Month: May 2021

宮古島台風 – Wikipedia

この項目では、1959年の宮古島台風について説明しています。1966年の宮古島台風については「第2宮古島台風」を、1968年の宮古島台風については「第3宮古島台風」をご覧ください。 宮古島台風(みやこじまたいふう、昭和34年台風第14号、国際名:サラ/Sarah)は、1959年9月にアメリカ統治下の沖縄県宮古島付近を通過し、同島に大きな被害を与えた台風である。後の1966年・1968年にも宮古島に台風が襲来したことから、第1宮古島台風とも呼ばれる[1]。 宮古島台風の進路図 1959年9月12日、マリアナ諸島付近で発生した熱帯低気圧がグアム島沖(北緯13度5分・東経141度6分)で台風14号に昇格。14号は発達しながら西北西に進んで、15日19時頃には中心気圧905 hpaの猛烈な勢力で宮古島を通過した[2]。その後は東シナ海を北上した後に対馬海峡を抜けて、韓国の慶尚南道付近に上陸・通過。そして日本海へ進み、18日夜には宗谷海峡付近を通過し、19日9時に温帯低気圧に変わった[2]。 宮古島測候所(沖縄県平良市)では最大風速53.0m/s(最大瞬間風速64.8m/s)に加えて、最低気圧908.1mb(hPa)を観測し、1934年の室戸台風の際に記録された911.6ミリバールを更新する、日本国内での記録となった。この記録は、後に1977年に沖永良部台風によってさらに更新された(907.3ヘクトパスカル)。 米国統治下にあった琉球政府の琉球気象台は、この台風を「宮古島台風」と命名した。また、日本の気象庁は、1966年9月に宮古島近海を通過して大被害を出した昭和41年台風第18号を「宮古島台風」と命名しようとしたが、琉球気象庁の申し入れにより「第2宮古島台風」と命名することとし、同時にこの台風(昭和34年台風第14号)をさかのぼって「宮古島台風」と命名した[1]。 宮古島では島の7割の住家が損壊した。この台風は暴風域が広く、九州や北海道では25m/sを超える強風が吹いたため、長崎県や北海道を中心に波浪や高潮による浸害水や船舶被害が大きかった[3]。例えば、青函連絡船「摩周丸」は遭難寸前となった[4]。 韓国全土では948人の死者・行方不明者が出た。この数は2020年8月現在もなお台風による最大の犠牲者数となっている[5]。台風通過時に釜山市で観測された最低気圧951.5hPaは、朝鮮半島で近代的な気象観測が始まって以来、半島本土で計測された最低の気圧で、2021年現在でも破られていない。 外部リンク[編集]

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四辻季遠 – Wikipedia

  凡例 四辻季遠 時代 戦国時代 – 安土桃山時代 生誕 永正10年7月7日(1513年8月7日) 死没 天正3年8月2日(1575年9月6日) 改名 季規(初名)→季遠 官位 正二位、権大納言 主君 後柏原天皇→後奈良天皇→正親町天皇 氏族 四辻家 父母

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櫻田愛実 – Wikipedia

櫻田 愛実(さくらだ まなみ、1991年6月7日 – )は、日本のプロレスリングアナウンサー・女優・タレントである。兵庫県出身。 声優養成所卒業後、株式会社ウォークに所属し、舞台やソロライブを中心に活動。 同じ事務所にチアワンメンバーがいることから、2015年10月にWRESTLE-1が開校したプロレス総合学院に第1期生として入学。学院生時のケガによりプロレスラーとしてのデビューはせず、2016年6月7日、WRESTLE-1後楽園ホール大会でリングアナウンサーとしてデビュー[1]。当初はメインリングアナの石亀貴規を支える2番手アナであったが、10月2日、川口産業技術総合センター大会よりメインリングアナに昇格[3]。 同年11月12日、WRESTLE-1道場で旗揚げされたプロレスリングA.C.Eでもメインリングアナを担当。WRESTLE-1休止以降はおもにVAMOSTAR興行に参加している。 特技は陸上(3年)、空手(6年)、バレーボール(6年)の体育会系。 事務所のサイトでは2016年11月まで、誕生日が「1900年00月00日」、バスト「00」cmとなっていた[4]。 「愛実」を「愛美」と間違えられることにとても敏感とされる。 好きなタイプはイケメンのゴリラかゴリラ顔 テレビ[編集] 舞台[編集] タタカッテシネ旗揚げ公演「DEAD or りばいあさん」(2015年9月18日 – 21日、高田馬場ラビネスト) – 波 乗子 役 撃弾☆ボディプレス「イキザマ」[5](2015年12月25日

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東北海軍 – Wikipedia

東北海軍(とうほくかいぐん)は、中華民国北軍閥政府の時代に北東奉天軍によって設立され、1920年代以降中国東北部に存在した海軍[1]。 第一次奉直戦争後の1922年8月、河川や沿岸防備の必要性を感じた張作霖は海軍建設準備のための機構である航警処を設け、沈鴻烈を処長とした[2]。 それより前、黒龍江督軍鮑貴卿による江防艦隊建設の提案を受け、1919年7月に北京政府海軍部は吉黒江防籌備所を立ち上げた[3]。1920年5月には吉黒江防司令部に改組[4]。砲艦「江亨」、「利川」、「利捷」、「利綏」などが艦隊に編入され、王崇文少将が吉黒江防司令となった[4]。しかし、その後資金不足となり、1922年には張作霖が経費負担と引き換えに艦隊を東三省自治政府の管轄下に置くことを認めさせ、翌年には東三省保安司令部の指揮下に入った[5]。司令は毛鐘才、次いで沈鴻烈が兼任した[6]。 1923年1月には人材育成のため葫蘆島に海軍学校(葫蘆島航警学校、1930年に葫蘆島海軍学校と改称)が設けられた[7]。 第二次奉直戦争前や戦争中には奉天派は日本から艦艇購入を図り、紆余曲折はあったが水雷艇「飛鵬」(元「水雷艇四六号」で「第一宇部丸」となっていたものを水雷艇に戻す)や「鎮海」(日本船「嘉代丸」を巡洋艦に改造)を入手[8]。1925年に保有艦艇を以て吉黒江防艦隊と海防艦隊が編成され、翌年には両艦隊を統括し沈鴻烈を司令とする東北海軍司令部が設けられた[9]。 1926年11月、渤海艦隊の「海圻」を接収[9]。1927年には渤海艦隊全体や青島の施設を接収し、青島を東北海軍第一艦隊の基地とした[10]。また、長山八島に第二艦隊の根拠地が建設された[11]。1929年時点では東北艦隊は艦艇26隻、人員1万名以上となっていた[9]。 しかし、1929年10月の中ソ同江戦役で艦艇6隻が沈むなどの損害を受け、また資金も不足するようになっていった[12]。 柳条湖事件以降、内部での争いや江防艦隊が満州国へ編入されたことで東北海軍は衰退した[13]。 参考文献[編集] ^ 金智 (1 May 2015). 青天白日旗下民國海軍的波濤起伏(1912-1945). 獨立作家. pp. 340-395. ISBN 978-986-5729-70-7. http://books.google.com/books?id=veB7CAAAQBAJ&pg=PA341  ^

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廣川奈々聖 – Wikipedia

廣川 奈々聖(ひろかわ ななせ、1999年5月12日 – )は、日本の女性アイドルで、わーすたのメンバーおよびリーダーである。 福岡県出身。エイベックス・マネジメント所属。愛称は、なっちゅん。 2013年、『avex アイドルオーディション2013』に合格。同年7月2日、iDOL Streetのデビュー候補生であるストリート生の4期生としてw-Street FUKUOKAに加入した。 同年8月から2014年1月まで行われたiDOLStreet 全国ストリート生ステージバトル 〜2ndステージ〜『ストリーーーーーグ2』ではMVPを獲得[3]。2014年5月2日、FUKUOKA はかたみにょん★(w-Street FUKUOKA)のリーダーに就任。また、同年9月23日の『ピンクス&コピンクス! スペシャルライブ2014〜嘘みたいな今日〜』で、宮本佳林(元Juice=Juice)、浅川梨奈(元SUPER☆GiRLS)の後を継ぎ、3代目「コピンク」として活動することが発表された[4]。2015年3月29日に開催された『iDOL Street ストリート生全校集会 〜2014年度終業式〜』でiDOL Street第4弾グループわーすたのメンバーおよびリーダーに選ばれたことが発表され、同31日にFUKUOKA

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モンスターペアレント – Wikipedia

モンスターペアレント、またはモンスターペアレンツ[1]とは、学校などに対して自己中心的かつ理不尽とされる要求をする親を意味する。元小学校教諭の向山洋一が命名した造語[2]。略してモンペア[3]、モンペ[4]ともいう。 基本的には、直接教員にクレームを行うが、校長、教育委員会、地方公共団体より権限の強い部署にクレームを持ち込んで、間接的に現場の教員や学校に圧力をかけるという形式も増えている。日本では、2008年には同名のテレビドラマが制作され話題となった。さらにはモンスターペアレントの子供がモンスターチルドレン[5]やモンスター大学生[6]となり新たな問題を起こしている。 なお、要求を繰り返すことがあっても、当該の要求が常識の範囲内にあり、かつしかるべき理由を明示してくる場合は「モンスターペアレント」とは言わない。とはいえ、保護者が正当な要求をしても、学校や教員が保護者を「モンスターペアレント」として敵対視することがある。 アメリカ合衆国で使われている類似の用語にヘリコプターペアレント(Helicopter parent)というものがある。これは、子供の就職の面接についてくるような過保護・過干渉な親を指しており、常時子供を監視している様子を上空でホバリングするヘリコプターに例えている[7]。 モンスターペアレントという語が登場する以前から、こうした問題を「親のいちゃもん」として研究してきた大阪大学大学院の小野田正利教授[8]によると、この種の保護者が目立って増え始めたのは1990年代後半からであるとされる。また、小野田によると保護者を「モンスター」にしているのは、「モンスター」という言葉を使っているマスコミや教育現場であるという。『モンスター=人間でない』ことで、保護者との関わりを拒否していると言う。 教育社会学を専門とする門脇厚司の指摘によると、この時期に子供が学齢期を迎えた多くの親は、概ね1960年代生まれで、1980年前後の校内暴力時代に遭遇したので、元来教師への敬意を持っておらず、さらにバブル景気の時期に社会に出たために、教師を愚弄している。また、バブル崩壊後のリストラなどで社会的な地位を失った人々の(公務員ゆえ倒産や失業の心配がなく、終身雇用の保証された立場である)、教師に対する嫉みもあるという。前述の小野田は、「言ったもん勝ち」がまかり通る風潮が強まっている点も、モンスターペアレント出現の原因の一つではないかと指摘している[9]。 他方、現役の東京都立高等学校教諭である喜入克や元中学校教諭の河上亮一は、こうした保護者が増加した原因を、「保護者の消費者意識の暴走」とする見解を述べている。喜入によれば、保護者は自分の子供が学校で他の子供より“損”な待遇を受けることが我慢できず、「同じ値段を払えば同じ商品が手に入る」という意識で教育サービスを捉えているためとされる。例えばある学年の学級担任が新卒、中堅、評判のいいベテランというような構成になったとする。モンスターペアレントは、自分の子供が“評判の良いベテラン教師”以外に担任されることを不当待遇であると考える[10]。 また、喜入は、これらモンスターペアレントやその子供に学校が手こずる理由として、彼らが“学校と対等な消費者”としての立場と“まだ半人前である子供”としての立場を使い分けるという現象も指摘している。すなわちモンスターペアレントやその子供たちは、学校に対してクレームをつける際には“消費者”として振るまい、そうしたクレームが学校に“ルール違反”と認定されて退学や停学などの処分を出されそうになると、“半人前である子供への情状酌量”を要求する。 こうした保護者については、門脇によっても世代の問題が指摘されている。山下・岡田らは小学校2年生の保護者を対象としたアンケート調査のクラスター分析をもとにターゲット・プロファイリングを行った。それによって、「既に子育てを経験している、経済的な余裕はないが教育ママ度はそれなりに高い、パート勤務の母親」が、学校への信頼度の低さを示す6つの指標においていずれも突出した数値を示すことを明らかにしている[11]。山下・岡田らはそういった母親を『生活切迫型パートママ』と命名している。 その他、地域の人間関係が希薄になった結果、かつては地域社会が緩衝材となっていた個々の親の不満が直接学校に持ち込まれるようになった状況も背景にあるのではないかという意見も多い[9]。 なお、こうした保護者は初等教育や中等教育に限られた問題ではない。星野・横山・横山・水野・徳田らは幼稚園の保護者でも、 特定の園児は自分の子供と遊ばないでほしいと要求する クラス分けで特定の園児と同じクラスにするよう(しないよう)要求する テレビや本で紹介された教育方法を導入するよう要求する 時間かまわず保育者の自宅に毎日電話をかける など、自己中心的な保護者が問題化していることをアンケート調査によって示している。この調査によると、保育者の4人に1人が問題のある保護者としてこうした保護者を挙げている[12]。 自分の子供の非を一切認めず、被害者へのいじめ(嫌がらせ)を行った事実を黙殺させる[13]。 子供同士のケンカに介入し、相手の子供の難クセを学校に持ち込んで処罰を要求する[14]。 「自分の子供を手厚く指導するために専用の教員をつけろ」「我が子を学校代表にして地域行事に参加させろ」などと要求する[15]。

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葛優 – Wikipedia

この存命人物の記事には、出典が全くありません。信頼できる情報源の提供に、ご協力をお願いします。存命人物に関する出典の無い、もしくは不完全な情報に基づいた論争の材料、特に潜在的に中傷・誹謗・名誉毀損あるいは有害となるものはすぐに除去する必要があります。出典検索?: “葛優” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2015年9月) 葛優(グォ・ヨウまたはグァー・ヨウ、1957年4月19日 – )は中国北京出身の男性俳優。 人物・経歴[編集] キャリアは決して順調とは言えず、高校卒業後は北京近郊の生産部隊で養豚業に従事していた(いわゆる下放)。25歳の時、軍の全総文工団(文芸工作団)に入団し新劇俳優として俳優業をスタート、1984年、偶然『盛夏和她的未婚夫』中の端役を演じたことから映画俳優としての道を歩むようになる。 有名にしたのは1988年作家・王朔の同名小説を改作した映画『頑主』で、彼の外見や雰囲気は原作のユニークな小人物の特徴にぴったりと符合し、初めて金鶏賞の最優秀男優賞にノミネートされた。 1992年北京電視台が放映したコメディドラマ『編輯部的故事』により葛優は中国全土に知られる大スターとなる。以後10数年間、葛優はスクリーンで20数名の異なるキャラクターに扮した。なかでも 最大の成功は1993年、張芸謀が作家・余華の同名小説を改作した映画『活きる』である。劇中、葛優は主人公である“福貴”の青年時代から老年までを演じ、第47回カンヌ国際映画祭男優賞を受賞した。 それ以外に、『烈火金剛』(何群監督、1991年)で彼の演じた人情と気骨溢れる傀儡軍の小隊長は、従来の敵役の制約を跳び越えた。続く黄健中の『過年』では好色で下品不真面目な、長姉の婿に扮し、百花奨・最優秀助演男優賞を受賞。1993年、陳凱歌監督『さらば、わが愛/覇王別姫』で葛優が演じた京劇を熱愛する袁四爺役でも存在感のある演技を見せた。 1997年からは馮小剛監督作品に多く出演するようになり、同監督の賀歳片(旧正月に上映する映画)の主演俳優として人気を博している。 中国では「光頭演員(スキンヘッド俳優)」として有名である。

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ペトリュス川 – Wikipedia

ペトリュス川(ペトリュスがわ、ルクセンブルク語: Péitruss、ドイツ語: Petruss)は、ルクセンブルク市を通る小さい川で、アルゼット川(英語版)へ流れ込んでいる[4]。ルクセンブルク市内には、ペトリュス川が侵食してできた渓谷があり、ルクセンブルク市の歴史、景観にとって大きな役割を担っている。下流部は人工の河床となっているが、自然への復元計画が進められている[2][5]。 ペトリュス川の語源は、「石」や「岩」を意味するペトラ(ラテン語: petra)とされる。古い文献に、ペトリュス川のことを「岩だらけの川(ラテン語: rivus petrosus)」と呼んでいるものをみることができる[2]。 ペトリュス川は、ディパシュ(英語版)の森を水源として、バハトレング(英語版)、ルクセンブルク市のメルル(英語版)地区、オレリシュ(英語版)地区を流れ、グルント(英語版)地区のサンテュルリック通り(Rue Saint-Ulric)近くでアルゼット川に合流する[6][7]。 ペトリュス川の総延長は、約12.8キロメートルで、Aalbaach、Grouf、Zéissengerbaachといった支流が、ペトリュス川に流れ込んでいる[1][6]。 バハトレングを流れるペトリュス川 支流のGroufとの合流 高架橋の橋脚脇を流れてゆくペトリュス川 河床からサンテュルリック通りの橋を望む グルント地区、アルゼット川へ注ぐ手前のペトリュス川 アルゼット川からみたペトリュス川の河口 人工河床[編集] ペトリュス川の下流約2.6キロメートルは、1930年代以降、コンクリートに覆われた人工の河床となっている[1][5]。 20世紀の始め、ペトリュス川には廃水も垂れ流され、水質が悪化していた。ペトリュス川は小さな川なので、少雨季には汚濁を流し去るだけの流量がなく、川に取り残された残滓が衛生環境に危機をもたらした。そこで1932年に、川の流れを速くして汚濁を素早く流し去るべく、河床をコンクリートで覆うことが決定した[5]。 ペトリュス渓谷[編集]

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澤田南 – Wikipedia

澤田 南(さわだ みなみ、本名同じ、1988年6月1日 – )は、岐阜県恵那市出身のタレント。生島企画室所属。ウェザーニューズ時代の愛称はみなみん。公式ブログ名は名前を逆から読んだ、「みなみだわさ」であるが、だわさは愛知の方言である。 略(来)歴・人物[編集] 出演番組[編集] SOLiVE24[編集] その他[編集] SOLiVE24の番組内に関する備考[編集] 2011年3月23日は先述の卒業式出席[8]のため『SOLiVE モーニング』を休演。今田佐和子が代演。 同様な理由で4月15日の金曜日は、ソラウタPV撮影のため番組を休演し今田が代演。 2011年6月16日は、沖縄県から皆既月食の中継レポートを実施。このため『SOLiVE モーニング』は休演した[9]。 2011年8月28日の日曜日は、今田佐和子が休演したため『SOLiVE モーニング』へ出演した。なお、同様な理由で9月19日の月曜日も同番組へ出演している。 2011年9月14日の水曜日は、横町藍が夏休みのため『SOLiVE トワイライト』へ出演。 2011年9月23日から9月26日まで、夏休みのため出演番組を休演[10]。

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