文科学的な分野に関して、特に言語と社会の関連にアプローチの重点を起きながら、実際には総合文化学のようなものを目指しているのが同研究科である。事実、同研究科の内部構成は、言語学・哲学などとともに、地域研究として、欧米研究やアジア研究、日本研究など、既存の一橋大学大学院の各研究科と有機的に連携して幅広い研究活動を行っている。極めて強い学際的性格を有しているのが言語社会研究科の特徴である。 今までの一橋大学の「経済学」「商学・経営学」「社会学」「法学・国際関係論」という4分法では捉えきれない第五の分野が同研究科となるだろう。 組織[編集] 言語社会専攻 第1部門(人文総合)

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ドナネマブ – Wikipedia

ドナネマブ(英: Donanemab、USAN; 開発コードLY3002813)は、アルツハイマー病の初期症状を治療するために試験中の生物学的製剤である。アルツハイマー病は、処置法も治療法も確立されていない。ドナネマブは、イーライリリー社の最初の2つの治験で肯定的な結果を示した[1]。ドナネマブは、イーライリリーが開発した薬剤で、さまざまな状態のアルツハイマー病の治療薬として、過去および現在の臨床試験で使用されている[2]。N3pGとしても知られるドナネマブは、骨髄で産生される異常なタンパク質であるアミロイドβ(Aβ)を標的とする、マウスで産生された抗体である。アルツハイマー病の原因はまだ不明であるが、アミロイド病理学の大きな進歩により、Aβペプチドの量とアルツハイマー病の発症との関係が明らかになっている。Aβペプチドは脳内に沈着し、過剰になると互いに結合してタンパク質プラークを形成する。ドナネマブは、このタンパク質プラークを標的とし、脳内で負担となる余分なタンパク質を除去する。 ドナネマブは、同社の研究所で行われた生物学的起源に基づいて開発された。ヒト化抗体の作成には、胎生期でDNAを注入したトランスジェニックマウスを使用した。使用されたマウスは、ヒトにより類似した遺伝子配列に改変されており、ヒトが産生するものと遺伝的に類似した抗体が産生された[3]。ドナネマブを作成するその抗体を作るために、免疫応答を誘発する非自己細胞である特異的な抗原をマウスに注射した。白血球は抗原を破壊するために作られる。白血球の一種であるB細胞は、抗原に結合して破壊するための抗体を産生する。次に、産生された抗体をマウスから採取し、がんのB細胞と融合させた[4]。このハイブリッド細胞はモノクローナル抗体を産生し、B細胞の機能と骨髄腫のように長い寿命を備えた薬剤ドナネマブとして使用される[5]。 ドナネマブとアミロイドβペプチド[編集] 近年のアミロイドイメージング技術の改善により、細胞外の過剰なAβペプチドがアルツハイマー病の発症につながることがわかってきた[2]。Aβペプチドが過剰に産生されると、脳の特定の部分にプラークが形成され、神経細胞の伝達が妨げられる[6]。ドナネマブは、可溶性および不溶性のプラークの形成を攻撃し、病気の進行を遅らせる[7]。 臨床試験[編集] 第I相試験[編集] 一次研究[編集] 米国と日本では、リリーが2013年5月から2016年8月まで第I相試験を実施した[8]。この研究は、アミロイドPETスキャンが陽性の、軽度のアルツハイマー病患者を対象に行われた。100名の被験者に、月4回までドナネマブを静脈内注射した。第I相試験は、さまざまな試験で1つの対照群を使用する多腕試験であった。肯定的な結果は、患者の脳内で過剰なミロイドタンパクががありアルツハイマー病の初期兆候を示している。毎月、0.1 mg/kgから10 mg/kgの用量が、平均年齢74歳の男性と非妊娠女性に注射された[4]。有害事象によりリリーが試験を変更するまでに1月あたり最大4回の注射が行われ、注射の回数を月あたり最大8回まで、患者への投与量を0.1 mg/kgから0.3 mg/kgに増やされた。投与量の変更に伴って被験者も減少し、書類上のボランティアが37名、結果が公開されている被験者が9名となった。投与量の変更に伴って被験者も減少し、書類上のボランティア37名が患者9名となり、結果が一般に公開されたことと関係していた。 リリーは、治療を受けた37人の患者と、プラセボを受けた12人のボランティアに有害事象があったことを明らかにした。ドナネマブの最高用量を血中に注入することで、脳内のプラーク負担の影響を軽減させた[8]。全体として、より高い投与量が脳内のタンパク質プラークを40%減少させるという結果を得られた。単回投与をしたとき有害症状はなかった。ドナネマブは非常に免疫原性が高く、注入した元の抗体の効果を高める免疫応答を起こすことがわかった。複数回投与された次の試験では、6名の患者に悪寒、顔面紅潮、めまい、発疹、発熱などの急性輸液反応が見られた。ARIA-Eの患者はいなかったが、ARIA-Hの場合、脳内に小さな出血を残すケースがあった。ARIA-Hの2例は無症候性(英語版)であった。ほとんどの人は、10日間の短い半減期で、薬の効果を低下させる抗薬物抗体を作っていた。 二次研究[編集] 第2次の第I相試験は、2015年12月に米国と日本で実施された[9]。このフェーズでは、標本数を50人増やして150人の被験者が参加した。その方法は、最初に行った研究に対して変更された。この試験では3種類の異なる投与計画が用いられた。1番目は10、20、40 mg/kgの単回投与、2番目は10 mg/kgを隔週で24週間投与、3番目は10または20 mg/kgを毎月16ヶ月間投与する。被験者は、プラセボ群と実験群のどちらかに、3:1の比率で無作為に選択された。この試験の目的は第1次と同じで、主に脳アミロイド斑の減少に対する有効性を測定した[9]。

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フライベルク・アム・ネッカー – Wikipedia

フライベルク・アム・ネッカー (ドイツ語: Freiberg am Neckar, ドイツ語発音: [ˈfra‿ibɛrk am ˈnɛkar]) はドイツ連邦共和国バーデン=ヴュルテンベルク州ルートヴィヒスブルク郡に属す都市である。この街はシュトゥットガルトの北約 17 km に位置している。この街は、シュトゥットガルト地域(ドイツ語版、英語版)(1992年まではミットレラー・ネッカー地域)およびシュトゥットガルト大都市圏(ドイツ語版、英語版)周縁地域に含まれる。 位置[編集] フライベルク・アム・ネッカーは、北から南にかけてはネッカー川の蛇行部に広がっており、西はなだらかな丘陵地を境界とする。フライベルクの高度は、ネッカー川沿いガイジンゲンの海抜 183 m からミレニウムスヒューゲル(ホイティングスハイム近郊)の海抜 285 m までに分布している。この街は、裕福で交通の便が良い大都市圏周縁部に位置する小都市の典型である。都市景観は、戸建てや小規模集合住宅からなる住宅地が主体で、交通用地や、産業用地が点在する。市内をアウトバーン

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三村智保 – Wikipedia

三村 智保(みむら ともやす、1969年7月4日 – )は、日本棋院東京本院所属の囲碁棋士。九段。福岡県北九州市出身、千葉県育ち。藤沢秀行名誉棋聖門下。妻は三村芳織三段(智保は再婚)。巻幡多栄子四段は元妻。門下に茂呂有紗初段、近藤登志希初段。 目次 1 略歴 2 人物 3 棋歴 3.1 獲得タイトル 3.2 主な戦績 3.3 受賞歴 3.4 昇段履歴

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オリンピアード – Wikipedia

オリンピアード(Olympiad)は、近代オリンピックにおける夏季オリンピックが開催されるべき(西暦の4で割り切れる)年から始まる4年間の期間であり、古代オリンピックに基づく暦である「オリンピア紀元(オリンピア紀)」(「オリンピア期」・「オリンピック暦」とも言う)を由来に採用された。 また、夏季オリンピックの正式名称は、「オリンピアード競技大会」(「Games of the Olympiad」)である[1]。 オリンピア紀元[編集] 元来、「オリンピアード」とは、古代オリンピック(オリンピア祭)に基づく暦である「オリンピア紀元(オリンピア紀)」(「オリンピア期」や「オリンピック暦」とも言う)のことであり、古代ギリシア(古代ギリシャ)のオリンピア(古代ギリシア語の発音に近い表記だと「オリュンピア」)にて第1回の古代オリンピックが開催されたとされる紀元前776年7月8日を起点に、それ以降4年ごとに開催された次回オリンピア祭までの4年間を指す紀年法であり、古代ギリシア人は、紀元前8世紀頃から、これを基準に4年間を1単位とし、例えば紀元前310年なら「オリンピアード第117回(第117オリンピアード)第3年」などと年を数えた[2][3]。 近代オリンピアード[編集] 1896年にアテネで近代オリンピックが開催されたのにあわせ、同年を「第1次オリンピアード」の1年目[1]とする暦年「近代オリンピアード」が開始された。また、オリンピック憲章で「オリンピアードは最初の1月1日から始まり、4年目の12月31日に終了する」と定められていることから、オリンピアード全体の起点は、1896年1月1日である(なお、第1回オリンピアード競技大会が開催されたのは同年4月)。以降も、西暦の4で割り切れる年の1月1日が、各オリンピアードの開始日になっている。 なお、日本語では、4年間の「オリンピアード」については、例えば「第1次オリンピアード」と、夏季オリンピックの正式名称については、例えば「第1回オリンピアード競技大会」と、それぞれ「次」と「回」とを使い分けている[1]。 大会中止・延期時の扱い[編集] オリンピック憲章の規定では、オリンピアード競技大会(夏季五輪)は、必ず1オリンピアードの1年目に行われるよう定められている[4]。何らかの理由で1年目に大会が開催されなかった場合は、当該オリンピアードの残り3年の中で夏季オリンピックを開催せず、そのまま中止になり、開催都市の権利も取り消される。一方、大会の回次としては、暦年であるオリンピアードに付随して4年に1カウントされるものであるため原理的にスライドはせず、大会の回数としては欠番扱いになる。過去には、競技大会が3度中止されており、この3回の大会番号は欠番になっている。 上述の規定により、五輪の年をまたいだ延期は想定されていなかったが、第32回オリンピアード競技大会において、本来の開催年度である2020年に新型コロナウイルス感染症(COVID-19)が世界的に流行したことにより同年中に開催が疫学的に不可能になった際、IOCおよび開催地である東京都、日本政府などの協議のうえで史上初めて1年延期され、2021年(第32次オリンピアード第2年)に開催された[5]。この延期に関して、オリンピック憲章の当該条項の改正の必要性も指摘されている[6]。 冬季オリンピック[編集] 冬季オリンピック(正式名称:「オリンピック冬季競技大会」)は、1924年より、夏季オリンピック(オリンピアード競技大会)と同じオリンピアード(4年間)に1回ずつ開催されるが、オリンピアードの連動は行っておらず、正式名称も「オリンピック冬季競技大会」である。大会の回数も、夏季五輪と異なり中止となった回次は欠番とされず次の大会にスライドしているほか[4]、1994年以降は、開催年も夏季オリンピックの中間年に移され、1オリンピアードの3年目(西暦の4で割ると2余る年)に行われている[4]。 古代と近代とのズレ[編集] 上述のように、古代オリンピアードの起点は紀元前776年であり、そこから計算すると、1897年に第669次古代オリンピアードが始まる。第1次近代オリンピアードは1896年に始まるため、両オリンピアードの周期は1年ずれていることになる。更に厳密に言えば、オリンピア紀元(古代オリンピアード)が7月8日を起点とするのに対し、近代オリンピアードが1月1日を起点とするため、この2点を併せて比較すると、近代オリンピアード2年目の7月からオリンピア紀元(古代オリンピアード)の1年目が始まり、ほぼ1年6ヶ月ズレていることになる。 このため、本来のオリンピア起源の1年目に行われた近代五輪は、(冬季大会込みでも)上述の1年延期された第32回大会のみであり、この大会は第700古代オリンピアードの初日(古代の元旦(古代ギリシア暦)/2021年7月23日)に開会式が開かれた[7][8]。 出典[編集] 関連項目[編集]

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あずまボウル – Wikipedia

あずまボウル(A-ZUMA BOWL)とは、関東大学アメリカンフットボール選手権のことである。関東大学選手権として第40回を迎えた2011年より現在の名称となった。関東学生リーグ1部AブロックとBブロックの優勝校が対戦する。勝者は全日本大学アメリカンフットボール選手権に出場し、パインボウルの勝者と甲子園ボウルの東日本代表の座を争う。 関東大学選手権は1970年度に関東学生リーグが1部2部制から5つの並列リーグに再編成されたことに伴い創設された。 年度別の関東大学選手権運営方式早見表[1] 年度・回次 大会愛称 試合方式 1970年度(第1回)-1980年度(第11回) 愛称なし(1970年度-1979年度)日産パルサーボウル(1980年度‐1994年度) 予選リーグ終了時の5-6ブロックの上位入賞校による決勝トーナメント 1981年度(第12回)-1994年度(第25回) 1部予選リーグA・Bそれぞれのブロック優勝校によるプレーオフ 1995年度(第26回)-2005年度(第36回) 愛称なし(1995年度-1999年度)クラッシュボウル(2000年度-2010年度) 1部予選リーグA・Bそれぞれのブロックの上位2校・計4校による決勝トーナメント 2006年度(第37回)-2008年度(第39回) 1部予選リーグA・Bそれぞれのブロック優勝校によるプレーオフ 2009年度・2010年度 関東学生選手権としては開催せず※1部予選リーグA・Bそれぞれのブロック、並びに北海道・東北リーグのそれぞれの優勝校4校による東日本代表決定トーナメントを開催 2011年度(第40回)-2013年度(第42回)

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河内国魂神社 – Wikipedia

河内国魂神社 拝殿 所在地 兵庫県神戸市灘区国玉通3-6-5  位置 北緯34度43分6.8秒 東経135度13分10.3秒 / 北緯34.718556度 東経135.219528度 / 34.718556; 135.219528 (河内国魂神社)座標: 北緯34度43分6.8秒 東経135度13分10.3秒 / 北緯34.718556度 東経135.219528度 /

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サンシャイン (お笑いコンビ) – Wikipedia

サンシャインは、吉本興業東京本社所属のお笑いコンビ。2011年4月結成。 メンバー[編集] 坂田光[編集] 坂田 光(さかたひかる、生年月日: (1987-08-04) 1987年8月4日(34歳)- ) 立ち位置は向かって左。ツッコミ担当。 172cm、65kg。A型。 福岡県山門郡瀬高町(現 みやま市)出身。 福岡大学卒業 実家はセロリの専業農家[1]のため、一通りの農作業ができる[※ 1]。 坂田の祖父が、仲間と一緒にセロリ栽培に挑戦し、町の名産にまで築き上げたとのこと[※ 2]。 3人兄弟の次男である[※ 2]。 特技は小学校1年~高校3年まで続けた剣道(3段所持)[2]。中学校時代には大将を務め、県大会でベスト8の成績を残した。その功績から福岡県内でも有名な剣道部の強い高校に、スポーツ推薦で進学した[※

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六口島 – Wikipedia

六口島(むぐちじま)は岡山県倉敷市下津井にある島である。 下津井港の南西沖約2kmの海上にある有人島[1][2]。高梁川河口の東南に方向にあたり、北側には濃地諸島、北西には網代諸島・水島群島、西方向には笠岡諸島、そして南側には塩飽諸島が隣接するようにある。島の周囲は約5.9km、海抜は約140mで面積は1.09km2である[1][2]。地形は急峻で、山林の多くは国有林である[1]。松が生い茂っているのが特徴的である。2015年4月時点の人口は8名[3]。島名は、島に6つの谷があることにちなむ[1]。この谷は、東側が一番谷であり、西に向かって番号が増え六番谷迄名前がついている[2]。 島内からサヌカイトを用いた石器や縄文土器が出土しており、古くから人が居住していたことが分かっている[2]。江戸時代初期には花崗岩の採石場が設置されており、関ヶ原の戦い後に行われた大坂城の修築の際には、本島の花崗岩も用いられた[2]。 1646年(正保3年)に、岡山藩領となった[2]。その後、同藩の馬飼い場となり、その在番者の3戸があるのみであった。その後、明治までに2戸に減少したが、その後は5戸まで増加した。1905年(明治38年)に、筆海小学校[注釈 1]の六口島分教場が設置されたが、僅か13年後の1918年(大正7年)には休校となった[4]。 戦後に入植者が増加し、耕地が開発された。最盛期の1960年(昭和35年)の人口は46人を数えたが、時代が下るにつれて人口は逓減している[2]。1954年(昭和29年)に児島市立下津井小学校[注釈 2]の六口島分校が設置された[2]。加えて、1957年(昭和32年)に児島市立下津井中学校[注釈 3]の六口島分校が設置された[5]。これらの小中学校の分校も昭和40年代に相次いで休校となり、復活することなく廃校となった[注釈 4][注釈 5][4][5]。島では、観光ホテルやキャンプ場・海水浴場などが建設され、観光が主要産業となった。人口は一桁となってしまったものの、2016年(平成28年)の来島者は年間約2,000人を記録している[2]。なお、水道は井戸水を使用している[2]。 西岸に「象岩」と呼ばれる象の形をした奇岩があり、国の天然記念物に指定されている[1]。1933年(昭和8年)には、歌人として著名な与謝野鉄幹・与謝野晶子夫妻が来島しており、それぞれが短歌を詠んでいる[2]。 島への定期船はないため、下津井港などからチャーター便を利用する必要がある[2]。なお、夏季海水浴シーズンには下津井港から船便が運航される[6]。 ^ 1908年(明治41年)に下津井町立下津井尋常小学校に改組された。現在の倉敷市立下津井西小学校にあたる[4]。 ^ 1958年(昭和33年)に、下津井小学校は廃止され児島市立下津井西小学校と児島市立下津井東小学校に分割され、下津井西小学校の分校となった[4]。その後、1967年(昭和42年)に市町村合併により、本校が倉敷市立下津井西小学校となった[4]。 ^ 1967年(昭和42年)に市町村合併により、本校が倉敷市立下津井中学校となった[5]。 ^ 倉敷市立下津井西小学校六口島分校が1979年(昭和54年)に[4]、倉敷市立下津井中学校六口島分校が1989年(平成元年)に正式に廃校となった[5]。

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