高越城 – Wikipedia

高越城(たかこしじょう)は備中国荏原荘、現在の岡山県井原市に存在した日本の城。戦国時代には備中伊勢氏の城で、北条早雲こと伊勢盛時の出生地である。井原市指定史跡[1]

高越城から井原市(荏原荘)を望む、手前の山には出丸があった

旧山陽道を見下ろす標高172メートルの高越山山頂に築かれた山城で、山頂の主郭を中心に5つ程度の郭を配置し、南側の尾根にも出丸を備え、主郭背部には堀切を設けて防御設備として利用した階郭式の縄張りとなっている。この地は旧山陽道と南側の笠岡の港が合流する要地であった。

弘安4年(1281年)、弘安の役に際して、幕府軍の総大将として九州に出陣した宇都宮貞綱が築いたとされる。その後、備中国荏原郷を得た那須氏の城となる。室町時代になると備中国荏原郷や井原荘、笠岡村等を領した伊勢氏の持城となり、伊勢盛綱の四男である盛定が所領分割で荏原荘を得たため、その居城となった。

盛定は庶流ではあったが申次衆として、同じく申次衆で備中伊勢氏惣領であった兄の伊勢盛富とともに京都に在住しており、所領は嫡男に任せていた(嘉吉3年(1443年)5月12日「伊勢盛経寺領寄進状」[注釈 1])。この嫡男が後に北条早雲と称される伊勢新九郎盛時である。

盛時は後に京都伊勢氏の伊勢貞道(伊勢貞高?)の養子となり京都へと向かい、最終的には今川氏の後継者問題に絡んで伊豆国に所領を得て、北条五代の礎を築くことになった。

その後の高越城は引き続き備中伊勢氏によって維持されるが、伊勢貞勝の頃に毛利氏に臣従し、高越城は宍戸隆家の持城となった。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、毛利氏が防長移封となると、高越城も廃城となったと推測される。

備中伊勢氏[編集]

備中伊勢氏は不明な点が多いが、伊勢盛時=北条早雲説が定説になるに従い、研究が進んでいる当時の書状や軍忠状等における備中伊勢氏の人物を列挙する。

多くの人物名が列挙されているが、その多くは系譜上の位置づけは不明である。

注釈[編集]

  1. ^ 「法泉寺文書」(井原市西江原町法泉寺所蔵)『岡山県古文書集』第三輯、および『井原市史3 古代・中世・近世史料編』収録
  2. ^ 「法泉寺文書」(井原市西江原町法泉寺所蔵)『岡山県古文書集』第三輯、および『井原市史3 古代・中世・近世史料編』収録
  3. ^ 「法泉寺文書」(井原市西江原町法泉寺所蔵)『岡山県古文書集』第三輯、および『井原市史3 古代・中世・近世史料編』収録
  4. ^ 「法泉寺文書」(井原市西江原町法泉寺所蔵)『岡山県古文書集』第三輯、および『井原市史3 古代・中世・近世史料編』収録
  5. ^ 「法泉寺文書」(井原市西江原町法泉寺所蔵)『岡山県古文書集』第三輯、および『井原市史3 古代・中世・近世史料編』収録
  6. ^ 「平井文書」『井原市史3 古代・中世・近世史料編』収録
  7. ^ 「平井文書」『井原市史3 古代・中世・近世史料編』収録
  8. ^ 「平井文書」『井原市史3 古代・中世・近世史料編』収録
  9. ^ 「平井文書」『井原市史3 古代・中世・近世史料編』収録
  10. ^ 「平井文書」『井原市史3 古代・中世・近世史料編』収録

出典[編集]

参考文献[編集]

  • 『井原市史3 古代・中世・近世史料編』井原市教育委員会(2003年)
    • 第三章家分け文書 第一節「平井国夫家文書」第二節「法泉寺文書」
  • 『岡山県古文書集』第三輯思文閣出版 藤井駿, 水野恭一郎 共編(1981年)
  • 『東京大学史料編纂所報』第43号p.97*『戦国の名将北条早雲』パンフレット 井原市観光協会

関連項目[編集]

外部リンク[編集]